還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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第10話 水面

朝、土間に下りると釘に縄が掛かっていた。

 

 

 

新しい荷縄だった。使い込んだ父のものじゃない。編み目のまだ固い、下ろしたての縄。その横に布の包みがひとつ置いてある。開けると干し芋と乾かした薬草が入っていた。

 

 

 

父はもう、出かけたあとだった。

 

 

 

セラは縄を手に取ってみた。ずっしりと重い。長さも前のより長い気がした。

 

 

 

やめろと言った人が縄を置いていった。

 

...どういうつもりなのか、分からなかった。許したわけじゃないんだと思う。止めても聞かないと知っているだけだ。それでも娘が糸のない場所で迷わないように縄だけは新しくしておく。それが父さんなんだ、きっと。言葉はくれない。だけど縄はくれる。

 

 

 

「……いってきます」

 

 

 

誰もいない土間に言って、セラは縄を腰に結んだ。

 

 

 

奥の部屋でイルはまだ眠っていた。枕元に膝をついて、顔を覗き込む。ゆうべ覚えたばかりの顔をもう一度なぞって、目に焼きつける。

 

 

 

手の甲を、とんとんと叩いた。

 

 

 

イルの指がわずかに動いた。目は開かない。それでも指が動いた。セラの袖のあたりを探すように。セラは自分の袖をその指に触れさせた。イルの指が布を弱くつまんでそれから、ほどけて

 

 

 

「行ってくるね。すぐ還るから」

 

 

 

嘘じゃない。今度も還る。還って、また顔を覚える。それを繰り返して、そのあいだに底へ近づく。

 

 

 

ハイネが土間で待っていた。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

鐘ヶ嶺の岩場にヴィダはいた。

 

 

 

白い目が霧の向こうからセラたちを捉えた。もう驚かなかった。この老人はいつも先に気づいている。

 

 

 

「三つ目の底を見た」

 

 

 

セラが言うとヴィダの皺が深くなった。笑ったのか顔をしかめたのか、分からない動き方だった。

 

 

 

「素人が三つ目までな」

 

「降り口も見つけた。今日はそこから下へ行く」

 

 

 

ヴィダはしばらく黙っていた。杖の先で岩を二度、こつ、と突いた。

 

 

 

「止めても行くんだろう」

 

「行く」

 

「なら、ふたつだけ教えておく」

 

 

 

老人は片手を自分の胸に当てた。

 

 

 

「下は息が薄い。三つ目までの比ではない。吸おうと思うな。吸おうとすると余計に苦しくなる。細く、長く、吐け。吐けば、勝手に入ってくる。沈み手は皆、そうやって下と付き合った」

 

 

 

細く、長く、吐く。セラは胸の中で繰り返した。

 

 

 

「もうひとつ」

 

 

 

ヴィダの白い目がセラの手元に落ちた。手繰り灯の宿る、右の掌に。見えているはずがないのに正確に。

 

 

 

「その灯を下で軽々しく使うな」

 

「……なんで?」

 

「灯は深いほどよく燃える。そして、よく喰う」

 

 

 

よく燃えて、よく喰う。

 

 

 

「深くで灯を使えば、上より多くのことができるだろう。だがな、娘。灯が明るくなるぶん、薪も多くいる。薪はお前だ。忘れるな」

 

 

 

セラは右の掌を握った。

 

 

 

「……分かった。気をつける」

 

「気をつけて、済むといいがな」

 

 

 

それから、ヴィダの白い目がセラの腰のあたりをなぞった。

 

 

 

「新しい縄だな」

 

「……父さんが。何も言わないで釘に掛けてあった」

 

「そうか」

 

 

 

老人はそれだけ言った。それきり、何も。けれど、皺の奥がほんの少しだけ、やわらいだ気がした。あの男も変わらんな。そう呟いたのが聞こえたような、気のせいのような。

 

 

 

ヴィダはそれきり口を閉じた。二人が関所の渦へ踏み込むまで白い目はずっとこちらを向いていた。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

二度目の道ははやかった。

 

 

 

鳴ク洲では伝令の喇叭が今日も鳴っていた。セラはもう、あの音に飛び上がらなかった。倒れた鐘楼の陰から陰へ、音の切れ目を数えて、体が勝手に動く。ハイネの手を握って、走って、止まって、また走る。

 

 

 

途中で気づいてしまった。

 

 

 

慣れてる。あたし、この場所に慣れてる。

 

