Persona x Classroom of the Elite 作:仔羊肉
020
豪華客船スペランツァ。この船には様々な形態のレストラン、アミューズメント施設、演劇が楽しめるシアターホール、高級スパといったものが備え付けられている。客として利用しようとすればそれなりの金額がかかるだろう、豪勢な旅行。オレたち一年生はそんな船内に乗ってのバカンスを味わっていた。
「っし! 泳げたぞ!」
視線の先には幸村と須藤がプールで泳いでいた。遊ぶスペースとは別に純粋に泳ぐためのレーンで二人は泳ぎの練習をしている。
また隣のレジャー要素の詰まったプールでは池や山内、外村、そして女子生徒達が水鉄砲を持ってお互いを掛け合っていた。
数分前に浮かんでいた「なんで俺達って男同士で水鉄砲撃ってるんだよ」と絶望していた表情は消え、純粋に楽しんでいるようにも見える。
あまりにも哀れで可哀想な姿を見かねた同クラスの女子集団──篠原や佐藤、小野寺を始めとした女子グループがしょうがないとばかりに一緒に遊ぶことを提案したのだ。女っ気のないバカンスから一気に華やいだ空間へ。
最も、その面子の大半は今は幸村の面倒を見ている須藤に注がれているが。なるほど、外堀から埋められているな。
そんな集団から離れた場所に設置されたパラソルの下でオレはその光景を眺めていた。
「ヒュポー! マッカッカさんってばすっかり先生になってるのよー! 眼鏡さん、足がバタバタしててまるで溺れるカエルなのよー! でもちゃんと泳げてるのよー!」
頭の上から身を乗り出し、プールを指さしてヒュロポスがけたたましく騒ぐ。
「それにしても、あの幸村が自発的に体を動かそうとし、須藤が根気強く教えている……数ヶ月前なら考えられない光景だな」
「んもー! それもこれも復興活動頑張ったからなのよー! 人間さんとあたしがちゃんと頑張ったからこんな素敵な光景ができたのよー?」
誇らしげに小さな羽を張るマスコットを軽く手で制しながら、オレは再びプールサイドに視線を戻す。
幸村は息を荒らしながらプールサイドに手をかけ、バテた様子で須藤を見上げていた。
「はぁ、はぁ……見たか、須藤! 二十五メートル……足をつかずに泳ぎ切ったぞ!」
「おう! 筋がいいじゃねぇか、啓誠! フォームはまだ硬ぇけど、力の抜き方さえ掴めばもっと楽に泳げるようになるぜ!」
「健の教え方は存外、合理的で分かりやすい」
照れくさそうに坊主頭をポリポリと掻く須藤と、満足気に頷く幸村。
かつての価値観であれば交流すらしなかった二人が、今では共通の目標に向かって互いを認め合っている。
「随分と楽しそうね。貴方も混ざってくれば良かったんじゃない?」
涼やかな声と共に、日差しを遮るパラソルの影に人影が差し込んだ。見上げれば、ラッシュガードを羽織り、冷たいトロピカルドリンクを手にした堀北鈴音が立っていた。
その隣には、薄手のパレオを腰に巻いた櫛田桔梗も並んでいる。
「オレは具体的な泳ぎの指導ができるほどのスキルはないからな」
「そう……でも、みんなの表情を見れば、今回のバカンスも悪くないわね」
堀北の視線は、プールサイドで男女共々から「須藤、俺にもコツ教えてくれよ!」と囲まれている須藤に向けられていた。
かつてクラスで孤立し、暴走を繰り返していた粗暴な男の面影は、今や男子の頼れるリーダーとしての風格へと書き換わりつつある。
「須藤くん、すっかりクラスの人気者になっちゃった。山内や池くんは相変わらず遠くで嫉妬に狂った顔をしてるけど」
櫛田は呆れた視線で、水鉄砲で女子の気を引こうとしては失敗している山内と池を指さす。表向きの柔らかい笑声の裏に、かすかな毒を含ませた言葉。
「ハラグロさん! 見なさい、これ!」
「は? なに、アホ鳥」
「あ、あアホ鳥ー! で、でもいいもん! 今のあたしは素敵な水着レディーなのよ! 人間さんが夜なべで水着を作ってくれたんだから!」
頭の上からパタパタと降り立つヒュロポスは「むふー!」と満足そうに胸を張っている。その身体にはいつものフードとスカートにブーツといった姿ではなくタンクトップビキニのような水着っぽいものが着せられていた。
「……道理で今朝からいつにもまして覇気が無いわけね」
そう、あろうことかこの鳥はバカンスの前日の夜に水着を作ってと言い出したのだ。そこから学生証端末でちょっとした縫い物について検索し、ハンカチでそれっぽいものを作った。
そしてどうやって脱ぎ、どうやって着たかわからない水着。この鳥に物理法則というものを期待するのが間違っているのかもしれない。
出来上がった時には夜明けが近く、白のタンクトップビキニを見て騒ぐヒュロポスを横目に寝付いたので寝たという感覚は殆ど無い。
「きよぽん達、発見」
そこへ、デッキチェアの方から聞き覚えのある声が届いた。長谷部波瑠加と、その後ろで少し恥ずかしそうに身を縮めている佐倉愛里だ。
長谷部は昨日ケヤキモールでオレに選んだ柄シャツをプールサイド用の羽織りとして着ているオレを見て、ニシシと満足そうに笑った。
