世界の地表は、発光する霧に沈んでいる。
触れた者から記憶を、声を、やがて人であることまで奪う―褪せ霧。

人々は霧の上、山嶺の高みへ逃れて暮らしている。

その最も低い底、貧民街・澱底ノ街。十六歳のセラは、病で声を失った弟と、かつて霧へ潜って還ってきた父と暮らしていた。父は、底で見たものを語らない。

各家の軒先には、舌を抜かれた鐘が吊られている。褪せ霧の底へ、音が届かぬように。鳴らしてはいけない鐘の下で。

やがてセラは、ひとつの噂を知る。どんな病も癒すという、霧の底に眠る遺物——還り灯。

弟を喪いたくない。ただ、それだけで。少女は、誰も降りたがらない海へ、沈むと決めた。

潜るほどに人を忘れ、人を忘れた者ほど美しい天使の姿へと変わってゆく、その海の底へ。

カクヨムにも掲載しております
X(Twitter)  ▲ページの一番上に飛ぶ