還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

2 / 10
第2話 渚のひと

朝、目を覚ますと、イルがもう起きていた。

 

枕元の石板に何か書いている。蝋石を持つ手が、いつもよりのろい。セラが覗き込むと、書きかけの面をさっと袖で隠してしまう。

 

「なに? 見せてよ」

『まだ』

「まだ、って」

 

イルはんん、と首を振った。声にならない、息だけの音だ。できあがってから見せる、ということらしい。セラは肩をすくめて粥の支度に立った。

 

奥の部屋から、蝋石を引っかく音が切れぎれに届く。書いては止まり、また書く。いつもより間が長い。竈の前でそれを聞いているうちに、手が止まった。なんでだろう。すぐにまた粥をかき混ぜた。

 

父はもう出かけていた。

 

土間に荷縄の予備が一本落ちている。荷運びの朝の父は決まって忙しなくて、ひとつふたつ忘れ物をしていく。セラはそれを拾って壁の釘にかけた。

 

戸口から坂の下を見下ろす。澱底ノ街は、いちばん下のところから先に目を覚ます。井戸の滑車が鳴って、誰かが水を汲んで、その音が坂を昇ってくる。洗濯紐には今日も寝間着が干されている。乳白色の海は街の足元で、いつもどおり息をしていた。

 

「セラちゃん、おはよう」

 

坂の途中からミナの母親が手を振っていた。籠に薬草らしきものを入れている。

 

「おはようございます。どこか行くんですか」

「渚まで。ちょっとね」

 

渚、と聞いてセラは顔を上げた。

 

渚は街のいちばん下、霧にいちばん近いところだ。海に膝まで浸かるような街の縁。あそこまで下りる用があるのは、薬草を摘む者か、でなければ。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

「ねえ」

 

セラはミナの母親の隣に並んで坂を下りた。籠を半分持たせてもらう。

 

「渚って、薬草採れるんですか?」

「採れるよ。霧のそばにしか生えない草があってね。よく咳に効くの」

「咳……」

「あんたの弟にも、いいかもしれないよ? あとで少し分けようか」

「いいんですか!」

 

声が弾んだ。ミナの母親が笑う。イルの咳は、このごろ夜に少し増えている。気のせいだと思っていた。思いたかった。

 

坂を下りるほど、すれ違う人が増えてくる。みんな籠か桶か、何か提げている。そのなかに一人、何も持たない男がいた。

 

ぼんやりした目で坂を上るでも下りるでもなく、ただ立っている。すれ違うとき、ミナの母親がセラの袖を引いた。目を合わせるな、というように。

 

「……あの人」

「凪いでる人だよ」

「凪いでる?」

ミナの母親が声を落とした。「あんまり見ちゃいけないよ」

「渚まで下りて、戻ってきた人。膝までしか浸かってないはずなんだけどね。ちょっとだけ置いてきちゃったんだよ。何かをね」

 

セラは振り返らなかった。それでも、その男のどこも見ていない目が、頭の隅に残った。

 

渚は、思っていたより静かだった。

 

街の喧騒が上へ遠ざかって、足元には乳白色の霧がひたひたと寄せている。寄せて、引いて。引くときに小さな音がした。誰かが長く息を吐くような音だ。

 

ミナの母親は霧の際にしゃがんで、白い小さな草を摘みはじめた。

 

「ここから先は行っちゃだめだよ」

「はい」

「膝まで浸かると、昨日のことをひとつふたつ忘れる。腰まで行くともっと。それで済めばいいけどね」

「行くとどうなるの?」

「……戻ってこられないよ」

 

ミナの母親はこともなげに言って、摘んだ草を籠に入れた。セラは白い霧の面を見ていた。すぐそこにある。手を伸ばせば届く。なのに誰も触れない海。

 

この海のいちばん下には、何があるんだろう。

 

「セラちゃん」ミナの母親が腰を伸ばした。「そういう顔しないの。あんたの母さんも、よくそういう顔してたよ」

「母さんも?」

「すぐそこにあるものをじっと見る顔。下りていきたそうな顔。あんた、よく似てるよ」

 

セラは何も言えなかった。母のことは、もう声も顔も薄れかけている。残っているのは断片だけだ。台所に立つ後ろ姿。窓のあかりに透けた蒼い髪。低い鼻歌。それから、イルがまだ喋れた頃、二人で母を笑わせようと競い合ったこと。

 

母が死んでから、イルは喋らなくなった。

 

