ヨハネ四姉妹の黙示録   作:深紫Sιn姉

5 / 10
第5話

 ——ギイィ、と。

 重厚な扉が、軋みを上げてゆっくりと開いた。

 

 静寂。

 

 スイートルームの空調の音すら消え失せた。

 部屋の空気が、鉛のように重くなる。

 肺に酸素が入ってこない、回らない。

 

 開かれた扉の向こう。

 コツ、コツ、と革靴の足音が響く。

 

「……見つけましたよ」

 

 黒いトレンチコートを羽織った、紅髪の女性。

 マキマが、無表情のまま部屋へと足を踏み入れた。

 

「マ、マキマ……さん……ッ⁉︎」

 

 俺の喉から、ヒュッと情けない音が漏れた。

 見つめられた瞬間、俺の両膝は床に崩れ落ちた。

 

 逃げる? 隠れる?

 そんな思考すら一瞬で塗り潰される、絶対的な『支配』のプレッシャー。

 俺は重力に潰されるように、床に這いつくばった。

 

「シキくん。悪い犬ですね。勝手に首輪を外して、こんな『出来損ない』に懐くなんて」

 

 マキマさんは微笑んでいたが、その黄金の多重同心円の瞳には、一ミリの感情も宿っていなかった。

 

「……マキマ」

 

 バスタオル一枚の姿だったヨルが低い声で唸った。

 彼女の顔にある十字の傷跡が、怒りでどくどくと脈打っているようだ。

 

「ちょうどいい。わざわざ私のテリトリーにノコノコと出向いてくるとはな。せっかくだ。ここでお前を殺して、日本を私の物にしてやろう!」

「ヨル姉さん。相変わらず頭が悪いですね。あなたに私は殺せませんよ」

「舐めるな! 『大理石の灰皿手榴弾』!」

 

 ヨルがサイドテーブルにあった重厚な灰皿を掴み、マキマへ向かって豪速球で投げつけた。

 

 ただの灰皿ではない。

 戦争の悪魔の手によって、それは瞬時に恐るべき爆発物へと変換されている。

 灰皿がマキマの顔面へ直撃する寸前。

 

 マキマは右手をすっと上げ、人差し指と親指で銃の形を作った——そして。

 

「ぱんっ」

 

 ——ドボォォンッ!!!

 

 破裂音。

 灰皿が爆発したのではない。

 

 ヨルの右肩から先、バスタオルを押さえていた腕そのものが、目に見えない巨大な衝撃によって根元から弾け飛んだのだ。

 

「が、あッ……⁉︎」

「ぱん」

 

 間髪入れず、二発目。

 ヨルの左腹部が、巨大なアイススクープで抉り取られたように消失し、大量の血液と内臓が背後の壁にぶちまけられた。

 

 彼女の身体がコマのように回転し、高級な絨毯の上に叩きつけられる。

 血の雨が降り注ぎ、頬を生温かい液体が濡らした。

 

 これが、大国の概念兵器同士の戦い。

 この世界で、頂点に君臨する者の純粋な暴力。

 

「さて、帰りましょうか、シキくん」

 

 マキマは血だまりを避けもせず、俺の方へと歩み寄ってくる。

 だが、倒れたはずのヨルが、血まみれの口元を歪めて笑った。

 

「……ふははっ! 痛いな、痛いぞ! マキマ‼︎ だが、私に先制攻撃を許した時点で、お前の負けだ!」

 

 ヨルは残った左手で、床に散らばった自分の『千切れた右腕』を掴み取った。

 

「『私の右腕剣』ッ!」

 

 どぐちゃぁっ、と。

 肉と骨が異常な音を立てて変形する。

 血に濡れた腕が、瞬時にして身の丈ほどもある禍々しい深紅の大剣へと姿を変えた。

 悪魔の再生力で瞬時に身体を修復したヨルは、その大剣を構え、マキマへと跳躍する。

 

「死ねェッ‼︎」

 

 一閃。

 振り下ろされた大剣が、マキマの頭頂部から股下までを、完璧に真っ二つに両断した。

 

