還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む 作:Rely01111
翌朝、ハイネはまだ土間にいた。
夜のうちに消えているかもしれない、とどこかで思っていた。空っぽの男なんて朝になれば霧みたいに薄れて、夢だったことになる気がした。けれどハイネは隅にちゃんと座っていて、セラが起きたのに気づいてゆっくりこっちを見た。
「おはよう」とセラは言った。
ハイネは少し黙ってから口を動かした。
「……おはよう」
返ってきた、と思った。たったそれだけのことがなんだか可笑しかった。昨日この男は自分の名前も知らなかったのに、朝の挨拶は返せる。体のどこかが、人だった頃のことを覚えているのかもしれない。
粥を煮た。米を水で延ばして延ばして、二人ぶんにする。父の真似だ。父はもう出かけていた。今朝も荷縄の予備が一本、土間に落ちている。セラはそれを拾って釘にかけた。父はこのごろ、よく忘れ物をする。それとも、わざと残していくのか。考えてもよくわからなかった。
椀を一つ、ハイネに差し出す。
ハイネは椀を見て、それからセラを見た。どうすればいいのか分からない、という顔だった。
「食べていいよ」
「……いいのか?」
「いいよ。あなた、昨日からなんにも食べてないでしょ?」
ハイネは椀を両手で持ってしばらく湯気を見ていた。それから、ひとくち飲んだ。飲んで、少し目を見開いた。
「あったかい」
「粥だもん。あったかいよ」
「そうじゃなくて」
ハイネは言葉を探すように、自分の胸のあたりを見た。
「体中が、あったかい」
うまく言えていない。でもセラには、なんとなく分かった。ぜんぶ失くした男があったかいものを口に入れて、その熱が体にひろがるのを生まれてはじめてみたいに感じている。そんな顔だった。
なんだか、見ていられなかった。セラは目をそらして自分の粥をかき込んだ。
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奥の部屋で、イルが目を覚ましていた。
「イル、おはよう。あのね?お客さんがいるの」
ハイネを連れて部屋に入ると、イルの目がハイネを捉えた。捉えて固まった。知らない男が部屋にいるんだから当たり前だ。セラは慌てて間に入る。
「だいじょうぶ。こわくないから。この人、ハイネっていうの」
「ハイネ」とハイネが横で、自分の名前を確かめるみたいに繰り返す。
イルはしばらくハイネを見つめていた。ハイネもイルを見ていた。その蒼い目がほんの一瞬だけ揺れた気がした。痛むような、遠くを見るような目だった。けれどすぐに消えて、いつもの空っぽに戻る。
イルの目が、ハイネからセラへ動いた。だれ?と訊いている目だった。
「お客さん。昨日、霧で拾ったんだ」
イルはハイネを見たまま、また目だけでセラに何か訊く。どこから来たの、と言いたいのかもしれない。このごろ弟はこうして目で喋る。石板の字はもう書けない。蝋石を握らせても白い面をあてもなくすべるだけだ。
「それがね、わかんないんだって。この人、いろんなこと忘れちゃってて。名前も、どこから来たかも」
イルの目が、ハイネに戻った。
そして、ゆっくり手が動いた。のろい手つきで自分の頭のあたりを指さす。それからハイネを指さした。何度か、自分とハイネを行ったり来たり。
セラはその手の意味が分かってしまった。
ぼくと、いっしょだ。イルもこのごろ、いろんなことを忘れていく。名前を。文字を。とんとんを。だからイルは、忘れる男を見て仲間だと思ったのだ。書けない指で、それだけを一生懸命に伝えようとしていた。
ハイネはその指の動きを見ていた。意味が分かったのかは分からない。けれどふっと表情がゆるんだ。
「……ああ」とハイネは言った。「いっしょ、だな」
イルが笑った。声のない笑いが肩で揺れた。久しぶりに見るちゃんとした笑い方だった。
胸の奥がぎゅっとなった。嬉しいのか苦しいのか、自分でもよく分からなかった。
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それから二日、ハイネは家にいた。
不思議な男だった。多くを喋らない。喋らないけれど、そばにいるとなぜか部屋の空気がやわらかくなる。イルもハイネがいると機嫌がいい。二人で並んで石板を見ている時間が増えた。イルが絵を描いて、ハイネがそれを眺める。それだけのことなのに、イルはやけに張り切る。
