劉備に転生した俺、三国志が思ったより治安悪すぎる ~ニートになりたいだけなのに、関羽と張飛が俺を覇王にしようとしてくる~   作:ブンチョウ

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第40話 飼葉控え、騎兵隊を置いた覚えはない

「これが、先日の損です」

 

 糜氏が、卓の上へ木簡を置いた。

 

 県の旧式合図布一枚。

 

 ひびの入った土器一つ。

 

 古い敷物一枚。

 

 交換予定の縄。

 

 小屋へ置いた水。

 

 見張り役と物見へ渡した食料。

 

 赤兎馬の待機飼料。

 

「どうして最後だけ、見張り役より多いんですか」

 

 俺は、赤兎馬の飼料を記した箇所を指した。

 

 関羽が答える。

 

「友は、緊急に備えていた」

 

「一度も姿を見せてないでしょう!」

 

「姿を見せぬことが役目だった」

 

「その役目、人間より飯を食うの?」

 

 赤兎馬は、俺たちの話など聞いていないように飼葉を噛んでいる。

 

 糜氏が木簡を取り戻した。

 

「旧式の合図布も、交換予定だった縄も、失う前は県の物です」

 

「もう使わない物だったのでしょう?」

 

「交換するまでは使えます」

 

「敵に持っていかれた後だけ、価値が復活してない?」

 

「初めから価値はあります」

 

 負けるために古い物を選んだはずなのに、帳簿の上ではきちんと損をしていた。

 

 安全な敗北にも代金が要るらしい。

 

「次は、この辺りだ」

 

 単福が博望の地図を広げた。

 

 その指は、前回敵に入られた古い見張り小屋より北で止まっている。

 

「次?」

 

「敵が成果を得る場所を、少しずつ北へ戻すと申したであろう」

 

「本当に続けるんですか?」

 

「敵が来なければ、続けずに済む」

 

「では、来ないことにしましょう」

 

「そなたが決めることではない」

 

 単福の指先には、博望へ続く本道から少し外れた空き地があった。

 

「ここに、見張りへ出る者の休み場を置く」

 

「また小屋を渡すんですか?」

 

「小屋は作らぬ」

 

「旗は?」

 

「置かぬ」

 

「土器は?」

 

「糜氏が許さぬだろう」

 

「当然です」

 

 糜氏が即答した。

 

「県の物も、新野へ避難してきた方々の物も、これ以上は失えません」

 

「もちろん、俺の物も駄目です」

 

 張飛が地図を覗き込んだ。

 

「ならば、敵に何を渡す」

 

「勝利だけだ」

 

「実物のない勝利?」

 

 俺が尋ねると、単福は頷いた。

 

「前より北にいた者を退かせた。それ自体が敵の成果になる」

 

「何も奪えなくても、帰りますか?」

 

「帰らぬ可能性もある」

 

「では何か要るじゃないですか!」

 

「持ち帰る価値があり、こちらが失っても困らぬものを置く」

 

「そんな都合のよい物がありますか?」

 

 単福は、糜氏の手元にある木簡へ目を向けた。

 

「記録だ」

 

「物より渡してはいけないものでは?」

 

 ◆

 

 博望旧見張り小屋より北にある空き地は、以前から荷運びの者や旅人が足を休める場所だった。

 

 本道から少し外れているが、人が座っていれば道を通る者から見える。

 

 西側には、雨のない時期だけ使える乾いた溝。

 

 南東には、畑の間を抜ける細道。

 

 どちらも人なら通れる。

 

 ただし、騎馬が何頭も並んで走れる幅はない。

 

「ここは誰の土地ですか」

 

 俺は最初に尋ねた。

 

 県丞が記録を確かめる。

 

「畑でも、村の共有地でもありません」

 

「では、勝手に使っても?」

 

「もとより、街道を通る者が休む場所として県が管理しております」

 

「薪を切る必要は?」

 

「ございません」

 

「小屋を建てる必要は?」

 

「ない」

 

 単福が答えた。

 

「屋根も壁もなければ、直す仕事もありませんね?」

 

「ない」

 

「それなら使ってもいいです」

 

