還り灯 ― 弟を救うため、少女は人を忘れる海へ沈む   作:Rely01111

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第9話 おかえり

 

霧を抜けて渚に立ったとき、空が白みはじめていた。

 

丸一日ぶりの上の空気だった。薄くて、埃っぽくて、それでも、霧とはまるで違う匂いがした。人の暮らしの匂いだ。誰かが竈に火を入れ、誰かが井戸の水を汲む、その気配のする匂い。霧の底には匂いなんてなかった。あそこにあるのは白と寒さと忘却の重さだけだ。

 

セラは大きく息を吸った。胸の奥がかすかに鳴った。

 

「やっと、戻ってこられた...」

「ああ」

 

ハイネが隣に立って、坂の上を見上げていた。崖に貼りついた家々が、朝の薄い光の中で、段々に積み上がっている。あのいちばん上の、坂を上りきったところに家がある。

 

家がある。方角が分かる。

 

さっきまで、それが分からなかった。沈ミ都で家がどっちかも忘れていた。今は分かる。上がってきたから。都の記憶が薄れたかわりに、上の世界が戻ってきた。忘れることと思い出すことが水の上と下みたいに入れ替わる。

 

坂を上りはじめると、街が目を覚ましていくところだった。

 

いちばん下の家から、順に。井戸の滑車がきしむ。誰かが芋を刻む音。赤ん坊の泣き声。戸を開ける音。洗濯紐に、今日も誰かの寝間着が干されていく。何日か前と、何も変わらない朝だ。

 

なのになんだか、まぶしかった。

 

セラは霧の底で、人が忘れて、人で無くなっていくところを見てきた。名前を失くし、顔を失くし、待っていたことも忘れて、それでも喇叭を吹きつづけるもの。誰も出さないために、誰も迷わせないために、壊れてしまったもの。あれを見たあとで、この当たり前の朝を見ると。

 

芋を刻む音ひとつが、こんなにもあたたかい。

 

ここではみんな、明日も自分が自分だと思って生きている。忘れることなんて、考えもせずに。それが、どれだけ危ういことの上に立っているか、知らないままで。知らないままでいられることが、しあわせなんだと、セラは思った。あたしはもう、そっち側には戻れないけど。

 

足が重い。何日か歩き通しの足だった。それでも、上るほどに家が近づく。イルが近づく。

 

急に走りたくなった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

坂の途中でミナに会った。

 

桶を提げて、井戸へ下りてくるところだった。セラを見つけるとぱっと顔を明るくして、それから、怪訝そうに眉を寄せた。

 

「セラ! どこ行ってたの?昨日も一昨日もいなかったでしょ。家、訪ねたのに...」

 

心臓が跳ねた。

 

「……ちょっと。いろいろと用事で」

「用事って。こんな、朝にも帰らないような?」

 

ミナの目がセラの足元から、顔までなぞるように動いた。何日も洗っていない外套。霧に湿ったままの裾。窪んだ、目。セラは外套の前をそっと合わせた。霧の匂いがしないだろうか。

 

「心配したんだよ。おばさんがまさか渚のほうへ、なんて言うから」

 

渚のほう。ミナの母親の言葉が思ったより近くまで来ていた。セラは笑ってみせた。うまく笑えたか、分からなかった。

 

「まさか。渚なんか、行かないよ」

 

嘘だった。渚どころか、そのずっと下まで行ってきた。ミナの知らない場所へ。ミナが一生、知らないでいられる場所へ。

ミナはまだ少し疑うような顔をしていた。それから桶を持ちなおして、いつもの調子に戻った。

 

「ならいいけど。……あのさ。今度、うちで芋餅つくるんだ。おばさんがセラも呼びなって」

「うん。……ありがとね」

「イルのぶんも持っていってあげるよ」

 

イルのぶんも。その一言が胸に刺さった。ミナは何も知らない。イルがもうほとんど食べられないことも。日ごとに遠くなっていることも。ただ、いつもの優しさで弟のぶんの芋餅を包もうとしている。

 

頷くことしかできなかった。それ以上、言うと崩れそうだった。

 