 ——ズパァァァンッ。

 

 左右にわかたれたマキマの肉体。

 その両方が、どさりと床に崩れ落ちる。

 内臓が溢れ、紅い髪が血の海に浸った。

 

「し、死んだ……?」

 

 俺は呆然と呟いた。

 

「見たかマキマ! これが戦争の力だ!」

 

 ヨルが大剣を肩に担ぎ、高笑いをする。

 ——だが。

 

「……え?」

 

 左右に真っ二つに割れていたはずのその肉体が、まるでビデオを巻き戻すように、無数の肉の繊維を伸ばして瞬時に結合し始めた。

 

 わずか三秒。

 

 血塗れの床から、マキマが何事もなかったかのように立ち上がった。

 傷一つなく、当たり前のように立っていた。

 

「な、なにぃ……⁉︎」

「言い忘れていましたね、ヨル姉さん」

「なんだ‼︎」

 

 マキマは首を傾げ、黄金の瞳でヨルを見据えた。

 

「私は内閣総理大臣との契約により、私への攻撃は適当な日本国民の病気や事故に変換されるんです。つまり、日本国民一億人が死に絶えない限り、私は何度でも生き返る」

 

 不死身。

 文字通りの、チートだ。

 

 日本の『支配』は、自国の国民すべてを自身の残機として運用している。

 

「デタラメなやつ……! お前、それでも悪魔か!」

「ええ。日本の役に立つ、良い悪魔ですよ」

 

 マキマが再び指鉄砲を構える。

 

「ばんっ」

 

 今度は、より重く、より巨大な衝撃波。

 ヨルの身体がスイートルームの壁をぶち抜き、隣の部屋、さらにその隣の部屋へと、コンクリートの壁を何枚も粉砕しながら吹き飛んでいった。

 

「うおおおぉぉッ!」

「ばんっ」「ばんっ」「ばんっ」

 

 マキマが引き金を引くように指を動かすたび、見えない砲弾がホテル内を蹂躙していく。

 粉塵が舞い、配管が破裂し、血と水が散乱する。

 

「くそっ、マキマめ……ッ!」

 

 数十メートル先、崩壊した壁の向こう側から、ヨルが瓦礫を跳ね除けて立ち上がった。

 バスタオルはとうの昔に消し飛んでいる。

 ほぼ全裸といっても構わないような丸腰姿。

 

「クックック……」

 

 だが、その瞳には狂気のような戦意が宿っていた。

 

「殺しても死なないなら……跡形もなく、細胞の一片も残さずにすり潰してやる!」

 

 ヨルは両手を広げ、ホテルの大理石の床に力強く叩きつけた。

 1910年の万博時代から存在する、歴史ある巨大な五つ星ホテル。

 その構造材、コンクリート、鉄骨、ガラス、すべてに彼女の『所有権』の概念が浸透していく。

 

「私のテリトリー! このホテルは私のものだッ‼︎」

 

 ゴゴゴゴゴゴォォォッ⁉︎

 

 足元が、激しく揺れた。

 それは地震ではない。

 建物そのものが、まるで意志を持った巨大な生物のように胎動を始めたのだ。

 

「『アステリア・ブリュッセル大槍』ッ!」

 

 ヨルが叫んだ瞬間。

 地上六階建ての巨大ホテルが、根元からへし折れるように空へと浮き上がった。

 いや、ホテルが『変形』していく。

 

 無数の客室、ロビー、シャンデリア、スイートルーム……それらが凄まじい質量を持ったまま圧縮され、捩じり合わさり、超巨大な一本の『槍』へと姿を変えていく。

 

「うおおおおおおおッ⁉︎」

 

 俺の悲鳴は、轟音にかき消された。

 足場がなくなり、俺は虚空へと放り出された。

 ブリュッセルの街並みが遥か下方に広がる。

 落ちる、垂直落下したら死ぬ!

