還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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第6話 別のもの

イルが倒れた翌日、父は荷運びを休んだ。

 

橋の検めの日でもないのに、父が家にいる。めずらしいことだった。父は奥の部屋で、眠るイルのそばに座っていた。何をするでもなく、ただ弟の浅い息を聞いている。

 

セラは土間でそれを見ていた。冷めた粥が椀の中で膜を張っていく。

 

訊きたいことが胸につかえていた。鐘ヶ嶺でヴィダという老人が言ったこと。父はぜんぶを差し出して、それでも足りなかった。仲間を連れて降りて、ひとりだけ別のものになって還ってきた。

 

別のもの。

 

その言葉が昨日からずっと離れない。父を見るたびにその白い髪や、底の冷たい笑い方が前とは違って見える。何かを失くした人の跡みたいに見えてくる。今まで気にもしなかったことが急にぜんぶ、意味ありげに思えた。

 

「父さん」

 

声をかけると、父は顔を上げた。

 

「鐘ヶ嶺に行ったんだ。昨日」

 

父の表情がほんの少しだけ動いた。粥をかき混ぜていたときと同じ、気のせいだと思うくらいの間。

 

「……そうか」

「ヴィダっていう、おじいさんがいた」

 

父は何も言わなかった。けれど、その名を聞いて目の奥がわずかに揺れた。知っている名前だ、という顔だった。

 

「父さんのこと知ってたよ。昔、霧を降りたって。仲間を連れて。それで...」

 

セラは言葉を切った。言っていいのか、迷った。でも訊かずにはいられなかった。

 

「ひとりだけ、別のものになって還ってきたって」

 

竈の火が小さく爆ぜた。

 

父はしばらく黙っていた。眠るイルの顔を見たまま、何かを遠くに探すような目をしている。その目をセラは知っていた。ここにいるのにここにいない人の目だ。

 

「ヴィダはまだ生きてたか」

 

それが父の最初の言葉だった。質問に答えるのではなく、別のところを見ている。

 

「父さん。ぜんぶ差し出したってなに。なにを差し出したの?」

「セラ」

 

父はようやくこっちを見た。

 

「それはお前が知らなくていいことだ」

「でも...」

「知ってもいいことは何もない」

 

父の声は怒っていなかった。叱るのでもなかった。ただ、戸を静かに閉めるみたいにそこで話が終わる。いつもそうだ。父は肝心なことになると、波が引くように遠ざかる。手を伸ばしても届かないところへ行ってしまう。

 

セラは食い下がろうとした。けれど、眠るイルが小さく身じろぎして父の視線がそっちへ戻った。父が弟の額に手を当てる。その手つきがあんまり優しくてセラは言葉を呑んだ。

 

優しいのに。こんなに優しいのに。どうして肝心なことは何も言ってくれないんだろう。

 

「……わかったよ。もう訊かない」

 

嘘だった。訊かないわけがない。でも今日はもういい。父はイルのそばを離れない。離れずにただ見守っている。それが答えのかわりみたいに思えた。父もこわいのかもしれない。イルがいなくなることが。だから、何も言えないのかもしれない。

 

そう思ったら、責める気が少しだけ薄れた。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

その日の夕方、セラは水を汲みに坂の下の井戸へ行った。

 

ハイネがついてきた。このごろはどこへ行くにも気づくと後ろにいる。犬みたいだ、と思ってから、犬に失礼かもしれないと思いなおした。

 

井戸のそばで近所の女たちが話していた。桶を満たしながら、声をひそめている。セラが近づくと、ふっと話がやんだ。それから、また続いた。

 

「淵際のほうでまた増えてるらしいよ。鐘が」

「こわいねえ。誰が降りたんだか」

「沈み手なんてもう好きこのんでやる者はいないよ。みんな還ってこないんだから」

 

淵際。その言葉にセラは手を止めた。

 

淵際は霧の海の労働者の段だ。沈み手や荷運びが暮らす、街よりもっと下のほう。父も昔、そこと澱底を行き来していたと聞いたことがある。

 

