還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む 作:Rely01111
あの夜から、軒先の鐘には舌が戻っている。セラはそれを夜が明けるまで見ていた。けれど朝になっても、父はいつもどおり土間で粥を煮ていた。荷運びに出て、夕方には帰ってくる。何も変わらない。変わらないふりをしているように見えた。
鐘の舌は、戻ったままだ。
セラは父に訊けなかった。訊いたら、知りたくない答えが返ってくる気がした。繕っていた油布。戻された舌。それが何なのか考えないようにした。考えたら立っていられなくなる。
そうしているあいだにも、イルは遠くなっていった。
一日目、弟はまだセラの顔を見て笑った。二日目、笑うまでに少し間があった。三日目には、部屋に入ってもすぐには気づかなくなった。誰かが来たという顔で天井を見て、それからゆっくりセラを探す。見つけてようやく薄く笑う。その一拍の遅れが日ごとに長くなる。
石板はもう、ほとんど使えない。蝋石を握らせても白い面をあてもなくすべるだけだ。手の甲を叩いても返ってくるのは一回きり。それもこのごろは、返ってこない日がある。肌の光は濃くなって、夜になると薄い布団ごしにぼんやり滲んだ。
弟が燃えはじめている。遠くのほうで、ゆっくりと。
数え屋は、坂をまた少し上ってきていた。
家で待っているだけじゃ弟はいつか燃え尽きてしまう。医者にかかる金はない。父は何も言わない。鐘は鳴らない。あたしにできることは何もなかった。
待っているだけなら。
待っているだけなら、いつか父が、あの戻された鐘のとおりにどこかへ行ってしまう気がした。優しくて、底の冷たいあの顔のまま。何も言わずに。
それは、嫌だった。
四日目の朝、まだ暗いうちにセラは家を出た。
決めたというより、気づいたら動いていた。母の形見の外套を羽織って、戸に手をかけていた。釘から父の予備の荷縄を一本外して握っていた。父を起こさないように、そっと戸を引いた。起こせば止められる。止められたら行けなくなる。
思いついたら動いてしまう。昔からそういう質だった。鐘はどうして鳴らしちゃいけないのか。霧の底には何があるのか。みんなが立ち止まらないものの前で立ち止まって、そのままとんでもないほうへ歩いていく。今度のとんでもないは、霧の底だった。
噂は知っていた。澱底ノ街のいちばん底、誰も還らない霧の奥に、どんな病も癒す遺物があるという。還り灯と人は呼ぶ。子どもだましの言い伝えだ。見た者はいない。見た者は還らないのだから、当たり前だった。
それでも、ほかに道がなかった。
父に行かせたくなかった。弟を燃やしたままにもしておけなかった。だったら、あたしが行くしかない。子どもだましでもいい。それにすがってでも底にあるものを取ってくる。誰かがこの家から降りるなら、それはあたしだ。
坂を下りきると街が終わった。そこから先は渚だ。
渚に立つのは二度目だった。
一度目はミナの母親に連れられて、薬草を摘むのを横で見ていただけ。今日はひとりだ。
足元では、乳白色の霧が寄せては引いている。寄せるたびに爪先のすぐ手前まで白いものが満ちて、引くときに長い吐息のような音を立てた。膝まで浸かれば昨日のことを忘れる、とミナの母親は言った。腰まで行けばもっと。それで済めばいい、とも。
セラは荷縄を握りなおした。掌が汗で湿っていた。
一歩踏み出せば、もう戻れない気がした。
沈み手はこの海を「沈む」と呼ぶ。潜るんじゃなく、沈む。降りた者は二度と完全には浮かんでこない。そういう意味だって、いつか父が言ってた気がする。その父の様子が近ごろおかしい。繕われた油布。戻された鐘の舌。考えないようにしてることが胸の底でずっと鳴っていた。