 

「コ、コン  狐! 助けてくれ!」

 

 空中で必死に指を組むが、狐の悪魔は現れない。

 四騎士が二柱も本気を出しているこの空間に、恐怖を感じて契約を放棄しやがったのだ。

 

 俺は運良く、巨大な槍を構成しているホテルの外壁の出っ張り(元バルコニーだった部分)に叩きつけられ、必死にしがみついた。

 

「ふははははッ! 死ね、マキマぁぁぁッ!!」

 

 空中に浮遊するヨルが、その細腕で『ホテル一個分の質量を持つ槍』を振りかぶった。

 そして、空中に静止しているマキマへと、全力で突きを放つ——。

 

 ブリュッセルの空が、巨大な影に覆われた。

 数万トンの塊が、音速を超えてマキマへと迫る。

 

 だが、マキマは全く動じなかった。

 彼女は虚空に立ち、両手の人差し指を重ね合わせ、巨大な質量兵器の切っ先へと向けた。

 

「ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん」

 

 機関銃のような、無機質な連続詠唱。

 その瞬間、見えない巨大なプレスの連打が、ヨルの放ったホテル大槍の先端から順に粉砕していった。

 数千トンの大槍が空中で爆散し、微塵となってブリュッセルの街へ降り注ぐ。

 

 ヨルが押し込み、マキマが削る。

 概念と概念の衝突。

 空気が悲鳴を、衝撃波で周囲の雲が吹き飛んだ。

 

「まだだッ! まだ終わらんぞッ!」

「無駄ですよ、ヨル姉さん。あなたは私に勝てない」

 

 大迫力の激闘。

 俺は崩れゆく槍のバルコニーにしがみつきながら、ただ神に祈ることしかできなかった。

 誰か、誰かこのバケモノたちの喧嘩を止めてくれ!

 

「……くッ⁉︎」

「…………‼︎」

 

 俺のその願いが、なんとまさか天に通じたのか。

 ——ピタリ、と。

 

 激突していた巨大な質量と衝撃波が、一瞬にして『静止』した。

 空中に舞っていたコンクリートの破片も粉塵も。

 ヨルの大槍も、マキマの指鉄砲も。

 

 すべてが、まるで一時停止したかのように。

 

 音が、消えた。

 風が、止んだ。

 世界が、モノクロームに染まったような錯覚。

 

 俺の心臓すら、一拍、脈打つのを忘れた。

 生物としての本能が、DNAの奥底に刻まれた原初の恐怖が、けたたましいサイレンを鳴らしている。

 

 来る——。

 絶対的な、『終わり』が、来る。

 

 遥か上空。

 雲が吹き飛んだブリュッセルの青空に、いつの間にか『それ』は浮かんでいた。

 

 黒いワンピース。

 風に流れるプラチナブロンドの髪。

 紫紺の多重同心円の瞳。

 

 ヨハネの四騎士、長女。

 すべての生物が恐れる究極の概念。

 

 ——『死の悪魔』、シー。

 

「…………」

 

 シーが、ただ眼下の妹たちを見下ろした。

 言葉はない。

 ただその視線が向けられただけで、ヨルが構築した『ホテル大槍』の概念が、音もなく崩壊し始めた。

 パラパラと、砂の城が崩れるように。

 

「あ、あ、あああ……っ!」

 

 俺もまた、足場を失い、空中へと投げ出された。

 だが、シーがわずかに指を動かすと、俺とヨル、そしてマキマの身体は、見えない力に包まれ、ゆっくりと無事だった地面の上にそっと、下ろされた。

 

 シーが、音もなく宙に浮く。

 

「私の可愛い妹たちよ」

 

 たった一言。

 その声は決して大きくなかったが、ブリュッセルの街全体を震わせるほどの重圧があった。

 

「私の庭で、あまり派手に暴れてくれるな。お前たちが本気で殺し合えば、人類のパイが減ってしまう」

 

 シーは気怠げに二人の妹を無感情に眺めた。

 

「シ、シー姉……」

「シー姉さん……」

 

 さっきまで街を滅ぼす勢いで戦っていたヨルとマキマが、冷や汗を流し、借りてきた猫のように直立不動で俯いている。

 

