Persona x Classroom of the Elite   作:仔羊肉

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 朝、女子テントの周辺が妙に騒がしいことに気づき、オレは敷物の上から体を起こしてテントの薄幕をくぐり抜けた。

 

 外に出ると、既に大半の女子生徒たちは目を覚まし、一つのテントの前へと集まっている。オレと同じように異様な雰囲気を察したのか、他の男子生徒たちも次々と眠い目をこすりながら起き出してくるところだった。

 

「一体、朝からどうしたんだよ……」

 

 欠伸を噛み殺し、寝ぼけ眼のままやってきた池寛治に対し、篠原が鋭い視線を向けて声を荒らげた。

 

「軽井沢さんの下着が無くなったのよ!」

 

 その唐突で生々しい報告に、彼氏である平田洋介が顔を青くして「軽井沢さんの……?」と絶句するように呟く。

 

 一瞬で広がった不穏な空気は瞬く間に伝染し、互いを疑い合う猜疑心が無人島の静寂を侵食していった。

 

 そんな息苦しい沈黙の中、男子生徒の一人がぽつりと口にする。

 

「Cクラスのやつじゃねぇの……?」

 

 他クラスからのスパイである伊吹の存在が、誰の頭にも真っ先に浮かんでいたのだろう。けれど、女子生徒たちの反応は芳しくない。むしろ男子側へと冷ややかな視線が集まるばかりだった。そんな空気の中、松下が女子を代表するように口を開く。

 

「絶対にありえないわけじゃないけど……多分、無理」

 

 松下は淡々と伊吹犯行説を否定してみせた。

 

「ほら、一昨日の話し合いで伊吹さんへの監視強めてたでしょ。伊吹さんには複数の目があったの」

 

 女子が交代制で見張りに立ち、監視を強めるという取り決めを行っていた。あの警戒網を誰にも気づかれずに潜り抜け、女子テントに侵入して軽井沢の下着だけを持ち去るのは、あまりにも難しい。

 

 皮肉にも、スパイを見張るための布石が、そのまま伊吹の無実を裏付ける結果になっていた。

 

 松下の指摘を受け、女子グループの中から嫌悪感の滲む声が漏れる。

 

「……男子じゃないの?」

 

 その可能性を疑っているのは、恐らく一人や二人ではない。男子生徒全体へと視線が集まり、空気が一気に張り詰めていく。

 

「ねぇ、平田くん……持ち物検査してくれない?」

 

 佐藤がそう提案を投げかけた。男子の中に犯人が潜んでいるという前提の言葉に、池が思わず声を張り上げる。

 

「ちょ、ちょっと待てよ、お前ら! 男子に犯人がいるって思ってんのかよ!」

 

「……だったら受けなよ」

 

 対照的に、篠原がポツリと冷たく呟いた。それなりに交流を重ねてきたはずの池に向けられた、決定的な拒絶の言葉だった。

 

 池はショックを受けた表情のまま、言葉を失う。

 

 殺伐とした空気が頂点に達しようとしたその時、テントの中から堀北鈴音と櫛田桔梗が現れた。

 

「今、どういう状況?」

 

 事態を把握しようとする堀北の問いに、松下が淡々と答える。

 

「男子の手荷物検査をさせてほしいって言ってる所」

 

「そうね……まずは消えたものが出てこなければ話は進まないわ。男子だけじゃなく、全員の持ち物を検査しておきましょう」

 

 堀北のその言葉に、女子から「なんで!?」と悲鳴にも近い声が上がった。

 

「男子を疑うのなら、同様に女子も疑って然るべきよ。もちろん、これは提案であって強制ではないわ」

 

 堀北の揺るぎない物言いに、佐藤や篠原も言葉を詰まらせる。

 

「そもそも考えてほしいの。軽井沢さんの下着を盗む理由って、何が考えられる?」

 

「……その質問は不味くない? まぁ、男子が取った場合は良くない目的だろうけど、女子だって嫌がらせ目的なら動機は成立するんじゃない」

 

 堀北の言葉に、櫛田が控えめに補足を挟みつつ、犯行の目的をあえて広げてみせる。男子だけに向けられていた容疑を、クラス全体へと塗り替えるように。

 

「嫌がらせって……そんなの、するわけないじゃん」

 

 佐藤は即座に否定するが、その言葉に続く者はいない。

 

「ちょっと、なんで皆黙ってんの!」

 

 佐藤の苛立った声が拠点に響く。けれど、その沈黙こそが答えだった。

 

 軽井沢恵という少女は、決して誰からも好かれているわけではない。派手な言動、遠慮のない物言い、そして気に入らない相手にはあからさまに態度を変える性分。この二日間の共同生活の中でも、その気質は何度となく他の女子との間に小さな軋轢を生んでいた。

 

 嫌がらせという動機が、決して荒唐無稽なものではないと察している生徒は、恐らく佐藤自身が思っているよりもずっと多いのだろう。誰も言葉にはしないが、視線の交わし方にその答えが滲んでいた。

 

 張り詰めた空気がこれ以上重くなる前にと、篠原が話を引き戻すように声を上げる。

 

「と、とにかく! 誰かが盗ったのは間違いないんだから、ちゃんと調べようよ!」

 

「そうだね……なら、まずは男子から確認させてもらうよ」

 

 平田が仕切り直すようにそう告げ、男子生徒の輪へと視線を向けた。だがその輪の中で、一際様子のおかしい二人組がいた。

 

 山内春樹と、池寛治だ。

 

 二人は輪から少し離れた木陰で、小声で何かをやり取りしている。やがて山内ががっくりと肩を落とすと、意を決したように池が一歩前へと踏み出した。

 

「あ、あのさ、俺たち、この船に乗る前に龍園ってやつに言われたんだ。このクラスには裏切り者がいるかも……って」

 

 その一言に、拠点の空気が一気に凍りついた。幸村が眉根を寄せ、鋭い視線を池へと向けながら口を開く。

 

「いいのか? その話を始めたら──」

 

「は、春樹は違ぇよ! 前回のことだって反省してるしっ!」

 

「ちょ、おまっ!」

 

「や、やべっ……」

 

 池のあまりにも迂闊な口ぶりに、周囲の視線が一斉に山内へと集まる。庇うつもりで発した言葉が、逆に「前回」という不穏な過去を薄っすらと露呈させてしまっていた。

 

 暴力事件の折に山内がCクラスへと情報を横流ししていた一件を知る者は、この場ではまだ一部に限られている。だが、今の池の失言によって、その事実が薄い膜一枚を隔てただけの場所まで滲み出てしまったのは明らかだった。

 

「わ、悪ぃ、春樹」

 

 池はばつが悪そうに詫びると、それでも話を止めることはせず、再び皆の前で言葉を継いだ。

 

「そ、そもそも! 春樹が女子のテントに近づいたら皆警戒するだろっ!?」

 

 その問いかけに、周囲が一様に頷く。松下もその意見に同様なのか肯定を口に出す。

 

「それは、まぁ、確かに……」

 

