ヨハネ四姉妹の黙示録   作:深紫Sιn姉

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第7話

【緊急報道番組 1997年10月10日】

 

『——ニュース速報です。

 本日未明、中国・福建省全域との通信が完全に途絶しました。

 現地では原因不明の暴動と、深刻な精神異常が集団発生しているとの未確認情報があり、中国政府は同省を完全封鎖。

 台湾海峡周辺は極度の緊張状態に陥っています。

 専門家はこれを、未知の概念兵器『租唖』の爆発的なパンデミックであると指摘しており——この事態を受け、本日の東京株式市場では取引開始直後からパニック売りが殺到。

 日経平均株価は全面安の展開となっており——』

 

 ゴォォォォォォォォォ……ッ。

 

 鼓膜を直接劈くような、暴力的な爆音と風切り音。

 俺は今、高度一万メートルを亜音速で飛ぶ米軍の大型輸送機、その開け放たれた後部ハッチのギリギリの縁に立たされていた。

 

 ——皇居の神聖なる男子トイレで、G4のトップ(オジサン)たちから『ヨハネ四姉妹』の力を強引に押し付けられてから、わずか数日後のことである。

 

「……どうしてこうなった⁉︎」

 

 強風に煽られ、顔の肉が波打つ中で、俺は手元の分厚い軍用トランシーバーに向かって大声で嘆いた。

 無線の先、おそらく東京の安全な場所で、優雅に淹れたてのコーヒーでも飲んでいるであろう上司は、いつも通りのひどく平坦な声で答える。

 

『ニュースは聞きましたね、シキくん。中国が制御しきれなくなった租唖の悪魔が、台湾の対岸である福建省で爆発的に増殖しています。今や省全体が、意思疎通という概念を失った巨大な狂気の実験場。そこが今回のパンデミックの『震源地』です』

「だからって! 俺一人で行かせる理由にはならないでしょう! アメリカ軍でもソ連の特殊部隊でも、いくらでもプロがいるじゃないですか!」

 

 その声は、信じられないほど落ち着いていた。

 国家が一つひっくり返りかけているという異常事態にあっても、マキマさんにとっては盤上のチェスの駒が一つ倒れた程度の認識なのだろう。

 

『G4の決定により、あなたには直ちに福建省に単独降下し、租唖の震源地を『更地』にしてもらいます』

「いやいやいや! 更地って言うのは簡単ですけどね! 俺が更地になる確率の方が圧倒的に高いんですが! 単独降下って正気ですか⁉︎  震源地って、そこに本体がいる確証はあるんですか⁉︎」

『確証はありません。ですが、最も眷属が密集している以上、中心部を徹底的に叩いてすり潰せば、必ず本体は姿を現します。それに……』

 

 無線の奥で、マキマさんは、ふふっ、と艶やかに、そしてひどく意地悪く笑った。

 

『このまま租唖の脅威を放置すれば、極東の物流は完全に麻痺し、アジア経済は根本から崩壊します。シキくんの証券口座、出立前にこちらで確認しましたが……見るに堪えない、実に悲惨な状態でしたよ』

「なっ待って、なんで俺の口座のパスワードを知って……!」

『通信株も、エネルギー関連銘柄も、すべて軒並みストップ安。あなたが血の滲むような思いで貯めた配当金生活への切符が、今まさに紙切れになろうとしています。このままでは、八十歳になるまで公安で働き続けることになりますよ?』

 

 その言葉は、どんな悪魔の呪いよりも深く、俺の心臓を的確に貫いた。

 

『株価を回復させたいのなら、せいぜい頑張ってください。期待していますよ、シキくん』

 

 ——プツン。

 トランシーバーの通信が一方的に切断された。

 

「あ、おい! ちょっと待て、マキマさん! せめて特別ボーナスの確約を……!」

 

 輸送機のハッチが完全に開ききり、眼下には分厚く渦巻く鉛色の雲と、うっすらと中国大陸の歪な輪郭が見える。

 

「Go! Go! Go!」

 

  容赦のない米兵たちの声と共に、背中を強く蹴り飛ばされる。

 

 ……ちくしょう、あの美人悪魔上司め!