 

 

人が忘れられていく場所を通り道みたいに歩いてる。あの白い目の影たちの横を立ち止まりもしないで。それがぞっとした。怖くなくなるって、たぶん、いいことじゃない。怖さもすり減っていくもののひとつなんだ。

 

 

 

沈ミ都では父の縄が半分、消えていた。

 

 

 

都が動いたのだ。結び目ごと石に呑まれた場所も縄が壁の中へ食い込んで千切れた場所もあった。それでもハイネが道を拾った。残った結び目とハイネの記憶とふたつを継ぎながら、二人は都を渡った。遠くで一度だけ、鍵束の音がした。近づいてはこなかった。あの巨きな守り手は今日も誰もいない街路を見回っているのだろう。

 

 

 

降り口の結び目は残っていた。

 

 

 

都じゅうが動いてもここだけは動かない。青い暗さが渦を巻く、大きな口。その縁の柱に父の縄のいちばん先が固く結ばれたまま待っていた。

 

 

 

「ここから先ははじめてだ」

 

 

 

ハイネが言った。セラは頷いて、新しい縄の端を古い結び目の隣に結んだ。父の縄の続きを父の縄に繋ぐ。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

二人は石の段を下りはじめた。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

段は長かった。

 

 

 

下りるほどに青い暗さが濃くなる。渦はもう、渦には見えなかった。近づけば、それはただ、ゆっくりと巡る霧の流れでその中心が下へ、下へと口を開けている。

 

 

 

段の終わりは、霧の膜だった。

 

 

 

青黒い霧がそこだけ薄い皮みたいに張って、ゆっくりと波打っている。下から見れば、これが二つ目の海の、水面なのだろう。セラは息を吸って止めて、その膜へ足から入った。

 

 

 

冷たい重いものが体をひと呑みにした。耳の奥で「ぼ」と鈍い音がして、世界の音がぜんぶ一度遠くなる。膜を抜けるまでの数歩が、水の中を歩くみたいに長かった。抜けた。

 

 

 

圧が変わった。

 

 

 

耳の奥がきゅう、と鳴った。空気が重くなって、体の外から、ゆっくり押してくる。息を吸った。薄い。吸っても吸っても胸の底まで届かない。慌てて、もっと吸おうとして、余計に苦しくなった。

 

 

 

ヴィダの声を思い出す。吸おうと思うな。細く、長く、吐け。

 

 

 

セラは吐いた。細く長く喉の奥が震えた。吐ききるとたしかに勝手に入ってきた。少しだけ。それでも少しは。

 

 

 

「セラ。上を見ろ」

 

 

 

ハイネの声に顔を上げた。

 

 

 

そして、動けなくなった。

 

 

 

頭の上に海があった。

 

 

 

さっきまで潜っていた、白い霧の海。それがずっと高いところで天井みたいにひろがって、ゆらゆらと揺れている。水の底から水面を見上げたときみたいに。白い光がその面でやわらかく散って、こちら側の青い暗さとのあいだにはっきりとした境目を引いていた。

 

 

 

あれが渚の海。あたしたちが今までいた場所。膝まで腰まで浸かって、深いつもりでいた場所。あれ全部がこの海から見れば、水面に浮かんだ、うすい雲みたいなものだった。

 

 

 

「……うそ」

 

 

 

声が掠れた。

 

 

 

海の下に、もうひとつ海があった。あたしたちは海をひとつ抜けたんだ。そしてこの海の底にもきっとまだ。

 

 

 

自分が今、どれだけ深いところに立っているのか。それが頭じゃなくて、体で分かってしまった。膝が少し震えた。上の海があんなに遠い。

 

 

 

イルはあの海よりもさらに上にいる。地上の坂の上のあの家に。そう思ったら、遠さが急に距離じゃなくなった。帰り道の長さになった。息を整えて、セラはその長さをいったん胸の外へ出した。考えすぎたら、足が止まる。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

二つ目の海は色がちがった。

 

 

 

青黒い霧が胸の高さまで満ちている。腰までじゃない。胸までだ。一歩進むごとに霧が水みたいにまとわりついて、重い。冷たさも渚の比じゃなかった。肌の内側のもっと奥、骨のまわりが冷えていく。

 

 

 

そして、静かだった。

 

 

 

音が粘る。自分の足音がすぐそばで鳴っているのに遠くで鳴っているみたいに聞こえる。霧が音を呑んでなかなか手放さない。

 