「だから、春樹は違うと思う。むしろ、俺は……女子が怪しいと思う」

 

 その一言に、篠原が真っ先に噛みついた。

 

「あんたねぇっ!」

 

 怒りに任せて詰め寄る篠原に、池もまた引くことなく声を張り上げる。

 

「俺だって疑いたくねぇよ! でも、じゃなきゃ、女子のテントにこっそり入って荷物を漁って下着を取るなんて真似、普通の男子にはできやしねぇよ! そんなの、女子によっぽど信頼されてるやつか、テントに近づいても警戒されない平田とかしか無理だろ!」

 

 喚くように叫ばれたその弁は、成績不振者の筆頭とされる池が導き出した結論にしては、意外なほど筋が通っていた。男子が女子のテントへ立ち入るという行為そのものが、そもそも周囲の目を欺くにはあまりに分の悪い賭けだ。信頼の厚い一部の人間でもない限り、堂々と近づけば即座に不審がられる。

 

「信じたくねぇよ! でも実際に無くなってるんなら、盗めやしない俺たちが疑われるのはおかしいだろっ!」

 

 池の言葉に、篠原は顔を真っ赤に染めて反論した。

 

「女子が取るわけないじゃん! こんなの男子の仕業に決まってる!」

 

 ヒステリックにそう言い放つ篠原と、それに一歩も引かず言い返す池。二人の声はどんどん熱を帯び、周囲の空気を巻き込みながら悪化の一途を辿っていく。

 

 パンッ──。

 

 乾いた音が一拍、鳴り響いた。

 

 両者の間に割って入るように歩み出た堀北が、目の前で柏手を打ったのだ。予想外の音に、池も篠原も驚いたように口を噤む。

 

「そこまでよ」

 

 堀北の声は静かだったが、有無を言わせぬ強さを孕んでいた。

 

「言い争ったところで、下着が戻ってくるわけじゃないわ。今、私たちに必要なのは犯人捜しよりも物証よ」

 

 その一声に、拠点を包んでいた喧騒がすっと引いていく。池と篠原は、まだ納得しきれない表情を浮かべながらも、それ以上言葉を重ねることはしなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 女子生徒たちからの強い要望もあり、男子の手荷物検査および身体検査は、平田洋介が一手に引き受けることになった。

 

 男子たちは一列に並び、順番に自分の鞄を開けて平田へと差し出していく。向こう側では堀北が検査係となり女子のチェックも行われている。

 

 検査は滞りなく進み、既に半数のチェックが終了していた。

 

「本堂くんも身体検査も鞄の中身も問題ないよ──ありがとう、次の人」

 

 平田の穏やかな声が響き、本堂が胸を撫でおろしながら列を離れる。そしてまた一人、緊張した持ち面でチェックへと向かっていった。

 

 そんな男子生徒たちの列の最後尾に、オレは静かに佇んでいた。

 

 犯人の目星は既に殆どついている。犯行動機についても、およその推測はできていた。

 

 そして、今、平田に差し出すべく手にしているオレのナップサックの中には、消えたはずの軽井沢恵の下着が存在している。

 

 それぞれの生活用品や荷物が入ったナップサックは就寝前にはテントの中にあってもグループ活動中や食事、休憩中などは外に出ている。

 

 ましてや食事や休憩時に乱雑にまとめられていれば、自分の鞄も周辺に置くフリをして他のカバンに放り込むのも安易だろう。

 

 そしてオレはその入れられた物体に気づくと同時に一つの戦略が思い浮かんだ。一見すれば膠着状態に陥っている無人島試験を勝利するための方針を。

 

 同時に堀北たちがオレという存在を抜きにした状態でこの不安定なDクラスをどうやってまとめ上げ、解決するのかも興味があった。

 

 Cクラスが仕掛けてきたこの陰湿かつ決定的な策略に対し、彼女たちが自力で解決に辿り着けるのかどうか、それを確認する絶好の機会でもあった。

 

 思考をまとめていると、やがて列は消化され、ついにオレの番が巡ってくる。

 

 オレは手にしたナップサックを、そのまま平田へと手渡す。

 

 平田は受け取ったナップサックのチャックを開け、その中身へと視線を落とした。当然、鞄の中には一目でそれと分かる軽井沢の下着が収まっているはずだった。

 

 だが──中身を一通り確認した平田は、顔色ひとつ変えることなくチャックを閉めると、いつもの爽やかな笑みを浮かべて言い放った。

 

「──うんっ、問題ないね」

 

 その一言に、小さな誤算が生じた。

 

 平田がクラスの調和を何よりも重んじ、争いを極力避けようとする主義であることは四月から今日までの言動に見え隠れしていた。

 

 だが、まさか目の前にあるあからさまな物証すらも隠蔽し、見逃すという強引な手段に出るとは想定外だった。

 

 ここで穏便に隠し通されてはオレの目論見が狂う。Cクラスが仕掛けた策略に対し、堀北たちが自力でどう立ち向かうのかを見極めるには、この物証が表に出る必要があった。

 

 平田から差し出されたナップサックを受け取る際、オレはあえて手元の力を自然に抜いた。

 

 滑り落ちた鞄が地面を叩き、半開きだったチャックから勢いよく中身が滑り出ていく。

 

 タオルや雑多な小物に混じり──鮮やかな女性物の下着が、集まっていた男子生徒たちの真ん前で露わになった。

 

 一瞬にして、その場の空気が極小の点となって凍りつく。

 

「……え?」

 

 平田の表情から笑みが消え去り、顔が蒼白に引きつった。すぐ側にいた本堂や池、山内たちの目が見開き、地面に転がるそれへと一斉に突き刺さる。

 

 平田の必死の善意をあざ笑うかのように暴かれた決定的な物証を前に、男子たちの間に強烈な戦慄と動揺が走り抜けようとしていた。

 

 すぐ側にいた本堂や池、山内たちの目が限界まで見開かれ、地面に転がる『それ』へと一斉に突き刺さる。

 

「ま、マジかよ……」

 

 山内が引きつった声を漏らし、後ずさる。

 

「おい、綾小路……嘘だろ? なんでお前の鞄から……っ!?」

 

 池が頭を抱え、絶句した。男子生徒たちの間に、伝染病のような強烈な戦慄と動揺が走り抜けていく。その動揺は検査をしていた女子のグループにも伝わった。

 

 だが、次の瞬間、その静寂を切り裂いたのは、女子グループからの甲高い悲鳴と、過熱した怒号だった。

 

「──やっぱり男子だったじゃん!」

 

 近づいてきた篠原が地面の物体を認めた瞬間、顔を真っ赤に染め上げて叫んだ。その隣にいた佐藤もまた、心底からの嫌悪感を露わにして身を引く。

 

「最低……ッ! 最悪じゃない! アンタが盗んだの!?」

 

 佐藤の声が震えていた。彼女たちの視線には、明らかな侮蔑と生理的な拒絶感が満ちていた。

 