「うんうん、やっぱりそのシャツ大正解! いつもの地味ぽん脱却で、ちょっとはリゾートの男って感じが出てるよ」
「……やはり少し目立ちすぎている気がするんだが」
「いいのいいの! 夏だから目立ってなんぼってもんでしょ? ほら、愛里もそう思わない?」
「あ……うん。すごく、似合ってるよ……けど、うぅっ……ライバル増えちゃう」
佐倉は眼鏡を外し、少し赤くなった顔を伏せながら小さくうつむいた。
素顔を隠さなくなった彼女の周りには、さりげなく他クラスの男子からの視線も集まっているが、本人はオレたちの輪の中にいることで安心しているようだ。
こうして集まった顔ぶれを見渡す。堀北、櫛田、長谷部、佐倉。こんな華やかな集団に囲まれているとなると──。
「あ、あ、綾小路、てめぇ!」
池がプールからこっちへ一目散に近づいてくる。山内や外村を置いてきて、物申すとばかりに。
「そ、そういうの良くないだろ! 俺達友達だろ! ちゃんと分け合えよ! プールでナンパした時に俺達はずっと友達だって! 彼女作る時とかモテモテの時は一緒だって約束しただろ!」
してない。
クラス内で池と山内係に就任している男をオレは見る。
「よ、よーっし! 啓誠! 次は五十メートルだ! 一気に倍だぜ!」
「い、いや、望むところではあるんだが……それよりいいのかアレ……」
「……見なかったことにしろ。いいか、今から起こることは台風とか雷とかと同じだ……清隆なら……きっと、大丈夫だ……」
幸村は少し引き気味に苦笑しながら「そうか……ならいいか」とプールへ潜り直した。
「おい綾小路! 無視すんな! 俺達の熱い友情はどうしたんだよ……ひぃっ」
オレを詰っていた池は視線をずらすと情けない悲鳴を上げた。
「池くん、随分と愉快なお話をしているようね。よければ続きを聞かせて頂けないかしら」
冷ややかな声がパラソルの下から撃ち出される。ラッシュガードの袖を軽く捲り上げながら、堀北が蔑むような眼差しで池を見下ろした。
「げっ、堀北……! い、いや俺はただ、そう……! ちょっと前に! 綾小路、がっ! ナンパしようって! そう、俺達を誘ったんだよ」
「池くん、面白くない冗談だよね。まぁ、誰が始めたとかどうでもいいんだけどさぁ……ねぇ、綾小路くん?」
櫛田が可憐な笑顔を浮かべている。本来は天使のような微笑みなのに池の身体はガタガタと震えていた。表向きは温和な声だが、その瞳の奥には圧力がこもっていた。
「……綾小路、お前はいい奴だったよ」
池は親指をグッと向けてきて慌ただしく去っていった。なにしにきたんだ、あいつは……。
「それで、きよぽん、ナンパって一体何? こんだけ女を侍らせてて足りないのかなー?」
長谷部のとんでもなく人聞きの悪い台詞。
「あ、あの……ううっ……わ、私も気になる」
長谷部と佐倉からも両サイドに挟まれる。一歩、と距離は近くなり──。
「やめるのよー! 人間さんはナンパ全然出来なかったけど、あたしのために争って! あたしのために優勝してくれたのよー! ひゅぽー! これが女冥利につきるってやつなのよー! ツンツンさんもハラグロさんも、嫉妬は醜いのよー! あたしが一番愛されガールでごめんねなのよー! ひゅぽぽぽぽ!」
高笑いするヒュロポス。堀北と櫛田の笑みが深くなる。よく見れば青筋が浮かんでいるように見えなくもない。
ヒュロポスの高らかな笑い声がプールサイドに響き渡る中、堀北と櫛田の表情からはいよいよ温かみが消え失せ、その笑みが昏い圧力を帯びて深くなっていく。
「……随分と楽しかったようね、綾小路くん」
「うんうん、綾小路くんってば、私たちが知らないところで色々とお盛んだったんだねぇ」
二人の間に漂う刺々しい空気。さらにそこへ、佐倉が控えめながらも意を決したように小さな声を上げた。
「あ、あのね……私だって、綾小路くんと……もっと、お話ししたいなって……」
指先を小さくもじもじとさせながら、上目遣いにオレを見つめてくる佐倉。
その横では長谷部が「ニシシ、きよぽんモテモテじゃん? 罪な男だねぇ」とニヤニヤしながら肩をすくめてみせるのだが、よく見ればその瞳の奥は少しだけ目が据わっており、どこか笑っていない。
なぜ彼女たちがここまでピリついた態度を取っているのか、オレには完全に理解できていない。女子同士の微妙な縄張り意識か、あるいは近しい距離の男が複数の女子と歓談していることへの反感だろうか。
そんな不穏な沈黙が流れるプールサイドに、ゆっくりとした足取りで近づいてくる二人組があった。
涼しげな麦わら帽子に、風にそよぐ白いワンピースを纏った少女──坂柳有栖だ。そのすぐ後ろには、どこか面倒くさそうな顔をした神室が付き添いとして並んで歩いている。
「綾小路くん、こんにちは」
上品に微笑みながら声をかけてくる坂柳。
突然現れたAクラスの見知らぬ少女に、堀北たちの間にすっと緊張が走る。次の瞬間、坂柳の顔を見た櫛田の表情が一変し、ぽつりと声を漏らした。
「坂柳さん……」
その呟きを聞いた瞬間、長谷部や佐倉の顔にもハッとした色が浮かび、何かに気づいたようにそっと視線を逸らした。入学直後に大きな事故に巻き込まれ、凄惨な状態で発見され、記憶喪失になったという痛ましい噂の主だと知っているのかもしれない。