 

 世界を救うためじゃない。

 国家の命運など、俺みたいな一介の平公務員が知ったことか。

 だが、俺の大切な、血と汗と涙の結晶である『資産』を紙切れにする悪魔だけは、絶対に、絶対に許すわけにはいかないのも事実。

 パラシュートのリップコードを握りしめながら、俺は雲海の中を真っ逆さまに落ちていく。

 鼓膜が破れそうな風の音の中、俺の脳内を占めていたのは、日経平均の暴落チャートと、老後破産の恐怖だけだった。

 

「ああもう! なるようにナレぇぇぇッ!」

 

 俺は、灰色の空へと自らの身を投げ出した——。

 

 

■ ■ ■

 

 

 中国、福建省某所。

 台湾海峡を臨む、かつては活気に満ちていたはずの前線都市。

 

 そこはすでに、人の住む場所ではなくなっていた。

 上空からパラシュートで降り立った俺を出迎えたのは、血と泥と、形容しがたい排泄物の匂いが混ざり合った、生ぬるい地獄の空気だった。

 パラシュートを切り離し、放棄されたトラックの荷台からアスファルトに降り立つ。

 

 不気味なほど静かだった。

 自動車のエンジン音も、クラクションも、人々の話し声も、都市が発するはずのあらゆる生活音が完全に消失している。

 代わりに聞こえてくるのは、ぬちゃりぬちゃりと何かを引きずるような音と、意味を持たない奇声だけ。

 

 ここは異常だ。

 街の輪郭が、どこかぼやけている。

 看板に書かれた漢字はゲシュタルト崩壊を起こしたように無数の線に分解され、道路標識はただの色を塗られた鉄板に成り下がっている。

 

 物理的な破壊ではなく、概念的な浸食。

 この空間では『意味を伝える』という行為そのものが否定されているようだ。

 俺の頭にも薄皮一枚のノイズがこびりついているような不快感がある。

 長居すれば、俺の精神が危ういかもしれない。

 

 灰色の空から降る霧雨の中、街路を埋め尽くしているのは、無数の『元・人間』たちである。

 

 完全武装した人民解放軍の制服を着た者。

 スーツ姿のビジネスマン。

 買い物かごを提げたままの一般市民。

 幼い子供の手を引いたまま、虚無の目をして空を眺め続ける母親もいた。

 だがその子供の首はあらぬ方向に曲がっており、すでに事切れている。

 それでも彼女は、何も理解できないまま歩き続けているのだ。

 

 彼らの目には一切の知性の光がなく、口からは意味を成さない不気味なうなり声だけが漏れている。

 

 彼らは歩いているのではない。

 ただ痙攣するように手足を動かし、ある者は自分の顔を血だらけになるまで掻きむしり、ある者はコンクリートの壁に向かって延々と頭を打ち付け続ける。

 

 思考を奪い、言語を破壊し、意思疎通という概念を根絶やしにする。

 

 中国が解き放ち、完全に制御不能となったとされる最悪の精神感染・概念兵器『租唖』の眷属たち。

 これが、強大な国家が自らの身を削ってまで生み出したモノの成れの果てだ。

 戦争の悲惨さとはベクトルが違う。

 人間としての尊厳を奪い取られる、極限の冒涜。

 

 彼らは群れとなり、ただ目の前にある『理解できない異物』を物理的に排除するためだけに、ゆっくりと俺の方へと顔を向けた。

 

「アァ……ウ、ガ……ッ!」

「ギィィ……ァァ……ヂィ……!」

 

 四方八方から、波のように押し寄せる租唖の群れ。

 よく見れば、彼らの口の端は不自然に裂け、そこから黒いタールのような泥がボタボタ垂れ落ちている。

 言葉を紡ぐ機能を完全に破壊された末路だ。

 

 百や二百ではない。

 通りを埋め尽くす数は、見渡す限り千にも及ぶ。

 全員が、俺という『まだ言語を理解している異物』を排除しようと、蠢く波のように迫ってくる。

 