 長女の絶対的な権力。

 逆らえば、即座に『死』という概念そのものを上書きされ、存在を消滅させられる。

 

「マキマ。日本の犬の躾くらい、自国でやれ」

「……はい。申し訳ありません」

「ヨル。お前は調子に乗りすぎだ。ソ連のガスが止まったからといって、勝手にフランスの原発に手を出そうなど、私の許可なく許されると思っているのか」

「っ……!」

 

 ヨルが肩をビクッと震わせた。

 

 そして最後に。

 シーの紫紺の瞳が、ふと、視界の隅で目立たないように縮こまっている俺に向けられた。

 

「……シキ、お前か。ニューヨークで会った」

「ひゃい! その、命だけは……?」

 

 俺は度数もびっくりストレート土下座の姿勢で、アスファルトに頭を擦り付けた。

 

「殺しはしない。だが……制裁は必要だ」

 

 シーは視線を移すと、ヨルへと向き直った。

 

「ヨル。スイスのプライベートバンクにある、お前たちの『秘密口座』は、国際的なテロ資金供与の疑いがあるとして、このアメリカが全額没収・凍結とする。一ユーロたりともだ」

「…………ハイ」

 

 ヨルは悔しそうに、だが確かに頷いた。

 

 インサイダーで膨れ上がらせた、数十億の資産。

 それが今、長女の鶴の一声。

 それで、合法的に『全額没収』されたのだ。

 

「もうだめぽ……」

 

 俺は白目を剥き、その場にぐったりと倒れ伏した。

 ——すべてが、文字通り瓦礫と共に消えたのだ。

 

 

■ ■ ■

 

 

【緊急特別 1997年8月20日 国際ニュースより抜粋】

 

『——最新情報を繰り返しお伝えします。

 昨夜、中東情勢は急転直下の結末を迎えました。

 アメリカ合衆国主導の多国籍軍が、中東全域の主要な油田施設を完全制圧。

 これにより原油供給の安全が確保されたとして、歴史的な高騰を見せていた原油先物価格は一気に暴落、元の水準へと落ち着きを取り戻しています。

 一方、深刻なエネルギー危機に直面していたEU(欧州連合)ですが、原子力インフラを軸とした独自の大規模エネルギー開発計画を「資金調達の不透明性」を理由に突如として白紙と全面撤回。

 このEUの決定を受け、市場は一時パニック状態に陥りましたが、当局からの迅速な火消しと、中東危機回避による世界的な原油安の恩恵を受け、株式相場は力強い回復を——』

 

「…………」

 

 目を覚ます。

 すると、見覚えのある天井の染みが視界に入った。

 俺の家だ。

 東京にある、見慣れた六畳一間のアパート。

 

 トーストの焼ける香ばしい匂い。

 淹れたてのコーヒーの香りだった。

 

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 

 ゆっくりと首を巡らせる。

 小さなちゃぶ台の前に、エプロン姿のマキマさんが正座していた。

 俺の愛用している百均のマグカップに熱いコーヒーを注いでいる。

 

「……ま、マキマ、さん」

「はい、シキくん。朝食は目玉焼きとベーコンですが、構いませんね?」

 

 ちょっとした週末の朝のような穏やかな口調。

 

「俺は……その、マキマさんを裏切って……」

 

 寝返った。

 あろうことか、EUの『戦争』の悪魔に取り入り、日本の『支配』から逃亡しようと企てたのだ。

 首を撥ねられても文句は言えない。

 というか、どうやって俺は日本に帰ってきたのだ?

