すぐに現実ではないとすぐわかってしまうくらい、同じ夢を繰り返し見る。ぼやけた姿の誰かに追いつきたいという一心でひたすら走るのも、もはや慣れてしまった。
相手は誰なのか、なぜ追いかけているのか。そんな雑念を衝動が飲み込み脚はスパートをかけようとした瞬間、大きな波に横から流されるような音とともに弾き飛ばされ目が覚めた。
跳ねるように上半身を机から起こすと、左側に本棚から落ちたプリントの束が目に入る。模様替えの最中に仮置きした横着さが雪崩として跳ね返ってきたことに顔をしかめながら、大学への編入案内や誘導ウマ娘の就職説明会パンフレットなどをファイルへと入れなおすと、束の隙間から2枚の写真が足元に落ちる。
「これは...いつのだ?」
1枚目は少し古びた中山レース場の写真で、もう1枚はファン感謝祭と思われる飾りつけのされたトレセン学園で、小学生くらいの自分と見知らぬウマ娘がツーショットを取っている写真だ。
写真の中の限界まで目を輝かせている自分に微笑ましさを感じながら、思い出を振り返る。
「うわ~これ入学前じゃん。この服よく来てたなぁ。こっちは一人でレース場行った時のだっけ?」
思わぬとこから出てきた懐かしさに顔をほころばせ、写真を見つめる目は回顧の色を湛えていたものの徐々に疑問へと変わりだす。
「誰だっけ?この人。」
ファン感謝祭を訪れた記憶もある。憧れていた人と一緒に写真を撮った記憶もあるし、それがこの中にいる誰かだったのだろう。
けれど、写真の中にいる白と赤の勝負服に王冠を被った小柄なウマ娘とその憧れがどうしても結びつかない。怪訝な顔をしてその写真をポケットにしまうと、机で寝て硬くなった身体を労わるように大きく伸ばす。
ふと壁の時計を見ると時刻は午後5時に近づいており、片付けの副産物で出たゴミ袋を集積所における猶予がもうないことを示していた。
「やっば、早くいかないと!」
脚に入ったボルトの冷たさを感じながらゆっくり息を吐くと、ゴミ袋を持って扉を開けた。
「任務かんりょ~」
集積所の隅にゴミ袋を放り込んで鍵を閉めると、持ちっぱなしで硬くなった手を開いて閉じる。夕食までどう暇を潰そうか考えていると、少し奥のほうで猫が歩いているのに気付いた。
「茶トラちゃん、おいで~」
いつもより高いトーンで誘うものの、茶トラの猫は意にも介さず奥にある倉庫のほうへ向かう。そのつれなさにしょんぼりしつつも、素朴な疑問が浮かび上がった。
「そういえば、あの倉庫って入ったことないな...」
向かってくる姿にびっくりして加速する猫を追い小さく開いていた扉を開けると、埃っぽい澱んだ空気が身体に纏わりつく。
「失礼しまーす...」
暗い倉庫の中には使い古された備品や三角コーン、ロープなどが数段の棚にまばらに置かれており、いかにも古びた物置という印象だった。予想の範疇内にあった品々を見回し、虫と遭遇する前に去ろうと踵を返しかけたところで足に何かがぶつかる。
「うわっ、なんだろこの箱?」
足先に当たったのは片手で持つには少し大きい木箱で、端にはゼンマイがついている。埃をかぶったそれを棚の二段目に置きゼンマイを何度か回すと、手を離すとともに音楽が流れだした。
「オルゴール?この曲どこかで聞いた覚えが...」
薄暗い倉庫に響く音色に記憶を揺さぶられながら、10秒ほど考える。顔を近づけかすれた音をもっと近くで聴こうとした瞬間、曲が終わり急に箱が開く。
思わず飛び退くと中から小さな人形が飛び出し、くぐもった音でその中から音が再生された。
「こんにちは、アストンマーチャンです。」
光を得ようと倉庫の扉を更に開けてから恐る恐る箱に近づき、人形を見つめる。それは勝負服らしき白と赤の服に身を包み、頭に小さな冠を乗せたウマ娘の人形だ。
数瞬の後、それをつい最近見たばかりだと気づく。素早くポケットに入っていた写真を取り出し、目の前の人形と見比べる。
一緒だ。
目の前の人形、手に持ってる写真、オルゴールから聞こえていた音楽。それら3つが結びつき、忘れていた思いが急速によみがえろうとしている。
「アストン、マーチャン...」
思わず復唱したその言葉は、確かに自分の中にあったはずだ。脳の中から痛みを感じるような錯覚とともに積み重ねた記憶を最高速で探ると、ふと何度も見た夢がその言葉と結びついた。
「アストンマーチャン!!!」
それは、夢の中でずっと追っていた、中山で栄光をつかみ、多くの人にたたえられたものの名だ。走る姿に目を奪われ、ファン感謝祭で一緒に写真を撮った時本当に嬉しかった、憧れの姿だ。そして、いつか一緒に走って、追いつきたいと願った夢であり、トレセン学園を目指した理由でもあった。
それらが一気に奥底から吹き出し、情報の濃さにふらつきながらもなんとか受け止める。ややあって、頭を冷やし倉庫から出た彼女はその思いをどう行動に移すべきか考える。もう一度アストンマーチャンと走ることが、自分の願いであり原動力だとようやく思い出した。だがどうすればそれを叶えられる?