どうして、とは一度も訊いていない。訊けなかった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

帰り道、坂を上る途中で、ある家の前を通った。

 

軒先に、鐘が二つ。

 

先月通ったときは一つだった。セラは足を止めなかった。けれど戸が半分開いていて、中で誰かが小さく泣いているのが聞こえた。

 

ミナの母親が立ち止まり、戸の前に摘んだ草を少し置いた。何も言わずに、また歩きだす。

 

「……誰か、潜ったんですか?」

「潜ったよ。先々月にね。若い子だった」

「還って、こなかった...」

「鐘が二つになってしまったからね」

 

ミナの母親はそれきり黙って坂を上った。セラも黙ってついて行く。

 

鐘が二つになる。それが何を意味するか、セラは生まれたときから知っている。でも泣き声を間近で聞いたのは久しぶりだった。母のとき以来かもしれない。

 

一つは、生きて還れば一度だけ鳴るはずだった鐘。鳴らないまま終わった。もう一つは、最初から舌のない、弔いのための鐘。二つ並んで、どちらも音を持たない。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

家に戻ると、奥の部屋から蝋石の音がした。まだ書いていたらしい。朝からずっと。

 

「ただいま! イル、薬草もらってきたよ。咳のやつ」

 

顔を出すと、イルが待ちかねたように石板を持ち上げた。

 

そこには絵があった。下手な、それでも一生懸命な線で波が描いてある。横線の上に小さな丸が二つ、手をつないでいるつもりらしい棒人間が並んでいる。その下に、小さく文字。

 

『うみ いっしょに みにいこう』

 

セラはしばらくその絵を見ていた。

 

いつか約束したのだ。イルが元気になったら、いちばん最初に霧の海を見にいく。誰も見ない海を、二人でちゃんと見てみようと。

 

イルは忘れていなかった。朝からずっと、夢を描いていた。

 

「うん。いこうね。元気になったら、いちばん最初に」

 

イルが笑った。笑いが肩で揺れる。また蝋石を持って、波の絵の端に何か描き足した。

 

二つの丸の片方の頭に、ちょこんと線が三本。

 

「なにこれ」

 

イルが自分の頭を指さした。それからセラの頭を指さす。

 

「……あたしの、寝ぐせ?」

 

イルが声を立てずにけらけら笑った。布団を叩いて笑う。笑って、咳をした。

 

一度。二度。

 

小さな咳だった。すぐにおさまった。けれど笑いが止まっている。イルは自分の胸のあたりを不思議そうに押さえていた。息を確かめるみたいに。

 

「イル?」

 

イルはセラを見て、笑おうとした。少し遅れて、笑えた。石板に手を伸ばす。

 

『だいじょうぶ わらいすぎた』

「もう。笑いすぎだよ」

 

セラは笑って、イルの手の甲をとんとんと叩いた。イルも叩き返してくる。とんとん。弱い力だった。それでも、二回。

 

その夜、もらった薬草を煎じて飲ませた。苦い、と書いてイルは顔をしかめる。それでも全部飲んだ。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

夜遅くに父が帰ってきた。

 

荷運びが立て込んだのだという。父は土間にしばらく座っていた。

 

「父さん。ごはんできてるよ」

「ああ」

 

それでもすぐには立たなかった。暗がりで、奥の部屋のほうを見ている。イルの眠るいちばん奥の部屋を。

 

「……イルは、どうだった」

「咳を少し。でも笑ってたよ。海の絵を描いてた」

「そうか」

 

父はそれだけ言った。立ち上がって、釘にかけてあった荷縄を一本手に取る。今朝セラが拾ってかけた、あの忘れ物の荷縄を。

 

しばらく、それを見ていた。何か考えるみたいに。

 

「父さん?」

「いや」

 

荷縄をまた釘に戻して、父はいつものように笑い、奥の部屋へイルの様子を見に行った。

 

セラは粥をよそった。薄い粥だ。父は今日も、自分の椀をいちばん薄くするのだろう。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

イルはもう眠っていた。海の絵を描いた石板を、抱くようにして。

 

セラはその石板をそっと取り上げようとして、やめた。明日も見るだろう。明日も、その次の日も。元気になったら、いちばん最初に海を見にいくのだ。

 

外で風が出て、軒先の鐘が揺れた。舌のないまま、音は立たない。

 

布団に入ると、隣で弟の浅い息が聞こえた。その息がときどき、ほんの少しだけつっかえる。

 

気のせいだ。

 

そう思って目を閉じた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。