そんな彼女たちの反応を逃さず察知した神室が、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……これだから他クラスは嫌なのよ、わかりやすい」
忌々しげに吐き捨てられた言葉に、オレは首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「男子の中じゃ大した噂になってないけど、女子の中ではこいつの話はそれなりに広がってるのよ」
神室は淡々と事実を口にする。オレが「そうなのか?」と問いかけると、隣にいた堀北が不審そうに眉をひそめた。
「……何の話?」
完全に会話の輪から置いていかれていた堀北に対し、神室は呆れたような視線を向ける。
「……まぁ、男子でも耳聡いやつは知ってるし、女子でも知らないやつもいるか」
言外に一般的な女子枠から外された堀北の目つきは鋭くなる。
「それで他クラスが一体、何のようかしら? 少なくとも仲良く交流するといった態度のようには見えないのだけれど」
堀北が切れ長な瞳を細めて問いただせば、神室も負けじと睨み返す。
「別に私は用なんてないし、仲良くするつもりもない」
何故かバチバチと視線の火花を散らす二人を余所に、坂柳が嬉しそうに手を打ち合わせた。
「捜査部のお時間ですよ。綾小路くん」
突拍子もない単語に、神室も含めたその場の全員の動きが止まり「捜査部?」と聞き慣れない言葉を繰り返した。
「そうです。私と綾小路くんはこの学校に隠された謎を見つけ出す捜査部を設立したんです。目下、一番の目的は私の記憶ですが、それ以外にも様々な難事件を解決する予定です。そして、事件が起きました」
全部初耳だった。坂柳の記憶を探す手伝いは了承したが、様々な難事件を解決するなんて言った記憶はない。そもそも難事件が起こる学校だなんて嫌すぎる……。
そんなオレの感想など露知らず、坂柳は誇らしげに、少しだけ胸を張ってみせた。後ろに立つ神室は頭を押さえて深々と溜息を吐いている。
堀北と櫛田は無言のまま、視線だけで『また、面倒なことしてる』と言外に強い呆れを伝えてきた。
「探偵は私です。助手の綾小路くんと助手のピヨピヨさんです」
ヒュロポスが「ひゅぽー!」と羽ばたく中、坂柳が得意げに紹介する。その言葉を聞いて、佐倉は緊張を少し解しながらも苦笑を漏らしていた。
「じょ、助手なんだ……」
「なんか、そうらしい」
「まぁ! 綾小路くん、そのような意識ではいけませんよ。私の助手をするというのは誇らしいことなんですからもっと喜んでください」
集まる視線、坂柳の何かを期待する目、神室の脅すような瞳、堀北と櫛田の呆れたような視線、佐倉の心配が詰まった眼差しに、長谷部の面白がる目元。
集まる複数の目線にオレは溜息を吐きながら尋ねる。
「それで、一体、どんな事件なんだ──?」
◇ ◇ ◇
現場百遍という言葉があるらしい。
現場を何度も回って些細なことでも見つけ出すこと。現場を百回訪ねるように些細なことまで見つけることが解決の糸口になる──現代の警察組織における心得や姿勢をさす言葉だ。
中国の故事である『読書百遍』、すなわち百度読み返せば自ずと書かれている知識は身につくという言葉が語源と言われていて、その『読書百遍』が時に机上の空論を指すことへのアンチテーゼとして、現場主義とも呼べる『現場百遍』は生まれたという説がある。
そして──ここがその「現場」というわけだ。
そこには大量の水滴が落ちていた。大層な量が点々と豪華客船の内部に続いている。まるでプールや海から上がった人間がそのまま歩いたかのよう。
「不思議だとは思いませんか、綾小路くん」
坂柳が麦わら帽子の庇を軽く持ち上げ、どこか楽しげに目を細めた。
「……何がだ」
「この大量の水滴……これはもう事件の臭いがしますね……豪華客船、招かれざる客人、起こる惨劇。さぁ、悲劇を止めにいきますよ」
ノリノリである坂柳を他所に、他の面々も落ちた水滴へ真剣な視線を注いでいる。堀北や櫛田も泳がずに着替えて現場にやってきたのだが、プールは良かったのだろうか。
「確かに変ね、更衣室や着替えのスペースはプール近くにある……だから廊下にこれだけの水が落ちていること自体が不可解だわ」
堀北が顎に手を当て、真面目に考察を深めていた。
「……タオルとか用意してあるし、何から何まで至れり尽くせりだから、濡れたまま出歩くなんて妙だね」
櫛田も真顔で頷きながら考えている。
神室は『え? あんたたち、本気でするの……?』といった呆れ果てた視線でオレたちを見つめていた。長谷部も考え込んではいるものの目ぼしい答えは思いつかないようだ。
そんな折。
「あ、あの、これ……」
佐倉が恐る恐る床を指差していた。そこには水滴に混ざって、足跡がくっきりと残っている。
「ひゅぽー! お手柄なのよ──! 足跡が残ってるとは間抜けな犯人なのよー! むむむー! こっちに続いているのよー!」