「あの...」

 

つい、声をかけてしまった。女たちが振り返る。

 

「淵際に昔、霧を降りた人のこと知ってる人っていますか。ずっと昔の人なんですけど」

「昔の沈み手かい?」

 

女のひとりが怪訝な顔をした。

 

「そりゃ、淵際には古い沈み手が何人か残ってるけどね。なんでそんなこと訊くんだい?」

「……ちょっと。知りたくて」

 

女たちは顔を見合わせた。それから、ひとりが声を落とした。

 

「兄弟がいるよ。淵際にね。昔、底のほうまで降りて生きて還ってきたっていう二人だ。今はもう潜ってないけど。あの二人なら、昔のことを知ってるかもしれないねぇ」

 

兄弟。

 

セラの心臓がひとつ跳ねた。

 

「その人たちの、名前は」

「さあ。みんな、ただ兄と弟って呼んでるよ。気難しい二人でね。あんまり昔のことは話したがらない。特に弟のほうは人を寄せつけないよ」

 

それだけ聞けて女たちはまた桶を持って坂の上へ散っていった。

 

セラは井戸の縁に手をかけたまま、しばらく動けなかった。

 

淵際に底まで降りて生きて還った兄弟がいる。父も仲間を連れて降りて還ってきた。その仲間がもし、その兄弟だったとしたら。父が話さない昔のことを、その人たちは知っているかもしれない。

 

会いにいこう。いつか。父が話さないなら、ほかの誰かから聞くしかない。

 

「セラ」

 

ハイネが桶を持ち上げた。セラのぶんまで両手に提げている。

 

「重いな。持つ」

「あ……ありがと」

 

ハイネは黙って坂を上りはじめた。

 

セラはその背中を追いながら、考えた。ハイネも底のほうから来た人だ。蒼い目をして天院から来たと、ヴィダは言った。淵際の兄弟もハイネも父も。みんな、霧の底に何か秘密を持っている。

 

あたしだけが何も知らない。知らないまま、その底へ、降りていこうとしている。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

家に戻ると、イルが目を覚ましていた。

 

父はもう、夕方の荷を集めに出ていた。休んだぶん、明日は早いのだろう。

 

「イル、起きてたんだ」

 

セラが枕元に座ると、イルの目がゆっくりこっちを向いた。少し間があってから、薄く笑う。その間がまた長くなっている。けれど、笑ってくれた。今日もちゃんと笑ってくれた。それだけで息がつけた。

 

ハイネも部屋に入ってきてイルのそばに座った。

 

イルの目がハイネを見た。それから、自分の手を、のろのろと持ち上げてハイネの袖を、ちょん、と引いた。

 

「……なんだ」とハイネが言う。

 

イルは何かを伝えたそうにしていた。けれど、手が思うように動かない。指がさまよってけっきょく、ハイネの手のひらの上に自分の手を、そっと重ねた。

 

それだけだった。

 

ハイネはその小さな手を見ていた。何も言わなかった。けれど、手を引っ込めなかった。イルの手を、自分の手のひらに乗せたまま、じっとしている。

 

セラはその光景を見ていた。

 

喋れない弟と、覚えていない男。言葉をなくした二人が手のひらだけで何かを分け合っている。胸がしめつけられた。きれいだと思った。きれいだと思ってそれから、こわくなった。

 

二人とも少しずつ、消えていく人だ。

 

イルは記憶を失くしていく。ハイネはもうぜんぶ失くしている。今こうして手を重ねていても明日にはイルはハイネを忘れているかもしれない。ハイネはもとから何も覚えていない。覚えていないまま、ただ手を貸している。

 

きれいなものは長くもたない。この家ではいつもそうだった。母のときも。

 

だめだ、とセラは思った。こんなふうに失くす前から失くすことばかり考えていたら、何もできなくなる。立っていられなくなる。

 

潜ろう、と思った。明日。覚悟を決めてから来いとヴィダは言ってた。

 