  シーに全財産を没収されて白目を剥いた後、俺の記憶は完全に途絶えている。

 

「ふふっ」

 

 マキマさんは、焼き上がったトーストを皿に並べながら、小さく笑った。

 

「犬がたまに鎖を噛み切って遠くへ走っていきたくなるのは、仕方のないことです」

「それは……ええと、その」

「それに、結果的にシキくんが動いてくれたおかげで、EUの独自行動を潰し、アメリカの優位性を保ちつつ、日本の国益を守ることができましたからね」

「日本の国益……?」

「ええ。テレビをつけてみてください」

 

 促されるままに、ブラウン管のスイッチを入れる。

 そしてリモコンを操作してニュース番組を開くと。

 

 画面には、真っ赤な文字で『日経平均、今年最大の暴騰』という景気の良いテロップが踊っていた。

 

「……上がってる? 俺の株が、また助かった?」

 

 俺の口から、無意識のうちに安堵の吐息が漏れた。

 スイスの口座に入れていたインサイダー資金は、シーの手によって一文字残らず消し飛ばされた。

 だが、日本の証券口座は無事だったのだ。

 

 中東の戦争が終結したことで原油価格が安定し、世界経済の不安が払拭された。

 結果として、株式市場もV字回復を果たしている。

 

「よかった……俺の種銭は、死んでなかった……!」

 

 俺はほろりと、涙を流した。

 何十億という夢の金は失ったが、俺の証券口座は振り出しに戻っただけ。

 いや、むしろプラスになっているとさえ言えよう。

 

「喜んでもらえて何よりです」

 

 マキマさんが、俺の頭を優しく撫でる。

 その手のひらの冷たさに、ビクッと肩を震わせた。

 

「でも、シキくん。忘れないでくださいね」

「は、はい……」

「あなたが無事に日本に帰ってこられたのも、口座の残高が守られたのも、すべてはたまたま」

 

 マキマさんの瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。

 

「もう二度と、勝手に首輪を外さないと約束してくれますね?」

「……はい」

 

 絶対的な恐怖。

 あんなバケモノ同士の喧嘩を間近で見せられて、逆らえるはずがない。

 俺は、彼女の差し出したコーヒーを両手で受け取り、小さく頷いた。

 

「よろしい。では、今日も元気に働きましょう。午後から新しい仕事が入っています」

「えっ、今日からですか?」

「当然です。公務員はやることがいっぱいですから」

 

 マキマさんはエプロンを外し、いつもの黒いトレンチコートを羽織る。

 俺はため息をつきながら、テレビの経済ニュースに再び目をやった。

 

 ……それにしても、結局のところ。

 一番強いのはアメリカ『死』だった。

 

 あのシーの一睨みで、すべてが終わった。

 EUの戦争も、そして日本の支配ですらも、長女である『死』の前にひれ伏すしかなかったのだ。

 あの神のような悪魔が世界の頂点に君臨している限り、アメリカの覇権は揺るがない。

 

 ——ならば、答えは一つだ。

 

 日本株もいいが……やはり資本主義の絶対勝者はアメリカ——米国株なのだろう。

 それも景気変動に強くて、世界中の人間が水代わりに飲んでいる『清涼飲料水』の株を買い増ししよう。

 どんなに世界で概念兵器が飛び交おうと、人間は喉が渇けば、娯楽が日常に溶けて、ジュースを飲む。

 戦争が起きようが、飢餓が蔓延しようが、最強の国が売る最強の飲料の売り上げは落ちない。

 それに、過去数十年に渡り連続増配もしている。

 ……うーむ、控えめに言って最高じゃないか。

 

「ほら、シキくん。行きますよ」

 

 スーツのジャケットを掴み、小走りで部屋を出た。

 部屋の隅に転がっている、『三本足のヒキガエルの置物』が、俺の背中を呆れたように見送っていた。

 

「返事は……?」

「————ワン‼︎」

 

 

■ おまけ? ■

 

 

【国際新聞 1997年8月22日 朝刊 一面より】

 

『——本日、八月二十二日。

 あの日から、五十二年という年月が経過した。

 1945年、第二次世界大戦終結の直後に顕現し、わずか七日間で世界人口の三十分の一、約一億人の命を奪い去った『人類最悪の災厄』——銃の悪魔。

 核兵器を上回る純粋な殺戮の概念として世界を恐怖の底に叩き落としたあの怪物は、未だその本体を何処かに潜ませたまま、各国のパワーバランスの奥底に暗い影を落としている。