パタパタと足跡の方向へ駆け出していくヒュロポス。どこまで行ってるのかわからない。お腹が空いたら戻ってくるだろう。迷子になっていたら堀北や櫛田が探す、きっと……。
「ほぅ! 佐倉さんでしたね。お手柄です」
一人と一匹に褒められて、佐倉は「そ、そうかな……えへへ」と頬を染めて照れていた。
勿論、ヒュロポスの声など聞こえない佐倉の目には、ピーピーうるさい電子音に大袈裟なジェスチャーをとる奇妙なマスコットにしか見えていなかっただろう。
オレはその足跡を凝視すると、小さく呟いた。
「大きいな……」
その足裏の大きさから、かなりの体格を持つ人間だということが分かる。須藤か、あるいはそれ以上の大きさ──そう推測した、その時だった。
「これ、男の足跡でしょ……」
神室も足跡を覗き込んでそう断定した。
「結局、混じるのか……」
「なに? 文句あるわけ?」
神室のジトッとした視線に「別に」と答えれば小さく鼻を鳴らして足跡を見る。この足跡の大きさとなれば生徒内であるのならばかなり限られてくるな。
Dクラス内部だと須藤──高円寺。なんか、嫌な予感がしてきた──。
「ハーッハッハッハッハ! 美しい! 今日の私も美しい! 見給え、ボーイくん。このキレのある肉体美を!」
「お、お客様! 水に濡れたまま船内をうろつかれては困ります!」
「すまないね、物心ついた時から、身体を拭かない主義でね……それに言うだろう? 水も滴る良い男……ってね! ハーッハッハッハッハ! 美しいッ!」
ビショビショの姿で優雅に廊下を歩く高円寺と、それを必死に追いかける船のクルーの姿が通り過ぎていった。
「…………」
あまりにもくだらない真相に、呆然としてその光景を見送っていたオレたち一同。ふと周りを見回すと、坂柳とバチリと目が合った。
彼女は顔を真っ赤に染め上げ、被っていた麦わら帽子で顔を覆うように隠しながら。
「ミ、ミスは誰にでもつきものです! 原初の罪により人が死を得たように人間はミスを犯すことで人間であるということを証明するのです。つまりは今回のミスは私という天才であってもミスは犯すという非常に有意義な答えということでしょう。真相はどうであれ、捜査部が謎を解決したといっても過言ではありません。いいですか綾小路くんこれはミスはミスでもとても意味のあるミスなのです。むしろ犯罪を未然に防ぐといった可能性もあったわけですから必要な行動だったわけで──」
普段の冷静さはどこへやら、めちゃくちゃな早口で支離滅裂なまくしたてをしていた。
「──そういうわけで、決して私が高円寺くんの奇行を事件だと勘違いしたわけでは……!」
面影を跡形もなく吹き飛ばし、顔をりんごのように真っ赤に染めたまま早口でまくし立てる坂柳。その必死すぎる弁明に、隣の神室が頭を押さえて深々と溜息を吐いた。
「……まぁ、事件でも何でもなかったんだからそれでいいじゃない」
神室の呆れ混じりの助け舟に、坂柳はハッと口をつぐむと、取り乱した呼吸を必死に整えた。
そして軽く咳払いを挟む。
「こ、こほん。そういうことです。わかりましたか? 綾小路くん」
コホンと小さく喉を鳴らした瞬間、彼女は先ほどまでの狼狽が嘘だったかのようにミステリアスな雰囲気をかぶり直した。麦わら帽子の下から覗く顔には、先ほどまでの醜態など最初から存在しなかったかのような、いつもの上品で余裕に満ちた微笑みを浮かべている。完全に無かったことにするつもりのようだ。
その一連の見事すぎる掌返しと、あまりにも残念な「Aクラスの生徒」の素顔を目の当たりにした堀北は、信じられないものを見るかのように呆然と固まっていた。
「こ、これが……Aクラス、兄さんと同じ……私たちが目指す……これが……」
膝から崩れ落ちんばかりの衝撃を受け、深刻な精神的ダメージを負っている様子の堀北。目指すべき絶対的な存在として君臨しているはずの最高クラスのイメージ像が、あまりにも呆気なく崩れ去ったショックは相当なもののようだ。
一方、その横に立つ櫛田はというと、感情を失ったような平然とした表情で坂柳を見つめていた。その生暖かい、どこか哀れみすら孕んだ視線は、普段、頭の上や肩の上、胸ポケットで「ひゅぽー!」と騒いでいる奇妙なマスコットを見る時のそれと完全に同質のものだった。
「……なるほどね。Aクラスの探偵さんも、色々大変なんだねぇ」
毒気を抜ききられたような長谷部の呟きが、静かな廊下に虚しく響き渡っていた。
──きゅぅぅ。
静まり返った廊下に、あまりにも可愛らしく、けれど残酷な音が小さく響き渡った。
坂柳のお腹の虫である。
まさに泣きっ面に蜂、恥の上塗り。先ほどまで必死に取り繕っていた坂柳の顔はさらに真っ赤に染まり、その瞳にはとうとうじわじわと涙が浮かび始めていた。Aクラスの才媛としてのプライドが音を立てて崩壊していく姿は、あまりにも可哀想で見ていられない。
一瞬の凍りついた沈黙の後、横から神室が半ばヤケクソ気味に声を張り上げ、オレに向かって詰問するように詰め寄ってきた。
「あー! お腹空いたわねー! そう! お腹すいたのよ! なんか文句でもあるの!」