 単福が記録役の若者へ言う。

 

「玄徳殿が、北の休み場の使用を決めた」

 

「使用してよいか確認しただけです!」

 

「場所を選び、人の動きを定めれば、それは配置だ」

 

「また軍略に言い換えられた!」

 

 何も作らない。

 

 土地も奪わない。

 

 壊される建物もない。

 

 今度こそ、損の出ない場所を選んだはずだった。

 

 ◆

 

 休み場は、敵を欺くためだけに使うのではない。

 

 単福は、本当に見張り役の物資受け渡し場所にすると言った。

 

 新野から運ばれるのは、水と一日分の食料。

 

 交換用の縄。

 

 火打ち石。

 

 怪我をした時に使う布。

 

 北へ出る者は休み場で受け取り、戻る者は使った量を伝える。

 

「敵を騙すために、本当に使うんですか?」

 

「使っていなければ、作られた跡だと疑われる」

 

「何も置かなければ?」

 

「何も見つからぬ敵は、さらに南へ進んで確かめるかもしれぬ」

 

 俺は空き地を見た。

 

 ここへ毎日、人が来る。

 

 水と食料を渡す。

 

 受け取った者は北へ向かう。

 

 戻ってきた者は、使った量を伝える。

 

 敵を止めるために、新しい仕事場が一つ増えたようなものだ。

 

「嘘を本物らしく見せるために、本当に働くの?」

 

「嘘ではない」

 

 単福が答えた。

 

「見張り役が、実際にここで水と食料を受け取る」

 

「本物の仕事を、敵へ一部だけ見せる」

 

「見せなくてよい部分まで増えてるんですけど!」

 

 完全な偽物ではないため、痕跡も自然に残る。

 

 人が座った跡。

 

 水をこぼした跡。

 

 荷を地面へ置いた跡。

 

 靴や草履で踏んだ草。

 

 飼葉だけは、休み場で馬へ渡すものではない。

 

 新野から関羽と赤兎馬の待機場所へ、別の者が直接運ぶ。

 

 ただし、北方の見張りに関わる支給は、すべて休み場で日ごとに照らし合わせることになった。

 

 北の見張り役。

 

 林の物見。

 

 伝令。

 

 後方で緊急連絡に備える関羽と赤兎馬。

 

 それぞれが受け取った量を記した札を、記録役が休み場へ集める。

 

 そこで新野から払い出した量と照らし合わせ、その日の北方警戒全体の控えを作る。

 

「休み場で渡していない飼葉まで、ここで記録するの?」

 

 俺が尋ねる。

 

 糜氏が答えた。

 

「休み場だけの記録ではございません」

 

「博望以北の見張りと、その後ろで待つ者へ支給した物を、日ごとに照らし合わせるための控えです」

 

「新野に元の記録があり、こちらでは受領と使用の違いを確認します」

 

「どうして現地で照らし合わせる必要が?」

 

「戻ってから不足が分かっても、誰がどこで受け取ったか確認できない場合がございます」

 

「だから、その日のうちに?」

 

「はい」

 

 合理的だった。

 

 合理的だが、敵を避けるために帳簿の確認場所まで北へ増えている。

 

「敵が来る前に、経理の前線ができてる……」

 

 毎日同じ時刻に同じ者が使えば、敵に交代の隙を読まれる。

 

 朝と昼の二度だけ受け渡す。

 

 人員は二組を交代させる。

 

 帰り道は、西の溝と南東の畑道を使い分ける。

 

 人数は増やさない。

 

「敵に見せるために複雑にしすぎると、こちらが先に間違えます」

 

 俺が言うと、単福も頷いた。

 

「変えるのは、道と時刻だけでよい」

 

「人の命を守るための仕組みで、人が迷子になったら意味がありませんからね!」

 

「そなたが言うと、妙に重いな」

 

「迷子の捜索まで俺の仕事になるからです!」

 

 ◆

 

 北方警戒全体の支給を照らし合わせるため、糜氏は日ごとの控えを作った。

 

 元になる記録は新野へ残す。

 

 休み場で使うのは、その日に北方へ何を渡し、各組が何を受け取ったかだけを書いた木札の写しだ。

 