ミナは手を振って、坂を下りていった。桶が朝の光に揺れた。その背中がまぶしかった。ミナは日常の側にいる。あたしはもう、そっちにはいない。同じ坂に立っているのにあいだに越えられない霧が一枚ある気がした。

 

セラは坂を上った。ミナに言えなかったぶん、足を速めて。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

戸を開ける前に軒先の鐘が目に入った。

 

舌の戻った鐘が朝の風に揺れている。それでも鳴らない。父の鐘はまだ鳴らないままだった。誰かが霧へ降りているあいだ、家の鐘に舌が戻る。生きて還れば、一度だけ鳴らす。

 

あたしはまだ鳴らせない。手ぶらだから。還り灯をまだ取ってきていないから。

 

戸に手をかけた。開けるのが少しこわかった。何日も空けた。中で何が待っているか、分からない。

 

土間に父が立っていた。

 

こちらを向いて、立っていた。まるでそこでずっと戸が開くのを待っていたみたいに。父の顔を見て、セラは足がすくんだ。怒ってるのか。泣いてるのか。分からなかった。父はいつもの底の見えない静けさのまま、セラを見ていた。

 

「……ただいま」

 

声が掠れた。

 

父は答えなかった。セラを見て、それから、その後ろに立つハイネを見た。それから、セラの腰のあたりを見た。

 

荷縄がなかった。

 

沈ミ都の降り口に最後のひと巻きまで結んできた。だから、腰にはもう、何もない。父の予備の荷縄。あの朝、釘から外して持っていった、父の仕事の縄。

 

父の目がその空っぽの腰で止まった。

 

「……縄は」

 

低い声だった。

セラは言葉に詰まってしまう。だけど、父に嘘はつけなかった。

 

「霧の底に、結んできた。次に行くときのために」

 

父の顔から、何かがすうっと引いた。波が引くみたいに。怒りでも悲しみでもなかった。もっと底のほうの名前のない何かだった。

 

父は知ってしまった。娘が霧に潜っていたことを。ただ渚で薬草を摘んでいたんじゃない。関所を越えて、もっと深くまで降りていたことを。荷縄を結んでこなければならないほど、深くまで。

 

父はそれが何を意味するか、誰よりも知っている人だった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

「どこまで降りたんだ」

 

父が訊いた。

 

セラは答えられなかった。層の名前も番人のこともどう言えばいいか分からなかった。ただ、指を三本、立てた。

 

父の眉が動いた。

 

「三つ。関所の先の」

「……うん」

 

父は目を閉じた。長く閉じていた。それから、開けた。

 

「セラ」

「うん」

「もう、やめろ」

 

静かな声だった。叱る声じゃない。頼む声に近かった。それがかえってこたえた。

 

「やめられないよ。イルが」

「イルのことは父さんがなんとかする」

 

「なんとかって、なに?父さん、いつもなんとかするって言うけど...でも鐘は鳴らないままで、イルはどんどん遠くなってくの...父さんのなんとかって、なんなのよ」

 

思わず感情的に言ってしまった...後ろめたさから父の顔を見れない。

父はしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。

 

「……父さんにもまだ、決められないことがある」

 

決められないこと。父が何を決めかねているのか、セラには分からなかった。ただ、その声があんまり疲れていて、それ以上、責められなかった。

 

「イルに会ってくる」

 

セラは父の横をすり抜けて、奥の部屋へ向かった。父は止めなかった。ただ、ハイネのほうをちらりと見た。ハイネは土間の隅で黙って立っていた。父とハイネの目が一瞬、合った。

 

そのとき、父の顔に何か奇妙なものがよぎった。ハイネの蒼い目を見て。まるで見覚えのあるものを見たような。けれどそれはすぐに消えて、父はまたいつもの静けさに戻った。

 

セラはそれに気づかなかった。奥の部屋の弟のことで頭がいっぱいだった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

イルは静かに眠っていた。

 

薄い布団の中で灰色の髪が枕にひろがっている。肌が内側から淡く光って、暗い部屋をぼんやり照らしていた。前より、光が濃くなっている。それだけ燃えているということだった。

 

セラは枕元に膝をつきイルに声をかける。

 