「いや、無いが……」
見事なまでの棒読みと強引すぎるすり替え。オレが冷静に返すと、そんな神室に向かって坂柳は助かったとばかりに素早く言葉を重ねた。
「しょ、しょうがないですね、神室さんは。私も丁度、お腹が空いたことですし、この先のレストランで食事にしましょう」
「あ、ありがとう……」
神室はヒキヒキと唇の端を痙攣させながら、精一杯の笑みを浮かべていた。普段はめったに作らない表情なのだろう、大分無理をして坂柳の茶番に付き合っている感じが伝わってくる。
「綾小路くん。では、いきましょうか」
「えっ?」
「えっ……?」
平然と探偵の顔に戻ろうとした坂柳が声をかけてくるが、オレの自然な疑問符に対し、なぜか坂柳も疑問符で返してきた。
「オレも行くのか?」
「えっ……だって、捜査部……祝勝会……打ち上げ……」
何が祝勝会なのかはさっぱり分からないが、オレの言葉に坂柳はしょんぼりと眉を落として見せた。先ほどまでの強がりはどこへやら、捨てられた仔犬のような目で見つめてくる。
すると、横から神室が殺気立つような視線でオレを睨みつけ、低く脅しをかけてきた。
「来るわよね、というか来なさい、来て」
切実すぎる圧力。断れば後で何をされるか分かったものではない。
そんな奇妙な二人とオレのやり取りに向かって、ようやく崩壊した精神から再起動を果たした堀北が、凛とした声で立ちはだかった。
「ちょっと待ちなさい」
呼び止められた坂柳は、極めて冷静な口調で尋ね返していた。声をかけられた坂柳はこほんと小さく咳払いをして――不敵に微笑む。
「何か、御用でしょうか、Dクラスの堀北鈴音さん?」
……この部分だけを切り取れば、妖艶でミステリアスな雰囲気とも言えなくもないだろう。
先ほどまでお腹を鳴らして涙目になっていた人物と同一とは思えないほど、坂柳は優雅で隙のない佇まいに戻っていた。そのミステリアスな雰囲気に一瞬押されつつも、堀北は毅然とした態度で言葉を返す。
「何を自然に綾小路くんを連れて行こうとしているわけ? 貴方達はAクラス、私たちはDクラス。今は敵同士の筈よ」
「面白いことを言いますね。今はバカンス中、休みの間も臨戦状態とは随分と好戦的なのですね。ですが、本当に今が敵同士と思っているのなら……ふふっ、お可愛いこと」
坂柳のクスリとした含みのある笑いに、堀北は不快そうに眉をひそめた。
「常在戦中、この船の中でも私たちは試されているものと考えているわ。迂闊な行動はやめておいた方がいいと思うのだけれど」
「保守的な考え方ですね。本当に戦う気があるのなら、こういう時間に交流や情報収集をするのは好手ではありませんか? それとも怖いんでしょうか? 私達、Aクラスが」
挑戦的な眼差しと、威圧感すら抱かせる堂々たる態度。先ほどまで泣きべそをかいていた人物とはとても思えない豹変ぶりに、横で聞いていた佐倉が気圧され、オレが着ている派手なカラーシャツの裾をギュッと掴んできた。
さらに、坂柳は追い打ちをかけるように首を傾げてみせる。
「それに、私が誘ったのは綾小路くんで、貴方達は別に誘っていませんけれど? ただのクラスメートが邪魔をしないでくださいな」
その突き放すような言葉に、堀北が小さく呻いた。
「た、ただのクラスメートではないわ」
堀北のウィークポイント。孤独を拗らせすぎたが故に、仲間や友達といった群れでの関係性を主張する際、どうしても照れや躊躇いが拭えないのだ。
歯切れの悪くなった堀北に対し、坂柳は待っていましたとばかりに口角を上げる。
「そうですか、ではお友達? それならば綾小路くんの意思を邪魔してまで止める権利はない筈ですよね。ただの友達風情が、私と彼の深い関係に口を出すのは少し野暮ではありませんか?」
いつからオレと坂柳がそんな深い関係になったのだろうか。覚えがなさすぎる。
根も葉もない言葉に、後ろに立つ神室の視線がオレを射殺さんばかりの鋭さで突き刺さってくる。袖を掴んでいた佐倉は「ひょ、ひょえぇぇ……」と悲鳴を上げて驚き、両脇からは櫛田と長谷部が容赦なくオレの脇腹を抓ってきた。痛い。
当の堀北はといえば、動揺を隠しきれずに狼狽していた。
「あ、綾小路くんが誰かと付き合ってるなんて、ありえないわ!」
……その言い草だと、オレが誰からも相手にされない凄く悲しいやつであるかのような前提が成り立ってしまうのだが。そう心の中でツッコミを入れたが、主張する気も起きない。
坂柳は勝ち誇ったように、優越感に満ちた笑みをこぼした。
「チェック」
小さく呟き、決定打を告げるように言葉を重ねる。
「確かに綾小路くんは、誰ともお付き合いはしていないのでしょう。今は、まだ……けれど、それが永遠に続くと思っているのなら、随分と可愛らしい恋愛観ですね。まるで雛鳥……ピヨピヨさんです」
「わ、私がピヨピヨですって……!?」
駄目だ。坂柳のペースに引きずられているせいか、堀北の知能指数が著しく低下している。いつものDクラスを牽引する高い知性とカリスマ性を完全に失っていた。
