還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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第3話 舌

父がめずらしく家にいた。

 

荷運びは三日に一度休みになる。橋の検めがある日は荷を渡せない。そういう日の父は、たいてい何かを繕っている。すり切れた荷縄を結びなおしたり、欠けた椀の縁を削ったり。澱底ノ街では物は壊れるまで使い、壊れてからもしばらく使う。

 

その朝、父が繕っていたのは見たことのない布だった。

 

油を染ませた厚い布で、継ぎ目に金具がついている。古いけれど、丁寧に手入れされていた。父はそれを膝に広げて、ほつれた縁を黙って縫っている。

 

「それ、なに?」

父の手が止まった。少しだけ。

「昔の、仕事道具だ」

「仕事って、荷運びの?」

「いや」

 

父はそれきりまた針を動かした。油布の表面が朝の薄い光をにぶく弾く。水をはじく布だ、とセラは思った。荷運びに、水をはじく布なんていらない。

 

「父さん、昔なにしてたの」

父は縫う手を止めなかった。

「潜ってた」

「……潜るって。霧に?」

「ああ」

 

セラは言葉が出なかった。知らなかったわけではない。父が元・沈み手だったことは、街の者がときどき口にする。けれど父の口から聞いたのは初めてだった。

 

「じゃあ、軒先の鐘。あれが鳴ったの?」

「俺が還ってきたときだな」

 

父は油布を畳んだ。

 

「鐘の舌が戻されるのは、誰かが霧へ降りるときだけだ。降りてるあいだ、その家の鐘にだけ舌が嵌めなおされる。そして無事に還れば、一度だけ鳴らす。生きて戻った、っていう合図にな」

「還らなかったら...」

「鳴らない」  父は静かに言った。

 

「鳴らないまましばらく経つと、もう一つ鐘が来る。最初から舌のない、鳴らない鐘だ。それが二つ目の鐘だ」

 

セラは坂の途中の家を思い出した。先月、鐘が二つになっていた家。中で誰かが泣いていた。

 

「二つになった家は」

「ああ」

 

それ以上、父は言わなかった。言わなくてもわかった。鐘が二つになるということがどういうことか、セラは生まれたときから知っている。ただ父の口から鐘の話を聞いたのは、これが最初で——そしてしばらく、最後になった。

 

 

その日はよく晴れていた。

 

澱底ノ街の晴れは、上の晴れとは違う。山嶺の影が薄くなって、いつもより少しだけ光が下まで届く。それだけのことだ。けれどその日の光は、奥の部屋まで薄く差し込んでいた。

 

「イル、起きてる? 今日、すっごく明るいよ!」

 

セラが顔を出すと、イルは目を開けていた。いつもより顔色がいい。気のせいかもしれない。でも笑い方が少し元気だった。

 

イルが石板に書いた。

 

『そとの におい がする』

「窓、開けてるからね。今日はあったかいよ」

 

イルはんん、と首を伸ばすようにした。外を見たいのだ。セラは布団ごとイルを抱え起こして、窓のほうへ少し近づけた。重くなかった。12歳の弟は、もう悲しくなるくらい軽い。

 

窓の外には崖の街が段々に積み上がっている。洗濯紐。誰かの寝間着。そのずっと下に、乳白色の海が光を孕んでゆっくり上下していた。

 

「海、見える?」

 

イルはじっと海のほうを見ていた。それから石板にゆっくり書く。

 

『いつか いっしょに みにいく』

「うん。元気になったらね。いちばん最初に」

『いちばん さいしょ』

「約束したもんね」

 

イルは笑った。声のない笑いが肩で揺れる。それから蝋石を持って何か書こうとして、少し考えて、書くのをやめた。書きたいことが、うまく言葉にならなかったのかもしれない。

 

かわりにイルはセラの手の甲を叩いた。とんとん。

 

「うん」セラは叩き返した。とんとん。「わかってる」

 

その日の昼は、粥にミナがくれた芋を入れた。父も家にいたから三人で食べた。父はうまいうまいと言って、自分の椀をいちばん薄くする。イルはいつもより少し多く匙を口に運んだ。

 