「イル。ただいま」

 

弟の顔を覗き込んだ。

 

そして、息を呑んだ。

 

顔があった。ちゃんとあった。滲んでなんか、いなかった。灰色の髪も閉じた目も薄い唇もぜんぶ、ちゃんとそこにあった。沈ミ都であんなに滲んでいたのに。目のあたりが白い紙みたいだったのに。

 

会えば、戻る。

 

そうか、とセラは思った。忘れかけても会えば、戻るんだ。目の前にいれば、また覚えられる。だから来たんだ。この顔をもう一度、目に焼きつけるために。

 

「よかった」

 

声が震えた。

 

「よかった。まだ忘れてなかったよ。あんたの顔」

 

イルが薄く目を開けた。セラを見て、少し間があって、それから笑おうとした。うまく笑えなかった。それでも口の端が動いた。

 

セラは弟の手の甲を叩いた。とんとん。

 

返事はなかった。

 

それでも叩いた。とんとん。あんたを置いていかないよ。わたしを置いていかないで。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

そのとき、セラはあることに気づいた。

弟の名前は覚えている。イル。ちゃんと覚えている。とんとんの合図も覚えている。

 

でも。

あの合図をいつ、どうやって始めたのか。それが思い出せなかった。

 

たしか、大事な始まりがあったはずだった。悲しいことがあった夜に。誰かがいなくなったあとに。二人で言葉が見つからなくて。それでどちらからともなく。

そこまでは分かる。でもその「誰かがいなくなった」の、誰かが。

 

思い出せない。セラは手を止めた。

母さん。母さんだ。母さんが死んだ夜に始めたんだ。そうだ。そうに決まってる。

 

でも母さんの顔が。

 

思い出せなかった。声も。鼻歌も。台所に立っていた、後ろ姿も。あったはずのものがぜんぶ、うっすらと白く霞んでいた。

 

いつ。いつ、忘れたんだろう。

鳴ク洲だ。あの喇叭の音。いちばん大事なもの以外は失くしてもいい。そう思って、通り抜けた。イルの名前だけを必死に握って。そのとき、手放したものの中に。

 

母さんがいた。

 

「……あ」

 

セラは口を押さえた。

 

イルの顔は会えば戻った。でも母さんはもう会えない。会って、確かめることができない。死んだ人の顔は忘れたら、それきりだ。戻ってこない。もうどこにも。

 

あたしは母さんを失くした。失くしたことにも気づかずに。弟を生かすために潜って、そのために母さんを手放した。今やっと気づいた。もう思い出せないことに気づいて、はじめて失くしたことを知った。

 

イルがセラを見ていた。

姉がなぜ、そんな顔をするのか、分からない、という顔で。

セラは涙を堪えた。堪えて笑ってみせた。

 

「なんでもない。なんでもないよ」

 

嘘だった。

なんでもなくなんて、なかった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

その夜、父は奥の部屋に長くいた。

 

イルの枕元に座って、何も言わずに弟の顔を見ていた。セラは土間で冷めた粥を見ていた。食べる気が起きない。

 

母さんの顔を思い出そうとしてみたが、だめだった。いくら探しても白く霞んで輪郭も浮かんでこない。かわりに断片だけが残っていた。窓辺に透けた蒼い髪。低い、鼻歌のような音。それだけ。顔はもう、どこにもなかった。

 

あたしと同じ蒼い髪だったはずだ。それは覚えている。でもその髪に縁どられた顔がない。

 

こわくなった。

 

このまま潜り続けたら。あと何度も霧の底で忘れていったら。いつか、イルの顔もこうなるのかもしれない。会っても戻らなくなる日が来るのかもしれない。父さんの顔も。あたしがあたしでいられなくなる日が。

 

それでも。

 

セラは握った拳を見た。この手は傷しか治せない。潜れば忘れる。忘れながら、進むしかない。還り灯を取ってくるまで。イルを助けるまで。

 

母さんを失くしたぶん、イルは助ける。ぜったいに。母さんの顔を手放してまでここまで来たんだから。手ぶらでなんか、還れない。

 

そう思わないと立っていられなかった。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

土間にハイネがいた。

 