試しにスマホで調べたが、不自然なほど情報が出てこない。だが記憶は本物で、写真の中の姿も確かに本当だ。そもそもマーチャンは今どこにいる?もっと詳しい情報が必要だ。
ならば、頼るべきは一人だ。スマホの画面を連絡先に変え、電話を掛けると、数コールの後スピーカーから声が聞こえた。
「はい、ドリームジャーニーです。
数日後、ある喫茶店の個室で二人はコーヒーを飲みながら近況を話し合う。
「それで、ファンロンに会いに行ったらなんか新潟レース場のタイアップとかでドラマで夏の未勝利走るウマ娘の役やるオファーが来てるとか言ってましたよ。得意げに昔の体操服引っ張りだしたら下が入らなくなってしょんぼりしてたし、あいつだいぶ浮かれてますね~」
「引退したらどうしてもそうなります。私も似たようなことがありました。」
「先輩でもそうなんだ...現役の時から全然変わってなさそうに見えますけど。」
「あなたも、引退したらわかりますよ?」
含みを持たせた表情でコーヒーを置くと、横の鞄からタブレットを取り出す。
「そろそろ、本題に入りましょうか。あなたの言うアストンマーチャン、というウマ娘の情報を調べましたが、まるで誰かの意図を感じるような不自然な消え方で、ブログのアーカイブや短い動画しかありませんでした。先ほどデータを送りましたが、もう見ましたか?」
「はい、あの写真の隅に写り込んでいたのは、アタシの知ってるマーチャン先輩でした。」
「それは良かったです。それで、今日はもう1つお願いがあると聞いていますが、何でしょうか?」
「はい、アタシのために中山レース場を貸し切りにしてくれませんか?」
思ってもみない言葉が告げられ、しばしジャーニーは固まる。考えを巡らせアイスコーヒーの氷が崩れる音とともに返事を返した。
「……分かりました、また中山で会いましょう。」
翌週、平日の閑散とした中山レース場へ2人が入ってくる。裏の入り口から受付へ行くと、奥に立っていたスタッフにカードとクリアファイルを差し出した。
「では、時間になりましたらお呼びします。」
案内に従い通路を進むとグランプリロードに出た。2人だけの空間でコースをぼんやりと眺め、示し合わせたようにお互いの顔を見つめる。
「本当、ありがとうございます。噂で聞いてたんですけど、本当に借りられるんですね〜」
「ええ。有馬記念を勝ったウマ娘は何年かに一度、レース場を貸切にできる権利が貰えます。ある方は同期を集めてレースをし、ある方は元トレーナーと二人でコース巡りをしたり、色々な使い方をされているそうですよ。」
「なんかテイエムオペラオーさんが貸し切って自作オペラを流してたって噂があったんですけど、あれって本当なんですかね?」
「ええ。アネゴの所にも招待状が届いていたそうですが、旅から帰って開いたときにはもう行われたあとだったそうです。」
「相変わらず自由な人ですね...」
「最近は旅の途中でも連絡してくることが増えましたし、あれでも控えめにしている方です。背中を伸ばすの、手伝いましょうか?」
「お願いします。腕、借りますね」
差し出された腕に己の腕を絡め、身体を横に伸ばすと今度は屈んだジャーニーの背中へ後ろ向きに乗っかる。
背骨の隙間1つ1つに潜んでいた緊張が解き放たれていくのを感じ尽くすと、腕を解いて身体を丸め、縦に1回転ジャンプをしてジャーニーと向き合うように着地した。
「どうやら調子は良さそうですね。」
「はい、先週までに仕上げた分をなんとか持ち越して、95%までは持ってこられました。この後の反動が怖いですけど、あとは向こうに行くまでに仕上げます!」