それでも、家には弟がいる。燃えていく弟が。あたしが行かなきゃ、誰も行かない。
セラは目を閉じて深く息を吸った。薄い空気が胸の奥でかすかに鳴る。怖い。怖いけど、もっと怖いことが家で待ってる。
最初の一歩を、霧に踏み入れた。
冷たくはなかった。むしろ、ぬるい。湯気みたいなのに肌にまとわりついてくる。足首が白く沈んで見えなくなる。沈んだ足の感覚が少しだけ遠くなった。自分の足が自分のものじゃないみたいだった。
それでも歩けた。
膝まで浸かったとき、ふいに何かが頭から抜けた。
なんだろう。たった今まで考えてたことが、すうっと薄くなって消えた。市の日の芋の値段だったか。婆さんの顔だったか。思い出そうとすると、思い出そうとしてたこと自体がもう曖昧だった。
これかと思った。これが忘れるってことか。
怖くなかったといえば嘘になる。でも、もっと怖いのは家で燃えてる弟のほうだ。芋の値段を一つ忘れるくらい、なんでもない。そう思い込むことにして、もう一歩奥へ踏み出した。
霧は、深くなるほど明るかった。
足元から淡い光が立ちのぼって、白い世界をぼんやりと照らす。見上げても空はない。見下ろしても底はない。ただ乳白色の光が、どこまでも続いていた。崖の街も洗濯紐も、もう見えない。音もない。寄せて引く霧の吐息だけが、世界のすべてだった。
ときおり、霧の中に影が見えた。誰かの落とした桶。錆びた門の格子。上の街から流れ落ちて、この白い海の浅いところに溜まったものだ。霧に半分沈んで、ゆらゆら揺れている。底へ行くほど、もっと古いものが沈んでいるのだろう。もっと昔に忘れられた、もっと大きなものが。
セラは足を止めて白さの奥を見ようとした。けれど光は途中で溶けて、その先は見えない。どれだけ目を凝らしても底はなかった。この海がどこまで深いのか、誰も知らない。知っている者は還らないのだから。
きれいだと思ってしまった。
人を忘れさせて、人を壊して、人でなくしてしまう海なのに。底のほうで、弟を燃やしている海なのに。それでも目の前の白い光は、きれいだった。
きれいだと思った自分が、なんだか嫌だった。
霧の底には、見えないものが沈んでいた。
足が硬いものに当たった。倒れた鐘楼の残骸だろうか。霧に隠れて見えない。よけそこねて、セラは膝をついた。掌が、沈んだ何かの縁をつかむ。鋭かった。
痛いと思ったときには、もう掌が切れていた。
赤いものが滲んで白い霧にぽとりと落ちる。深い傷じゃない。でも血は止まらず霧の中へ細く溶けていった。傷口に霧が触れると、じんと痺れた。
塞がってほしい。それだけだった。早く。こんなところで血を流していたくない。家に、弟のところに帰らなきゃ。
そのとき、掌が熱くなった。
切れた手のひらの真ん中から淡い光が滲んだ。蝋燭よりやわらかい、灯のような色。それが細い糸になって傷口の上をすうっと這った。糸が触れたところから、裂けた皮膚が寄り合わさっていく。痛みが引いた。血が止まった。
数えるほどの間に、傷は消えていた。
何これ。
声にならなかった。霧の底に立ったまま、セラは自分の手のひらを知らないもののように見ていた。奪うだけの海が、奪うかわりに何かをくれた。
そういえばと思って、止まった。
何か思い出そうとして、思い出せない。さっきまで覚えてたはずの、何か。母さんの何かだ。鼻歌か。料理か。それがない。手のひらの傷がふさがったかわりに、頭のどこかからひとつ抜け落ちていた。
そのときはまだ、気にも留めなかった。
腰まで霧に浸かったあたりで、それを見つけた。
最初は流木かと思った。
白い霧の面に、黒いものが横たわっている。人の、形をしていた。
セラは息を止めた。霧に沈んで動かない人。それは還らなかった者の、なれの果てのはずだった。近づいちゃいけない。ミナの母親なら、きっと袖を引いて止める。