「やっぱり男子じゃない! しかも何考えてるかよくわかんないやつだし」

「信じられない……! 平気な顔してあたしたちと一緒に過ごしてたわけ!? 気持ち悪い!」

 

 女子生徒たちからも口々に辛辣な罵声が飛ぶ。男子生徒の中にも、自分たちへの疑いが晴れた安堵と同時に困惑と不信感が渦巻き始めていた。

 

「お、俺たちの疑いは晴れたけどさ……綾小路、お前、本当にやったのか……?」

「よく考えれば最初から怪しかったんだよ! 普段から無口で何考えてるか分かんねぇし! それに女子から信頼されててテントに近づけそうなの平田だけじゃなくて綾小路もじゃねぇか!」

 

 山内がここぞとばかりに調子に乗って声を張り上げる。

 

「春樹、お前軽率に言うなよ! でも……お、おい! 綾小路、説明してくれよ!」

 

 池も困惑し、男子の輪すらも一気に収集不能なパニックへと陥りかけていた。

 

 その混乱の渦中で、真っ先に割って入ったのは平田だった。

 

「落ち着いてくれ、みんな! まだ……まだ綾小路くんがやったと決まったわけじゃない!」

 

 平田は冷や汗を拭いながら、必死に手を広げて女子たちの前へと立ちはだかった。手荷物検査を仕切った責任感と、クラスの崩壊を食い止めたいという想いが、彼の声を悲壮なまでに震わせている。

 

「これは何かの間違いなんだ! 誰かが間違えて入れたのかもしれないし──」

 

「平田くん、庇うのは無理があるよ! 軽井沢さんは彼女でしょ! ここは怒るところじゃん!」

 

 佐藤が平田の言葉を遮るように声を荒らげる。

 

「だって、現に鞄から出てきたんだよ!? 平田くんは優しすぎるから見逃そうとしたのかもしれないけど、あたしたちは納得いかないよ! テントの中にいる軽井沢さんだってきっと、そうだよっ!」

 

「それは……っ」

 

 平田が言葉を詰まらせた。自分が隠蔽しようとした意図を見透かされ、かえって事態をこじらせてしまったことに痛恨の表情を浮かべる。

 

 その時、一歩前へと踏み出した男がいた。

 

 須藤だ。

 

 須藤は重々しい足取りでオレの前に立つと、女子生徒たちに向かって静かに、しかし揺るぎない低音で言い放った。

 

「一旦話を聞くべきじゃねぇか?」

 

 その一言には、かつての粗暴な面影はなく、真摯な懇意が込められていた。

 

「須藤くん……? 何言ってるのよ、現物が出てきてるのよ!?」

 

 篠原が食ってかかるが、須藤は眉一つ動かさずに睨み返した。

 

「出たからって、清隆が盗んだ証拠にはならねぇだろ。あいつがそんなことする奴じゃないことくらい、一緒にいりゃ分かるはずだ」

 

 須藤の態度に、篠原も一瞬圧されて息を呑む。だが、一度爆発した女子たちの嫌悪感は、須藤の言葉だけで収まるものではなかった。

 

「須藤くんが庇いたい気持ちは分かるけど……じゃあ、なんで鞄に入ってたのよ! 説明がつかないじゃない!」

 

 佐藤が苛立ちを露わにして叫ぶ。

 

 すると今度は、別の女子グループの横から冷ややかな声が突き刺さった。

 

「佐藤さんたちさ、少し頭冷やしなよ」

 

 長谷部波瑠加が呆れたような溜息を突きながら歩み出てきた。

 

 その目は完全に冷めきっており、感情的に騒ぐ女子たちを真っ向から見下ろしている。

 

「きよぽんがそんな効率も頭も悪いことするわけないでしょ。自分の鞄に盗品入れたまま持ち物検査に応じるなんて、アホのすることじゃん。きよぽんはそんなバカじゃないよ」

 

「はぁ!? 長谷部さん、アンタ関係ないでしょ!」

 

「関係なくないよ。友達が無実の罪で泥棒扱いされてんだからさ。証拠も論理もない感情論で『気持ち悪い』とか言ってるの、見てて見苦しいんだけど」

 

 長谷部の容赦ない一蹴に、篠原が「なによッ!」と顔を真っ赤にして詰め寄ろうとする。 

 

「あ……あ、あのっ!」

 

 その背後から、小さく、しかし必死な叫び声が上がった。

 

 佐倉が全身を小刻みに震わせながら前へと進み出ていた。極度の緊張からか、顔は真っ赤になり、目には今にも涙が溢れそうになっている。それでも彼女は、力強く拳を握りしめて女子たちを見据えた。

 

「あ、綾小路くんは……っ! 絶対に、絶対にそんなこと……しません! 優しくて、人のことを助けてくれる人です! そんな……下着を盗むなんて、絶対嘘です!」

 

「佐倉さんまで……っ」

 

 怯えを押し殺して必死に抗議する佐倉の姿に、佐藤たちが一瞬言葉を失う。

 

 さらに、その横からふわっとした、けれど氷点下の圧力を秘めた可憐な声が重なった。

 

「みんな、ちょっと冷静になろうよ」

 

 櫛田桔梗だった。彼女は四月の頃のような天使のような微笑みを浮かべている。その笑顔が作られているものと分かっても尚、警戒心を緩めざるを得ない。

 

 彼女はゆっくりと女子生徒たちの中心へと歩み寄る。

 

「軽井沢さんの下着が無くなったのはすごく可哀想だし、犯人が許せないのは分かるよ。でもね……確たる証拠もないのに、ただ鞄から出てきたってだけで綾小路くんを犯人扱いするのは、ただの言い掛かりじゃないかな?」

 

「え……でも、櫛田ちゃん、鞄から出てきたんだよ……?」

 

 佐藤が戸惑いがちに問いかけると、櫛田の笑みが深くなった。しかし、その声は冷たく研ぎ澄まされていく。

 

「誰かが綾小路くんの鞄にこっそり入れた可能性は考えないの? 昨日の夜、男子テントに誰でも入る隙はあったでしょ。もし誰かが綾小路くんをハメようとして仕込んだんだとしたら……一方的に彼を非難してるみんなは、犯人の思い通りに踊らされてるだけ……とか?」

 

 笑顔の裏に込められた圧倒的な説得力と隠しきれない圧力に、佐藤も篠原も気圧され、ぐっと口をつぐむしかなかった。

 

 その議論の応酬を、静かに観察していた人物たちがいた。

 

「……俺も、疑問が残るな」

 

 幸村が眼鏡の押し上げながら、い声で呟いた。彼は地面に落ちた下着とオレを見比べつづけていた。

 

「綾小路が犯人だという説そのものに、強い違和感を覚える。この環境下で下着泥棒という衝動的な犯罪に走る理由が皆無だ。それに……」

 

 幸村の鋭い視線が、オレの足元へと向けられる。

 

「この状況全体が、綾小路を犯人に仕立て上げるために狙い澄まされたものだと考える方が、論理的に筋が通る」

 

 そんな中、松下は退屈そうに髪を触りながら意見を口にした。

 