 

 

霧の中に影が垂れていた。

 

 

 

鎖だった。

 

 

 

太い、黒い鎖が上の暗がりから何本もまっすぐに垂れて、先が霧の中へ消えている。どこから垂れているのか見上げても分からない。誰が何を繋ぐための鎖だったのか。錆びて、ところどころ苔をまとってそれでも切れずにただ垂れている。

 

 

 

「それに触るな」

 

 

 

ハイネが低く言った。

 

 

 

「なんとなくだが。あれはよくない物だ」

 

 

 

ときどき、霧の遠くで大きなものが動く気配がした。姿は見えない。ただ、青黒い霧の流れが思い出したように乱れて、また凪ぐ。魚の群れの上をもっと大きな影が通ったときみたいに。

 

 

 

この海には泳ぐものがいる。

 

 

 

セラは頷いて、鎖のあいだを縫うように進んだ。息が苦しい。細く長く吐く。吐いて進む。たった、たったそれだけのことなのに、足も心も何もかもがこんなに重い。

 

 

 

隣を見た。

 

 

 

ハイネは平気な顔で歩いていた。息の乱れひとつない。それどころか。

 

セラは目を凝らした。

 

 

 

ハイネの胸が動いていなかった。

 

歩いているのに。この重い霧の中を進んでいるのに。息をしていない。していないんじゃない。しなくていいんだ。この人は。

 

 

 

「……いいよね、あなたは」

 

 

 

言葉が勝手にこぼれた。

 

 

 

「苦しくないんだから。息もしなくて」

 

 

 

言ってから、はっとした。ハイネがこっちを見た。責める目じゃなかった。ただ、静かにセラを見た。それが余計にこたえた。

 

 

 

「……ごめん。今のなしにして」

 

 

 

セラは前を向いた。八つ当たりだ。分かってる。この人は何も悪くない。悪くないのに平気な顔が今だけ、少し憎らしかった。そんな自分がいちばん嫌い。ここにいると、気持ちさえすべてが沈んでいく。

 

 

 

ハイネは何も言わなかった。ただ、歩く速さを少しだけセラに合わせて落とした。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

鎖を避けそこねたのはセラのほうだった。

 

 

 

息苦しさで足元が甘くなっていた。よろけて、手をついた先に垂れた鎖の錆びた輪があった。

 

 

 

「っ……」

 

 

 

掌に鋭い痛みが走る。右の掌。手繰り灯の宿る手。錆の粒が食い込んで、血がとぷとぷと流れていく。深くはない。でもこの手は道具を握る手だ。縄を結ぶ命の綱だ。

 

 

 

セラは迷った。

 

 

 

ヴィダの声がする。灯は深いほどよく燃える。そして、よく喰う。

 

でも傷のままじゃ、縄が握れない。この先、何があるか分からないのに。

 

 

 

「……少しだけ」

 

 

 

セラは左手を右の掌にかざした。灯を、ともす。

 

 

 

光が、生まれた。

 

 

 

息を呑んだ。ちがう。渚の底でともした、あの小さな、ろうそくの火みたいな灯じゃない。掌の上で白金色の光がはっきりとした強さで灯って、青黒い霧をまるく押しのけた。明るい。渚のときの何倍も。

 

 

 

傷が、閉じた。

 

 

 

一瞬だった。渚ではじわじわと糸がほどけるみたいに治っていったのに。今は掌ぜんぶがひと呼吸で繕われた。それだけじゃない。胸の苦しさまでほんの一拍、ふっと軽くなった。灯が体の中まで届いた気がした。

 

 

 

きれい、と思った。だけれど、すぐにこわくなってしまった。

 

 

 

深いほど、よく燃える。

 

灯が消えたあといつもの何かが抜ける感じが来た。

 

でもいつもとちがった。

 

 

 

浅いところで灯を使ったときはぷつ、と糸が一本切れるみたいだった。今のはもっと深い。ぼとり、と、根っこごと何かが抜けていった感覚。大きなもの。大事だったかもしれないもの。何が抜けたのか、探そうとして探す場所ごとなくなっていた。

 

 

 

「セラ」

 

 

 

ハイネが覗き込んでいた。

 

 

 

「今、何を治した」

 

「……手。切ったから」

 

「....何を失った」

 

 

 

分からない、と言おうとして、声が出なかった。分からない。本当に分からない。それが答えだった。何を失ったか分からないほどきれいに抜かれた。

 

