還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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沈ミ都

夜が来たのだと思う。

 

霧の底に昼と夜の区別はない。白い光はいつも同じ濃さで、上も下もなくただ満ちている。それでも体のどこかが知っていた。いま地上では戸が閉まり、竈の火が落ちる頃だ。

 

セラは倒れた石柱の陰で膝を抱えていた。

 

はじめてだった。潜って、その日のうちに上がらないのは。

 

父さんは夕方に帰る。戸を開けて、あたしがいないことに気づちゃう。イルの枕元に座って、それから何を思うだろう。怒るだろうか。それとも、あの底の冷たいような笑い方で何も言わないんだろうか。

 

ごめん。心の中で言った。すぐ還るから...手ぶらでは還らないから。

 

「食え」

 

ハイネが懐から干し芋を出した。ゆうべ家を出るとき、ありったけを布に包んできた。それを二人で割って、半分ずつ齧った。甘みの抜けた繊維の味がした。それでも腹の底が少しだけあたたまった。

 

「あなたは眠らないの?」

「俺はいい。眠れ。起きている」

 

霧の中で眠るなんて正気じゃない。眠っているあいだに何を失くすか分からない。でもこの男には霧が効かない。番をするなら、これ以上の番人はいない。

 

「じゃあ……少しだけ」

 

目を閉じたら一瞬で落ちた。夢は見なかった。見たのかもしれないけれど、起きたときには幽かな記憶は残っていなかった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

斜面が尽きて、霧がひらけた。

 

――そこには街があった。

 

澱底ノ街がまるごといくつも入るほどの、石の都だ。白い霧が腰の高さで街路を満たし、家々は二階から上だけを水に浮かぶ舟のように出している。門があった。塔があった。橋のかかった水路の跡があった。どの窓も暗く、どの戸も開いたまま、誰もいない。

 

セラは息を呑んで立ち尽くした。

 

上から落ちてきたものが底に澱む世界で、これはいつか、丸ごと落ちてきた誰かの都なのだろう。誰が住んでいたのか。いつ沈んだのか。名前はもう、誰も覚えていない。都そのものが、都であったことを忘れかけているみたいに静かだった。

 

「……大きい」

 

それしか言えなかった。ハイネも黙って都を見ていた。その蒼い目が細くなった。

 

「どうしたの」

「いや。……行こう。降り口は、たぶんこの底だ」

 

二人は最初の門をくぐった。頭の上で門の石が低く軋んだ。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

欠けた石像の前を、三度通った。

 

最初は気のせいだと思った。似た像がいくつもあるんだと。でも三度目に像の欠けた頬の形まで同じだと分かって、セラは足を止めた。

 

「ハイネ。ここ、さっきも...」

「ああ」

 

ハイネは来た道を振り返った。振り返った先の路地が来たときと違う形をしていた。

 

「道は間違えていない。俺は覚えている。だが...」

 

ハイネが低く言った。

 

「街が動いている」

 

見ている前で遠くの家並みがゆっくりと位置を変えた。音もなく、影絵を並べ替えるみたいに。路地が閉じ、別の路地が開く。都全体が、眠りの中で寝返りを打つように組み変わっていく。

 

セラは来た道を思い出そうとした。

 

白い紙をめくるみたいに、何もなかった。

 

門をくぐって、それから。それから、どっちへ歩いた。右か。左か。思い出せない。上ってどっちだっけ。家の方角は。家。家って、どっち?どんな...

 

ぞっとして、セラは自分の頭を押さえた。溶けてる。頭の中の地図が端から溶けてる。ここは場所を忘れさせる層なんだ。来た道も、還る道も、家がどっちかも。

 

そのとき、腰のあたりで固いものが手に触れた。

 

荷縄だった。

 

はじめて潜った朝、父の釘から外した予備の荷縄。あれからずっと腰に提げてきた。使う日なんて来ないと思いながら、なんとなく外せなかった、父の仕事の縄。

 

「これだ」

 

セラは縄を解いて、端をいちばん近い門柱に結んだ。固く、二重に。それから縄を少しずつ繰り出しながら歩きはじめた。

 

頭の中の地図は溶ける。でも、これは溶けない。手で触れる。引けば張る。たどれば戻れる。

 

「ハイネ。あたしが道を忘れても、この縄が覚えてる。あなたと、この縄。二本の命綱」

 

ハイネは縄とセラの顔を見比べて、それから小さく頷いた。

 

「いい考えだ」

 

角を曲がるたびに縄を石に掛けて結び目をつくった。ひとつ。ふたつ。みっつ。結び目の数だけ、進んでいる。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

鍵の鳴る音がした。

 

じゃら、と重たい金属の音。それが霧の奥から、ゆっくり近づいてくる。

 

セラは路地の陰に身を寄せた。ハイネがその前に立つ。

 

霧の上に影が立っていた。

 