それでも近づいた。思いついたら動いてしまう質が、こんなときにまた出た。
横たわっていたのは、若い男だった。
黒い髪が霧に濡れて額に張りついている。歳はセラより少し上だろうか。痩せていない。澱底ノ街の人間じゃなかった。上のほうの、ちゃんと食べられる場所の体つきだ。目を閉じて霧に半ば沈んで、それでも息はしていた。
それがおかしかった。
腰まで浸かれば、人は場所の記憶を失う。もっと沈めば、もっと多くを。霧の中にこれだけ長く倒れていて、息をしている人間なんているはずがない。
なのにこの男は、ただ眠っているように見えた。
「……あの」
声をかけてしまってから、馬鹿だと思った。霧の底で知らない人に声をかけるなんて、いちばんやっちゃいけないことだ。
男の睫毛が震えた。ゆっくりと目が開いた。
蒼い目だった。
霧の白さの中で、その目だけが深い水の色をしていた。セラの蒼い髪と同じ色。いや、もっと暗い。底の見えない蒼。男はその目で、ぼんやりとセラを見た。何かを探すように見て、それからわずかに首をかしげた。
「……ここは」
掠れた声だった。
「あなた、大丈夫? こんなところで倒れて」
男は答えなかった。かわりに自分の手を見た。霧に濡れた掌を、知らないもののように見つめている。それからゆっくり、まわりを見回した。白い霧。光。何もない世界。
「ここは、どこだ」
「渚の、奥のほうだけど」
「なぎさ」
男はその言葉を、はじめて聞くもののように繰り返した。
「あなた、名前は?」
少しの間があった。長い間だった。男は何かを思い出そうとする顔をした。眉を寄せて霧の奥を見るように自分の中のどこかを探って、そして探りきれずに力なく首を振った。
「……わからない」
「わからないって」
「思い出せない。何も。自分が、誰なのかも」
男はもう一度、自分の掌を見た。
「どうして、ここにいるのかも」
セラは言葉を失った。
霧は記憶を奪う。深く沈むほど、多くを。場所を、技を、感情を、名を。そして最後には、人であることそのものを。
ぜんぶ失くして空っぽになって、それでも壊れなかった人。
そんなの、いるの。
男を霧から引き上げた。
腰まで沈んだ体は重かった。それでも男は、自分でも足を動かした。立てるのかと訊くと「立てる」と短く答えた。
浅いほうへ戻りながらセラは横目で男を見た。霧の中を歩いても、男は何も失わないようだった。膝まで戻り、足首まで戻り、霧が薄くなっても様子は変わらない。まるで霧なんて、そこにないみたいに歩いていた。
セラのほうは、足を抜くたびに何かが遠くなっていた。
渚の岸まで戻ると、男はようやく霧の外に立った。乾いた地面に立って来た方を振り返る。白い霧の海を、しばらく見ていた。何かを思い出しそうな、それでいて何も思い出せない顔で。
「あなた、その目」
「ここらの人じゃ、ないよね?」
「わからない」
「わからないばっかりだね」
つい笑ってしまった。場違いな笑いだった。霧の底で知らない男を拾って、その男は自分の名前も知らなくて、それなのに笑うなんて。でも張り詰めてた糸が、少しだけゆるんだ。
男もつられたように、少し口元を動かした。笑い方は忘れていない。
「私はセラ」
「あなたにも名前、いるよね。わからないままじゃ呼べないし」
男は自分の名前を探すように、また黙った。けれどやっぱり出てこない。
灰のにおいがした、とセラは思った。
なんでそう思ったのか、自分でもわからない。男から焦げたような、何かが燃え尽きたあとのようなかすかなにおいがした。火の気配。でも火はどこにもない。
「……ハイネ」
口をついて出た。
「え」
「ハイネ。あなたの名前。今、決めた」
灰。家。返事の、はい。いくつもの音が、ひとつに混ざってこぼれた。意味は自分でもよくわからない。ただこの空っぽの男には、その音が合う気がした。還る家も名前も、何もかも失くした人に。家っていう音の入った名前を。
