還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む 作:Rely01111
朝、目を覚ますと、イルがもう起きていた。
枕元の石板に何か書いている。蝋石を持つ手が、いつもよりのろい。セラが覗き込むと、書きかけの面をさっと袖で隠してしまう。
「なに? 見せてよ」
『まだ』
「まだ、って」
イルはんん、と首を振った。声にならない、息だけの音だ。できあがってから見せる、ということらしい。セラは肩をすくめて粥の支度に立った。
奥の部屋から、蝋石を引っかく音が切れぎれに届く。書いては止まり、また書く。いつもより間が長い。竈の前でそれを聞いているうちに、手が止まった。なんでだろう。すぐにまた粥をかき混ぜた。
父はもう出かけていた。
土間に荷縄の予備が一本落ちている。荷運びの朝の父は決まって忙しなくて、ひとつふたつ忘れ物をしていく。セラはそれを拾って壁の釘にかけた。
戸口から坂の下を見下ろす。澱底ノ街は、いちばん下のところから先に目を覚ます。井戸の滑車が鳴って、誰かが水を汲んで、その音が坂を昇ってくる。洗濯紐には今日も寝間着が干されている。乳白色の海は街の足元で、いつもどおり息をしていた。
「セラちゃん、おはよう」
坂の途中からミナの母親が手を振っていた。籠に薬草らしきものを入れている。
「おはようございます。どこか行くんですか」
「渚まで。ちょっとね」
渚、と聞いてセラは顔を上げた。
渚は街のいちばん下、霧にいちばん近いところだ。海に膝まで浸かるような街の縁。あそこまで下りる用があるのは、薬草を摘む者か、でなければ。
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「ねえ」
セラはミナの母親の隣に並んで坂を下りた。籠を半分持たせてもらう。
「渚って、薬草採れるんですか?」
「採れるよ。霧のそばにしか生えない草があってね。よく咳に効くの」
「咳……」
「あんたの弟にも、いいかもしれないよ? あとで少し分けようか」
「いいんですか!」
声が弾んだ。ミナの母親が笑う。イルの咳は、このごろ夜に少し増えている。気のせいだと思っていた。思いたかった。
坂を下りるほど、すれ違う人が増えてくる。みんな籠か桶か、何か提げている。そのなかに一人、何も持たない男がいた。
ぼんやりした目で坂を上るでも下りるでもなく、ただ立っている。すれ違うとき、ミナの母親がセラの袖を引いた。目を合わせるな、というように。
「……あの人」
「凪いでる人だよ」
「凪いでる?」
ミナの母親が声を落とした。「あんまり見ちゃいけないよ」
「渚まで下りて、戻ってきた人。膝までしか浸かってないはずなんだけどね。ちょっとだけ置いてきちゃったんだよ。何かをね」
セラは振り返らなかった。それでも、その男のどこも見ていない目が、頭の隅に残った。
渚は、思っていたより静かだった。
街の喧騒が上へ遠ざかって、足元には乳白色の霧がひたひたと寄せている。寄せて、引いて。引くときに小さな音がした。誰かが長く息を吐くような音だ。
ミナの母親は霧の際にしゃがんで、白い小さな草を摘みはじめた。
「ここから先は行っちゃだめだよ」
「はい」
「膝まで浸かると、昨日のことをひとつふたつ忘れる。腰まで行くともっと。それで済めばいいけどね」
「行くとどうなるの?」
「……戻ってこられないよ」
ミナの母親はこともなげに言って、摘んだ草を籠に入れた。セラは白い霧の面を見ていた。すぐそこにある。手を伸ばせば届く。なのに誰も触れない海。
この海のいちばん下には、何があるんだろう。
「セラちゃん」ミナの母親が腰を伸ばした。「そういう顔しないの。あんたの母さんも、よくそういう顔してたよ」
「母さんも?」
「すぐそこにあるものをじっと見る顔。下りていきたそうな顔。あんた、よく似てるよ」
セラは何も言えなかった。母のことは、もう声も顔も薄れかけている。残っているのは断片だけだ。台所に立つ後ろ姿。窓のあかりに透けた蒼い髪。低い鼻歌。それから、イルがまだ喋れた頃、二人で母を笑わせようと競い合ったこと。
母が死んでから、イルは喋らなくなった。
どうして、とは一度も訊いていない。訊けなかった。