「おぉぅ……想像以上にひどい有様だ」

 

 俺は水滴に濡れたスーツのネクタイを、少しだけきつく締めた。

 かつての俺なら、こんなバケモノの群れを前にすれば、迷わず『狐の悪魔』を呼んで数匹を食わせ、とっとと任務完了の報告書をでっち上げて日本へ逃げ帰っていたことだろう。

 

 というか、狐との繋がりは現在ほぼ絶たれている。

 四つの極大概念が俺の体内でせめぎ合っているせいで、格下の悪魔が恐れをなして完全に沈黙してしまったからだ。

 頼れるのは、己の拳と、世界を滅ぼしかねない理不尽な力だけ。

 

 ——だが、今の俺には。

 『なすべきこと』がある。

 歴史的なストップ安を叩き出した株価を、強引にでもリバウンドさせるという、神聖なる大義が!

 俺のポートフォリオを汚した罪、万死に値する。

 お前たちをここで一掃し、世界経済の不安要因を俺の手で取り除いてやろう!

 

 俺はまず、右手の甲に深く刻まれた、赤黒い『十字の傷跡』を強く握りしめた。

 さあ、始めようじゃないか。

 

「——来い。『戦争』ッ!」

 

 俺がその名を呼んだ瞬間。

 遠く離れたヨーロッパで、紅焔の瞳を持つ三女が、誇らしげにニヤリと笑った幻影が見えた気がした。

 

「俺の視界に入る『瓦礫』、全部俺の武器!」

 

 俺が叫ぶと、右手から空間を歪めるほどの強烈な赤い光が放たれた。

 周囲の崩壊したビル群、散乱するコンクリート片、ひしゃげた鉄骨、そして中国軍が放棄していった無数の装甲車の残骸。

 

 俺の視界に入り、俺が『所有権』を主張したすべての無機物が、ズゴゴゴォォッ! という地鳴りにも似た轟音と共に空中に浮遊し、再構築と変形を始める。

 

「——『特大都市瓦礫機関銃(ガトリング)』!」

 

 大気を震わせ、巨大な歯車が噛み合うような鋼鉄の咆哮。

 空中に浮かんだ数万トンの質量が、ひとつの狂気的な殺戮兵器へと組み上げられていく。

 空中に無数に、それこそ数千、数万という規模で形成された巨大な銃口が、一斉に租唖の眷属たちに向けられた。

 

 ただの弾丸ではない。

 ビルの鉄骨やコンクリートの塊が、戦争の悪魔の力により純粋な『殺意の弾』へと変換されているのだ。

 

「ぶっ放せ」

 

 ドガガガガガガガガガガッッッ!

 

 圧倒的な、そして理不尽な物理の暴力。

 空を埋め尽くすほどの瓦礫の弾雨が、通りを埋め尽くす眷属たちを文字通りミンチに変えていく。

 

 耳を塞ぎたくなるような轟音が福建省の空を裂く。

 直径数十センチのコンクリート弾が音速を超えて着弾し、眷属の肉体を豆腐のように粉砕していく。

 反動で周囲の空気が白く弾け、血の霧が赤い竜巻となって舞い上がった。

 

 悲鳴を上げる間すらない。

 租唖の群れが、アスファルトごと血しぶきを上げてドロドロの肉塊となって吹き飛んでいくのだ。

 一発着弾するごとに、地面がクレーターのように抉れ、家屋が消し飛ぶ。

 もはや戦闘ですらない。ただの地形ごと削り取るような一方的な『整地』だ。

 

「最高だ……! 他人の金と予算(EUの血税)で撃つ弾丸は、信じられないくらい気分がいい‼︎」

 

 俺はニヤリと笑いながら、血の海と化した通りを悠然と前進する。

 だが、租唖の悪魔も黙って一方的に蹂躙されるほど、ヤワな存在ではない。

 生き残った眷属たちが、死体と血肉の海を掻き分けてなおも俺へと群がってくる。

 その動きは先程までの緩慢なものとは違い、狂乱した獣のように素早く、そして執拗だ。

 