「ハイネ」
男は自分の新しい名前を、口の中で転がした。
「変な名前だ」
「失礼ね。けっこう考えたのに」
考えてない。一瞬で決めた。でもハイネはその名前を否定しなかった。わからないとも言わなかった。はじめて、わからない以外の言葉が返ってきた。
「ハイネ……ああ。悪くない」
ハイネを連れて坂を上った。
さすがに、空っぽの男を霧の縁に置いていく気にはなれなかった。
坂を上るあいだ、ハイネはひとことも喋らなかった。セラのほうが、つい話しかけてしまう。歳はいくつなのか。どこから来たのか。家族はいるのか。
どれもハイネは、首を振るだけだった。ぜんぶわからない。それでも嫌な顔ひとつせず、ただ静かに坂を上ってくる。
「ねえ、ひとつくらい覚えてないの? 好きな食べ物とか。寒いのと暑いの、どっちが苦手とか」
ハイネは少し考えた。
「……わからない。けど、さっきの霧は嫌じゃなかった」
「嫌じゃない? あんなに人を忘れさせるのに」
「ああ。あそこにいると、なぜか落ち着く」
セラは足を止めかけた。霧の中で落ち着くなんて、まともな人間の言うことじゃない。みんな霧を怖がる。膝まで浸かるだけで震えあがる。なのにこの男は、人を壊す海をまるで家みたいに言う。
やっぱり変なひと。そう思いながら、なんでだろう、やっぱり置いていけない。この人を見捨てる気が、どうしても起きてこなかった。
家に着くと、ハイネは戸口で足を止めた。
「ここが、お前の家か」
「うん。狭いけど。あと、お前ってやめてね? セラって名前があるんだから」
「……ああ。悪かった」
ハイネは家を見上げた。軒先の、舌の戻った鐘を。それからしばらく、その鐘を見ていた。何か言いたげに口を開いて、けれど何も言わずに閉じた。
奥の部屋で、イルが眠っていた。
セラは枕元に膝をついた。弟の手をそっと握る。熱かった。人の熱とは、どこか違う熱だ。握ったその手の甲に、小さな傷があった。乾いて、薄くかさぶたになっている。
そのとき思い出した。霧の底で、自分の傷をふさいだあの灯を。
もしかして。
セラは弟の手を両手で包んだ。塞がってほしいと願ったときみたいに、強く願った。治って。お願い。この子を治して。
掌がまた熱くなった。
燈色の糸が滲んで、弟の手の甲の傷へ伸びていく。糸が触れたところから、小さなかさぶたがすうっと消えた。傷がふさがった。きれいな肌に戻った。
「治った……!」
声が裏返った。治せる。あたしの手、治せるんだ。だったら、だったら弟の病気も。
セラは弟の頬に手を当てた。淡く光る、熱い頬に。治って。さっきみたいに。お願い、この光を消して。
灯が伸びて、イルの頬の上を這う。
でも、何も起きなかった。
光は消えない。熱も引かない。浅い息もつっかえる息も、何ひとつ変わらない。灯は弟の肌の上をむなしく這って、ふっと消えた。
「……なんで」
なんで。さっきは治った。傷はちゃんと治った。なのに、これは消えない。同じ手なのに。同じように願ったのに。
違うと、頭のどこかが言ってた。これは傷じゃない。切り傷とか血が出るやつとは違う。弟からなくなっていくもの。声とか。笑い方とか。あたしを覚えてることとか。そういうのは傷じゃないから、治らない。たぶん。
たぶんって。
セラは弟の頬に手を当てたまま、動けなかった。
治せると思った。ほんの少しだけ思った。それだけで、こんなに。傷しか治せない。それだけの力だった。弟を救うには、ぜんぜん足りない。
涙が出そうになって、奥歯を噛んだ。泣いてどうする。泣いたって弟の熱は下がらない。泣いたって石板の字は戻らない。それでも握った弟の手はあたたかくて、そのあたたかさが人の熱と違うことが、どうしようもなく怖かった。