「良いですね、でも心はまだレースに向かいきっていないのでは?」
「……やっぱり分かります?あれだけ自信満々に言ったのに、もしかしたらここにいないんじゃないかって思ってしまうんです。証拠は少しの動画と写真。それに夢の中でお告げみたいに写ったここのビジョンだけ。もしいなかったら、私は良いとして、先輩を無駄足に付き合わせちゃったんじゃないかなって。」
「……本当に、あなたはここでアストンマーチャンさんと走れなかったとして、それでいいと納得してしまうのですか?」
「……そんな、ことは。」
「ないでしょう。それに夢というのも侮れないものです。例えばアネゴは別の世界にいる自分の姿を見られるらしいですが、あなたの夢も、それに近いものだと思います。私はそれを信じて、ここにやって来たのですよ?」
顔を覗き込むようにして諭すと、ゆっくりとその手を頬に寄せていく。
「そう、ですよね。ありがとうございます。危うくセンパイの思いも無駄にするところでした。」
深々と頭を下げ、再び上げた顔は先程の自信のなさを完全に排していた。
「準備はできたようですね。」
「はい!」
「では来る途中に話した通り、奥についたら携帯に連絡をください。用意したものがありますので。」
「何から何までありがとうございます。」
「そうだ、最後に1つ、アドバイスがあります。中山のコーナーは、曲がるときに自分の限界よりもう一押し内に傾くのがコツですよ。」
「遠心力を前に向ける、ですよね。」
「その通り。では、あなたの道に、幸があらんことを。」
そう言いながら後ろに回り込み、軽く背中を押す。いろんな情念の籠った小さな手にで押し出した後輩がコースへ出るのを見送ると、ジャーニーはスタンドのほうへ向かった。
目的地、中山1200mコースのスタート地点に向かおうと歩を進める彼女は、普段通り芝コースに沿って進もうとしたがおもむろに内ラチへ目を見遣る。
ダートコースを区切るそれに向かい手を触れて下をくぐり、砂を横切り更にその奥、障害コースへと足を踏み入れた。
外を大回りしたくなかったのか、普段入ることのない障害コースを歩いてみたくなったのか。本人にもわからぬまま中のコースを進む。
「そういえばここ、デビュー前に見学したな~」
思い返されたのは入学してすぐのコース見学実習。授業の一環で来たレース場の大きさに圧倒され、誘導ウマ娘の先輩の案内に今後のレース人生へ夢を広げたものだ。
「ゲンキが勝手に飛ぼうとして、怒られてたっけ……」
歩き進んだ先にある障害の端に手を添え、同級生の突飛な行動を思い返す。
頭に浮かんだ昔の思い出に重ね合わせるように自分でも跳んでみようとして何歩か後ろに下がったが、その威容は想像以上であったためすぐにやめた。
再び脇に行き、再度歩を進めると先ほどの思い出がきっかけとなりこれまでのレース生活の数々が意識の表層に浮かび上がってくる。
走るのは嫌いではなかったし、勝ちたいという気持ちも嘘ではなかった。そうでなければ、負けて、負けて、怪我をして、それを治してまた帰ってきて。
同級生も後輩もどんどん先にいなくなって尚走り続けることはできなかったはずだ。そう自分を納得させて芝とダートの境目を再び超え、前に進む。
だがそれは同様に本当のことでもなかった。僅差で勝ちを逃したとき、悔しさはあったが不思議とすぐに割り切れてしまった。
レースが練習の延長線上にあったといえば聞こえは良いが、悪く言えば本当の戦いと思えていなかったということでもあり、だからこそ勝ちきれず、だからここまで続けられるほど身体を保てたのだろう。
