還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む 作:Rely01111
澱底ノ街の軒先には、鳴らない鐘が吊ってある。
家の数だけあり、掌に乗るくらいの古いもので舌は錆びついたまま動かない。風の強い日に揺れても音は出ない。出してはいけないことになっている。
セラはその音を、十六年いちども聞いていない。
朝が、薄い。
この街の空気はいつも一枚足りなくて、息を吸うと胸の奥がかすかに鳴る。崖の肌にしがみつくように家が積み上がり、洗濯紐は谷から谷へ渡されて、誰かの寝間着が下からの風にふくらんでいる。
その風がどこから来るかといえば、街のすぐ足元だ。乳白色の海がある。光をふくんだ霧が、生き物のように呼吸して上下している。
見る者はいない。誰もが見ないことに慣れている。
セラは軒先の鐘の下で隣のミナに小さく訊いた。
「ねえ。鐘って、どうして鳴らしちゃいけないんだっけ?」
「……知らないの? みんな知ってるよ」とミナが怪訝な顔をする。
「知ってる。でも理由は聞いたことがないから」
セラは鐘を指先で撫でた。冷たくて、何も返ってこない。
「鳴らしちゃだめ、ってことだけ知ってる。なんで?」
「鳴らすと、呼んじゃうからだよ」
「下から。鐘の音は向こうに届くんだって。だから鳴らないようにしてある。舌を抜いて」
「向こう?」
「霧の、下」
セラは海のほうへ目をやった。乳白の面が、街の足元で息をしている。
鐘は、向こうに届く。だったらこの鐘は、誰にも届かせないために舌を抜かれたんだ。家じゅうが、口をふさがれて黙っているみたいに見えた。
「変なの。鳴らすために作ったのに、鳴らないようにしてそれで軒先に吊っとくなんて」
「変じゃないよ。ずっとそうなんだから」
「うん。ずっとそうなのが変だよ」
ミナが肩をすくめた。セラの思いつきはいつもこうだ。みんなが当たり前に通り過ぎるものの前で立ち止まって、穏やかな顔のまま、とんでもないほうへ歩いていく。
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ミナと別れて坂を上る。
澱底ノ街の朝はいつも一枚足りない。山嶺の影が高いところで陽をさえぎるから、下に届くのは薄い光だけだ。それでも朝は朝で、坂のあちこちから暮らしの音が昇ってくる。誰かが芋を刻み、誰かが咳をして井戸の滑車がきしむ。
蒼い髪を耳にかけて、セラは坂の途中の家々へ声をかけていった。
「セラちゃん、おはよう」
「おはようございます」
すれ違う顔は、半分が名前を知っていて、残り半分も顔だけは知っている。狭い街だ。誰かが坂で転べば、夕方には上から下まで話が回っている。
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戸を引くと湯気のにおいがした。
「おかえり」
父が竈の前にしゃがんで粥を煮ていた。澱底ノ街では米は一粒まで数えるくらい貴重で、父は毎朝それを水で延ばす。延ばして、足りなければ自分の椀をいちばん薄くする。
カイの髪は白い。若白髪だと街の者は言う。けれど目だけは、澱の底に生まれた者の黒をしている。
「ミナとなに話してたんだ?」
「鐘のこと。ねえ父さん、鐘ってどうして鳴らしちゃいけないの?」
杓子を握る手が一瞬止まった。気のせいだと思うくらいの間で、すぐにまた動く。
「鳴らすと向こうに届くからだよ」
「向こうって霧の下でしょう。それは知ってる。でも、どうして届いたらいけないの?」
「さあな。どうしてだろうなぁ」
父が笑った。困ったときの笑い方だ。怒るのでもはぐらかすのでもなくて、波が引くみたいにそこから何かが薄くなる。
セラはこの笑い方が、昔から少し苦手だった。父が優しいのが嫌なんじゃない。ただ、その優しさはときどき底のほうが冷たくて、そういうとき父は、ここにいるのにここにいないみたいになる。うまく言えないけど。
「考えてもわからないことばっかり。この街、多すぎるよそういうの」
「だな」
父はまた笑って、椀を二つ寄こした。一つは自分の。もう一つは奥の部屋の弟のだ。
奥の部屋で、イルが目を覚ましていた。崖の家のいちばん奥、いちばん陽の入らない部屋だ。
薄い布団から灰色の髪がのぞいている。もとは黒かった髪が、この一年で黒とも白ともつかない色に褪せた。十二の子の髪が灰色なのはおかしい。でも澱底ノ街では、誰もそれを口にしない。
「イル、朝だよ。粥」
イルが薄く目を開けて笑う。声は出さない。出せないのをセラは知っている。母が死んだあの冬から、弟は喋らなくなった。それでも黒い目はよく動くし、笑うと肩のあたりが小さく揺れる。
枕元の石板を、イルが引き寄せた。喋れなくなってから、二人の言葉はこの上に書かれる。蝋石で書いて、袖で消してまた書く。
『また へんなこと きいてた?』
「へんなことじゃない。鐘のこと。なんで鳴らしちゃいけないのか訊いただけ」
イルの肩が揺れた。蝋石がすべる。
『ねえさんは いつも きいちゃいけないことを きく』
「いけなくないってば! みんなが訊かないだけ」
『それを いけないって いうんだよ』