「私も幸村くんに同意かな。だって変じゃない? いっつも綺麗所に囲まれてる綾小路くんが彼氏持ちの軽井沢さんの下着を取るってかなり変だよ」

 

 松下が違和感を口にする。

 

「綾小路くんが犯人だとするには、あまりにも状況がお粗末すぎる。そんなリスクを冒してまで軽井沢さんの下着を盗むメリットがどこにあるの? 誰かが彼に罪を擦り付けようとしたと考えるのが自然じゃない」

 

「私……私も、綾小路くんがそんなことをするなんて信じられません……」

 

 みーちゃんも不安げに胸の前で手を組みながら、弱々しく、けれど明確に意見を口にした。

 

 しかし、論理的な違和感を提示されても、感情的になった女子たちの不満が収まるわけではなかった。

 

「そんなの、ただの推測じゃない! 綾小路くんが変態だったり! 軽井沢さんを好きな可能性だってあるわけだし!」

 

 篠原が再びヒステリックに声を張り上げる。

 

「メリットとか論理とか関係ないわよ! 現に下着が綾小路くんの荷物から出てきたっていう動かぬ証拠があるのよ!? それを『ハメられた』とか言って庇うなんて、身内庇いにしか聞こえないわ!」

 

「そうだよ!」

 

 佐藤も篠原に同調する。それに少なくない数の女子の賛同が加わればそれなりの数が証拠を出せと言い募る。

 

「もし本当にハメられたんなら、犯人が誰なのか証明してよ! それができないなら、綾小路くんが犯人じゃないって言えないじゃない! こんな不気味で何を考えてるか分からない変な人と、同じ拠点に一緒にいるなんて耐えられない!」

 

 拠点の空気は再び致命的なまでに殺伐としたものへと変貌した。

 

「おい、篠原! 佐藤! 言い過ぎだろ!」

 

 池が前に出て篠原と睨み合えば、平田が青ざめた顔で止めに入ろうとし、須藤が重々しい足取りで庇おうと前に出かける。長谷部や佐倉、櫛田もさらに反撃の言葉を紡ごうと口を開く。

 

 ──その喧騒のすべてを一人の少女は静かに見ていた。

 

 彼女はずっと、教壇の前のような凛とした立ち姿のまま、騒ぎの渦中にいるオレをじっと見つめていた。

 

 堀北の頭の中でも、猛烈な思考が駆け巡っていた筈だ。

 

 彼女の鋭い眼光がオレの手元を捉える。

 

 堀北はオレの身体能力を知っている。故にオレが鞄を落とすといった動作は不自然極まりない、と気づいているだろう。

 

 そして、そうなれば受け渡しの際に非が平田にあったかどうかだ。平田が庇う様子や喧騒を納めようとしている姿は今回の出来事は本意ではないことは伝わっている筈だ。

 

 故に──オレがわざと鞄を落として中身を見せたという部分までは辿り着いているだろう。

 

 だが肝心の『何故』という部分までは辿り着いていない。

 

 堀北はまだ、これがCクラスによる策略であるという真実には気がついていない。しかし、オレがこういった場面で「意味のない行動」をしないことだけは熟知していた。

 

 あえてこの惨状を引き起こした意図。

 

 堀北の瞳に、静かな決意と、解決へ導けない苛立ちが混ざり合った複雑な光が宿る。

 

 オレは、堀北の視線を真っ向から受け止めた。

 

 Cクラスが仕掛けたこの罠を、このクラスに居る裏切り者を、オレの手を借りずに堀北たちが解き明かせるかどうか。オレ抜きで、この分解しかけたDクラスをまとめ上げられるかどうか。

 

 それを見極めるための舞台は、これで整った。

 

 オレはゆっくりと膝を折り、地面に転がっていた軽井沢の下着を拾い上げると、無造作に折りたたんで平田の手に押し付けた。

 

「……綾小路くん?」

 

 平田が困惑と悲痛の入り混じった声でオレを見上げる。

 

 オレは平田に答えることなく、周囲の生徒たちを見渡した。怒りに震える篠原や佐藤、不安げに見つめる池や山内、庇おうとしてくれた須藤、長谷部、佐倉、櫛田やみーちゃん。そして状況を訝しむ幸村や松下。

 

「疑いを持たれた人間がここに長居すれば、拠点の雰囲気は悪くなり、特別試験の継続にも支障が出る」

 

 オレの静かな声が、張り詰めた拠点に響いた。

 

「オレはこの問題が解決するまで拠点を離れていよう。点呼とスポット更新の時には顔を見せる」

 

「清隆! お前──」

 

 須藤が驚愕して声を上げる。長谷部も「ちょっと、きよぽん!」と引き留めようとし、佐倉は「嫌です……っ!」と袖を掴んで涙をこぼした。

 

 オレは佐倉の指を優しく開く。そして、背を向け、自分の荷物をまとめ始めた。

 

「待ちなさい、綾小路くん」

 

 堀北の声が、引き留める皆の声を遮った。

 

 彼女は一歩前へ出ると、力強い声で宣言した。

 

「あなたが拠点を離れることを許可する。ただし──これは追放ではない。一時的な単独行動としての離脱よ。解決したらすぐに戻ってきなさい」

 

「堀北さん!」

 

 長谷部の責めるような声が堀北に届く。けれど、この程度の危機でいまさら堀北鈴音はブレやしない。

 

「証拠もないままあなたを犯人と決めつけることはしない。けれど、今のままではクラスの意見が割れて特別試験の運用に支障をきたすのも事実。だから、皆が頭を冷やし、私が……私たちがこの事件の『真実』を解き明かすまでの間、単独行動を命じるわ」

 

 その瞳の奥には、燃えるような意志が宿っていた。オレは小さく息を吐きながら、堀北の近くまで行って肩に手を置く。そして──と耳打ちした。

 

「────。……頼んだぞ、堀北」

 

 オレはナップサックを肩にかけ直すと、振り返ることもなく、静かに拠点の敷地から歩き出した。

 

「綾小路くん……っ」

 

 平田の痛々しい呟きや、佐倉の啜り泣く声、須藤の悔しげな吐息が背後から聞こえてくる。篠原や佐藤たちは、どこか気まずそうに黙り込んでいた。

 

 オレは一人、無人島の深い森の中へと足を踏み入れていく。

 

 堀北鈴音というリーダーが、そしてDクラスが、オレという庇護者を失った状態でどう動き、どのようにして解決へ導くのか。

 

 それを見れないのは残念だ。けれどもここから先、オレは勝つために行動させて貰おう。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 Dクラスの拠点を静かに抜け出し、鬱蒼とした密林を抜けると、陽光が眩しく照りつける広い浜辺へと出た。

 

 波音に混じって、楽しげな生徒たちの話し声が聞こえてくる。

 

 テントが規則正しく並び、水汲みや薪の管理などがスムーズに分担されているBクラスの拠点だ。その中央付近で指示を出していた少女が、こちらに気づいてパッと顔を輝かせた。

 

「あれ? 綾小路くん? おはよう!」

 