「水」

 

「食料」

 

「縄」

 

「火打ち石」

 

「手当て用の布」

 

「後方で待つ馬へ渡した飼葉」

 

「使用した日」

 

 糜氏が一つずつ確認する。

 

「人の名は書きません」

 

「新野に何人いるかも」

 

「武器の数も」

 

「倉に残る食料も」

 

「関羽と張飛の名も」

 

「馬の名も」

 

「退路も、林の物見場所も書きません」

 

「それなら、敵に取られても安全ですか?」

 

「安全とは申しておりません」

 

「安心させる前に否定された!」

 

 単福が控えを見る。

 

「何も書かれておらぬ札では、敵も持ち帰らぬ」

 

「実際に使った物の一部だけならば、調べる価値はある」

 

「敵へ調べる価値のある物を渡さないでください!」

 

「渡すとは限らぬ」

 

 支給控えは、実際に照合へ使う小さな木箱へ入れる。

 

 敵が近づいた時は、人が持てる物だけを持って退く。

 

 水。

 

 その日の食料。

 

 火打ち石。

 

 手当て用の布。

 

 木箱と控えは、敵が近ければ回収しない。

 

 つまり敵へ読ませるために置くのではない。

 

 人を優先して逃げた結果、現地で使っていた記録が残る。

 

「控えを取りに戻るのは禁止です」

 

 俺は念を押した。

 

「木箱も捨ててよい」

 

「縄も蓋も、そのままでよい」

 

「敵が近いなら、何一つ拾わない」

 

 単福が俺を見る。

 

「そなたは、戦場へ置く物の価値を先に下げていくのだな」

 

「高い物を置いたら、拾いに戻る人が出るでしょう!」

 

「物へ執着させぬためか」

 

「損を増やしたくないだけです!」

 

 ◆

 

 休み場へ置く支給控えを確認していると、一日分の飼葉だけ、量がおかしかった。

 

「ここ、書き間違えていません?」

 

 俺は木札を糜氏へ戻した。

 

「合っております」

 

「一頭分ですよね?」

 

「関羽様の友へ渡した分です」

 

「またお前か!」

 

 近くにいた赤兎馬が顔を上げた。

 

 関羽が答える。

 

「友は、緊急時に備えておる」

 

「一頭で、この量を?」

 

「必要な量だ」

 

 元御者が控えを覗き込んだ。

 

「並の軍馬なら、数頭分には見えますな」

 

「数頭?」

 

 単福も木札を手に取った。

 

「馬の名も、頭数も書かれていない」

 

「敵が見れば、何頭かの馬へ渡したと考える可能性はある」

 

「では、その行を外しましょう!」

 

 俺は即座に言った。

 

 糜氏は首を横へ振る。

 

「実際に、北方の見張り運用へ支給した物です」

 

「外せば、新野に残る記録と日ごとの合計が合いません」

 

「敵が読む控えまで正確でなくてよいでしょう!」

 

「控えである以上、合わなければ役に立ちません」

 

「敵より先に、糜氏の帳簿が策を決めてる!」

 

 飼葉の記録は残った。

 

 ただし、これを見た敵が、複数の軍馬だと判断するとは限らない。

 

 荷車を引く馬。

 

 伝令に使う馬。

 

 物資を運ぶ駄馬。

 

 どのための飼葉かは書かれていない。

 

 分かるのは、博望の南へ向けて、馬のための飼葉が継続して支給されていることだけ。

 

「敵には、荷運びの馬だと思ってもらいましょう」

 

 俺が言うと、関羽の眉が動いた。

 

「兄者。友を駄馬と申すか」

 

「敵にそう思ってほしいだけだ!」

 

「友は軍馬だ」

 

「所有権も決まってないでしょう!」

 

「友であることに所有は関わらぬ」

 

「飼葉の話から離れるな!」

 

 ◆

 

 先日の見張り小屋から退いた元御者と若者は、今回の前線役から外した。

 

 敵に顔や逃げ方を覚えられている可能性がある。

 

「前回、十分に危ない役をしてもらいました」

 

「今回は別の者にします」

 