何とか自分に言い聞かせながら、坂路を上り下りする。
それは正しかったのか、間違いだったのか。答えはもうすぐわかる。再度ラチをくぐり、今まで歩いてきた道を振り返ると、奥には中山のスタンドが不気味なほど静かにそびえたっていた。
身体を包む緩やかな風の手触りに、芝と土が混ざった特有の香り。今それを味わえているのは自分だけであるという特別感を嚙み締めてあたりを見渡すと、この瞬間を写真に残したくなった。
思いに駆られ勝負服のポケットからスマホを取り出し、カメラを開くと一番良い構図を探し回る。いい場所を見つけレンズを向け、最後の確認のために画面を見回したところで、画面の端に何かが写りこんでいるのを見つけた。
「え...?」
初めは疑問だったその声は、徐々に確信になり、歓喜の色を含んでいた。レンズ越しには白と赤の勝負服に王冠を被った少女。見間違うことなどありえない。こちらに手を振るその姿を画面越しでなくすためにスマホを下ろすと。
そこには確かにアストンマーチャンがいた。
なんと声をかけよう。そんな悩みを置き去りにし声が出る。
「やっと、会えましたね。」
「はい、あなたのアストンマーチャンですよ。」
「約束、覚えててくれたんですよね。」
「はい、そのためにここに、戻ってきました。」
「あの頃と、変わってませんね。」
「はい、マーちゃんは、マーちゃんですから。」
「一緒に走って、くれますよね。」
「もちろんです。全力で、迎え撃ってあげましょう。」
その言葉で、柔らかな雰囲気が一気にG1を取った王者のものに切り替わる。全力で迎え撃ってくれること、そこに自分がいられることに最高の喜びを感じながら、再び電話をかけた。
およそ2分後、通話を切るとスマホを専用のポケットに入れ再びマーチャンの方へ向き直る。
「今から3回、花火が上がります。2回目の花火が上がった時、それをスタートの合図にしましょう。」
「良いですね。さっき話してた方が考えたんですか?」
「はい、ジャーニー先輩が考えて、友達の方が準備してくれました。」
「ジャーニーさん、ですか……」
「知ってるんですか?」
「はい、知ってますよ。そういえばあなたからは、ジャーニーさんとおなじ香りがします。」
「分かります?ここに来る前、先輩がおすすめしてくれた香水を付けてくれたんです。あっ、あっちで花火が上がりますよ!」
そう言ってコース奥の空を指さすと、空に何かが浮かび上がる。光に遅れて音が響き、午後3時を過ぎた空に赤い大輪が浮かび上がった。
2人で軽く拍手をすると、1200mのスタート地点に向かう。
「あと5分くらいで、次の花火が上がるみたいです。上にあがりきったら、スタートしましょう。」
「ふふっ、楽しみですね。」
互いに笑いながら芝の上で最後の準備を行う。コースの状態に脚を適応させ、この瞬間の100%に己を合わせていく。
「そういえば、私がなぜここにいるかは聞かないんですか?」
「正直すごく聞きたいですけど、今はそれより走ることが大事です。」
「わたしが、本当のわたしじゃないかもしれませんよ?」
「今、ここにいるとアタシが覚えている。それでいいんです。」
「嬉しいことを言いますね。では少しだけ答え合わせを。わたしは、あなたが満たされない気持ちをを思い出してくれたおかげで戻ってきたんです。だから、存分に満たしてあげましょう。」
「そんなこと言って、負けたら大変ですよ?アタシだけしかいないからいいですけど...」
「2人だけ...ということはこれは決闘みたいなものですね。」