 一之瀬帆波だ。風に髪をなびかせながら、彼女は屈託のない笑顔を向け、軽やかにこちらへと駆け寄ってきた。敵クラスの人間が単身で歩み寄ってきたというのに、警戒の色を一切見せない。

 

「おはよう、一之瀬」

 

 オレは立ち止まり、挨拶を返す。そして本題を告げることにした。

 

「すまない、Dクラスを追い出されたんで、オレも金田と同じように置いて貰えないか?」

 

「…………えっ?」

 

 オレの言葉に、一之瀬の笑みが瞬時に凍りついた。

 

 口元に浮かべたはずの柔らかな笑みが引き攣ったまま固まり、大きな瞳がパチパチと瞬きを繰り返す。Bクラスを牽引する優秀な頭脳をもってしても、この唐突すぎる要請を即座に処理することは不可能だったらしい。

 

「あ……えっと、綾小路くん……? 追い出された、って……どういうこと……?」

 

「文字通りの意味だ。拠点にいられなくなった」

 

「え、えええっ!? ち、ちょっと待ってね! 流石に私の一存じゃ決められないから……そ、相談してくるね!」

 

 あからさまに混乱した一之瀬は、何度もこちらを振り返りながら、慌てた足取りでBクラスのテント奥へと走っていった。

 

 それから数分後。彼女は眉根を固く寄せた険しい表情の男を連れて戻ってきた。神崎隆二だ。

 

 神崎はオレの前に立つと、刺すような鋭い視線を真っ直ぐにぶつけてきた。

 

「綾小路、お前は本当にクラスを追い出されたのか?」

 

「あぁ」

 

 短く答えるオレに対し、神崎の瞳には明確な不信と、「信じられない」という強い疑念が宿っていた。同調を重んじるBクラスの価値観からすれば、仲間を一人拠点から追放するなど、到底理解しがたい出来事なのだろう。

 

 不穏な空気を感じ取ったのか、一之瀬がふたりの間にそっと割り込むように手を差し挟んだ。

 

「ま、まぁまぁ、神崎くん。……綾小路くん、詳しいことを聞いても大丈夫かな?」

 

「あぁ、少し揉めてな。色々と落ち着くまで、Dクラスの拠点には戻れないんだ」

 

「……何で揉めたんだ?」

 

 神崎の声が、一段と低く沈む。誤魔化しを許さないと言わんばかりの鋭い詰問。

 

 オレは視線をわずかに落とし、重々しい口調でその『理由』を告げた。

 

「女子の下着が盗まれた」

 

「えっ……!?」

 

 予想を遥かに超えた生々しい単語に、一之瀬が思わず口元を両手で覆い、息を呑んだ。

 

 神崎は一瞬絶句した後、氷のように冷ややかな目でオレを凝視し、静かに目を細めた。

 

「……それでお前がやったから、追い出されたというのか?」

 

「オレはやっていない」

 

「だが、実際に追い出されたのだろう? つまり、お前を追い出すほどの決定的な確信や物証が、Dクラス内部にはあったはずだ。犯罪行為だぞ、綾小路……しかも女子の下着を盗むなど……」

 

 神崎の指摘は至極当然であった。客観的に見れば疑わしきは排除されて然るべきで、ましてや下着泥棒の容疑者を自陣に招き入れるリスクなど侵せるはずがない。

 

 神崎の厳しい追求に対し、一之瀬は困り果てたような、眉を下げた表情を浮かべてオレを見つめた。

 

「……な、何か事情があったのかもしれないし」

 

「事情!? 正気か、一之瀬! 犯罪者だぞ!」

 

 一之瀬の甘すぎる発言に、神崎が声を荒らげた。

 

「下着泥棒かもしれないやつを拠点に置いておくなど、クラスの女子に対する配慮に欠けている! 万が一のことがあったらどうするつもりだ!」

 

「それでも……私は、助けてあげたい。困ってる人を放っておくなんて、できないよ。……駄目、かな……?」

 

 一之瀬は上目遣いで神崎を見つめ、静かに、しかし譲らない強い意思を込めて訴えた。

 

 自分のポリシーとクラスの安全の狭間で揺れる一之瀬の必死の眼差しに、神崎は盛大に溜息を吐き出し、苛立たしげに額を押さえた。

 

 彼女のこの「善性」を折り曲げることが、Bクラスにおいてどれほど難しいかを理解しているからこその諦念だった。

 

「……ハァ。分かった。ただし、条件がある」

 

 神崎はオレに向き直り、刃物のような視線を突きつけた。

 

「綾小路に常時、監視をつける。お前の行動範囲を制限し、一挙一投足を見張らせてもらう。そうでなければ到底受け入れられない」

 

「うん、そうだね。神崎くんの言う通りだと思う。──綾小路くん、それでいいなら、うちの拠点で一緒に生活しない?」

 

 一之瀬が安堵の笑みを浮かべ、助けの手を差し伸べてくる。

 

「あぁ、助かる。食料に関しては最低限の分配をされているから安心してくれ」

 

「それなら良かった! じゃあ、みんなにも説明してくるね!」

 

 こうしてオレは、Bクラスの拠点へと予想外に潜り込むこととなった。

 

 もしかすればくらいの感覚で不信を植え付けることが目的の交流はまさか潜入できるとは、な。

 

 一之瀬帆波が率いるBクラス。予想よりも遥かにお人好しであるらしい。

 

 そして、彼らと共に数時間を過ごしまず肌で感じたのは異質なまでの協調性の高さだった。

 

 あからさまな外部の人間であり、Cクラスのスパイ疑惑どころか、下着泥棒という不名誉極まりない容疑をかけられているオレ。

 

 普通であれば猛反発が起き、追い出されて当然の状況だ。だが、一之瀬が「綾小路くんを助けたいの」と一言告げると、不満げな表情を浮かべる者はいても、正面切って反対意見を突っぱねる者は誰一人として現れなかった。

 

 一之瀬のカリスマ性と、クラス全体に浸透した「全員で助け合う」という教義。

 

 それは一見すると美しく完璧な友情の形に見えるが、見方を変えれば、一之瀬の善意によって個人の反対意見が自ずと封殺される、極めて完成された集団心理の構造でもあった。

 

 和を重宝する人間にとっては理想的な環境なのだろうが、同時にどこか脆さも感じさせる。

 

 勿論、だからといって全員がオレを快く受け入れたわけではない。

 

「……おい、拠点であんまり動き回るなよ」

 

 神崎の指示により、オレには監視がつけられる。その監視役の一人として選ばれたのは、姫野という女子生徒だった。

 

 姫野はダルそうに髪を弄りながら、死んだような魚の目をしてオレのすぐ後ろをついてくる。

 

「ハァ……なんでアタシがこんな面倒なこと……。言っとくけど、怪しい動きしたらすぐに神崎くんに言うから……ダル……」

 

 口調こそ投げやりだが、彼女の視線は鋭く、オレの指先の動き一つ見逃さない構えだった。オレが一歩動けば姫野も一歩動き、トイレや水汲み以外の時間は常に一定の距離を保たれている。