 元御者は少し驚いた顔をした。

 

「私は、役目を外されるのでしょうか」

 

「休んでもらうだけです」

 

「一度うまく逃げたからといって、毎回逃げてもらったら、いつか失敗するでしょう!」

 

 俺としては、同じ者へ危険と不満が集中するのを避けたいだけだった。

 

 単福は別の意味に受け取ったようだ。

 

「功を立てた者を、続けて危地へ出さぬのだな」

 

「同じ人にしかできない仕事にすると、その人が休めないでしょう!」

 

「そのために、別の者へも覚えさせる」

 

「そうです」

 

「それを備えと申す」

 

「人員交代まで軍略にしないでください!」

 

 甘氏が、新しい二人の記録を確かめる。

 

 一人は、荷運びに慣れた男。

 

 もう一人は、廖化の配下にいる年長者。

 

 二人とも、西の溝と南東の畑道を歩いている。

 

 家族と同居人。

 

 帰還予定。

 

 戻らない場合の確認時刻。

 

 捜索へ出る者。

 

 前回と同じように決めた。

 

「戻られましたら、最初に私のところへ」

 

 甘氏が二人へ伝える。

 

「名と怪我を確認いたします」

 

 逃げる人間が変わっても、帰還確認の手順は変えない。

 

 それだけは、俺にも少し安心できた。

 

 ◆

 

 敵が来た時の位置も決めた。

 

 北の休み場には、荷運びの男と年長者。

 

 敵を確認したら退く。

 

 木箱と支給控えは回収しない。

 

 第一の退路は西の溝。

 

 西側が塞がれた場合は、南東の畑道。

 

 北東の林には、廖化と元賊の男。

 

 本道と東側の動きを見る。

 

 敵が林を調べ始めたら、その場所を守らずに退く。

 

 途中には記録役の若者。

 

 廖化からの急報を、俺たちへ運ぶ。

 

 戦わない。

 

 俺と単福は南側の低い丘。

 

 俺から直接見えるのは、休み場と本道の一部だけ。

 

 東の林や、敵が旧見張り小屋へ向かった場合の動きは見えない。

 

 その情報は、伝令か帰還後の報告で知る。

 

 関羽と赤兎馬は、南側の尾根の裏。

 

 休み場の二人が追いつかれそうな時だけ救援する。

 

 敵には姿を見せない。

 

 張飛は西側の林の奥。

 

 関羽でも救えない場合だけ出る。

 

 追撃はしない。

 

「また、何もしない役か」

 

 張飛が不満そうに言った。

 

「前回できたから、今回もお願いします」

 

「できた者へ、同じ役を任せるのか」

 

「成功した仕事を急に変える方が怖いだろ!」

 

 単福が言う。

 

「敵も、前回と同じ動きをするとは限らぬ」

 

「出発前から不安を増やさないでください!」

 

 ◆

 

 北の休み場を、実際に使い始めた。

 

 一日目。

 

 何も起こらない。

 

 二日目。

 

 遠くを商人の荷車が通っただけ。

 

 三日目。

 

 林の物見が、北方に一騎を確認した。

 

 しかし騎馬は近づかず、道の向こうへ消えた。

 

「敵でしょうか」

 

 俺が尋ねると、単福は首を横へ振った。

 

「分からぬ」

 

「交代の時刻を見ていた可能性はある」

 

「ただ通っただけの可能性もある」

 

「敵でない可能性があるなら、敵でないことにしましょう」

 

「そなたの希望で決めるな」

 

 四日目。

 

 朝の受け渡しを終えた後だった。

 

 北方に、複数の土煙が上がった。

 

 前回のように一つではない。

 

 広がるように、いくつかへ分かれている。

 

 休み場から合図が届いた。

 

 ほぼ同時に、北東の林にいた廖化からも中継が来た。

 

 記録役の若者が、息を切らして低い丘まで走ってくる。

 

「敵は、分かれております!」

 

「一部は本道!」

 

「一部は東の林へ!」

 

「別の騎馬が、前回の見張り小屋を見られる高みへ向かっております!」

 

「小屋へ入ったのですか?」

 

「そこまでは、こちらから見えません!」

 