櫛田を見るといつもは見れない堀北の姿にちょっとだけ楽しさが勝っているのかニヤニヤしてる。後でからかうやつだろう。神室は既に疲れているのか遠い目をしている。
「ふっ、お可愛いDクラスの皆さんに言っておきましょう、私たちAクラスは貴方達の三つほどランクが上なのです。ぐ、具体的には……すぅー……はぁ……き、き、き、清隆くんっ! と下の名前を呼び合える仲なのです!」
袖を掴む佐倉が「ひぇぇぇぇ……Aクラス凄ぃぃぃぃ」と戦慄していた。
「ふっ、どうやら私の勝ちのようですね。では、いきましょうか、き、き、き、きょ……たか……くん」
顔を真っ赤にしながら語尾を小さくする坂柳。神室の射殺すような視線。堀北のどこかすがりつくような目。櫛田の長谷部の抓りに力が増して、裾を握る佐倉の手もまた強くなる。そんな中でオレは──。
「須藤たちと晩飯を取る約束しているから無理だ、悪いな」
端末を見ればそろそろ時間であった。プールも上がっていることだろう、オレは手を挙げて一同に挨拶をしてその場を去った。
◇ ◇ ◇
「よ、よぉ、清隆……なんか凄ぇ、寒気がするんだけど何かしたか?」
着替えて待っていた須藤の隣には池と山内が居た。どうやら食事はこのメンバーでいくらしい。
「風邪か?」
「違ぇよ……こう、背筋がってか、なんかよぉ」
肩を強張らせてブルブルと巨体を震わせる須藤。
「幸村たちはいないのか?」
オレの疑問に池が答える。
「聞いてくれよ! 綾小路ぃ! 幸村の野郎、裏切り者なんだよ! クラスの女子に人気出やがってよぉ! クソぉ……」
オレたちは移動しながら会話を始める。
「そうなのか?」
オレが須藤に尋ねると。
「まぁ、人気はあるんじゃねぇか? 頭がいいし、運動苦手でも克服しようと頑張ってんだからそりゃあいい物件……? 物件だっけか? そんな感じのやつじゃねぇの?」
須藤の答えに納得がいく。
「それなら健も似たようなものだろ。誘われなかったのか?」
「いや、誘われたけどおめーらと約束してたしな」
そのあっけらかんと放つ言葉に山内と池は「け、けんぅ〜」と抱きついていた。
「ばっ、やめろ……」
引き離す須藤に池は尋ねる。
「でも健は誰かと付き合おうって思わねーのか?」
「んー、まぁ、今はいい。バスケ部もそうだけど、他にも色々と楽しいしよ。それに、女がマジギレしてるところを見たら今は彼女とかいいかなとか思ってよ……もしかしたら、俺は大人しい子がいいのかもしれねぇ。いや、きっと、そうだ……こえーよ、女子……」
「あ、え、えーっと、堀北とか? あいつ基本的に大人しいじゃん」
池の言葉に更にブルブルと震える須藤。山内も一緒に震えていた。
「いいか、寛治。堀北と櫛田だけは絶対に怒らせるなよ……マジで頼むぞ」
フォーラム内部の戦闘で敵に攻撃する姿でも思い浮かべているのだろうか。須藤の懇願に「お、おぅ……」と困惑していた。
「へー……まぁ、俺は? 今は一之瀬ちゃんなんだけどさ! ほら、この前のビーチバレーの時のさ!」
「あっ、寛治! ずりぃぞ! 俺だって一之瀬ちゃん狙ってるんだからな! 真似すんなよ」
「はーっ? お前こそ真似すんなよ。俺が先に狙ってたっての」
そんな風に騒がしく移動した先は──高級レストラン。様々な飲食店がある中で池と山内が絶対にここがいいと騒ぎ立てて決定した。夕食時ともあって店内の席はかなりの数が埋まっている。
ウェイターに通された席でメニューを見れば──。
「うおっ、なんだ、これ……ふ、ふろ、ふろまーじゅ?」
料理の知識が試されている。それだけではなく、相応のマナーも要求されるのだろう。制服だらけの店内、ドレスコードからしてオレたちの私服は明らかに浮いていた。
そんな空気の中、須藤はメニューから顔を挙げてこちらを見てくる。
「なぁ、清隆、運動したから肉をガッツリと食いてーんだけど……」
「一応、ジビエ系統から仔牛のローストとかあるが、多分、健の期待するタイプの肉じゃないと思う」
「だ、だよなぁ……」
ガックシと肩を落として周囲を見ては「あんなんじゃ余計に腹が減っちまう……」と口にしていた。
「と、とりあえず、注文しようぜ! すいませーん! すいませーん!」
山内が店内で大きな声で注文を呼ぶ。その瞬間、あからさまに周囲から睨まれる。
「はっ、Dクラスはマナーも知らないのか」
近くのテーブル。そこに座っていた戸塚が食べる手を止めて嘲るように言ってきた。
「な、なんだよ、お前! Aクラスのなんとか!」
「戸塚だ! 覚えてろ、山内! なんで俺がお前の名前を覚えていてお前が俺の名前を覚えてないんだ!」
「はっ! んなもん、この俺が最高に目立つからに決まってるからだろ!」
あぁ、最高に目立っている、悪い方向に。周囲からはひそひそと囁かれ、これ以上ないくらいの自己主張。
「くっ、これだから馬鹿は嫌なんだ……おい! 綾小路、須藤! はやく、こいつを黙らせろ! 後、こういう店ではメニューを畳んだ後にウェイターと目を合わせて手を挙げてから注文するんだ! 大声を出して呼ぶなんて言語道断だ、分かったか!」
戸塚の発言に池が「お、教えてくれんのか……サンキュ」と驚きながら呟いた。