 

 

よく燃えて、よく喰う。

 

 

 

ヴィダの言ったとおりだった。この海の灯は明るくて、強くて、そのぶん、薪を根っこから持っていく。

 

 

 

薪は、あたし自身だ。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

そのとき、ハイネがセラの肩を掴んだ。

 

 

 

「灯を消せ。……もう消えてるな。伏せろ」

 

 

 

鎖の陰に引き込まれた。霧の中に二人でうずくまる。

 

 

 

「どうし……」

 

「静かに」

 

 

 

ハイネの目が霧の奥を見ていた。セラもそっとそちらを見た。

 

 

 

遠くに、光が、立っていた。

 

 

 

まっすぐな光だった。ひとすじ、細く、白く、青黒い霧を上から下まで貫くように。揺れない。瞬かない。竈の火とも手繰り灯ともぜんぜんちがう。定規で引いた線みたいな、まっすぐさ。

 

 

 

自然のものじゃない。

 

 

 

光はゆっくりと動いていた。何かを探すように。あるいは数えるように。一定の速さで霧の奥を右から左へ。

 

 

 

「なにあれ......」

 

「わからない。だが」

 

 

 

ハイネの声がいつもより硬かった。

 

 

 

「この海には俺たちのほかに誰かがいる」

 

 

 

光はやがて、霧の奥へ遠ざかっていった。まっすぐなまま、ゆっくりと。セラはそれが完全に見えなくなるまで息を殺していた。細く長く、恐怖と一緒に吐きながら。

 

 

 

誰かがいる。人が。この、素人は戻れないはずの深さに。

 

それが味方だと思えるものはあの光のどこにもなかった。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 

「今日はここまでにする」

 

 

 

ハイネが言った。セラも頷いた。息はもう、限界に近かった。灯の代償もあの光も頭の中で整理がついていない。欲張れば、還れなくなる。

 

 

 

「縄をたどって、段まで戻る。段を上がって、それから」

 

 

 

ハイネが上の方角を指した。

 

 

 

「まず」

 

 

 

そう言って、ハイネはその場所の名を口にした。

 

 

 

はずだった。

 

 

 

口が動くのは見えた。息づかいもした。けれど、その一語だけがセラの耳を素通りした。音が、そこだけ、白い。言葉の形をした、穴。

 

 

 

「……まで一息に上がる。あそこまで戻れば、息が楽になる」

 

「ごめん、聞こえなかった。どこまでって?」

 

 

 

ハイネがセラを見た。それから、もう一度、同じ名を言った。今度ははっきりとゆっくり。

 

 

 

だめだった。

 

 

 

二度目もその言葉だけが形にならないまま崩れて、届かなかった。前後の言葉はぜんぶ聞こえるのに。白い海のいちばん浅いところ。その名前のところだけがいつも白く抜ける。

 

 

 

「……もう一回、言って」

 

 

 

三度目をハイネは言わなかった。かわりにその目がゆっくり見開かれていった。

 

 

 

「セラ。俺の言葉が聞こえないのか」

 

「聞こえてる。聞こえてるよ。でもひとつだけ……あなたが今、二回言った、その場所の名前だけ、その聞こえない。音が抜けてて」

 

 

 

言いながら、背中が冷えていった。

 

 

 

その場所をあたしは知ってるはずだ。白い海のいちばん浅いところ。膝まで浸かって、はじめて潜った、あの。あの……あそこ。家のすぐ下の。名前が。名前が出てこない。頭の中のその名前があったはずの場所に手を伸ばして、掴めるものが何もない。

 

 

 

さっきだ。

 

 

 

灯を使った、あのとき。根っこごと抜けていった、大きなもの。あれがこれだ。場所の記憶といっしょにその場所の名前ごと。

 

 

 

「……ハイネ。あたし、聞こえないだけじゃない。思い出せない。その場所のこと名前ごと抜かれてる」

 

 

 

ハイネは何も言わなかった。言えなかったのだと思う。名前を呼んで繋ぎとめる。それがこの人の命綱としてのやり方だった。鳴ク洲であたしをイルに繋ぎとめてくれた、やり方だった。

 

 

 

その言葉が、届かない。

 

 

 

この海の代償は、あの白い海のときと、ちがう。

 

セラは右の掌を見た。さっき、あんなにきれいに灯った手を。

 

この灯は深いほどよく燃えて、そして、名前ごと喰らっていく。

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