還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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第7話 鳴ク洲

家に帰った夜、セラは石板を確かめた。

 

イルが元気だった頃に、忘れたくないことを書いておいた、あの石板。文字はもう、ほとんど消えかけている。それでもいくつかは読めた。弟の名前。市の日。とんとんの合図。

 

セラはその一行ずつを指でなぞった。

 

覚えてる。まだ、覚えてる。

 

霧に潜るたびに頭から何かが抜けていく。だから、こわかった。いつか、いちばん大事なものまで抜けてしまうんじゃないかと。今夜はまだ、だいじょうぶだ。弟の名前も、ちゃんとある。ちゃんとあるはずだ。

 

土間でハイネが眠っていた。

 

セラはその寝顔を見た。この男は何も失わない。霧の中でも何も。だから、命綱になる。あたしが忘れても、この人が覚えていてくれる。ヴィダもそう言った。

 

でも、

この人自身はもうぜんぶ忘れてる。あたしの記憶を預けてもこの人が思い出したら。あの白い翼を。喇叭の音を。ぜんぶ思い出してもといた場所へ帰ってしまったら。

 

そのとき、あたしの記憶はどこへ行くんだろう。

 

考えても分からなかった。セラは石板を胸に抱いて目を閉じた。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

次の潜行は二日後となった。

 

イルの様子がまた変わっていた。目を開けている時間が減って起きていてもぼんやり天井を見ていることが多い。セラが名前を呼んでも返ってくるものが日ごとに薄くなる。

 

急がなきゃ。もう、あんまり時間がない。

 

セラはハイネを連れて坂を下りた。渚を抜けて霧の面を進む。鐘ヶ嶺の関所を越える。ヴィダは今日はいなかった。岩場に姿がない。降りるなら勝手に降りろ、とでもいうように関所の霧だけが渦を巻いて沈んでいた。

 

関所の下は前と同じ、灰色の霧だった。寒くて暗い。

 

セラとハイネは見えない斜面を下りていった。膝まで腰まで霧に沈みながら。前に来たところより、もっと奥へ。ハイネが先に立って道を選ぶ。この男は霧の中で何かが見えている。

 

どれくらい降りたか。

 

霧の色がまた変わった。灰色にうっすらと別の色が混じりはじめた。錆びたような、赤茶けた色。そして足元に大きなものが沈んでいた。

 

鐘楼だった。

 

崩れた石の鐘楼が霧の中にいくつも倒れている。街の軒先の鐘じゃない。鐘ヶ嶺の塔とも違う。もっと古い、苔むした石の塔が根こそぎ倒れて霧の底に横たわっている。まるで忘れられた街の墓場みたいだった。

 

「ここ……なに」

 

セラはあたりを見回した。

 

倒れた鐘楼のあいだに影が見えた。人の形をした、影が。ひとつじゃない。いくつも。霧の中にぽつり、ぽつりと立っている。

 

セラは息を止めた。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

影のひとつがこっちを向いた。

 

男だった。痩せた、老いた男。ぼろぼろの沈み手の格好をして霧に腰まで浸かって立っている。目が白かった。ヴィダと同じ、色をなくした白い目。けれど、ヴィダとは違う。この男の目はどこも見ていない。焦点がどこにもない。

 

「……ここはどこだ」

 

男が言った。

 

セラに訊いているのかと思った。でも違った。男は誰に言うでもなく、ただ口から言葉をこぼしている。

 

「ここはどこだ。おれは――誰を待っていた」

 

別の影が答えるように言った。

 

「鐘を鳴らさなきゃ。誰かが還ってくる。鐘を鳴らさなきゃ」

 

また別の影が。

 

「にんじんを買って帰るんだ。あの子が待ってる。にんじんを……にんじんってなんだ」

 

セラはぞっとした。

 

みんな、忘れている。自分が誰かも何をしていたかも。ここがどこかも。倒れた鐘楼のあいだでただ、失くしかけの言葉を繰り返している。

 

沈み手だ、とセラは思った。

 

昔、霧を降りて還れなかった人たち。底まで来てぜんぶ忘れてそれでも死にきれずにここでこうして。凪いでる人。ミナの母親が坂で袖を引いた、あのどこも見ていない目の人。あれのもっとひどいのがここにはたくさんいる。

 

「ハイネ」

 

セラは声を落とした。

 

「あの人たち、何……?」

「わからない」

 

ハイネは影たちを見ていた。その蒼い目にいつもの空っぽとは違う、何かがあった。憐れみ、みたいなものだったかもしれない。

 

「でもたぶん」ハイネは低く言った。「俺もあのままだったら、ああなってた」

 