 そして——。

 

 奥の巨大な交差点から、さらに巨大な——数十人、数百人の人間がドロドロに溶け合い、融合したような肥大化した眷属が姿を現した。

 

 手足がムカデのように無数に生え、全身に張り付いた口からは、人間の言語を冒涜するような強烈なノイズが撒き散らされている。

 

「チッ、デカブツか。なら、次はこいつの番だ」

 

 俺は自分の喉仏にある、緑青色の痣を指で弾いた。

 

「——『飢餓』!」

 

 クレムリンの奥深くで、緑青の瞳を持つ次女が、無表情のままモグモグと貪り食う姿が脳裏をよぎる。

 

 俺が声を放った瞬間、ビルを薙ぎ倒しながら突進してきていた巨大な租唖の眷属たちの動きが、不自然なほどピタリと止まった。

 意思を持たないはずの彼らに、『感情』が宿る。

 それは、腹の底から、細胞の奥底から湧き上がる、絶対的な『飢え』。

 彼らの口から垂れていたドス黒い泥が、異常な量の胃液へと変わる。

 理解という機能を失った脳ですら、生物としての原初的な本能——「何かを胃に詰め込みたい」という狂気だけは上書きされていく。

 

「ア……ニク……。クウ……ッ!」

 

 満腹中枢の概念そのものを完全に破壊された眷属たちは、俺に襲いかかるのをやめ、自らの巨体を構成している『隣の仲間』に狂ったように噛みつき始めた。

 

 バリッ、メチャァッ! という生々しい咀嚼音が交差点に響き渡る。

 彼らは自分の腕を食いちぎり、他者の顔面を噛み砕き、溢れ出る内臓を貪り食う。

 もはや痛みすら感じていないのだろう。

 ひたすらに、空っぽの胃袋を満たすためだけに。

 

 同士討ちである。

 租唖という『思考を奪う』高度な概念兵器すらも、生物の最も根源的な欲求である『飢え』の衝動の前には無力だった。

 概念の浸食が、敵を内部から完全に崩壊させる。

 巨大な肉塊は、自らを貪り食うことで自滅した。

 

 俺はただ、その凄惨な共食いのショーを冷ややかな目で見下ろしているだけでよかった。

 文字通り、指一本触れることなく。

 

 ——だが、終わらない。

 

 この程度で終わるはずがなかった。

 ここは制御不能となった『租唖』の震源地。

 大国が手塩にかけて育て上げた、最悪のバケモノの巣食う場所なのだ。

 

 眷属たちが全滅し、通りに静寂が訪れたかと思った次の瞬間——。

 背筋に氷のような悪寒が走った。

 

 ズ……ズズズズズ……ッ!

 

 突如として、福建省の空を覆っていた鉛色の雲が、奇妙な螺旋状の渦を巻き始めた。

 気圧が異常な下がり方をしている。

 頭が痛くなるような、急激な変化。

 

 雨の音が、消えた。

 風の音が、消えた。

 

 眷属たちが共食いをして肉を弾けさせる音すらも。

 一切の『音』という概念が、空間そのものから削り取られていく。

 完全なる無音。

 自分の心音すら聞こえない異常な世界。

 

「……あ?」

 

 俺は眉をひそめ、周囲を見回した。

 街の様子が、決定的におかしい。

 色が抜けていく。アスファルトの黒も、血の赤も、コンクリートの灰色すらも、すべての色彩が剥がれ落ちていくような強烈な違和感。

 空間のパースが狂い、遠近感が失われていく。

 

 崩れかけたビルの壁面に残る、巨大な漢字のネオンサインや看板。

 その文字の形が、ウネウネとミミズのように蠢き、解体され、意味を持たないただの幾何学模様へと変貌していく。

 視界に入るすべての『記号』が、ゲシュタルト崩壊を起こしている。

 俺が着ているスーツの織り目すらも、ただの無秩序な線の羅列にしか見えなくなってくる。

 「服を着ている」という事実が、「何か布状のものを身に纏っている」という不確かな認識へと格下げされていく。

 