人の倍はあった。肩から石の門柱が生え、背には崩れた鴨居がのしかかるように融けている。歩くたびに体のどこかが石の音を立てた。片手に大きな鍵束。もう片手には角灯を高く掲げていた。

 

火は、消えていた。

 

照らさない灯りを、それでも高く掲げて、そいつは霧の街路を歩いてくる。夜警みたいに。もう誰もいない都の、誰のためでもない見回りを。

 

顔は、あった。けれど雨ざらしの石像みたいに磨り減って、目も口も彫りの跡だけが残っている。その浅い窪みがこちらを向いた。

 

「……戻れ」

 

石臼を挽くような声だった。

 

「外は危ない。迷うぞ。中へ」

 

セラは動けなかった。声は低くて脅す響きがなかった。むしろ。むしろ、心配している声だった。それが、いちばんこわかった。

 

「中へ。守ってやる」

 

守護者が一歩踏み出した。地面が鳴った。同時に、セラたちの行く手の路地が音もなく狭まりはじめた。家と家が肩を寄せるみたいに動いて、道が閉じていく。

 

「走って!」

 

セラは縄を握って走った。閉じかける路地を抜け、角を曲がり、縄を石に掛ける。結び目。よっつ。いつつ。背後で鍵束の音が急がずに、けれど確実についてくる。

 

「中へ」と声がした。

 

「そっちは外だ。出てはならん」

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

追い立てられて、気づけば広い場所に出ていた。

 

都の中心らしかった。四方を高い壁と閉じた門に囲まれた、円い広場。噴水の跡が真ん中で干上がっている。

 

そして、広場の縁に、人が座っていた。

 

三人。いや、四人。壁に背を預けて、膝を抱えて、白い目でどこも見ていない。息はしている。ただ、それだけだった。鳴ク洲の影たちと同じ目。ここから出されなかった人たち。守られた人たち。

 

セラの背中が冷えた。

 

ここが袋小路だ。守護者の言う「中」。誰も迷わない場所。誰も、どこへも行けない場所。

 

鍵の音が広場の入口で止まった。

 

守護者がそこに立っていた。入ってこない。ただ立って、消えた角灯を掲げている。出口をその巨きな体で塞いで。

 

「ここは安全だ」

「外は迷う。みんな、迷って還れなくなった。だからここにいろ。守ってやる」

 

セラは壁際の四人を見た。守られた人たちを。それから、守護者の掲げる角灯を見た。火のない角灯。何も開けない鍵束。

 

そのとき、ハイネが前へ出た。

 

守護者の磨り減った顔がゆっくり動いた。セラを見た。壁際の四人を見た。それから、その視線のようなものはハイネの上を素通りした。

 

まるで、そこに誰もいないみたいに。

 

ハイネがもう一歩踏み出す。守護者は反応しなかった。狭まりかけていた脇の路地がハイネの前でだけ、ためらうように止まった。

 

「……俺を、見ないのか」

 

ハイネが呟いた。自分の手を見て、それから守護者を見上げた。戸惑いと、それから何か別のものがその横顔にあった。セラには読めない何かが。

 

考えている場合じゃなかった。でも、頭の隅に引っかかった。この都はハイネを客だと思っていない。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

「ハイネ。あの人が守ってる門って、どこだろう」

 

セラは声を落として訊いた。ハイネが顎で守護者の背後を示した。

 

広場の入口の向こう。守護者が背にしている、ひときわ大きな門があった。両開きの石の門。守護者はずっとあの門を背にして立っている。誰も近づけないように。

 

その門の脇の崩れた壁から、向こう側が見えた。

 

何もなかった。

 

屋根の落ちた家々。崩れた石の山。とうの昔に廃墟になった、都のいちばん古い区画。守護者が守っている門の先には、もう誰も住んでいない。もう何も、残っていない。

 

セラは、分かってしまった。

 

守ってるんだと思った。ちがう。この人はもう還る家が分からないんだ。自分の家がどこだったか。誰を守っていたのか。ぜんぶ忘れて、それでも守ることだけが残って、だから誰も出さない。誰も出さなければ、誰も迷わない。誰もこの人みたいにならないから。

 

怒りたかった。閉じ込めるなって。あの四人を返してあげてって。

 

でも、できなかった。喉の奥で言葉が崩れた。この人は、悪くない。悪くないのに、こんなにこわい。優しいまま壊れたものが、いちばんこわいんだ。

 

「セラ」

 

ハイネが低く言った。

 

「見つけた。動かない場所がある」

「動かない場所?」

「この都はぜんぶが組み変わる。だが一箇所だけ、ずっと動かないところがある。あそこだ」

 

ハイネが指したのは広場の隅の地面だった。円い広場の縁がそこだけ大きく口を開けて、石の段が下の暗みへ沈んでいる。巨大な水門の跡のようだった。

 

「都はいまも沈みつづけている。沈んでいく先の口だけは、動けない」

 

降り口だ。この都の底。三層のいちばん下。

 

でもそこへ行くには広場を横切る。守護者の見ている前を。

 

