——絶望という概念に、形があるとするならば。
それは今、俺の目の前にそびえ立っている『巨大な銃器の集合体』のことだろう。
ゴゴゴゴォォォォォ……ッ!
福建省の分厚い雲を突き抜けるほどの巨体。
ありとあらゆる銃火器が融合し、脈打ち、無数の銃口が呼吸をするように黒煙を吐き出している。
世界最悪の災厄、『銃の悪魔』。
それが、完全に顕現したのだ。
租唖の悪魔との戦いで満身創痍の俺は、瓦礫の山に腰を抜かしたまま、見上げることしかできなかった。
『ガ……ガガガガガガガッッ!!』
銃の悪魔が、その無数の銃口を空へ、大地へ、そして俺へと向けた。
一秒間に放たれる弾丸の数は、おそらく数百万発。
それがもたらすのは、ただの「死」ではない。
地形そのものを更地にし、都市の形すら変えてしまう純粋な破壊の暴力だ。
「……俺、ここで終わるのか」
思い返せば、長いようで短い人生だった。
悪魔をぶっ殺すことが特技で、マキマさんに公安に拾ってもらった。
給料もそこそこ良いし、証券口座だって開けた。
いろんな場所に出張だってしたし、いろんな悪魔と関わることだってあった。
岸辺隊長に、クァンシも、俺に優しかった。
あの六畳一間のアパートで、毎朝目覚めて最初にすることといえば、新聞の株式欄を穴が開くほど見つめることだった。
赤いインクで書かれた「ストップ高」の文字を見るだけで、安い牛丼が高級ステーキの味に思えた。
危険な任務をこなして特別手当をもらい、ボーナスが入るたびに、少しずつ、本当に少しずつ増えていく証券口座の残高。
それが俺の生きた証だった。
岸辺隊長に奢らされた、銀座の高級寿司の味。
クァンシがくれた、三本足のヒキガエルの置物。
そして、マキマさんが休日の朝に淹れてくれた、香ばしいコーヒーの匂いと、頭を撫でてくれるあの冷たくも優しい手のひらの感触。
「……南の島で、一生ぬくぬく暮らすんだ」
誰の命令も聞かず、毎朝の満員電車にも乗らず。
真っ白な砂浜のハンモックに揺られて、冷たいトロピカルジュースを飲む。
ただ波の音だけを聞いて、穏やかに眠る。
そんな、バカみたいにちっぽけで、でも俺にとっては世界で一番でっかく輝いていた夢。
それが今、目の前の圧倒的な暴力によって、文字通り紙切れのように吹き飛ばされようとしている。
悔しい。悲しい。
涙が、血と泥に塗れた頬を伝って、ボタボタとアスファルトに落ちた。
俺の血と汗と涙の結晶が、老後の安らぎが、こんな意味不明な暴力で終わるなんて。
嫌だ……絶対に嫌だよ、そんなの。
「……ふざけんなよ」
俺は、ガクガクと震える膝に力を込め、ゆっくりと、そして確実に立ち上がった。
もしここで俺が死んでも。
この『銃の悪魔』を野放しにすれば、世界中の市場は完全にパニックに陥り、世界経済は崩壊する。
そうなれば、俺が命を懸けて積み上げてきた株も、口座の残高も、俺の存在証明そのものも、すべてが本当に『ゼロ』になってしまう。
俺の生きた証が、何一つ残らない。
それだけは、絶対に許せない。
俺は震える手で、懐から軍用トランシーバーを引き抜いた。
上層部の彼らと直接繋がる、唯一のホットライン。
「……こちらシキ。ワシントン、モスクワ、ブリュッセル……聞こえるか」
『————!』
何か大きな声が聞こえるが、俺は無視する。
そして淡々と伝えるべく声を発した。
「おい、俺から一つ、最初で最後の『要請』がある」
俺は、銃の悪魔の巨大な砲身を見上げながら、唇の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「あんたらの国が持ってる一番デカい花火……核兵器を、今すぐここに全弾ぶち込め」
トランシーバーの向こう側で、相手方の息を呑む気配がはっきりと伝わってきた。
『……なんだと⁉︎ 正気か!』
『我々がそれを撃てば、君ごと福建省を消し飛ばすことになるぞ?』
『シキくん。状況はわからないが、本気かい?』
……ああ、どうして人間はこう弱いのだろう。
とたんに、逃げ出したくなる。
どこにも、逃げる場所なんてないというのに。
「構いません! このままコイツを野放しにしたら、世界は終わりだ。だから、やらなきゃいけない」
俺の叫びに、通信機越しに重い沈黙が流れた。
「人類の火で、この災厄の歴史を終わらせましょう」
恐怖などとうの昔に麻痺していた。
あるのはただ、純粋な強欲と、小さな意地だけ。
数秒の、永遠にも似た沈黙の後。