セラはハイネを見た。

 

そうだ。この男も霧の底に倒れていた。ぜんぶ忘れて。あのまま拾われなかったら、ハイネもこの影たちと同じになっていた。ここで名前もわからず、誰かを待ちながら、待っていたことも忘れて。

 

セラはハイネの袖をきゅっと掴んだ。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

そのとき、音がした。

 

低い、地の底から響くような音。角笛のような。喇叭のような。それが鳴ク洲の霧をぶるぶると震わせた。

 

影たちがいっせいに動きを止めた。

 

そしてその音を聞いていた。うっとりと。何かを明け渡すように。音が響くたびに影たちのわずかに残っていた言葉がまた、こぼれ落ちていくのが分かった。

 

「鐘を……鐘、を……」

「あの子……あのこ……」

 

言葉が途切れていく。

 

ヴィダの声がよみがえった。下では音に気をつけろ。聞こえてきても聞くな。あれは忘れろという声だ。

 

「ハイネ、耳! 耳、塞いで!」

 

セラは両手で自分の耳を塞いだ。けれど、音は耳を塞いでも体の奥に直に響いてきた。骨から、内側から、鳴っている。

 

頭の中が白くなった。

 

何か、大事なことを考えていたはずだった。それがすうっと薄くなる。えっと。あたしは何を。何をしにきたんだっけ。ここは。誰と。

 

「セラ!」

 

腕を強く掴まれた。ハイネの声だった。

 

「聞くな! こっちだ!」

 

ハイネがセラの手を引いて走った。倒れた鐘楼のいちばん大きいものの陰へ。石の壁が音を少しだけ、遮った。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

鐘楼の陰でセラは蹲った。

 

耳を塞いだまま、震えていた。音はまだ、遠くで鳴っている。壁ごしにくぐもって。それでも体の奥がじんと痺れる。

 

「セラ。大丈夫か」

 

ハイネが覗き込んだ。

 

セラは顔を上げた。それから、ぼんやりとハイネを見た。

 

「……あなた、だれ」

 

ハイネの表情が止まった。

 

セラは自分でも何を言ったのか、分からなかった。目の前の男が誰なのか、思い出せない。蒼い目の知らない男。なんであたしはこの人とこんなところに。

 

「セラ。俺だ。ハイネだ」

「ハイネ……?」

「霧の底でお前が拾って名前をくれた――忘れたのか...?」

 

セラはこめかみを押さえた。ハイネ。その名前を知っている気がする。でも繋がらない。頭の中に穴が空いている。そこにあったはずのものがない。

 

「あたし……何、しにきたの。ここ」

「弟だ」

 

ハイネが言った。

 

「お前には弟がいる。イルという弟が病気で燃えてる。それを治すためにお前はここに降りてきたんだ」

 

イル。

 

その名前を聞いた瞬間、頭の穴の底で何かがちりっと灯った。

 

イル。弟。灰色の髪の。石板に絵を描く。とんとん、と手を叩く。にんじんを、三回書く。丸で囲んで。

 

「……イル」

 

セラの目に涙が滲んだ。

 

思い出した。弟だ。あたしの弟。忘れかけていた。今、この音のせいで危うく、弟のことを忘れるところだった。いちばん、大事なものを。

 

「ハイネ」

 

セラはハイネの腕を両手で掴んだ。

 

「あたし今、イルのこと忘れかけてた」

「ああ」

「あなたがいなかったら。あなたが覚えててくれなかったら。あたし、なんで潜ってるのかも忘れて。ここであの人たちみたいになってた」

 

ハイネは何も言わなかった。ただ、セラの手を握り返した。

 

これか、とセラは思った。

 

これが命綱。あたしが忘れてもこの人が覚えていてくれる。あたしのいちばん大事なものを。ヴィダが言ったのはこういうことだったんだ。

 

そしてこわくなった。

 

もし、この人がいなかったら。もし、この人があたしを覚えていてくれなかったら。あたしはこんなにも簡単に弟を忘れてしまう。あたしの記憶はもう、あたしのものじゃない。この覚えていてくれる男に預けるしかない。

 

その男がいつか、ぜんぶ思い出していなくなるかもしれないのに。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

音が少し、遠ざかった。

 

伝令が向きを変えたのかもしれない。セラは鐘楼の陰から、そっと顔を出した。

 

霧のいちばん深いところにそれはいた。

 

人の形をしていた。でも人じゃなかった。倒れた鐘楼の中心にそいつは立っていた。ぼろぼろの沈み手の格好。けれど、顔がなかった。

 