 

 そんな張り詰めた監視体制の中、オレの話し相手となったのは、自ずと先客であるCクラスのスパイ──金田だった。

 

 眼鏡の奥の目を光らせ、ノートに黙々と何かを書き込んでいる金田の隣に、オレは腰を下ろす。

 

「……大変ですね、綾小路くん」

 

「お互い様だろ、金田」

 

「僕は龍園さんとの意見の対立でここに来ただけ。君のような……不名誉な理由ではない」

 

 金田はメガネの位置を直しながら不快そうに鼻を鳴らすが、同じ「他クラスからの流民」という立場上、自然と行動を共にする時間は増えていった。

 

 Bクラスの生徒たちも危険分子であるオレとスパイである金田を一箇所にまとめて観察できるため、都合が良かったのだろう。

 

 そうして、四日目、五日目と日が過ぎていく。

 

 オレは夜点呼の時間はDクラスに戻り、夜寝る時にはBクラスの拠点へ行って寝泊まりして、薪集めや調理を手伝いつつも自由に過ごさせて貰っていた。

 

 言われた通り余計な行動を一切起こさず、配給された最小限の食料と差し入れの料理を口にし、金田と当たり障りのない会話を交わすだけ。

 

 何一つ問題を起こさないオレの態度を見て、Bクラス内にあった最初の過度な警戒感は、日を追うごとに少しずつ緩み始めていった。神崎や姫野の監視も拠点内では数メートル離れた場所からの静観へと変化していく。

 

 もっともBクラスの女子生徒たちが向けてくる、汚泥を見るかのような嫌悪感たっぷりの視線だけは、未だに消えることがなかったが。例外は一之瀬と姫野だけ。

 

 水汲みの際、すれ違う女子たちが冷ややかに距離を取り、ヒソヒソと小声で囁き合っている。

 

「……ねえ、あいつでしょ? Dクラスで女の子の下着盗んだって奴……」

「最悪……なんで一之瀬さんはあんなの庇うのかな……」

「絶対近づかないようにしよ……気味悪いし……」

 

 どうやら、Dクラスで発生した下着紛失事件の話は、他クラスとの接触や噂を通じて、既にこのBクラス拠点にまでしっかりと出回っているようだった。

 

 薄汚い犯罪者を見る冷酷な視線を全身に浴びながらオレは遠くの空を見上げながら浜辺を歩く。

 

 ──この生活もあと僅かか。

 

 一週間に及ぶ過酷なサバイバルも、既に終了まで一日を切った午後の時間帯。周囲を覆う大気は、昨日の夜から急激に天候が崩れ始めた影響を色濃く残していた。

 

 どんよりとした鉛色の厚い雲が垂れ込め、湿度を含んだ生ぬるい海風が絶え間なく皮膚を湿らせていく。今にも再び大粒の一雨が降り出しそうな、どこか重苦しく不安定な雰囲気が島全体を包み込んでいた。

 

 オレはBクラスの拠点の少し端、潮騒が間近に響く湿り気の残る浜辺の大きな岩を見つけ腰掛け、波の寄せ引きを静かに眺めていた。

 

 四日目、五日目と過ごす中で、Bクラスの生徒たちによるオレへの過度な警戒や監視は、表面上かなり緩み始めていた。

 

 手荷物検査で「下着泥棒」という不名誉によりDクラスを追放されたという触れ込みでこの拠点に潜り込んだオレだったが、この数日間の行動が奏功したのだろう。

 

 姫野をはじめとする監視役の視線も、今では遠巻きに存在を確認する程度へと弱まっていた。

 

 ざざん、と湿った波音が岩肌を洗う。その水音に紛れるようにして、後ろから軽やかな足音が近づいてきた。

 

「やっ、綾小路くん!」

 

 背後から掛けられたのは、弾むような、しかしどこか微妙な陰りを滲ませた親しげな声だった。

 

 振り返ると、風に柔らかな髪をなびかせた一之瀬帆波が立っていた。彼女はオレの視線を受けると、屈託のない笑みを浮かべて見せ、そのままオレのすぐ隣にある湿った岩の平らな面に腰掛けた。

 

「試験ももう終わりだね」

 

 膝を抱えるようにして海を見つめながら、一之瀬がぽつりと呟く。

 

「……そうだな」

 

「スパイ活動も無事終了ってところ?」

 

 横顔に向けられたのはいつもと変わらぬ快活で柔らかな笑顔だった。けれど、その瞳の奥には相手の真意を静かに見極めようとする鋭い観察眼が隠されている。

 

 Bクラスのリーダーとして、この土壇場でオレという異物の存在を改めて咀嚼しようとしているのだろう。

 

 オレは視線を海へ戻し、波間に漂う海草を見つめながら短く応じた。

 

「さぁ、どうだかな……スパイのつもりなんてなかったが」

 

「まぁ、そりゃあそう言うよね……」

 

 一之瀬はくすりと小さく笑ったが、その声のトーンはどこか探るような響きを含んでいた。オレがDクラスから追放されてここに匿われた経緯や、下着泥棒という罪状の胡散臭さについて、彼女なりにこの数日間で何度も思考を重ねてきたはずだ。

 

「だが、金田はスパイだったようだな」

 

 オレが淡々とその名を口にすると、一之瀬の身体がわずかに強張るのが分かった。

 

 龍園との対立を理由にBクラスへと逃げ込んできていたCクラスの生徒、金田。昨日までは拠点内で大人しく過ごしていたはずの彼の姿は、いつの間にかこのBクラスの拠点から消えていた。

 

「そう……だね……」

 

 一之瀬の口元から、先ほどまでの快活な笑顔がすっと陰りを帯びて消えていった。

 

 彼女たちBクラスは、「困っている人を助ける」という善意と理想のもとに金田を受け入れた。

 

 だが、金田が姿を消したという事実は、彼が最初からCクラスの指示で動くスパイであり、Bクラスの情報を探り終えたことで撤収したのだという証拠を突きつけている。

 

 一之瀬にとって、それは己の善性が利用されたという側面もあった。

 

「ちなみに昨日の夜、点呼にいったら伊吹の姿も無かったぞ」

 

 オレが追撃するように言葉を重ねる。

 

 Dクラスの拠点に怪我を負った状態で現れ、保護されていたCクラスの伊吹。彼女もまた、Dクラスの拠点から痕跡を消していた。

 

「そうなんだ……こうなると、誰がリーダーなのか、候補がいなくなっちゃった……金田くんは怪しい動きなんてしていなかったし」

 

 一之瀬の声は、困惑と落胆で一層低く沈んでいく。

 

 今回の特別試験における最大の加点要素であり、同時に最大の敗北リスクでもある──他クラスのリーダー当て。

 

 他クラスからの流民として拠点に潜り込んできた金田や伊吹が、もしやCクラスのリーダーなのではないか、という仮説は彼らのなかに思い浮かんだことだろう。

 