 いや、それだけではない。

 道の形、建物の輪郭、空と地面の境界線すらもが、抽象画のように混ざり合い始めた。

 ここはもう、人間の認識できる物理法則の外側に片足を突っ込んでいる。

 

 グチャリ、と。

 俺の数十メートル前方、大通りの中央にあるアスファルトが、内側から巨大な風船のように膨らみ、そして弾け飛んだ。

 大量の土砂とコンクリートの破片が、無音のままスローモーションのように宙を舞う。

 そして、その巨大なクレーターの底から、ゆっくりと『それ』がせり上がってきた。

 

 ゴゴゴ……ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!

 

 地割れを起こし、地下鉄の空洞から這い出してきたのは、建物の五階建てビルほどの高さがある、醜悪極まりない肉の塊だった。

 

 人間の『舌』。

 数千、数万という巨大な舌が絡み合い、赤黒く変色しながら縫い合わされ、一つの巨大な脳髄のような形を成している。

 そしてその脈打つ表面には、無数の『耳』と『眼球』がびっしりと張り付いていた。

 

 触手のように伸びた舌の先からは、真っ黒なタールのような体液が絶え間なく滴り落ちている。

 それを見るだけで、三半規管が狂い、胃液が込み上げてくる。

 

 ——指定概念兵器『租唖の悪魔』。

 その、本体である。

 

『■■■■■■——ッ!!』

 

 租唖の悪魔が、口の無いその体から、声にならない絶叫を上げた。

 物理的な音波ではない。

 その瞬間、俺の脳髄に直接、えもいわれぬドス黒いノイズが流し込まれた。

 まるで錆びた鉄くずで脳みそを直接削り取られているような感覚。

 黒板を爪で引っ掻く音を何万倍にも増幅し、さらにそれを直接精神のコアに打ち込まれたような不快感。

 

「ガ、アァァァッ……⁉︎」

 

 頭蓋骨の中で、火薬が爆発したような強烈な衝撃。

 視界が激しく明滅し、平衡感覚が完全に狂う。

 上下左右の概念が消失し、俺はアスファルトの上に無様に転がった。

 

 言語野が、物理的に焼き切れる音がした。

 自分が叫んでいるのかどうかもわからない。

 口から発しているはずの声が、自分の耳にはただの風の音にしか聞こえない。

 「痛い」という言葉が思い出せない。

 だから、コレをどう表現するかもわからない。

 

 自分が今、何をしているのか。

 ここはどこだ。

 なぜ俺はここに立っている。

 

 『敵』とは何か。

 『戦う』とは何か。

 『俺』とは、何だ。

 

 思考を言語化するプロセスそのものが、根こそぎ奪い取られていく。

 脳の中にある辞書から、ページが一秒間に一万枚の速度で引きちぎられ、燃やされていく感覚。

 「空」が青いという記憶すら、名前を失ってただの色覚信号に成り下がる。

 自分が自分でなくなる。

 ただの「肉の塊」へと、廃人へと誘っていく。

 

 これが、『租唖』。

 

 大国の正規軍すら、一発の銃弾も交えずに白痴へと変えた最悪の侵食。

 俺の脳が、底なしの闇へと急速に溶けていく。

 恐怖すらも、言語化できなければただの漠然とした冷たさでしかない。

 

(あ……おれ、は……。な、に、を……)

 

 口から涎が垂れる。

 立ち上がることすらできない。

 

 四騎士の力を借りようと、俺の器はただの人間だ。

 このままじゃ、数秒後には涎を垂らして笑うだけの肉塊になる。

 

 だが。

 俺の魂の奥底、DNAに深く深く刻み込まれた最も強烈な、決して消えることのない『執着』だけは——。

 

(か……かぶ……。俺の、はいとう、きん……)

 

 ——租唖の悪魔の侵食すらも、凌駕していた。

 

(株……株式……株式会社……企業が発行する資本の構成単位……単元……配当……利益の還元……老後……俺の、安らかな老後……南の島……!)