何でもない日だった。晴れていて、家族が三人そろっていて、弟の顔色が少しだけよかった。

 

セラは後になって、何度もこの日を思い出すことになる。何でもない日ほど、失くしてからいちばん光る。

 

 

 

午後、ミナが訪ねてきた。

 

「セラ、いる?」

 

戸口でミナが少し声を落としていた。いつものミナと様子が違う。

 

「どうしたの」

「あのね。坂の下に、また来てるんだって」

「……数え屋」

 

ミナは頷いた。

 

「今度はけっこう上のほうまで来てるって。うちの母さんが、戸を閉めてろって」

 

セラは坂の下を見た。崖の街が段々に下りていく。そのいちばん下、霧のすぐ上のあたりに、黒い点のようなものがいくつか見えた気がした。気のせいかもしれない。でも目をそらせなかった。

 

「セラの家、坂の上のほうだから平気だと思うけど」ミナは早口で言った。「でも、いちおう戸を閉めてたほうがいいよ」

「うん。ありがとう」

 

ミナは自分の家へ駆けて戻っていった。

 

セラは戸を閉めた。閉めてから奥の部屋を振り返る。イルは窓辺で、まだ海を見ていた。

 

数え屋が来ると、誰かが終わる。

その言葉を、セラは頭から追い出した。うちは坂の上だ。イルは今日は顔色がいい。海を見にいく約束もした。だいじょうぶ。だいじょうぶだ。

 

そう思いながら、窓を閉めに奥の部屋へ行った。

 

窓を閉めると、部屋が少し暗くなった。

 

「イル、ごめんね。ちょっと閉めとくね。寒くなるといけないから」

 

イルは頷かなかった。

セラは布団に戻そうとイルの肩に手をかけた。そのとき、気づいた。

イルの頬が、光っていた。

 

窓を閉めて部屋が暗くなったのに、イルの肌は内側から淡く光っている。蝋燭を薄い紙ごしに見たときのような、白い光だ。

朝は気づかなかった。外が明るかったし、光が紛れていたから。

 

「イル……?」

 

セラはイルの顔を覗き込んだ。イルはセラを見た。見て、少しのあいだ誰だろう、という顔をした。

 

ほんの一瞬だった。すぐにいつものイルの目に戻って薄く笑う。けれどセラは見てしまった。弟が姉を、一瞬わからなかった顔を。

 

「イル。あたしだよ。セラだよ」

 

イルは笑った。だいじょうぶ、というように。それから石板に手を伸ばす。蝋石を握った。

握って、白い面に先を当てて。

 

止まった。

 

何を書けばいいのかわからない、というように。蝋石の先が石板の上をあてもなくすべって、線にも文字にもならないものが、白い面に一本だけ残った。

イルがその石板をじっと見た。自分が何を書こうとしたのか思い出せない、という目で。

 

「……いいよ」

 

セラは石板をそっと取り上げた。声が震えないようにした。

 

「書かなくていいよ。とんとん、でいいから。ね?」

 

セラはイルの手の甲を叩いた。とんとん。

 

ここにいるよ。返して。いつもみたいに。

イルはその手を見ていた。それからゆっくり、自分の指をセラの手の甲に当てる。

 

とん。一回。

そこで止まった。二回目が、来なかった。

 

イルは自分の指を不思議そうに見ていた。あと一回、何かをするはずだった。それが何だったのかわからない、という顔だった。

 

「イル」

 

セラはもう一度叩いた。とんとん。とんとん。教えるように、何度も。

 

「ほら、二回。とん、とん。いつものやつだよ。できるでしょ。ね、イル、やってみて」

 

イルはまねをしようとした。とん、と一回。そこで指が止まる。次がわからない。とん、とん、と続くはずの二回目がどうしても出てこない。

 

母が死んだ夜に、二人で始めた合図だった。声のいらない、二人だけの合図。鳴らない鐘の街で二人きりが鳴らせるちいさな音。

 

それが、片方だけ鳴らなくなっていた。

 

「……なんで」

 

声が漏れた。

 

「なんでよ。こんなの、すぐできるでしょ。ずっとやってきたじゃない。ねえ」

 