壁に背を預けて座っている。セラが隣に腰を下ろすと蒼い目がこっちを向いた。

 

「ハイネ。あたし、母さんを忘れちゃった」

 

言葉にするとまた、こみあげてきた。

 

「顔が思い出せないの。声も鼻歌も。鳴ク洲で失くしたんだと思う。気づかないうちに。いちばん大事なもの以外だって、思って」

 

ハイネは黙って聞いていた。

 

母さんはもう、どこにもいない。あたしの中にもこの人の中にも。

 

「なあ」

 

ハイネがめずらしく自分から口を開いた。

 

「忘れても消えるわけじゃない、と思う」

「え?」

「うまく言えないが。俺はぜんぶ忘れた。名前も顔も昔も。でも体が覚えていることがある。誰かの世話をする手つきとか。……たぶん、お前の母さんも顔は消えてもどこかに残ってる」

 

セラはハイネを見た。

 

「どこに」

「わからない。けど、お前が弟の手を叩くだろう。とんとん、と。あれは母さんが死んだ夜に始めたんだろう?」

 

セラは頷いた。

 

「なら、あれが母さんだ」ハイネは言った。「顔は忘れても。あの合図の中に母さんがいる。お前がそれを続けるかぎり」

 

セラは言葉が出なかった。

 

とんとん。あの合図。母さんが死んだ夜にイルと二人で始めた。言葉が見つからなくて、どちらからともなく。あれを始めたのは母さんを喪ったからだ。だから、あの合図の中に母さんがいる。顔は忘れても。

 

そうか。

セラは涙を拭いた。今度はさっきとは違う涙だった。

 

「……ありがと。ハイネ、いい人だね」

 

ハイネはまた黙った。何か言いすぎた、というような顔で目を伏せた。この男は、ときどき、自分でも思いがけないことを言う。忘れたはずのどこか深いところから。

 

 

―――――――――――――――――――――

 

 

眠る前にもう一度、イルの部屋へ行った。

 

弟は眠っていた。セラはその顔をじっと見た。灰色の髪。閉じた目。薄い唇。ぜんぶ、覚えた。何度でも覚える。忘れても会って、また覚える。会えるうちは。

 

それから、弟の手の甲をそっと叩いた。

 

とんとん。

 

母さん。

 

心の中で呼んでみた。顔は浮かばなかったが、それでもあたたかいものが指の先から伝わってくる気がした。とんとん。この合図の中に母さんがいる。

 

布団に入ると隣でイルの浅い息が聞こえた。ときどき、つっかえる息。

 

セラは天井の暗がりを見ていた。眠れなかった。

 

沈ミ都の降り口に縄の先を結んできた。あそこから次が始まる。四層。ヴィダが言っていた、素人が戻れない深さ。あそこを越えたら、もう渚じゃない。もっと忘れる。もっと、失くす。イルの顔もいつか、あの喇叭の音みたいにまとめて持っていかれるかもしれない。

 

こわい。こわくて、たまらない。

 

前はただ弟のためだった。弟が燃えている、だから潜る。それだけだった。単純だった。でも今は違う。

 

母さんを置いてきてしまった。霧の底に気づかないまま。母さんの顔を代金にして、あたしは、三つ目の層まで来た。だったら、ここで引き返すわけにはいかない。母さんを手放したのがただの無駄になる。そんなの耐えられない。

 

進むしかないんだ。もう。失くしたものがあたしの背中を押してくる。引き返せないところまで来てしまったから。

 

これが覚悟なのかは分からなかった。かっこいいものじゃなかった。追い詰められて、逃げ場がなくて、だから前を向くしかない、というだけの。それでも目だけは閉じなかった。

 

明日、また坂を下りる。

外で風が出た。軒先の鐘が舌の戻ったまま揺れた。それでも鳴らなかった。

まだ、鳴らせない。

 

でもいつか。イルを連れてみんなでこの鐘を鳴らす。生きて還った合図に。母さんの顔はもう思い出せないけど。とんとん、の中に母さんを連れて。いつかぜったいに。

 

そう決めて、セラは目を閉じた。

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