「不本意だがな、まったく……」
そういって戸塚は食事へと戻った。隣で食事を取っていた葛城は戸塚の方向を一瞥して嬉しそうに笑みを零していた。
オレたちは戸塚の教えてくれたマナーの通りにウェイターを呼び、慣れないメニューの中から辛うじて想像できるものを選択して注文を終える。
食事が来るまでに周囲を伺いながら小声で話す。
「おい、春樹……おれ、マナーとかよくわかんねーぞ」
「だ、大丈夫だって! なんとかなるなんとかなる」
「ほ、本当かよ……今から店変えたほうがいいんじゃね?」
「うっ……でももう注文しちまったし……いけっかな?」
三人の焦りを他所にオレは新しく入ってきた集団に注目する。その集団が足を踏み入れた瞬間に室内の雰囲気が一気に変わった。
「……なんだ?」
須藤がピリつく雰囲気に少し眉を潜める。そこに須藤よりも遥かに大きい体格を持つ黒い肌を持ち、サングラスをかけた生徒。ショートカットで周りに睨みを効かせる女子。そして──長い髪を持つ先頭の男。
そいつが群れのボスとでもいうように二人は左右についている。
「り、龍園……」
山内の震える声。なるほど、あいつが特別棟の事件の黒幕。
龍園と呼ばれた男は、オレたちの方向へ真っすぐ歩いてきて、テーブルの空き席へ一切の躊躇もなく深く腰掛けた。
その背後には、圧倒的な体格差で周囲の視界を遮る巨漢と、鋭い眼差しでこちらの動きを監視するショートカットの少女がぴたりと控えている。
須藤は即座に全身の筋肉を強張らせ、いつでも跳びかかれるよう身体を低く構えたが、左右からの圧倒的な圧迫感と隙のない牽制によって、軽易な行動を完全に封じられていた。
「俺達が随分と苦労しているのにテメェは楽しそうで羨ましいな、山内」
脚を組み、背もたれに深く体重を預けた龍園が、愉悦に満ちた歪んだ笑みを口元に浮かべる。その言葉を受けた山内は、一瞬で顔面から血の気が引き、オロオロと視線を彷徨わせながら「あ、いや、別に」と引きつった声で小さく口にした。
「テメェ、何が言いてーんだ」
二人の壁に挟まれ、一触即発の緊張感に包まれながらも、須藤が低く唸るような声で二人を牽制する。
だが、その張り詰めた空気に追撃を加えたのは、隣のテーブルだった。
「龍園、ここは君のような輩には些か不釣り合いな場所じゃないか?」
フォークを置き、不快感を露わにして声を上げたのはAクラスの葛城だった。高級レストランの品格を乱す存在に対し、嫌悪感を隠さずに睨みつける。しかし、龍園は視線すら向けずに鼻で笑い飛ばした。
「はっ、お行儀のいいAクラス様には随分とお似合いのようだ。テメェらには用はねぇよ、雑魚ども」
「俺達が雑魚だと!? Cクラスの癖に」
戸塚が怒りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩かんばかりに身を乗り出す。隣の葛城が制止の視線を向けるのも構わず噛み付く戸塚に対し、龍園はククッと喉を鳴らして冷ややかに吐き捨てた。
「くくっ、威勢だけはいいな。黙ってろ、三下。オレは価値を確かめに来たんだよ、こいつらのな」
そう言って、蛇のようにギラついた瞳で真っ直ぐに射抜いてきたのはオレだった。
だが、この場でまず料理される標的は、目の前で身を縮めている山内なのだろう。
「んで、山内。お前は俺達Cクラスに多大な迷惑をかけたにも関わらずなんもねーのか?」
「や、やめろ、は、話は聞くからここじゃちょっと……」
店内の注目が集まる中で自らの裏切りが暴露される恐怖に耐えかね、山内は席を立ちかけながら、必死に怯えた声で懇願する。しかし、龍園にそんな申し出を聞き入れる気など微塵もなかった。
「はっ、テメェと話すことも利用することももうねぇんだよ。クラスを裏切った上で誤情報掴まされるような無能なスパイなんて居ないほうがマシ……そうだよなぁ、綾小路」
龍園の視線が、嘲笑と共に完全にオレへと固定される。
特別棟での審議会、ダミーカメラ、そして裏で糸を引いていた情報戦、出所不明のポイント──すべてを裏で収束させた人間が誰であるか、この男はすでに確信を持ってオレの名を呼び張っていた。
「は? ど、どういうことだよ!」
その言葉に立ち上がったのは山内の友人である池であった。
「ククッ、随分とお優しいことだな。クラスの裏切り者をみんなには黙ってたってわけか。随分といい仲間に恵まれたようだなぁ、山内」
余裕の笑みを浮かべる龍園に対して、山内は顔を歪めて小声で「やめてくれ、やめてください……」と懇願していた。
「うるせぇよ、お前」
須藤は立ち上がり、龍園を睨みつける。だがその一歩前に巨漢の男子生徒が立ちはだかる。
質量すら伴った暴力的な雰囲気にレストラン内の空気は一気に冷える。
「座らせてやれ、アルベルト」
「Okay,Boss」
須藤の肩を掴み、押し返そうとするが──須藤は動かない。体格では上回るアルベルトと呼ばれた男はサングラスの奥の目を見開く。
「……春樹が裏切ったことを言わないようにっ、言ったのはっ、俺だ。文句があるならっ! 俺に言え! 俺達の関係を! ダチを! テメェらに馬鹿にされる謂れはねぇだろ!」