 

 俺がこれまで積み上げてきた血反吐を吐くような節約生活! 安い牛丼で食いつなぎ、マキマさんの理不尽な命令に耐え、世界中を飛び回って集めた資金! 複利の力で雪だるま式に増えていくはずの俺の資産! それらが、言葉と共に失われるだと⁉︎  ふざけるな、金への執着を舐めるなよバケモノ!

 

 言葉が消え去るなら、欲望で空隙を埋めろ。

 概念が破壊されるなら、強欲で自己を再定義しろ。

 

 そうだ。

 思い出した。

 俺は、俺の口座を守るためにここにいる。

 

 自我を取り戻した俺の脳内に、感情が爆発する。

 俺は配当金で一生遊んで暮らす男だ。

 こんな泥まみれの中国の僻地で、意味不明な肉塊になってたまるか!

 夢を、俺の人生のゴールを、こんな意味不明なバケモノのノイズに屈して、台無しにされてたまるか!

 

「ふざけ、んなァァァッ‼︎」

 

 俺は血を吐くように叫び、アスファルトを掻き毟りながら、自身の右目——紫紺の光を宿した瞳をカッと見開いた。

 俺は絶対的な終焉を呼び覚ます。

 

「——来いッ! 『死』ッ‼︎」

 

 その言葉をトリガーにして。

 大西洋の向こう側、アメリカ合衆国の摩天楼で、紫紺の瞳を持つ長女が冷たく笑った。

 

 現存する、世界最強の概念。

 それが、極東の地に顕現した。

 

 ズンッ……‼︎

 

 音が、光が、時間が、空間が。

 すべてがその一撃で「殺された」。

 世界が、完全に止まった。

 租唖の悪魔が放っていた不快な精神ノイズが、文字通り『死滅』した。

 概念への干渉すらも。

 絶対的な「終わり」の前には無力。

 

 それは力比べですらない。

 生物であろうと概念であろうと、存在するものには必ず「終わり」がある。

 死の悪魔はその終焉というルールを強制的に執行する絶対的な管理者なのだ。

 

 巨大な化け物が、目に見えない神の万力で全方位から押し潰されたように、ビクンと大きく硬直する。

 無数に張り付いていた耳から、ドス黒い血が滝のように噴き出し、蠢いていた数万の舌が、一瞬にして腐肉のように黒く変色した。

 

 すべての生物が本能で恐れる、根源的恐怖。

 

 ヨハネの長女たる『死』のプレッシャーをゼロ距離で叩きつけられ、思考を奪うはずの悪魔自身が、完全に機能停止に陥っていた。

 

「ハァッ……ハァッ! 効くじゃねえか……!」

 

 俺は荒い息を吐きながら、冷や汗と涎を乱暴に袖で拭った。

 頭蓋の奥にこびりついていたノイズが消え、意識が完全にクリアになった。

 これでトドメだ。

 

 俺はよろよろと立ち上がり、自身の首元、不可視の鎖が巻かれている場所を右手で撫でる。

 日本の『支配』。

 

「——『支配』。平伏せ」

 

 首の鎖がチャリンと鳴った気がした。

 逆らうことなど絶対に許されない至高の命令。

 

 ギギ、ギゴゴゴゴォォォ……ッ!

 

 租唖の悪魔の巨体が、自らの意思とは無関係に、内部の骨格がへし折れるような凄まじい音を立てながら、アスファルトに深くめり込んでいく。

 巨大な肉塊が、不可視の重圧によってひしゃげ、ひらべったい座布団のように潰されていく。

 眼球が破裂し、黒い血が四方八方に飛び散る。

 

 あのマキマさんの力が、この強大な悪魔を『自分より格下の存在』と認識し、物理的に押し潰す。

 

 アジア全土を震え上がらせた最悪の概念兵器が、ただの一介のデビルハンターの言葉一つによって、地面に這いつくばって惨めに土下座をしているのだ。

 

「これで終わりだッ!  死ねッ‼︎」

 

 俺が右手(戦争)の力を全開に解放し、周囲の瓦礫をかき集めて巨大なギロチン——断頭台へと作り変え、租唖の悪魔の醜悪な首を完全に刎ね落とそうとした……その時だった——。