イルが、困った顔をした。姉がなぜそんな顔をするのか、わからない、という顔だ。それがいちばんこたえた。怒ることも、悲しむこともできない。ただ手の甲を叩いて、叩いて返ってこない二回目を待つことしかできない。

 

セラはイルを抱きしめた。強く抱きしめた。弟の体は熱かった。熱いのに、その熱は人の熱とは少し違う気がした。遠くで何かが燃えているような。

 

「だいじょうぶ」

 

セラは言った。誰に言ったのか、わからなかった。

 

「だいじょうぶだから。あたしが、なんとかするから」

 

イルはセラの背に手を回そうとした。回しかけて、その手が力なく布団に落ちた。

 

 

 

夜になっても、父は奥の部屋から出てこなかった。

 

イルの枕元にずっと座っていた。何も言わずに。ただ眠った弟の顔を見ている。

セラは土間で、冷めた粥を見ていた。食べる気がしなかった。

 

父がようやく奥の部屋から出てきた。

 

「セラ」

「……うん」

「イルは、寝た」

 

父は土間に下りて、セラの隣に腰を下ろした。しばらく二人とも黙っていた。竈の火が小さく爆ぜる。

 

「父さん」セラは火を見たまま言った。「イル、もうとんとんできないの」

 

父は答えなかった。

 

「あたしのこと、一瞬わかんない顔した。石板も書けなくなってる。さっきまで書けてたのに。今日、あんなに顔色よかったのに」

「……ああ」

「ねえ父さん。数え屋が来てるって。坂の、けっこう上まで」

 

火が爆ぜた。

 

「数え屋が来たら、イルどうなちゃうの?」

 

父は長いあいだ黙っていた。それからゆっくり立ち上がる。

 

「セラ。先に寝てなさい」

「父さん」

「だいじょうぶだ」

 

父はいつものように笑った。

 

セラは父を見上げた。父の笑顔はいつもの笑顔だった。優しくて、その底がすうっと冷たい。何かをずっと前に決めてしまった人の顔だった。

 

「いいから、寝なさい」

 

父はそれだけ言って、奥の部屋へ戻っていった。

 

 

セラは不安から眠れなかった。

 

布団の中で、隣の部屋のイルの息を聞いていた。浅い息にときどき別の音が混じる。薄い、耳の奥でだけ鳴るような音だ。

 

夜半、喉が渇いて土間へ下りた。水を飲もうとして——戸の隙間から、外が見えた。

 

風が出ていた。洗濯紐が揺れ、誰かの寝間着が夜の中で白く膨らんでいる。

 

軒先の鐘が、ゆっくり揺れていた。

 

セラは足を止めた。鐘が揺れるのはおかしなことではない。風が吹けば揺れる。

 

おかしいのは、その鐘が揺れているのに今にも音を立てそうに見えたことだった。

 

舌を抜かれた鐘は、揺れても音を立てない。立てるはずがない。

 

セラは戸を開けた。冷たい夜気の中へ手を伸ばす。掌に乗るほどの古い鐘。緑青を吹いた、父の鐘。その内側に指が触れた。

 

冷たい金属のずっと奥で、錆びついて二度と動かないはずの舌が、指の先に当たった。

 

外され、磨かれ、嵌めなおされた舌が。緑青の中でそこだけが、夜目にも新しい傷のように光っていた。

 

セラの手が止まった。

 

鐘の舌が戻されるのは。

 

昼間の父の声がよみがえる。 誰かが霧へ降りるときだけだ。降りてるあいだ、その家の鐘にだけ舌が嵌めなおされる。

 

セラは鐘から手を離した。ゆっくり振り返る。

暗い家の中。奥の部屋で、弟が浅い息をしている。土間の向こうで、父が眠っている。

 

誰もいなくなってなどいない。みんなここにいる。眠っている。

なのに、鐘の舌は戻されていた。

 

風が吹いた。鐘が揺れる。舌が内側の縁に触れるか触れないか、鳴る寸前で、夜はまた静かになった。

 

この家の、誰かが。

もうじき、霧へ降りる。

 

それが誰なのか、セラにはわからなかった。

わかりたくなかった。

 

鳴らない鐘の下で、セラは夜が明けるまで立っていた。

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