アルベルトに押し返されたまま須藤は吠える。その光景に疑心に囚われた池は立ち上がって。
「そ、そうだぜ! よくわかんねーけど、俺は許す! それにお前ら負けたからって嫌がらせしにきただけだろ!」
その光景を見て龍園の嘲笑は引っ込む。
「クセェお友達ごっこだ。お前らは本当に裏切り者が山内だけだと思ってんのか?」
龍園の言葉に須藤と池は表情を凍らせる。なるほど、龍園の目的はおおよそ確定した。
いつ始まるかわからないなんらかの試練。その前哨戦としてここでオレたちDクラスの分断を図りにきたのだ。それだけではなく、他クラスの目がある中で内部に裏切り者がいたというウィークポイントを他のクラスにも周知する。
そして更に内部に裏切り者がいることを示唆し、疑心暗鬼へと誘導すること。龍園としてはこれを機に疑心暗鬼でクラスの基盤が揺らぐのも良し。
もしくは疑心を振り払い結束した時に本命の裏切り者に行動させる──巧妙な手だと言えよう。
事実、オレがもう一人の裏切り者に気づいていなければその策は実るだろう。オレ自身、更なる裏切り者についてはヒュロポスを含め、誰にも口外していないことから妙手は成り立っている。
そして、もう一人の裏切り者に気づいていることを確かめに来ている。
軽井沢が切り札に成りうるのか、死に札なのか。
ただ「他の裏切り者」という不穏な単語を放つだけで、周囲の人間に十分な疑心の毒を撒き散らせるからだ。
そして、それはオレたちだけではない。隣のテーブルであるAクラス、ホールにいるBクラスと全クラスへと染み込む毒。
「おい……龍園、どういう意味だ言ってみろよ!」
池が耐えかねて声を張り上げるが、龍園は取り合おうともせず、椅子の背もたれからゆっくりと身体を起こした。
「くくっ、焦るなよDクラス。答え合わせはいずれ嫌でもわかるさ。せいぜい仲間同士で背中を刺し合わねぇよう、お互いの目を見て会話することだな」
龍園はニヤリと不気味な笑みを浮かべ、オレの顔を盗み見るように視線を横滑りさせた。だが、オレの無表情な顔から何一つ情報を読み取ることができないと悟ると、つまらなさそうに鼻を鳴らす。
「行くぞ、アルベルト、伊吹」
「Okay, Boss」
巨大な体躯のアルベルトと、終始不機嫌そうに舌打ちを鳴らしていた伊吹を従え、龍園は優雅にレストランの出口へと歩み去っていった。嵐のような男の去り際に、店内には重苦しい沈黙だけが残される。
「くそっ……なんなんだよあいつ! 言いたいことだけ言い集がって……!」
池が悔しそうに拳を握り締め、須藤は静かに息を吐きながら立ち尽くす山内の肩を強く叩いた。
「春樹、座れ。あいつの言いぐさに惑わされるな。もう、終わったことだ。こんなことで疑い合うような真似はしねぇ」
「け、健……俺……俺……ごめん……」
山内は顔を蒼白にしながら、絞り出すような声で呟く。裏切りの罪悪感と、龍園から捨て駒扱いされたショックが、彼の心を苛んでいるのだろう。最もそれがいつまで続くのかはわからないが。
「安心しろ。過去の失敗を取り戻す機会はいくらでもある。お前が諦めなきゃな」
須藤のその言葉は、かつて荒れていた自分自身に言い聞かせるようでもあった。成長を遂げた須藤の姿に、池も静かに頷く。
やがて運ばれてきた料理を前に、4人は静かにフォークを動かした。高級レストランの豪奢な味わいも、いまの彼らの舌にはあまり届いていないように見える。
食事を終え、レストランを後にした帰り道。オレは全員と別れて廊下の天井灯が柔らかく照らすデッキへと差し掛かったところで、オレの肩の上でひょっこりと気配が現れた。
「ヒュポー! よくも置いていったのね! このあたしを置いていくなんて酷い人間さんなのよ! ……んにゅ? 人間さん、珍しく楽しそう……さては何か面白いことをしてたのね! ずるいのよー!」
「楽しそう?」
「そうなのよ! あたしにはわかるのね! きっとなんか素敵なパーティーとかやったのよ! お誕生日会とか」
「してない」
「じゃあなんなのよー! はっ!? ひゅぽっ!? も、もしかしてサプライズパーティー……ひゅぽぽぽっ! に、人間さん! あたしは何も気づいてないのよ? ひゅぷぷぷぷ! なーんにも気づいてないのよー!」
くねくねと変な踊りを肩でするヒュロポス。なんのサプライズも存在しない。勘違いであるものと思っていたサプライズがないとすれば大抵の人間なら落ち込むだろうが、この鳥のことだ、明日にはもう忘れているだろう。
小さな羽をパタパタと羽ばたかせ、声はオレにしか聞こえない夜闇の中で騒ぎ立てるヒュロポス。現実世界ではただの奇妙な玩具AIとして処理されている彼女だが、その呑気な言葉はどこか張り詰めた空気を和らげる。
「ひゅぽぽぽ! もーぅ、人間さんってばあたしのことが好きすぎるのよーっ!」
肩の上に降り立って騒ぐマスコットを軽く指先で小突きながら、オレは夜の海を見渡す。
波間に揺れる豪華客船スペランツァ。バカンスという束の間の平穏の裏で何かが静かに蠢き始めているのを感じていた。