顔があるべきところがのっぺりと均されている。目も鼻もない。ただ、口だけが大きく、裂けていた。そしてその裂けた口に金色の喇叭が生えていた。

 

肉と金属が溶け合っている。どこまでが人でどこからが楽器か、分からない。そいつはその喇叭を吹いていた。誰に向けるでもなく。ただ、霧の底の誰もいない鐘楼の墓場に終わりの音を鳴らし続けていた。

 

セラは動けなかった。

 

こわい、とか、そういうのじゃなかった。もっと深いところが震えた。あれはずっとあそこにいる。何を告げる伝令だったかも忘れて。誰に何を報せるはずだったかも忘れて。それでも吹くことだけはやめられない。永遠に、誰もいない場所で。

 

あれも昔は沈み手だったんだ。

 

セラには分かった。あの影たちと同じ。霧を降りて還れなかった人。ただ、あの影たちよりももっと深くまで来てしまった人。ぜんぶ忘れて顔まで失くして楽器と溶け合ってしまった。

 

あれがこの層のいちばん奥にいるもの。

 

「行こう」

 

ハイネが言った。

 

「あいつは動かない。音の届かないところを縫っていけば、抜けられる。倒れた鐘楼の陰から、陰へ」

 

「……抜けるって。あの音の中を?」

「ああ。俺が道を選ぶ。お前は俺の手を離すな」

 

セラは頷いた。ハイネの手を握った。強く。

 

そして二人は音の領域へ、踏み出した。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

それは長い、通り抜けだった。

 

喇叭が鳴るたびにセラは何かを失った。倒れた鐘楼の陰から、次の陰へ。ハイネが音の切れ目を読んで走る。その手をセラは必死に握ってついていく。

 

音が来る。頭が白くなる。何かが抜ける。

 

何が抜けたのかも分からない。ただ、通り抜けるたびに自分が軽くなっていく。薄く、なっていく。それでもハイネの手だけは離さなかった。この手を離したら、ぜんぶ、分からなくなる。それだけは体が覚えていた。

 

途中で影のひとりと目が合った。

 

白い目の老いた沈み手。その男がセラを見て口を動かした。

 

「……鐘を鳴らしてくれ」

 

セラは足を止めかけた。ハイネが手を引いた。

 

「聞くな。行くぞ」

 

でもその声が耳から、離れなかった。鐘を鳴らしてくれ。誰かが還ってくるから。あの男はずっとそれを待っている。待っていることも忘れかけながら。誰かの還りを。鳴らない鐘の音を。

 

セラは唇を噛んで前を向いた。ごめんなさい、と、心の中で言った。あたしには鳴らせない。あたしにも待ってる人がいるから。

 

音がまた鳴った。

頭の穴がまた、ひとつ増えた。

 

―――――――――――――――――――――

 

どれくらい、そうしていただろう。

 

気づくと音が遠くなっていた。

 

倒れた鐘楼の墓場が途切れてその先にまた、霧の斜面が下へ続いていた。鳴ク洲を抜けたのだ。伝令の音が背後でまだ、かすかに響いている。けれど、もう頭に直には届かなかった。

 

セラはその場に座り込んだ。

 

「……抜けた?」

「ああ。抜けた」

 

ハイネが隣に腰を下ろした。

 

セラはしばらく、荒い息をついていた。それから、自分の頭の中を確かめた。イル。まだ、いる。弟の名前はある。ハイネ。この人の名前もある。だいじょうぶ。いちばん大事なものはまだ、ある。

 

でも何かを失くした。

 

たくさん、失くした。何を失くしたのかは分からない。分からないけど、頭の中が、前より、すかすかしている。風が通り抜けるみたいに。あったはずのものがない場所が、いくつもある。

 

「ハイネ。あたし、何を失くしたんだろう」

「わからない」ハイネは静かに言った。「でもいちばん大事なものは守った。それでいい」

 

セラは頷こうとして頷けなかった。

 

いちばん大事なもの以外は失くしてもいいんだろうか。母さんの鼻歌は。父さんと笑った日は。ミナとしゃべったことは。それはいちばんじゃないから、失くしてもいいのか。

 

分からなかった。ただ、涙が出そうになった。

 

その先に次の斜面が下へ、下へと続いていた。まだ、底は見えない。還り灯はまだ、ずっと下。ここまで来てこんなに失くしてまだ、こんなに遠い。

 

セラは下へ続く霧を見た。

 

あとどれくらい、失くせば、底に着くんだろう。着いたとき、あたしはまだあたしなんだろうか。弟のことをまだ、覚えていられるんだろうか。

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