 我々は決して忘れてはならない。

 銃の悪魔がもたらした悲劇と、それに乗じて兵器開発を急ぐ超大国たちの危うさを。

 本日、国連本部をはじめ世界各地で追悼式典が行われる。しかし、本当の平和は未だ訪れ——』

 

「……『銃の悪魔』、か」

 

 公安本部の給湯室。

 俺はインスタントコーヒーをかき混ぜながら、新聞の一面をぼんやりと眺めていた。

 一億人。

 数字がデカすぎて、俺の頭では実感が湧かない。

 だが、投資家としての視点から言えば、銃の悪魔の存在は世界の市場を脅かす最大の「リスク」だ。

 また現れれば、どんな優良銘柄も紙切れになる。

 

「まあ、俺が考えることじゃないか」

 

 俺は新聞をパタンと閉じ、昨日買ったばかりの銘柄の株価チャートを思い浮かべてにんまりと笑った。

 

 

ξ

 

 

 ——同時刻。

 赤の広場を見下ろす、宮殿——クレムリン。

 分厚い石造りの城壁に守られたその巨大な要塞は、九月を目前にしてすでに凍てつくようなロシアの冷風に晒されていた。

 

 迷宮のように入り組んだ回廊の最奥。

 豪奢なシャンデリアの明かりが落とされ、薄暗い影に包まれた『書記長執務室』には、強めのロシア煙草と、古くなった黒茶の匂いが重く淀んでいる。

 壁に掲げられた歴代指導者の肖像画が、無言の圧力で部屋を見下ろしていた。

 

 部屋の中央に鎮座する重厚なオーク材のデスク。

その上に置かれた『電話機』が、鼓膜を打つような鋭いコール音を鳴らした。

 

 冷戦下において、世界で最も重い意味を持つ回線。

 モスクワとワシントンを直接結ぶ、米ソ・ホットラインである。

 

 ソ連邦最高指導者である書記長は、深く刻まれた眉間の皺を擦りながら、受話器を取り上げた。

 

「……中東での派手な花火、見させてもらったよ。ミスター・プレジデント」

 

 静かな、だが鋼鉄のように冷たい響き。

 大西洋を挟んだスピーカーの向こう側から、アメリカ合衆国大統領のくぐもった声が返ってくる。

 

『石油を確保するための、ただの泥臭い仕事だ。そちらがヨーロッパへの天然ガスのバルブを締め上げなければ、あんな空爆をする必要もなかったがね。……だが、今日電話をかけたのはその件じゃない。書記長』

 

 大統領の口調から、芝居がかった皮肉が消えた。

 

 書記長は手元のクリスタルグラスにウォツカを注ぎ、一口煽る。

 喉が焼け付くような心地の良い熱さを感じながら、重々しく口を開いた。

 

「……ウラジオストクの件か」

『そうだ。我が国の第七艦隊が台湾海峡で味わった悪夢が、今度はそちらの極東軍管区を喰い破り始めているそうじゃないか』

 

 書記長は、デスクの端に置かれた機密報告書に視線を落とした。

 そこには、中国国境付近に展開していたソ連邦の精鋭部隊が、一発の銃弾も撃ち込まれないまま「壊滅」した旨が記されていた。

 

 物理的な破壊ではない。

 兵士たちが突如として『言葉』を失ったのだ。

 上官からの命令を理解できず、マニュアルの文字が幾何学模様にしか見えなくなり、無線からは意味不明なうめき声しか聞こえなくなる。

 

 中国が放った最悪の精神感染・概念兵器。

 ——『租唖』。

 

「我が国の領土に浸食した以上、ただの風土病という言い訳はもう通用しない。……あれは、人間から『意思疎通』と『論理的思考』の概念を根こそぎ奪い取る。核兵器の抑止力すら、発射ボタンを押す手順を忘れさせられればただの鉄屑だ」

『ああ。北京の連中は、我々が互いの首にナイフを突きつけて身動きが取れないのをいいことに、盤面そのものをひっくり返そうとしている。国境線も、イデオロギーも、すべてを「理解不能な肉人形の群れ」に塗り替える気だ』