 敵は、前回のように全員で同じ場所へ近づいていない。

 

 本道を進む者。

 

 東へ回る者。

 

 旧見張り小屋の方向を確かめる者。

 

「前回より慎重だ」

 

 単福が地図を見る。

 

「林に物見がいると考えているのかもしれぬ」

 

 張飛が笑った。

 

「敵が分かれたなら、一つずつ討てる」

 

「敵も、張飛殿がそう考えることを待っているかもしれぬ」

 

 張飛の笑みが消えた。

 

「俺を引き出すためか」

 

「可能性はある」

 

 張飛は槍を握った。

 

 しかし、前へは出なかった。

 

 ◆

 

 記録役の若者が、再び廖化からの報告を持って戻った。

 

「東へ回った騎馬が、林の物見位置へ近づいております!」

 

「廖化たちは?」

 

「まだ林に!」

 

 単福が俺を見る。

 

「北東の物見を退かせよ」

 

「せっかく決めた場所なのに?」

 

「敵が探している場所へ残す理由はない」

 

 俺は、すぐに記録役へ命じた。

 

「廖化たちへ、位置を捨てて戻るように!」

 

「敵を見続けようとしない!」

 

「記録も道具も持てる分だけでいい!」

 

「はい!」

 

 若者が走る。

 

 俺は北東の林を見た。

 

 木々の向こうは、ここからでは見えない。

 

「物見場所は、また探し直しですか」

 

「場所は使い捨てればよい」

 

 単福が答えた。

 

「人を使い捨てぬためにな」

 

 先日は、小屋と合図布を捨てた。

 

 今回は、見張りに向いた林そのものを捨てる。

 

 せっかく調べ、逃げ道まで決めた場所である。

 

 だが、敵がその場所を覚えたなら、残る方が危ない。

 

「場所なら、後からまた探せますからね」

 

「そういうことだ」

 

「人が戻ってくれば、ですけど!」

 

 林の向こうから合図は上がらない。

 

 戦いの音も聞こえない。

 

 待つしかなかった。

 

 ◆

 

 本道を進んできた敵が、北の休み場を見つけた。

 

 荷運びの男と年長者が合図を出す。

 

 二人は水とその日の食料を持った。

 

 木箱と支給控えは残す。

 

 予定どおりなら、西の溝へ入る。

 

 二人が休み場を離れたのは、俺の位置からも見えた。

 

「逃げました」

 

「まだ安心するな」

 

 単福が言った。

 

 本道の敵とは別に、遠くの西側へ騎馬の影が動いている。

 

 俺の位置からは、その一部しか見えない。

 

 だが休み場の二人が向かう西の溝より先へ回ろうとしているように見えた。

 

「出口を塞ぐつもりでは?」

 

「可能性はある」

 

「では、張飛を――」

 

 俺が言いかけた時、張飛が林の奥から低い声で答えた。

 

「まだ、南東の畑道が残っている」

 

 姿は見えない。

 

 張飛も、隠れた位置から休み場の一部を見ている。

 

「出なくていいの?」

 

「二人が捕らえられぬなら、出ぬ方がよいのであろう」

 

「張飛が、自分で待つ判断をした……」

 

「聞こえておるぞ」

 

「何もしないことが、今回のお前の仕事だからね!」

 

「ならば、黙って見ておる」

 

 張飛の声は、それきり聞こえなくなった。

 

 関羽と赤兎馬も、尾根の裏に留まっている。

 

 休み場の二人は、途中で西へ向かうのをやめた。

 

 そこまでは俺にも見えた。

 

 だが、その先は低い畑の向こうへ隠れる。

 

「どうして道を変えたんですか」

 

「こちらからは分からぬ」

 

 単福も断定しなかった。

 

 しばらく後。

 

 南東の畑道から、二人の姿が現れた。

 

「戻った!」

 

 俺は低い丘を下りる。

 

「二人ともいる?」

 

「おります!」

 

「怪我は?」

 

「ありません!」

 

「追われましたか」

 

 荷運びの男が息を整えながら答えた。

 

「西へ向かう途中、元賊の男が別の溝から来ました」

 