言葉に詰まった。喋れないくせに、弟の言葉はいつもセラの一歩先で待っている。
昔から口の達者な弟だった。母がいた頃は朝から晩まで喋り倒して、誰かを笑わせていないと気がすまない子で、よく母を笑わせる勝負をした。今は声のかわりに、白い石板の上で姉をやり込めてくる。
返事のかわりに、セラはイルの手の甲を軽く叩いた。とんとん、と二回。
わかりました、まいりました。
母が死んだ少しあと、なにを言えばいいのか二人ともわからなかった夜に、どちらからともなく始まった合図だった。言葉が見つからないとき、手の甲を二度叩く。それだけで、ここにいると伝わる。鳴らない鐘の街で、二人きりが鳴らせる音だった。
イルも叩き返してきた。とんとん。弱い力だったけれど、二回。
粥は半分も進まないうちに、イルが首を振った。もういらない、ということだ。このごろ食べる量が減っているのが気にかかる。それでも匙を置くと、イルはすぐ石板に向かって、やけに張り切った字を書いた。
『きょう いちば?』
「市の日。芋が安くなる日でしょう。あんた、市の日のことだけは絶対に忘れないね」
イルが得意げに、鼻を鳴らすような顔をした。いちばん大事な要求を書く。
『にんじん』
「お金あったらね」
『にんじん』
「だからお金あったらって!」
『にんじん』
三回。しかも最後のにんじんは、丸でぐるりと囲んである。念押しだ。これを書かれると弱い。セラは笑ってその丸を指でつついた。約束、ということになる。
市は街の中ほど、いちばん平らな場所に立つ。平らといっても、澱底ノ街にまともな平地などない。傾いた石畳の上に傾いた屋台が並ぶ。売り物は上から流れてきたものばかりだ。少し欠けた皿。片方だけの靴。誰かが昔使っていた鍋。新しいものはこの街に降りてこない。人も物も、上から落ちたものが澱のように底へ溜まる。
だから澱底ノ街という。
「セラ、芋いるかい」
顔なじみの婆さんが籠を指した。
「にんじん、ありますか?」
「にんじんは高いよ。今日は芋にしときな」
「弟が、にんじんって言うんです。三回も書かれました。丸つきで」
婆さんが声をあげて笑った。籠の底をごそごそ探って、先が二股に割れた売り物にならないにんじんを一本つまみ上げる。
「しょうがないね。これならおまけだ。持っていきな」
「いいんですか?」
「うちの孫も昔そうだった。動けない子は、食べ物の話だけやたら張り切るんだよ」
礼を言って、セラは二股のにんじんを受け取った。芋といっしょに袋へ入れると、底で固いものがぶつかった。
帰り道、坂の途中でミナに会った。
「セラ、なに買ったの?」
「芋。あと、おかしなにんじん」
「うわ、変なかたち!」
「これおまけにもらったの。イルがどうしてもにんじんって、三回も書くから」
「三回も」ミナがおかしそうに笑って、それから声を落とした。
「……ねえ。さっき坂の下に、黒いの来てたって」
「黒いの?」
「数え屋。井戸んとこで、みんな言ってた」
セラの足が止まりかけた。
数え屋。その言葉が出ると、澱底ノ街の大人は決まって口をつぐむ。黒い衣を着て霧の底のほうから上ってくる者たち。詳しいことはセラも知らない。知っているのは、彼らが来た日の街の静かさだけだ。
「どこの家?」
「わかんない。坂の下のほう、としか……」
セラはそれ以上、考えないことにした。坂の下の家なんていくらでもある。今日は市の日。芋もにんじんも買えた。考えても答えの出ないことは、この街には多すぎる。いちいち止まっていたら、坂は上れない。
それでも一度だけ、坂の上の自分の家を見た。理由はない。見て、すぐに目をそらした。
「じゃあね、ミナ」
「うん。また明日」
袋を抱えなおして石段を上った。中で二股のにんじんが跳ねる。
家に戻ると、奥からかすかな音がした。蝋石を引っかく、とんとん、という音だ。
「ただいま!にんじんあったよ。二股のすっごく変なやつ!」
袋から出して見せると、イルの目がぱっと大きくなって、声のない笑いが肩いっぱいに揺れた。こんなに喜ぶなら、もっと早く手に入れてあげればよかった。
イルが石板を見せてきた。留守のあいだ、ひとりで何か書いていたらしい。下手な絵があった。線が二股に割れた、にんじんのつもりらしいもの。その横に、小さく文字。
『おかえり』
セラはしばらく、その文字を見た。喋れない弟が、姉の帰りを待ちながらひとりで書いた、おかえり。
「ただいま」
もう一度言って、イルの手の甲を叩く。とんとん。イルも叩き返す。とんとん。
その夜、二股のにんじんは粥に刻んで入れた。三人で食べた。父はうまいうまいと言って、やっぱり自分の椀をいちばん薄くする。イルはにんじんのかけらだけ、いつもより少し多く飲み込んだ。
気づくと、父がイルを見ていた。笑ってはいない。悲しんでもいない。ずっと前に、なにかを決めてしまった人の、静かな目だ。セラの視線に気づくと、父はいつもの顔に戻って、椀へ目を落とす。
軒先で、鳴らない鐘が風に揺れていた。よく晴れた夜で、薄い月が出ている。月の光が舌のない鐘を白く縁取って、風が来るたびに揺れた。それでも、音はしない。
部屋に戻ると、イルはもう眠っていた。寝息にあわせて灰色の髪が揺れる。セラはその髪を一度だけ撫でて、布団を首まで引き上げた。