顔に当ててた指を話し、内ラチの方に寄ったマーチャンはやや半身になり手を前方に差し出す。
「それは...?」
「昔、ウオッカが言ってました。決闘の前にはお互いに名乗りを上げるものだって。それがカッケーんだよって言ってました。あなたもしませんか?」
「上手くできるか分からないですけど、それでもよければ。」
遠慮しながらも差し出された手に己の手を添え、双方の腕が向けられた剣のように交差する。手を越して双方の目線が合い、口上が始まる。
「私はアストンマーチャン。今再び、永遠の向こうまで逃げ切りましょう。」
「アタシはトゥラヴェスーラ!消えない爪痕を、この一歩で刻みまず!!」
互いの名乗りを満足気に受け止めると、再び1200mのハロン棒の横に戻る。内にアストンマーチャン、外にトゥラヴェスーラ。
刻一刻と迫るスタートを前に雑念という雑念を切り捨て、テンションを最高潮にした刹那、花火が上がりその音と共に2人は駆け出した。
「……やっぱり、速い!」
先手を取ったのはやはりアストンマーチャン。迷いのないスタートでハナを切り、走りやすいコースを瞬時に見極め脚を回す。昔と変わらない、いやそれ以上の速さで動くピッチ走法に思わず微笑むと、トゥラヴェスーラは7バ身ほど後方に位置取った。
これが広いコースの東京や京都であればもう少し後ろに控えただろうが、そんな贅沢を許されるほど中山の直線は長くない。最後に残せるギリギリの末脚を目算し走り抜けると空気抵抗をあしらう様に姿勢を少し下げた。
直線とも曲線ともつかない中山外回りコースを緩やかに下ると、前を走るマーチャンの影が僅かに小さくなる。着いて来いと言わんばかりにこちらの方を向く顔は真剣な表情で、思わず誘いに乗りたくなるがその衝動をじっと我慢し、脚のボルトが軋むのを何とか抑え込む。
「大丈夫、行ける!!」
4コーナーの中間、残り800m地点。差は先程より開いているが両者ともに焦りはない。
いつものレースと違い他の誰かを計算に入れなくていい自由さを最適解の算出へと振り分けた2人は心音の速さと風景の移り変わりからペースが望み通りであるかを確認する。
問題ない、計画通り。芝を踏みしめ風を切り、ただ相手より先にゴールを駆け抜ける為だけに全てを注ぐ2人がそこにいる。
陽が左から顔にあたり、思わず目を瞑りそうになったが、この瞬間を太陽ごときに妨げられたくないという一心で少し下に顔を向け、目の前の芝と前を走るマーチャンの早く回転する脚のみへ意識を集中させた。
残り600m、あと半分。差はさらに開き、観客がいれば心配のざわめきが上がることだろう。だがただひとりの観客は心配することなく微笑み、独り言のようにぽつりと呟いた。
「さあ、ここからですよ。」
刹那、トゥラヴェスーラは身体を低くし、内ラチを擦らんとばかりに切れ込む。コーナーが彼女を外へ放り出さんとばかりに外向きの圧がかかり出すが、それを押さえ込んで突き進み、前のマーチャンと距離が徐々に縮まり出す。
「まだ、もう少しできる、前に、そう。」
自覚もないままこぼれ出した声は、意識の全てが速く進むことに注がれている証だ。
右半身に前へと進むのを妨げる力が降り注いでくることを忌々しく思い、同じ力を存在しないかのように受け流しきる前のマーチャンへ驚嘆と敬意のこもった目線を注ぎ、必死にコーナーを曲がりきった。
「っし!行きますよ!!」
消耗は最低限に抑えたが、それでも脚は悲鳴を上げている。せめて、この直線だけは耐えてくれと祈るように首を振ると、左にスタンドの威容が再び迫ってきた。
残り310m、高低差2.2m。本当の戦いはここからだ!