 

ξξξ

——ドクン。

ξξξ

——ドクン。

ξξξ

——ドクン。

ξξξ

 

 俺の全能感は、音によって一瞬で凍りついた。

 地響きのように重く。

 そして異様に硬質な鼓動が響いた。

 

「……あ?」

 

 いや、租唖の悪魔からではない。

 租唖の悪魔の『内部』。

 完全に潰れているはずの租唖の悪魔の腹部が、何かの拍動に合わせて不自然に膨らみ、収縮している。

 

 租唖の悪魔の体内の『何か』が。

 それが、宿主の死の危機をトリガーにして、自らを拘束していた肉の檻を喰い破り、起動したのだ。

 

 ボギュンッ!!

 

 租唖の悪魔が、内側から風船のように破裂した。

 致死量の肉片と、悪臭を放つ黒い血の雨が、福建省の空を覆い尽くすように降り注ぐ。

 生暖かい血の雨が顔に降りかかる。

 腐敗臭ではなく、鉄錆と油の匂いが鼻を突いた。

 

 その血の豪雨の中心から、姿を現したのは——黒光りする、悍ましくも冷たい金属の塊。

 

「な、なんだこれ……」

 

 それは、無数の『銃器』だった。

 おびただしい数の銃器が、複雑に絡み合い、異常な熱量で溶接されたように融合した、巨大な金属の塊。

 生物の有機的な美しさなど微塵もない。

 ただ効率よく対象を殺害するためだけに設計された、冷徹な機械部品の集合体。

 

 拳銃、アサルトライフル、機関銃、散弾銃、対戦車砲、そして無数の弾帯。

 ありとあらゆる銃火器が、まるで悪魔の内臓や筋肉のように寄り集まり、巨大な腕を、分厚い胸郭を、そして顔を形作っていく。

 

 その頭部には、無数の銃口が目のように並び、冷たく虚空を睨みつけている。

 

 パラパラと。

 空から雨のように降ってくるのは水滴ではない。

 高熱を持ち、鈍く光る『空薬莢』だ。

 大量の薬莢がアスファルトを叩く音が、狂ったような雨音となって響き渡る。

 強烈な硝煙の匂いが、周囲の湿った空気を一瞬にして上書きし、肺を直接焼くような熱気が蔓延する。

 

 ゴゴゴゴゴゴォォォォォ……ッ!!!

 

 肉片が周囲の瓦礫や租唖の残骸、さらには放棄されていた人民解放軍の戦車や装甲車までをも磁石のように吸い寄せ、急激に絶望的なまでに肥大化していく。

 

 天を突くほどの巨大な複合銃口が形成され、その圧倒的な暴力の気配だけで、周囲に残っていたビル群のガラスが一斉に粉々に砕け散った。

 

 概念の干渉など関係ない。

 精神攻撃などという小賢しい手品ではない。

 そこにあるのは、人類が他者を殺すためだけに生み出し、洗練させ続けてきた『純粋な殺戮』の結晶。

 

 世界中が探し求めていた、最悪の災厄。

 

『ガガガガガガガガガガガガッッッ!!!』

 

 巨大な肉片の主が、咆哮を上げた。

 それは生物の叫びではない。

 何万、何十万という無数の銃声が寸分違わず重なり合った、地獄の重低音。

 衝撃波だけで周囲の空気がプラズマ化し、青白い閃光が走る。

 

 ——途端、暴風のような銃弾の雨が、全方位に向けて無差別に放たれた。

 光を遮るほどの弾幕が、俺の周囲の地面を、空気を、空間そのものを削り取っていく。

 

「…………」

 

 俺は呆然と、その天を突くような金属と肉の巨塔を見上げてふと悟った。

 逃げる場所なんてどこにもない。

 俺の資産も、老後の夢も、今この瞬間に、あの銃口から放たれる何億発という弾丸と共に、跡形もなく消え去るのだと。

 

 ああ、それはきっと。

 

 ————『銃の悪魔』。

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