覚悟なら、とっくにできている。できているはずだ。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

次の朝、まだ暗いうちにセラは家を出た。

 

今度はハイネも一緒だ。最初から、そういう約束みたいになっていた。

 

坂を下りて渚を抜けて霧の面を進む。前に来た道を、ハイネが覚えている。迷いなく、白い海の中を歩いていく。セラはその後ろをついていくだけでよかった。前はひとりだった。ひとりで震えながら、霧に踏み込んだ。今は前を歩く背中がある。それだけでぜんぜん違った。

 

鐘ヶ嶺の塔が霧の向こうに立ちはじめた。

 

岩場にヴィダがいた。前と同じ場所に座って白い目を、こちらへ向けている。まるでセラが来るのを知っていたみたいだった。

 

「また来たか」とヴィダは言った。

「うん。降りる」

「覚悟は決めたか」

「決めた」

 

ヴィダはしばらく黙っていた。白い目がセラの顔を、なぞるように見ている。

 

「鐘はまだ持っておらんな」

「持ってない。素人だから。でも降りるって決めたの」

「死ぬぞ」

「...弟が先に死んじゃうから急がないといけない」

 

ヴィダの皺の奥で何かが動いた。ため息のような、笑いのような、よく分からないものだった。

 

「……あの男もそう言ったな」

 

セラは顔を上げた。

 

「昔な。鐘も持たずに降りると言った。止めても聞かなんだ。お前と、同じ目をしておった」

 

それから、ヴィダはゆっくり立ち上がって塔のあいだの、霧のいちばん濃いところを、杖で指した。

 

「あそこから、下へ続いておる。鐘ヶ嶺の関所だ。ここを越えれば、もう渚じゃない。次の層だ」

 

セラはその白い闇を見た。塔と塔のあいだ、霧が渦を巻くように沈んでいる場所。そこだけ、霧が下へ吸い込まれているように見えた。見ているだけで足がすくんだ。

 

「次の層には、何があるの?」

 

ヴィダは答えなかった。かわりにこう言った。

 

「ひとつだけ、教えておく。下では音に気をつけろ」

「音?」

「聞こえてきても聞くな。あれは忘れろという声だ。聞いた者は聞いたぶんだけ、何かを置いていく」

 

セラには意味がよく分からなかった。でもヴィダの声がいつもより低かった。

 

「……うん。気をつける」

「それと」

 

ヴィダの白い目がハイネのほうへ動いた。

 

「その男からは離れるなよ。お前にとっていちばんの命綱だ。……皮肉なものだがな」

 

皮肉。その言葉がひっかかった。なんで皮肉なの、と訊こうとした。けれどヴィダはもう何も言わなかった。岩場の奥へ背を向けて歩いていく。

 

「行け。日が暮れる前にできるだけ降りておけ」

 

セラはハイネを見た。ハイネは霧の渦を見ていた。その蒼い目にいつもより、少しだけ力がこもっている気がした。

 

「ハイネ。行こう」

「ああ」

 

二人は関所の霧へ、足を踏み入れた。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

関所を越えると、霧の色が変わった。

 

渚の霧は乳白色だった。けれど、関所の下はもっと暗い。灰色がかった白で光が弱い。足元から立ちのぼっていた淡い光がここではずっと深いところからしか届かない。世界が一段、暗くなった。

 

そして寒かった。

 

霧はあいかわらずぬるいのに肌の内側が冷えていく。降りるほど、その寒さが増した。膝まで腰まで、霧に沈みながら、セラとハイネは見えない斜面を、下りていった。

 

足元にまた何かが沈んでいる。渚で見たような、街から落ちたものじゃない。もっと古くてもっと大きい。錆びた鎖。崩れた石の柱。何かの骨のような、白い枝のようなもの。深く降りるほど、忘れられたものが大きくなっていく。誰がこんなものを落としたんだろう。いつ、忘れられたんだろう。考えても分からなかった。

 

セラは何かを忘れた。

 