「騎馬が西の出口へ回っている。南東へ行けと」

 

「それで道を変えた?」

 

「はい」

 

 敵は、前回使ったような退路を塞ごうとした。

 

 こちらは、それを見た者の報告で別の道へ変えた。

 

「決めた道を使わなくても、咎めはありませんからね」

 

「捕まらず戻ったなら、それでいいです」

 

 二人は、そろって頭を下げた。

 

 敵がまだ北にいる以上、張飛は林から出てこない。

 

 それでよかった。

 

 ◆

 

 敵は休み場へ入った。

 

 しかし、俺の位置からは、その中で何をしたかまでは見えない。

 

 やがて、本道に見えていた敵の一部が北へ動き始めた。

 

 それでも、廖化たちは戻ってこなかった。

 

 俺から見えるのは、本道から敵の姿が少しずつ消えていくところまでだった。

 

 東へ分かれた騎馬がどうしたのか。

 

 林に誰か残っているのか。

 

 廖化たちが無事なのか。

 

 それは分からない。

 

「まだ戻りませんか」

 

「帰路を確かめている可能性はある」

 

 単福が答える。

 

「捕まった可能性は?」

 

「何の合図もない」

 

「だから分からないんでしょう!」

 

 動くべきか。

 

 待つべきか。

 

 分からないからこそ、勝手に捜しに行ってはいけない。

 

 それは自分で決めた。

 

 それでも、待っている時間は長かった。

 

 しばらくして、ようやく廖化たちが南から戻ってきた。

 

「全員いる?」

 

「おります」

 

 廖化が答えた。

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「敵に見つかった?」

 

「以前使った位置は、見つかったと思います」

 

「我らが退いた後、騎馬が林へ入りました」

 

「人や道具は?」

 

「何も残しておりません」

 

「それならいいです」

 

 廖化は、見た順に報告した。

 

「敵は、休み場へすぐには入りませんでした」

 

「先に周囲を調べています」

 

「一騎を西の溝の出口へ回しました」

 

「南東の畑道までは、見つけておりません」

 

「前に使った林の物見位置へも入りました」

 

「誰も捕らえられてはおりません」

 

 元賊の男が続ける。

 

「休み場では、足跡と荷を置いた跡を見ておりました」

 

「木箱を開け、中の木札を見つけました」

 

「文字を読める者がいたのですか」

 

「一人が木札を受け取り、何度か読み直しておりました」

 

「別の者と、書かれた数を指で確かめています」

 

「その後は?」

 

「木札を持った一騎が、先に北へ向かいました」

 

「残った者たちは南側を見ておりましたが、それ以上は進みませんでした」

 

「後から、全員が北へ戻っております」

 

「北へ戻ったことは、どこまで確かめましたか」

 

 廖化が答える。

 

「敵を追ってはおりません」

 

「離れた場所から、進路だけを確かめました」

 

「東へ分かれた者も、本道へ戻りました」

 

「水場へ向かった者も、小屋へ残った者もおりません」

 

「新野方面へ別の騎馬を出さず、そのまま北へ向かいました」

 

「敵の姿が北へ消えた後、休み場へ戻り、残された物と印を確認しました」

 

「その印を写してから、こちらへ戻っております」

 

 廖化が木札を差し出した。

 

 張飛も、ようやく西の林から戻ってきた。

 

「俺は出ずに人を助けたことになるのか」

 

「そうだよ!」

 

「何もしておらぬぞ」

 

「何もしなかったから、敵にお前の位置を知られずに済んだんだよ!」

 

「ならば、役目は果たしたのだな」

 

「今回はね!」

 

 張飛は満足したように槍を担いだ。

 

 何もしなかったことへ満足する張飛を見られる日が来るとは思わなかった。

 

 ◆

 

 俺は単福を見る。

 

「帳簿を見たから帰った?」

 

「そうとは限らぬ」

 

 単福はすぐに否定した。

 

「偵察を終えたから帰ったのかもしれぬ」

 

「分かるのは、控えを持った一騎が、先に北へ戻ったことだけだ」

 

「では、策が成功したとは?」

 

「まだ申せぬ」

 