 

 大統領の声には、明確な焦燥が混じっていた。

 

『このまま租唖が野放しになれば、太平洋もユーラシア大陸も飲み込まれる。……一度、トップ同士で直接テーブルにつく必要がある。我々の代理戦争(ゲーム)は一時休戦としよう』

「……奇遇だな。私もそう思っていたところだ」

 

 書記長はグラスを置き、灰皿に煙草を押し付けた。

 

「我々二国だけでは足りない。ヨーロッパ(EU)の代表も呼べ。我々で、あの『目障りな極東の隣人』に対する完全な封じ込めを行う必要がある」

『賛成だ。……だが、場所はどうする? ワシントンもモスクワも、互いにリスクが高すぎる』

 

 すると、書記長がふっと笑ってからこう返した。

 

「最も扱いやすく、我々の手足として動く都合の良い防波堤があるだろう?」

『ふむ……なるほど。極東の最前線でありながら、強力な悪魔を持つ国』

「もし会談が決裂し、中国側から何らかの概念的報復を受けたとしても——」

『あそこなら『使い捨て』にできる』

 

 二人の超大国トップの思惑が、冷酷な打算のもとに一致した。

 

「それでは、次回に会うときは直接だ」

『ああ、それでは近いうちに会おう』

 

 通話が切れる。

 ツー、という無機質な電子音だけが、クレムリンの薄暗い執務室に響き渡っていた。

 

 

ξ

 

 

【経済新聞 1997年9月1日 夕刊 一面トップ】

 

『——歴史的会談、日本で開催へ。

 本日午後、日本政府は緊急記者会見を開き、米国、ソ連、EU、そして日本の四極による前代未聞の「G4首脳会議」を、来月東京で開催すると正式発表した。

 表向きの議題は「世界的なエネルギー供給網の安定と、中東情勢の事後処理」とされているが、専門家の間では、急速に拡大する中国の『精神感染症(租唖病)』に対する国際的な封じ込め作戦が主たる目的ではないかと囁かれている。

 四大勢力のトップが一堂に会するこの歴史的イベントに向け、東京はかつてない厳戒態勢を——』

 

「…………マキマさん」

「なんですか、シキくん」

 

 公安本部のマキマさんの執務室。

 俺は手にした夕刊を見ながら、デスクで優雅に書類仕事をしているマキマさんに問いかけた。

 

「これ、どういうことですか。アメリカの『死』と、ソ連の『飢餓』と、EUの『戦争』が……この日本に、いや東京に来るって書いてあるんですけど」

「ええ、そのようですね」

「つまり、ヨハネの四騎士が集うということで?」

「はい。私たち四姉妹が集まる久しぶりの機会です」

 

 マキマさんはニコリと笑った。

 

「来月は忙しくなりますよ、シキくん。接待……いえ、世界の命運を決める首脳会議の警備と、その穴をついてくるであろう中国への対応。公安の総力を挙げて取り組まなければなりません」

 

 俺の心臓が、ヒュッと縮み上がった。

 

 ベルギーでおきた、あの地獄の姉妹喧嘩。

 もしかすると、あれが今度は俺の住むこの日本、東京で行われるかもしれないというのか。

 

「お、俺……ちょっと有給休暇を……。いや、南の島に語学留学に行きたいんですけど……」

「もちろん。ダメです」

 

 マキマさんが立ち上がり、俺の胸ぐらにスッと指先を這わせた。

 そして、逃げ場のない黄金の瞳で俺を見据える。

 

「シキくんは、私の優秀な犬ですから。姉さんたちを前にして、私の犬がどれほどよく働くか、見せつけてやらなければなりません」

「ヒィッ……」

 

 逃げられない。

 

 米国の『死』。

 ソ連の『飢餓』。

 EUの『戦争』。

 日本の『支配』。

 そして、ダークホースである中国の『租唖』。

 

 世界は、今、ここに流転する——。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。