来るたびにこうだ。何を忘れたのかももう分からない。ただ、頭のどこかが軽くなって、そのぶん、自分が薄くなっていく。手繰り灯を使うのと、同じ方向へ。少しずつ、自分が減っていく。

 

「ねえ。あなた、寒くない?」

 

セラは隣のハイネに訊いた。声を出していないと、自分が薄れていきそうでこわかった。

 

「寒くない」

「いいなあ。あたし、さっきから震えてる」

 

ハイネは足を止めて自分の外套を脱ごうとした。

 

「いいよ! 着てて。あなたが寒くなったら、困るでしょ」

「俺は寒くない」

「だめ。命綱が風邪ひいたら、あたしが困るんだから」

 

ハイネは少し考えて外套を、また着なおした。それから、ぽつりと言った。

 

「命綱...か」

「うん。ヴィダも言ってた。あなたがあたしの命綱だって」

 

ハイネは何も言わなかった。ただ、霧の奥を見ていた。何かを探すように。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

どれくらい降りたか、分からなくなった頃。

ハイネが急に立ち止まった。

 

「ハイネ?」

 

ハイネは答えなかった。顔を、横に向けている。霧の、ある一点を。何かに聞き入っているみたいだった。

 

セラには何も聞こえなかった。ただ、霧の吐息と、自分の心臓の音だけ。

 

「どうしたの。何か聞こえる?」

 

ハイネはゆっくり片手を持ち上げた。自分の耳のあたりに触れる。それから、その手を見た。知らないもののように。

 

「……聞こえる」とハイネは言った。

 

「あたしにはなんにも聞こえないけど」

「喇叭の、音だ」

 

セラはぞっとした。ヴィダの言葉がよみがえる。聞こえてきても聞くな。あれは忘れろという声だ。

 

「ハイネ、聞いちゃだめ! ヴィダが言ってた。聞いたら、何か忘れるって!」

 

ハイネは聞いていなかった。霧の一点を見つめたまま、その目がだんだん遠くなっていく。いつもの空っぽとは違う。何かを、思い出しかけている目だった。

 

「この音を……俺は知ってる」

 

ハイネの声が震えた。

 

「昔。この音を、聞いた。たくさんの、喇叭の音を。高いところで。白い、翼が……たくさん……」

 

「ハイネ!」

 

セラはハイネの腕を掴んだ。強く、揺さぶった。

 

「戻って! こっち見て! あたしを、見て!」

 

ハイネの目がゆっくり、セラに戻ってきた。焦点が合う。蒼い目がセラを映す。

 

「……セラ」

「うん。あたし。だいじょうぶ。ここにいるよ」

 

ハイネは自分の手で自分の顔を覆った。長いあいだそうしていた。それから、低い声で言った。

 

「今、何か……見えた。けど、もう消えてしまった」

 

何を見たのか。ハイネはそれ以上、言えなかった。言葉にしようとすると、それは霧みたいに薄れて消えてしまうらしかった。

 

でもセラには分かった。

 

この男は底へ近づくほど、何かを思い出す。ぜんぶ失くしたはずの男が。この、灰色の霧の奥にハイネがもといた場所がある。喇叭の音。白い翼。高いところ。

 

天院から来た、とヴィダは言った。いちばん高いところ。

 

セラはハイネの手を、取った。冷たくはなかった。霧の中なのにその手だけが人の熱を、持っていた。

 

「帰ろう。今日はここまで」

 

ハイネは頷いた。

二人は来た道を、ゆっくり上りはじめた。

 

セラは思った。この男が何者なのか、いつか分かる日が来る。底へ降りれば降りるほど、ハイネは自分を取り戻していくのかもしれない。喇叭の音が白い翼がこの男の失くした昔を、少しずつ呼び戻していく。

 

それがいいことなのか、悪いことなのか。

 

セラには分からなかった。ただ、繋いだ手を離さないようにした。この手を離したら、自分が帰り道を忘れてしまう気がして。

 

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