追い風を受けて最終直線を走り抜ける2人は、互いの足音が徐々に近づいていくのを聴き最大までギアを上げる。数秒ごとに差が縮まり足音が大きくなっていく中、余力がなくなりふらつき始めた。
200mのハロン棒を順に通過し、その差はもう3バ身。減速するアストンマーチャンと加速しきったトゥラヴェスーラが横一線に並びかけた瞬間、思わず互いの方を向く。
「……!?」
横を走るマーチャンは、隠しきれない疲労と闘争の色を抱えながら、本当に嬉しそうに笑っていた。一瞬意識が純粋さから離れ、思考が真意を考える方向に進みかける。
「……違う!」
最後のスパートを掛けたマーチャンとの差が再び開きかけるが、再び視界を前に戻す。今はただ前に進まなければならない。芝をえぐり、空気をかき分け。長く遠ざかっていた勝ちが、今手に入ろうとしている。
「ああああああああぁぁぁ!」
レース中に叫んだのなど、何時ぶりだろうか。右前にあった足音は横に、後ろに下がっていき、トゥラヴェスーラは先頭でゴールを駆け抜けた。
「っ...はぁ……あっ……」
心拍数はレースの疲労と高揚感で恐ろしいほど上がっており、何とか押さえ込んでいた脚の痛みは緩んだ緊張により溢れ出す。だが自分は勝ったのだという実感がそれを何とか覆い隠し、呼吸を整えるためにゆっくり観客席沿いに歩きだした。
「ふふっ、負けちゃいました。」
屈みかけた彼女の元にアストンマーチャンが歩み寄ってくる。
「ようやく、追いつけました。」
「コーナリング、見事でしたよ。ジャーニーさんから教わったんですか?」
「ええ、昔どうしても曲がるのが上手くいかなくて困っていた時に教わったんです。先輩ほど上手にはなれませんでしたけど、それでも頑張りました。」
「最後、すごく怖い顔になってましたね。最終直線はみんな必死で怖かったのを思い出しました。」
「そういう先輩は、笑ってたじゃないですか。あれは嬉しかったってことですか?」
「はい。わたしのことを思い出してくれた子が、あの頃よりずーっと大きくなって、それでもわたしに憧れて、追いかけてくれたんです。あなたも長く長く走ってれば、分かるでしょう?」
「ちょっとだけなら。だからって、手を抜いたりしてませんよね?」
「ええ、そんなことをしたら怒られちゃいます。あなたはわたしに追いつきたいと思って頑張ってくれたんですから、その想いが、わたしを超えたんです。」
「……っ、ありがとうございます!」
「あなたは、満足できましたか?」
「もちろんです。でも、またあなたと走りたいです。」
「嬉しいことを言いますね、でもそれは、叶えられません。ごめんね。」
「……え?」
「わたしは、あなたの満ち足りない思いに引き寄せられて、何とかこっちに引き戻されたんです。だから願いが叶った今、もうこっちに留まるための楔はありません。」
「そんな……アタシが勝ったせいで、消えちゃうってことですか!?」
「そんな悲しい顔をしないでください。あなたは私を呼んで、一緒に走って、勝ったのです。勝者はもっと誇らしい顔をしましょう!ほら泣かないで。」
「でも、アストンマーチャンはアタシの憧れで、夢で。」
「その憧れを超えて、夢は叶ったんです。これからは、それを背負って前に進みましょう。」
泣き崩れそうな後輩の頭を優しく撫でると、手を取り立ち上がらせる。
「ほら、もうすぐ花火が上がるんでしょう?一緒に見ましょう。」
コースの奥を指さし、一緒に空を見ると上空に浮かび上がる白い物体が見える。
今までのものを超える、ひときわ大きな大輪。その感想を横のマーチャンに伝えようとした時、そこには誰もいなかった。
溢れ出しそうになる涙を抑え、三歩後ろに下がると先程までいたであろう場所に向かい礼をする。
「ありがとうございました。先輩のこと、もう忘れませんから。」
長い礼から戻り、ウィナーズサークルの方へ向かうとジャーニーが迎えに来る。ペットボトルのドリンクを飲み、貰ったタオルで身体を拭くと、行き場の無くなった感情を持て余すように先輩に抱きついた。
「ごめんなさい。少しだけ、こうしててもいいですか?」
「ええ、構いませんよ。」
それは数分ほど続き、落ち着いた後2人はレース場を去った。
「アタシ、引退しようと思います。今日あれだけ最高の走りをできて、もうあれを超えることはないと思っちゃったんです。」
「今まで、お疲れ様でした。よく頑張りましたね。」
「これから、どうしましょうか?」
「それはこれからゆっくり考えれば良いでしょう。今は少し、休みましょう。」
数日後、寮沿いの道をトゥラヴェスーラが歩いていた。手には引退届と大学の編入案内があり、それらを持っていくため足早に進んでいた。
激闘の反動がもたらす筋肉痛で少し立ち止まり、痛みを誤魔化すように辺りを見回すと茶トラの猫がこちらに向かってきた。足元に擦り寄り鳴き声をあげる猫を軽く撫でると、直ぐにその場を離れ、再び校舎の方へと歩み出した。