大平洋の向こう側から、大統領の、氷のように冷たく、そしてどこか敬意を孕んだ声が響いた。
『……悪魔の力は強大だ。だが、我々「人間」もただ指をくわえて五十年間怯えていたわけではない』
ソ連の書記長が、それに続く。
『恐怖の概念などという曖昧なものではない。人類が人類自身を殺し尽くすために磨き上げ続けてきた「物理学の最高峰」。その真の力を見せる時が来た、か』
EU議長の声が、厳かに響く。
『……第七の封印を、我々の手で解こう。君の勇気に敬意を。さらばだ、極東のデビルハンター』
——プツン。
通信が切れた。
『天に半時間ばかり静けさがあった』
古い書物に記されたその言葉のように、戦場を覆っていた銃の悪魔のけたたましい轟音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
嵐の前の、神聖なる静寂。
上空。
鉛色の雲を突き破り、七つのラッパが一斉に吹き鳴らされるかのような、空気を切り裂く異様な警報音が鳴り響き始めた。
流れ星のように線を引いて落ちてくるのは、火と血が混じったような、無数の赤い尾を引く飛翔体。
アメリカのICBM。
ソ連とヨーロッパのSLBM。
空から落ちる大きな星。
その名は『ニガヨモギ』。
海を血に変えるためではない。
この大陸ごと、最悪の悪魔と一緒に更地にするための、人類の罪と叡智の結晶。
『ガガガガガガガガッッッ!‼︎』
銃の悪魔が頭上の気配に気づき、咆哮を上げる。
数百万の弾丸が天へ向けて放たれ、極超音速で落ちてくるミサイル群を空中で撃ち落とそうと、黒々とした弾幕の傘を広げた。
空気が摩擦で燃え、プラズマの稲妻が走る。
だが、人類が半世紀をかけて煮詰めた『殺意の質量』は、それを許さなかった。
弾幕を強引にすり抜け、あるいは弾幕ごと押し潰して、ミサイル群は真っ直ぐに大地へと突き刺さった。
激突、そして——。
音よりも先に、世界が純白に染まった。
一億度を超える、絶対的な熱量。
——地上の太陽が顕現した——
■ エピローグ ■
すべてを白く染め上げた一億度の光は。
気がつけば、南国の眩しい太陽へと変わっていた。
ザザァ……と。
穏やかな波の音が、鼓膜を心地よく揺らしている。
「……ん」
俺は、ヤシの木陰に吊るされたハンモックの上で目を覚ました。
頬を撫でるのは、鉄錆や硝煙の匂いじゃない。
甘く、少しだけ潮の香りが混じった優しい海風。
アロハシャツに身を包み、傍らの小さなテーブルには水滴のついた冷たいトロピカルジュースと、数日遅れで空輸されてきた『経済新聞』が置かれている。
どこも痛くない。
息も苦しくない。
俺はゆっくり身を起こし、新聞の株式欄を開いた。
『——日経平均、ダウ平均ともに歴史的な回復』
紙面を埋め尽くしているのは、景気の良い見出しと、ストップ高の連続を告げる数字の羅列。
証券会社に電話で確認した俺の口座残高は、これまでの血を吐くような苦労をすべて清算し、一生を何不自由なく、ただ怠惰に寝て暮らすのに十分すぎる圧倒的な数字を示していた。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
そして、サングラスの奥から一筋の涙がポロリとこぼれ落ちて、真っ白な砂浜に小さな染みを作った。
「ああ、なんだ。……なんで泣いているんだ?」
もう、大国の思惑に怯える必要はない。
理不尽な悪魔の命令に従う必要もない。
満員電車にも、安い牛丼にも、永遠にさよならだ。
視界の端で、『三本足のヒキガエルの置物』が、陽の光を反射して黄金色に輝いている。
静かだ。
本当に、驚くほど静かで、穏やかな世界。
俺は冷たいジュースを一口啜る。
そしてゆっくりと、眠りにつくように目を閉じた。
波の音だけが、優しく俺を包み込んでいく——。
『……悪くない。この島の暑さは、退屈しのぎにはちょうどいい。だろう? シキとやら』
『こ、ここの島のご飯は美味い。もっと食べたい』
『シキ! 株で儲けたなら、さっさと私に——』
『ふふっ。シキくん、何か思い出しごとでも?』
——太陽が俺を白く明るく照らしている。
「ワン」
—END—
完結!最後まで読了、ありがとうございました。
偉大なる原作と、全ての読者様に感謝を込めて。
皆さんの応援が、本作にとって最高の配当金でした。
きっと、またいつかの物語でお会いしましょう。
それでは、ワン。