ハイネは、ときどき妙なことをした。
セラが水を汲みに井戸へ行こうとすると先に立って戸を開ける。坂で足を滑らせかけると、いつのまにか腕を掴んでいる。本人はなぜそうしたのか分かっていない顔をする。体が勝手に動くらしい。
「あんた、前はきっと、誰かの世話をしてたんだね」
そう言うと、ハイネは自分の手を見て首をかしげた。
「……わからない」
「またわからない、だね」
「すまない」
「謝らなくていいよ。べつに責めてるわけじゃないから」
ハイネは、人の世話をする手つきを覚えていた。名前も顔も忘れたのに、誰かを支えた体だけが残っている。どんな人だったんだろうとセラは思った。この男が誰かを大事にしていた頃のことを。考えても分からない。本人すら分からないのだから。
夜には、ハイネは決まって土間の隅で眠った。眠れるんだ、と最初は意外だった。けれどよく見ると、眠っているあいだもハイネは少しだけ眉を寄せている。何かを探しているような、思い出そうとしているような顔だ。
一度だけ寝言を聞いた。
短い言葉だった。聞き取れなかった。けれど誰かの名前を呼んでいるみたいだった。やわらかい女のひとの名前みたいな響き。
朝になってそのことを言うと、ハイネは本当に不思議そうな顔をする。
「俺が、名前を?」
「うん。誰かの名前、呼んでた気がする」
「……覚えていない」
ハイネは自分の中をのぞき込むように黙った。やがてゆっくり首を振る。
「俺の中には、もう誰もいない」
そう言う声に悲しさはなかった。それがかえってセラには苦しかった。空っぽだと言いきれるほどこの男はぜんぶを失くしている。寝言にだけ残った名前のことも、もう本人には届かない。
―――――――――――――――――――――
三日目の朝、セラは決めた。
また、潜る。ハイネがいるあいだに。
二日のあいだにイルはまた少し遠くなっていた。今朝はセラが部屋に入っても、すぐには笑わなかった。誰だろう?という顔で天井を見て、それからゆっくりセラを見つけてようやく薄く笑う。何かを喪う一歩手前のようなその一拍が、こわい。
待っていられなかった。
「ハイネ。あたし、また霧に潜るの。今日」
ハイネは土間で、セラを見上げた。
「あの、白いところか」
「うん。もっと深く行く。前は浅いところで戻ってきたから」
「危ないんじゃないのか」
それをこの男が言うのか、と少しおかしくなった。霧のいちばん深いところに倒れていた男が。
「危ないよ。でも、行かなきゃ弟が...」
セラは言いかけてやめた。説明したって仕方ない。
ハイネは少し黙ってから立ち上がった。
「なら、俺も行く」
「え」
「お前、ひとりじゃ危ない。俺は霧が平気だ。たぶん」
たぶん、と男は言った。でもセラには感覚的にわかっていた。この男は霧の中で何も失わない。膝まで浸かっても腰まで沈んでも、平気で歩く。あんなところで眠れる男だ。
ひとりで潜るのが、本当はずっと怖かった。だからその言葉にすがってしまった。
「……うん。来て」
そう言うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
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坂を下りきると、街が終わる。そこから先は渚だ。
けれど今日は、渚で止まらない。
ミナの母親が前に教えてくれた。渚は霧の海のいちばん浅い縁にすぎない。その先の、霧の面をもっと進んだところに街の最後の場所があるのだと。鐘ヶ嶺。沈み手が霧へ降りる、関所のようなところだと。
霧に踏み入る。足首が白く沈んで感覚が遠くなる。隣でハイネが同じ霧を、まるで乾いた道みたいに歩いている。
膝まで浸かったとき、また何かが頭から抜けた。
「ハイネ」とセラは呼んだ。なんとなく声を出していたかった。
「なんだ」
「あんた、ほんとに何も忘れないの。ここ」
「ああ。なんともない」
「いいなあ」
言ってから、また嫌な気持ちになった。前にも思った。この男が何も失わないのは、もう失うものがないからだった。羨ましがるようなことじゃない。それでも今日は、その「平気」にすがっていた。
霧が深くなる。乳白色の光が濃くなって世界が白く満ちていく。前に来たときより、奥だ。足元がもう見えない。自分がどっちから来たのかもだんだん曖昧になる。胸がざわざわした。来た道を忘れたら帰れない。帰れなかったら、イルのところに戻れない。