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帰り道、坂を上る途中で、ある家の前を通った。
軒先に、鐘が二つ。
先月通ったときは一つだった。セラは足を止めなかった。けれど戸が半分開いていて、中で誰かが小さく泣いているのが聞こえた。
ミナの母親が立ち止まり、戸の前に摘んだ草を少し置いた。何も言わずに、また歩きだす。
「……誰か、潜ったんですか?」
「潜ったよ。先々月にね。若い子だった」
「還って、こなかった...」
「鐘が二つになってしまったからね」
ミナの母親はそれきり黙って坂を上った。セラも黙ってついて行く。
鐘が二つになる。それが何を意味するか、セラは生まれたときから知っている。でも泣き声を間近で聞いたのは久しぶりだった。母のとき以来かもしれない。
一つは、生きて還れば一度だけ鳴るはずだった鐘。鳴らないまま終わった。もう一つは、最初から舌のない、弔いのための鐘。二つ並んで、どちらも音を持たない。
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家に戻ると、奥の部屋から蝋石の音がした。まだ書いていたらしい。朝からずっと。
「ただいま! イル、薬草もらってきたよ。咳のやつ」
顔を出すと、イルが待ちかねたように石板を持ち上げた。
そこには絵があった。下手な、それでも一生懸命な線で波が描いてある。横線の上に小さな丸が二つ、手をつないでいるつもりらしい棒人間が並んでいる。その下に、小さく文字。
『うみ いっしょに みにいこう』
セラはしばらくその絵を見ていた。
いつか約束したのだ。イルが元気になったら、いちばん最初に霧の海を見にいく。誰も見ない海を、二人でちゃんと見てみようと。
イルは忘れていなかった。朝からずっと、夢を描いていた。
「うん。いこうね。元気になったら、いちばん最初に」
イルが笑った。笑いが肩で揺れる。また蝋石を持って、波の絵の端に何か描き足した。
二つの丸の片方の頭に、ちょこんと線が三本。
「なにこれ」
イルが自分の頭を指さした。それからセラの頭を指さす。
「……あたしの、寝ぐせ?」
イルが声を立てずにけらけら笑った。布団を叩いて笑う。笑って、咳をした。
一度。二度。
小さな咳だった。すぐにおさまった。けれど笑いが止まっている。イルは自分の胸のあたりを不思議そうに押さえていた。息を確かめるみたいに。
「イル?」
イルはセラを見て、笑おうとした。少し遅れて、笑えた。石板に手を伸ばす。
『だいじょうぶ わらいすぎた』
「もう。笑いすぎだよ」
セラは笑って、イルの手の甲をとんとんと叩いた。イルも叩き返してくる。とんとん。弱い力だった。それでも、二回。
その夜、もらった薬草を煎じて飲ませた。苦い、と書いてイルは顔をしかめる。それでも全部飲んだ。
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夜遅くに父が帰ってきた。
荷運びが立て込んだのだという。父は土間にしばらく座っていた。
「父さん。ごはんできてるよ」
「ああ」
それでもすぐには立たなかった。暗がりで、奥の部屋のほうを見ている。イルの眠るいちばん奥の部屋を。
「……イルは、どうだった」
「咳を少し。でも笑ってたよ。海の絵を描いてた」
「そうか」
父はそれだけ言った。立ち上がって、釘にかけてあった荷縄を一本手に取る。今朝セラが拾ってかけた、あの忘れ物の荷縄を。
しばらく、それを見ていた。何か考えるみたいに。
「父さん?」
「いや」
荷縄をまた釘に戻して、父はいつものように笑い、奥の部屋へイルの様子を見に行った。
セラは粥をよそった。薄い粥だ。父は今日も、自分の椀をいちばん薄くするのだろう。
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イルはもう眠っていた。海の絵を描いた石板を、抱くようにして。
セラはその石板をそっと取り上げようとして、やめた。明日も見るだろう。明日も、その次の日も。元気になったら、いちばん最初に海を見にいくのだ。
外で風が出て、軒先の鐘が揺れた。舌のないまま、音は立たない。
布団に入ると、隣で弟の浅い息が聞こえた。その息がときどき、ほんの少しだけつっかえる。
気のせいだ。
そう思って目を閉じた。