「あなたのこと、あの人は見えない。でも、あたしは」

「俺があいつの気を引く」

 

「その隙に走れ」

「ひとりで? やだ。手を離したら、あたし...」

「離さない」

 

ハイネはセラの手首を取って、自分の袖の端を握らせた。

 

「これを握っていろ。俺が先に動く。お前はついてくるだけでいい」

 

そのとき、腰の縄が軽くなる。見ると手の中に最後のひと巻きだけが残っていた。縄が、尽きたのだ。門柱からここまで結び目を数えながら伸びてきた父の縄がここで終わる。

 

ここから先は、糸のない場所だ。

 

セラは最後のひと巻きを握りしめた。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

ハイネが広場の真ん中へ歩き出した。

 

堂々と、隠れもせずに。守護者の正面を横切って、干上がった噴水の縁をわざと足音を立てて歩く。

 

守護者の磨り減った顔が、揺れた。音のするほうへ。誰もいないはずの場所へ。窪んだ目の跡が噴水のあたりをさまよう。

 

「……誰だ」

 

石臼の声がはじめて揺らいだ。

 

「そこに誰か、いるのか」

 

いまだ。セラは走った。広場の縁を、壁沿いに降り口へ。足音を殺して、でも速く。ハイネの袖はもう手にない。かわりに縄の最後のひと巻きを胸に押しつけるように握って。

 

守護者がこちらを向いた。

 

「! 出るな!」

 

石の体が軋んで動く。地面が鳴る。行く手の壁が狭まりはじめる。

 

「外は駄目だ! 迷う! 還れなくなる!」

 

その声が、悲しかった。

 

還れなくなったのは、あなたなのに。あなたはずっと、還れないままここにいるのに。

 

セラは降り口の縁に飛びついた。石の段の一段目に足がかかる。振り返るとハイネがもう隣にいた。いつのまに。この人は本当に霧の中を風みたいに動く。

 

「行くぞ」

「待って。ひとつだけ」

 

セラは手の中の縄の最後のひと巻きを、降り口のいちばん上の柱に結んだ。固く。二重に。

 

次に来たとき、ここから始めるための印。父の縄の、いちばん先っぽ。ここまでは来た、っていう証。

 

「……よし」

 

二人は石の段を数段だけ下りた。

 

そこで、見た。

 

段の下は、色が違った。霧が濃くて、暗くて、冷たさの質が違う。渚の白でも、鳴ク洲の灰色でもない。もっと深い、青みがかった暗さが底の見えない口の奥でゆっくりと渦を巻いていた。

 

ここから先は、渚じゃない。

 

ヴィダの言葉を思い出した。素人が戻れるのは、縁まで。ここはその縁のいちばん端だ。この段を下りきったら、そこはもう、鍛えた沈み手しか還れない深さ。

 

セラは段の途中で立ち止まった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

体が、動かなかった。

 

疲れているのは分かっていた。干し芋はゆうべで尽きた。眠りは浅かった。足は棒みたいだった。でも止まった理由はそれじゃなかった。

 

イル、と心の中で呼んでみた。

 

名前は、ある。とんとんも、ある。市の日ににんじんを三回書いたことも、海の絵も、おかえりの文字も、ある。

 

でも、顔が。

 

目を閉じて思い浮かべた弟の顔の、目のあたりが滲んでいた。笑い方は覚えてる。肩が揺れるのも。灰色の髪も。なのに顔の真ん中が、白い紙みたいに薄い。

 

「なんで」

 

声が漏れた。いつから、どこで、鳴ク洲か、この都か。分からない。分からないうちに薄れてた。いちばん、忘れちゃいけないものが。

 

「セラ」

 

ハイネが段の下から見上げていた。

 

「どうした」

「……ハイネ。あたし、還りたい」

 

言ってから、自分の言葉に驚いた。でも口はもう決めていた。

 

「イルの顔が、薄れてるの。名前はあるけど。顔が滲んでて...だから、還って確かめたい。ちゃんと見て、目に焼きつけて、それからまたここへ来る」

 

ハイネは何も言わずにセラの顔を見ていた。責める色はなかった。

 

「ここまでは来た」セラは降り口の柱の結び目を指した。

「次は、ここから始められる。縄が、覚えてる。あなたも、覚えててくれるでしょ」

「ああ」

 

「なら、戻れる。戻って、また来られる」

 

ハイネは段を上がってきて、セラの隣に立った。

 

「上りの道は、俺が覚えている」

 

それだけ言った。それでじゅうぶんだった。

 

二人は暗い口に背を向けて、石の段を上りはじめた。広場の向こうで鍵束の音が遠く鳴っていた。守護者はまた、誰もいない街路を見回りに戻ったのだろう。火の消えた角灯を掲げて。もう存在しない家の門を守りに。

 

上りの霧は下りよりずっと重かった。一歩ごとに足が沈む。それでも、足は止まらなかった。

 

早く。

 

イルの顔を、忘れてしまう前に。

 

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