「こっちだ」
ふいに、ハイネが言った。
セラの腕を取って少し右へ引く。迷いのない手つきだった。なんで分かるの、と訊こうとしてやめた。この男は霧の中で、何かが見えている。言われるまま進むと、白い霧の向こうに影が立ちはじめた。
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それは、塔だった。
霧の海から、いくつもの細い塔が突き出していた。崖でも家でもない。石を積んだ古い尖塔が霧の面に何本も立って、互いを細い吊り橋で繋いでいる。橋は風に揺れて頼りなく軋んでいた。下のほうは霧に呑まれて見えず、塔は白い海からそのまま生えているように見えた。
見上げると、塔の上のほうは霧から出ていた。久しぶりに白くない空気を見た。高いところに、本物の岩肌と薄い光がある。霧の底にずっといると忘れる。世界には、上があるのだということを。
そして、塔という塔に、鐘が吊られていた。
街の軒先の、掌に乗るような鐘じゃない。人が二人がかりで抱えるくらい大きな鐘だ。それが塔の上で、霧の海を見下ろすようにいくつも並んでいる。まるで見張り番だ。けれど、どれも音を立てない。風が橋を鳴らし塔を鳴らしても、鐘だけは黙っている。みんな、舌を抜かれているのだ。
音のない鐘が、こんなにたくさん。セラはなぜか背筋が冷たくなった。鳴らないために吊られた鐘が、霧の海を見下ろしてずっと黙り続けている。
「ここ……」
「鐘ヶ嶺だ」
声がした。セラのではない。ハイネのでもない。
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塔の根元、霧の際の岩場に、ひとりの老人が座っていた。
ぼろぼろの外套を着て、膝に古い杖を置いている。顔は皺だらけで髪は白い。けれど、いちばん目を引いたのは、その目だった。
白かった。
黒目のはずのところが薄く濁って、白んでいる。澱底ノ街の人間の黒い目が、長い年月のあいだに色を失くしてしまったみたいだった。その白い目がまっすぐにセラのほうを向いている。見えているのか、いないのか、分からない。
「番をしておる」と老人は言った。「ここから先へ降りる者を、見送る役だ」
セラは身構えた。隣でハイネも止まった。
「あなた……だれ?」
「ヴィダ。ずっとここにいる。鐘を見て、降りる者を数えて、還る者を待つ。もっとも、近ごろは還る者など少数だがな」
老人は杖を持ちなおしてゆっくり立ち上がった。背は曲がっているのに立つと意外に大きい。白い目がセラの上から下まで、なぞるように動いた。
「鐘がないな」とヴィダは言った。「お前、鐘を持たずに降りる気か」
「鐘?」
「沈み手は、鐘を持つ。降りるあいだ家の鐘に舌が戻る。生きて還れば一度だけ鳴らす。それが掟だ。お前にはそれがない。素人だな」
セラは黙った。父の荷縄を握る手に、力がこもった。
「素人が、こんなところまで来るものじゃない。引き返せ。膝まで浸かったぶんは、もう戻らんがな」
ヴィダの白い目がふいにセラの隣へ動いた。ハイネのほうへ。そして、止まった。
老人の顔から表情が抜けた。皺の奥の白い目がハイネをじっと見ている。見えないはずの目が、ハイネだけをはっきり捉えているみたいだった。
「……お前」とヴィダが言った。声が低くなっていた。「その目は」
ハイネは答えなかった。自分が見られていることに戸惑っているふうだった。
「蒼い目だ。その色を、わしは知っておる。昔その目をした者を見た。霧を越えて、いちばん高いところから降りてくる者たちだ」ヴィダの声が、かすれた。「お前、上から来たな。天院の、あのあたりから」
「俺は」とハイネが言いかけて、止まった。言葉が、出てこない。自分がどこから来たのかを、この男は知らない。
セラは二人のあいだに割って入った。
「この人は、なんにも覚えてないの。名前も、どこから来たかも。だから」
「覚えていない、か」
ヴィダの白い目がハイネからセラへ戻った。皺の奥で、何かを測るような間があった。
「娘。お前名は」
「セラ」
「親は」
「……父さんは、カイ。荷運びの」
その名を聞いた瞬間にヴィダの杖を握る手が止まった。
長い、長い間があった。霧の吐息だけが、寄せて、引いた。
「カイ」とヴィダが繰り返した。ひとりごとのように。「あの男の、娘か」
「父さんを、知ってるの?」