そのとき、ふと石板が目に入った。
昨日、忘れたくないものを書いておいた石板。弟の名前。母のーー。父の顔。とんとんの合図。
その一行が、読めなくなっていた。
母の、と書いてある。そのあとに続く言葉が読めない。自分の字なのに、何を書いたのかわからない。母の、なんだったろう。声か。顔か。たしかに大事なことを書いたはずだった。なのに、その大事さごと抜け落ちていた。
霧の底で傷をふさいだとき。あの灯を使ったとき。たぶんかわりに、これが消えた。
母さんを一つ忘れて、弟の手の傷を一つ治した。
そこまで考えてわかってしまった。あたしはこれからこうやって、少しずつ誰かを忘れながら、弟を生かしていくんだ。母さんを忘れて。父さんを忘れて。いつか、弟のことも忘れて。
灯はただじゃない。傷を一つふさぐたびに、頭から何かが一つ抜けていく。霧が奪うのと、同じ方向へ。使えば使うほど、あたしも少しずつ忘れて、少しずつ人から離れていく。
それでも。それでも要る。傷しか治せなくても。忘れる代わりに何かをなくしても。この手はきっといつか、役に立つ。そう思い込まないと立っていられなかった。
「セラ。それは、何だ?」
ハイネが土間から覗き込んだ。
「お守り、みたいなもの」
セラは蝋石を置いた。声が、少し震えていた。
「忘れたくないこと。霧で忘れちゃうから、書いておくの。……でも、書いても消えるみたい」
「忘れたくないこと」
「あなたにも、あるでしょ。本当は」
ハイネは答えなかった。何も書かれていない自分の中を探すみたいに、少しのあいだ目を伏せて、それから首を振った。
「俺には、もう何もない」
その声は淡々としていた。悲しんでもいなかった。悲しむための何かさえ、焼き尽くされたあとのようだった。
セラはその横顔を見た。
空っぽの男。何も失わない男。さっきまで、それを少しうらやましいとさえ思っていた。忘れるのが怖いセラには、何も失わないことがまぶしく見えた。
でも今は、そう思えない。
何も失わないんじゃない。失うものが、もうないんだ。この男は、忘れるのを怖がる必要すらない。とっくにぜんぶ、失くしてるから。
それは、うらやましいことなんかじゃなかった。
それでもセラは、この男のそばを離れる気になれなかった。灯を使うたびに自分が忘れていくなら、いつか弟の名前さえ忘れるかもしれない。そのとき、覚えていてくれる誰かが要る。霧の中でも忘れない、誰かが。
二人とも、何も知らなかった。
ただセラはこのとき、かすかな違和感を覚えた。眠る弟のそばに立つこの男から、あの灰のにおいがした。弟の肌のあたりにいつも漂う、何かの燃え尽きたようなにおいと、どこか似たにおい。気のせいだと思った。
知らないまま、糸は結ばれた。霧の底で、空っぽの男ともがく少女のあいだに。
夜が更けて、ハイネは土間の隅で眠った。眠れるんだ、とセラは少し意外に思った。
セラは奥の部屋で、弟の隣に横になった。イルの息を聞いていた。浅くて、ときどきつっかえる息。肌の光が、暗い部屋にぼんやり滲んでいる。手をのばして、弟の手の甲をそっと叩いた。
とんとん。
返事はなかった。
それでも叩いた。とんとん。とんとん。返ってこなくても、ここにいるよって。あんたを置いていかないよって。
明日も霧へ潜る。
傷しか治せない灯でも。潜るたびに自分が忘れても。底にあるっていう子どもだましの灯を、探しにいく。弟がぜんぶ燃え尽きてしまう前に。
外で風が出た。軒先の鐘が、戻された舌のまま揺れた。それでも鳴らない。父の鐘は、まだ鳴らない。
セラは目を閉じた。眠れないまま、弟の息を数えていた。一つ、また一つ。つっかえるたびに、心臓が止まりそうになりながら。
朝が来たら、また坂を下りる。
霧はきっと今日より、もう少しあたしから何かを奪っていくんだろう。