 リーダーをあえて敵陣に晒し、安全を確保しつつ情報収集を行う──そうした高度な心理戦を警戒していたBクラスにとって、彼らの離脱は推理の前提を覆すものだった。

 

「伊吹の方も同様らしい。特に怪しい動きは無かった上に離脱している」

 

「そうなんだ……ならどっちかは島に残ってるのかな。それともどっちも残ってるのかな。あはは……流石に二分の一はリスクが高いよね」

 

 一之瀬はCクラスがかつて豪華なバーベキューや海水浴で狂騒を繰り広げていた海岸の方向を遠い目で見つめた。

 

 初日にプライベートポイントを惜しげもなく放出し、早々と試験を放棄してバカンスを決め込んでいた龍園たちCクラス。

 

 スパイとして送り込まれたはずの金田や伊吹が何一つ決定的な害をなさずに姿を消したのだとすれば、彼らの行動は本当にただの迷走や気まぐれだったのか。

 

「そうかもな」

 

 オレの無機質な相槌に、一之瀬は「そっか……」と小さく呟き、静かな沈黙が二人の間に落ちた。

 

 風が強まり、生温かい潮水が飛沫となってオレたちの足元の岩を濡らす。一之瀬はその沈黙を惜しむようにしばらく海を見つめていたが、意を決したようにゆっくりと首をこちらへ向けた。

 

「ねぇ、綾小路くん。どうして、Bクラスだったの? どうして、Bクラスを頼ろうと思ったの?」

 

 その瞳は澄み渡り、真っ直ぐにオレの顔を捉えていた。

 

 単なる偶然か、それとも明確な意図があったのか。

 

 Dクラスを追い出された際、なぜ他でもない一之瀬帆波率いるBクラスの門を叩いたのか。

 

 この数日間、彼女の中で絶えず渦巻いていた最大の疑問であり、核心なのだろう。

 

 その質問に対し、オレはどう答えるべきか一瞬だけ思考を巡らせた。

 

 模範的な回答はいくらでもある。

 

『一之瀬なら見捨てないと思ったから』

『他クラスの中で一番安全そうだったから』

 

 だが、それでは彼女の思考を真の意味で揺さぶることはできない。オレは静かに息を吸い込むとあえてその言葉をそのまま口に出した。

 

「一番、甘そうだったからじゃないか?」

 

 身も蓋もない一言。

 

 それが一之瀬にとって決定的な言葉だったのだろう。

 

「──っ」

 

 一之瀬の大きな瞳が小さく見開かれ、その奥で光る虹彩がかすかに揺れた。

 

『善意』『助け合い』『協調性』──それらを盾にして仲間を守り、試験を乗り切ろうとしてきた彼女たちの崇高な理念。

 

 だが、裏を返せばそれは他クラスからの悪意や策略に対して無防備であり、都合よく利用されるだけの「甘さ」に過ぎないのだと、オレは残酷な現実として突きつけた。

 

 揺れていた一之瀬の瞳から、迷いが消えていく。

 

 その瞳の奥には、弱さを乗り越えようとする確固たる強い決意の光が宿っていた。自らの甘さを認め、それでもなおクラスを背負って立ち上がる覚悟。彼女というリーダーが一歩、脱皮を遂げた瞬間だった。

 

「そう……なんだ……うん! 参考になったよ」

 

 一之瀬はゆっくりと岩から立ち上がると、以前の柔らかさとは一味違う、力強く澄んだ笑みを浮かべて見せた。

 

「それなら何よりだ」

 

「それじゃあ、綾小路くん、また夕食でね!」

 

 一之瀬は軽く手を振ると、迷いのない足取りでBクラスの拠点へと向かって歩き出した。彼女の背中は、潮風を受けながらも真っ直ぐに伸びていた。

 

 去っていく一之瀬の背中を静かに見送りながら、オレはBクラスのこの特別試験の行方に思いを馳せる。

 

 調和と平穏を基幹において試験を乗り切ろうとしたBクラス。

 

 Cクラスからの悪意の訪問者である金田、そしてDクラスからの危険人物であるオレ。

 

 本来であれば警戒し、排除すべき外部の異物を二者同時に抱え込みながらも、彼女たちは最後まで破綻することなく、楽しげにクラス全体で一致団結し続けた。

 

 だからこそ、彼女たちは強い。

 

 その強固な絆と互いへの深い信頼は、他のどのクラスにも真似できない強力な武器だ。一之瀬というリーダーを中心に結ばれたその結束は、たかだか一回の特別試験で仕掛けられた小細工程度で、全てを破綻させられるほど脆くはない。

 

 一之瀬、オレはお前たちを過小評価はしない。

 

 Bクラスは間違いなく強敵だ。今のDクラスが真っ向から激突すれば、試験の種類やルールにもよるが、大抵の勝負においてDクラスは不利に陥るだろう。

 

 個々の能力の突き抜けた部分で局地的な勝利を収めることはできても、クラス全体の平均値、総合力、統率力という面においては敗北を喫してしまうはずだ。

 

 だからこそ──お前たちは気づいてしまう。

 

 一之瀬をはじめとするBクラスの人間は優秀だ。優秀だからこそ、与えられた情報と状況証拠を論理的に分析し、正解へと辿り着こうとする。

 

『Cクラスの金田と伊吹はスパイ活動をしていた。どちらかがリーダーの可能性がある』

『Aクラスは洞窟に閉じこもり排他的な防衛姿勢を貫いている』

『Dクラスでは下着盗難事件が起き、容疑者である綾小路が追放された』

 

 そうしたピースを順番に組み立てていく中で、彼女たちの優れた頭脳は自ずと察知する。なぜ綾小路清隆はわざわざBクラスに潜り込んできたのか。本当にただの犯罪者として追い出されただけなのか。

 

 優秀が故に、彼女たちは辿り着いてしまうのだ。

 

 リーダーが自ら他クラスの拠点にスパイとして潜り込むはずがないという、誰もが疑わない固定観念。その常識を打ち破った先にある、たった一つの真実に。

 

 ──オレが、Dクラスのリーダーであるということに。

 

 Bクラスの優秀な観察眼と分析力は、この試験の終盤において、ついにオレの正体を正しく看破するだろう。

 

 ────だからこそ、Bクラスは負けてしまう。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 試験終了後。

 

 船の上で再会した堀北からのリアクションは無言のチョップだった。脇腹に放たれたその一撃は声なき小言を含んでいる。

 

 その後に『登って』きた櫛田は満面の笑みで頬を抓ってきた。こちらも相当ストレスが溜まってるのかいつもより力強い。それに続き長谷部もジットリとした視線を浮かべて逆の方を抓れば、佐倉も小声で控えめに「えいっ! えいっ!」と肩の付け根を叩いてくる。

 

 その後に続いてきたみーちゃんや松下までもクスクスと笑いながらついでとばかりに脇腹を抓ってきた。肩を叩いては船内へ。

 