「知っておる。昔な。あれもここを降りた。鐘を持って、降りて……還ってきた数少ないひとりだ。仲間を連れて降りて、ひとりだけ別のものになって還ってきた」
別のもの。その言葉が、ひっかかった。
「別のものって」
「自分で確かめるんだな。わしの口からは言わん」
ヴィダはそこで言葉を切ってセラをじっと見た。白い目の奥に影のようなものがよぎった気がした。憐れみとも警告ともつかないものだった。
「娘。ひとつだけ言っておく」
風が出た。塔の上の大きな鐘たちが揺れた。それでも、音はしない。
「あの男は、一度ぜんぶを差し出して、それでも足りなかった男だ。お前がその血を継いでいるなら、いつか同じところに立つ。自分のいちばん大事なものを、自分の手で手放す場所にな」
セラには、意味が分からなかった。差し出す。手放す。父が、何を。
訊こうとした。けれどヴィダは、もう背を向けている。岩場の奥の塔の影へ、ゆっくり歩いていく。
「今日は帰れ」と、背中で言った。「その男を連れて帰れ。降りるのは、もう少し覚悟を決めてからだ。……どうせ止めても降りるんだろうがな。」
老人の姿が塔の影に溶けて、見えなくなった。
―――――――――――――――――――――
帰り道、セラはずっと黙っていた。
ヴィダの言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。父がぜんぶを差し出して、それでも足りなかった。仲間を連れて降りて、ひとりだけ別のものになって還ってきた。
別のもの。父が。
じゃあ、あの優しくて底の冷たい笑い方は、そこで手放した何かの跡なんだろうか。父がときどき、ここにいるのにここにいない人になるのは。
考えても、分からない。父は何も話してくれない。あの油布も戻された鐘の舌も、ぜんぶセラの知らないところで決まっていく。
「セラ」
ハイネが隣で言った。坂を上りきるあたりだった。
「あの爺さん、お前の親を知ってた」
「うん」
「俺の目のことも、何か知ってるふうだった。上から来た、と」
セラは足を止めた。そうだ。ヴィダは、ハイネの蒼い目を見て様子が変わった。天院、と言った。いちばん高いところ。
「ハイネ。あなた、ほんとはどこから来たんだろうね?」
「わからない」
「……ふふっ、あなたほんとに変わらないわね」
それでも、とセラは思った。少しずつ、この男のかけらが見えてくる気がする。蒼い目。霧が効かない体。上のほうから来たという、ヴィダの言葉。寝言の、女のひとの名前。
このひとは、いったい何者なんだろう。
ハイネは答えのかわりみたいに、坂の下の霧の海を振り返った。白い海が、夕方の薄い光のなかでゆっくり呼吸していた。その横顔から、また、あのかすかな灰のにおいがした。
セラはなぜだろうと、それ以上は訊かなかった。訊いたら何か、戻れないところへ行く気がした。
―――――――――――――――――――――
家に着くと、奥の部屋から物音がした。
蝋石の音じゃない。何かが、床に落ちる音だ。
「イル!」
駆け込むと、イルが布団からはみ出して石板に手を伸ばした格好で倒れていた。蝋石が床に転がっている。セラは慌てて弟を抱き起こした。熱い。前より、ずっと熱い。
「だいじょうぶ? イル、どうしたの」
イルはぼんやりとセラを見た。焦点が合っていなかった。それでも、セラの顔を見て少しだけ笑おうとする。笑おうとして、できなかった。
その手に、蝋石を握らせた。
「なにか、書ける? 書きたいこと、あった?」
イルは蝋石を握って白い面に手を当てた。ゆっくり、ゆっくりと線を引く。
一本。
それきり、手が止まった。
セラはその一本の線を見た。文字じゃない。絵でもない。ただのまっすぐな線。けれどイルは、それを書いて、満足したみたいに手を下ろした。何かを伝えられた、という顔だった。
何を書こうとしたのか。もう、本人にも分からないのかもしれない。
セラはイルの手の甲をそっと叩いた。
とんとん。
返事は、なかった。
それでも、叩いた。とんとん。とんとん。ここにいるよ。あんたを、置いていかないよ。
土間で、ハイネが静かに立っていた。その蒼い目が、倒れたイルと、そのそばで弟の手を叩き続けるセラをじっと見ている。
その目に、何が映っていたのか。
セラには、分からなかった。
ただハイネはこのとき、ほんの少しだけ苦しそうな顔をしていた。何も覚えていないはずの男が何かを思い出しかけて、けれど届かない。そういう顔だった。
セラは気づかなかった。弟を抱くのに、精一杯だったから。