 後ろで「うおーっ! 羨ましいぞ! 綾小路! 女子とのボディタッチ! ずりぃよ!」と池が騒いでいては「綾小路! テメェばかりモテモテでずりぃよ!」「ふっ、ぶっちゃけ今回の試験で女子については割とこりごりになったでござる……やっぱ二次元が一番でござるよ……」と騒ぐ三人を須藤が宥めていた。

 

「やめるのよー! あなたたち! やめてあげるのよー! 人間さんってば! 淋しくなって、本当に仕方ない子っ! ひゅぽっ、ひゅぷぷぷっ、本当にあたしを好きすぎて試験終わるまで我慢できずに──『リタイア』しちゃったけど! やめてあげるのよー! ナンバーワン愛されガールのあたしが愛されすぎてて人間さんってばあたしのこと好きすぎ……? とか思っちゃったけど可哀想だからやめてあげるのよー!」

 

 頭の上では騒がしいのが一匹。

 

 止め終えた須藤は苦笑を零しながらも片手を挙げて近づいてくる。その掌が表したのは──この試験の結果だ。

 

 パチンと小気味の良い音がなる。その後に続く池もまだ言いたいことはあったのか口をモゴモゴとさせたあとに「くっそー! でも! あんがとな!」と掌を重ねた。

 

 すると続く山内も「イエーイ! でもモテるやつはゆるさねー!」と続き、その後に三宅が「ご苦労さん」と続く。

 

 そんな高いテンションに当てられたのか肩の上のヒュロポスが「ヒュポポポっ! くるしゅうないのよー!」と何故か上から男子達を労っていた。

 

 手を下ろすタイミングを失い、男子がハイタッチで次々と流れていく中、ピタリと平田で止まる。

 

「……?」

 

 平田はオレの顔を見ると──。

 

「ごめんっ! 綾小路くん! 本当にごめん!」

 

 そして平田に続き、後ろの女子たちも謝罪の言葉を投げてきた。

 

「気にするな、平田。最終的には解決したんだろう?」

 

「で、でも! 僕は──」

 

 その背後、平田の背後から出てきた女子。他の女子から雑に押し出されてデッキの上でオレの前へと現れたのは──軽井沢恵。

 

 押し出された勢いでバランスを崩し、床に転ぶような形になる。

 

「な、なにすんのよっ!」

 

 他の女子生徒へと強い口調で言うものの続く言葉は無い。

 

「み、みんな、こういうのは──」

 

 そんな中、小柄な方である東が軽井沢の前に立ち、嗜虐的な笑みを浮かべている。

 

「平田くんは黙ってて! ねぇ、軽井沢さん、綾小路くんに言うべきことがあるんじゃない?」

 

 なるほど、堀北や須藤からえらく後ろの方に居たと思えば見せしめにするためか。

 

 あの二人なら止めるだろうからな。

 

 それでいて調停役の平田の発言権は失われ、軽井沢に近しい位置だった佐藤や篠原は女子集団の後ろでこの光景から目を逸らすようにしている。

 

「クククっ、随分と面白そうな見せもんしてんじゃねぇかよ……」

 

 そして船内へ向かわずにこちらへ向かってきたのはCクラスの龍園。その姿はボロボロで、とても船内でバカンスを楽しんでいた人間の装いではなかった。

 

「……ひっ」

 

 笑みを浮かべていた東もその狂暴な姿に怖気づき、先ほどまでの強気な態度は完全に消え去っていた。

 

「まぁ、しょうがねぇよなぁ。いじめられっ子の分際で女王様気取ってたんだからな。なぁ、軽井沢……?」

 

 喉を鳴らしながら軽井沢の横を素通りし、オレの眼の前に立つ。凶暴な瞳は爛々と輝き、その瞳の奥には喜色すら浮かんでいる。

 

「いつからこの構図を描いていた」

 

「さぁな。偶然、具合が悪くなってな。何を言っているのかよくわからない」

 

「覚えておけ、綾小路。テメェは必ず──潰す」

 

 低い声でそれだけを告げた龍園は啜り泣く軽井沢を一瞥せずにあっさりと去っていった。

 

 やつにとって用済みの玩具には興味ないのだろう。

 

 平田は軽井沢を慰めようと手を伸ばすが振り払われる。そのまま、軽井沢は船内へと逃げ帰っていった。

 

 その光景に満足したのか好戦的だった女子生徒も続き、篠原や佐藤、そして一部の女子生徒と平田が残っていた。

 

「どうして、こんな……ことに……」

 

 絶望するかのように呟く平田。そんな中──佐藤が一歩、オレに近づいてくる。

 

「ごめんなさい、綾小路くん……」

 

 それに続き、他の残っていた女子生徒も次々と頭を下げる。

 

「疑いは堀北たちが晴らしてくれたんだろう? それなら問題ない」

 

「……でも」

 

「この問題はもう終わったことだ。それよりも疲れているんだろう? 船内に戻ってゆっくりするといい」

 

 オレが言外に船内へ促せばまだ言いたいことがあるのか口を二度、三度と開くも音は出ない。

 

「……うん、ごめんね。綾小路くん」

 

 そう言って、去っていく女子たちを見送りながら──残った平田はこちらを見ている。

 

「綾小路くん……君なら──。ごめん、何でもない……今回のことは本当にごめんね……」

 

 そう言って、ふらふらと足取りを覚束ないまま船内へと戻っていく。

 

 このDクラスの新たなる惨状に堀北や須藤はまだ気づいていないのかもしれない。櫛田辺りは見ていなくても察していそうだが。

 

 もしかすれば、学校へ戻りフォーラムに行けば軽井沢、もしくはあの調子なら平田のどちらかにアディトンが現出している可能性はある。

 

「ひゅぽー……ねぇ、人間さん? 何があったのー?」

 

 いつの間にか手すりに降り立ったヒュロポスが青い光を明滅させながら心配とばがりに声をかけてくる。

 

 オレは無人島の方向を見ながら呟いた。

 

「まぁ、色々だな」

 

「ぜんっぜんっ、説明になってないのよ! むまー! なんて小生意気! あたしってばあの駄目駄目教師に一週間も拘束されて大変だったのに! あたしの激闘のお話を人間さんにたっぷり話してあげるのよ!」

 

 昨日も聞いたんだが……。

 

 そうして再度として鼻高々に話を始めるヒュロポス。オレはこの話から茶柱が玩具に泣かされた以上の情報を手に入れることはできない。

 

 リタイアすると言ったとき、茶柱の心の底から安堵した表情を浮かべていた。なんなら目尻に涙すら浮かんでいた。

 

 そうやって意気揚々と喋り明かすヒュロポス。端末には祝勝会があるから来なさいという命令調の短文が入っていた。

 

 祝勝会。

 

 この無人島試験。あえて勝者を挙げるのならばDクラスなのだろう。クラスの中心人物である平田が精神的に不安定な状態に陥り、女子のリーダーであった軽井沢の権威は失墜しても尚。

 

 オレたちDクラスは完全に勝利していた。

 

「そうだな――まずは初日のことから話そうか」

 

 オレは振り返る。この無人島試験、どうやってオレたちが乗り越えたのかを。

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