「失敗?」

 

「それも申せぬ」

 

「結果を出した後まで保留なの?」

 

「敵の考えを、こちらの都合で決めれば見誤る」

 

 悔しいが正しい。

 

 敵は控えを持ち帰った。

 

 そして博望旧見張り小屋までは進まず、北へ戻った。

 

 事実は、それだけだった。

 

 ◆

 

 敵が得たものは、前回とは違う。

 

 休み場が実際に使われていた跡。

 

 水と食料を受け渡していた跡。

 

 北方警戒全体の日ごとの支給控え。

 

 ここで人を退かせたという事実。

 

 しかし、控えには人の名がない。

 

 新野側の人数もない。

 

 武器の数もない。

 

 倉の場所も残量もない。

 

 関羽と張飛の所在もない。

 

 赤兎馬の名もない。

 

 馬が何頭いるかも書かれていない。

 

 捕虜もいない。

 

 敵は、前回より北にある場所で、上へ持ち帰れる物を得た。

 

 それ以上南へ進まず帰った。

 

「敵が成果を得た場所は、前より北へ戻った」

 

 単福が言った。

 

「一応、予定どおり?」

 

「結果だけを見ればな」

 

「どうして、うれしそうに言ってくれないんですか」

 

「敵も、こちらを見て学んでいる」

 

 前回は一つの小屋へ進んだ。

 

 今回は分かれた。

 

 林の物見を探した。

 

 西の退路へ回ろうとした。

 

 こちらが一つ賢くなる間に、敵も同じだけ賢くなっていた。

 

「敵まで成長しなくていいのに……」

 

 ◆

 

 北の休み場に残された炭の印は、前回のものとよく似ていた。

 

 敵が完全に北へ戻った後、廖化が写してきたものだ。

 

 前回、小屋の柱へ残された印と並べる。

 

 基本の形は同じ。

 

 ただし今回の印には、短い線が一本増えている。

 

 張飛が二つを見比べた。

 

「二つ目という意味ではないか」

 

「物を見つけた印かもしれぬ」

 

 単福が答える。

 

「文を得た印とも」

 

「先へ進める印とも考えられる」

 

「書いた者の癖かもしれない」

 

 県丞も言った。

 

 意味は決められない。

 

 分かるのは、

 

 基本の形が似ている。

 

 短い線が一本増えた。

 

 休み場の北側から見える位置に書かれた。

 

 敵が控えを見つけた後に残された。

 

 それだけである。

 

「また残すのか」

 

 張飛が尋ねる。

 

 俺が先に答えた。

 

「次の敵が、どちらの印を見るか確かめるのでしょう」

 

 単福が少し笑う。

 

「学んだな」

 

「仕事が増える仕組みを学んだだけです!」

 

 前回の小屋。

 

 今回の休み場。

 

 敵が二つの印をどう使うかを知るため、また見張りが必要になる。

 

 炭で線を一本引かれただけで、こちらの仕事は何日分も増えていた。

 

 ◆

 

 新野へ戻ると、甘氏が帰還した者たちを順に確かめた。

 

 休み場にいた二人。

 

 廖化。

 

 元賊の男。

 

 伝令を務めた記録役の若者。

 

 名を呼ぶ。

 

 返事を聞く。

 

 怪我を見る。

 

 落とした物を確認する。

 

 帰りに使った道を記す。

 

「全員、帰還です」

 

 甘氏が最後の印を付けた。

 

 俺はようやく息を吐いた。

 

 糜氏は別の卓で、失った物を確認している。

 

「北方警戒の日ごとの支給控え」

 

「控えを入れた木箱」

 

「木箱の蓋」

 

「木札を束ねた縄」

 

「控えへ使用した木札」

 

「書き写した者の手間」

 

「待ってください」

 

 俺は最後を指した。

 

「人が書いた時間まで損に入るの?」

 

「木札は自然に文字を書きません」

 

「敵に渡した情報より、先に手間の話が来た!」

 

「写しを作るにも、人が働いております」

 

「負け戦の費用が、だんだん細かくなってませんか?」

 

 糜氏は、新野に残した元の記録と照らし合わせる。

 

 水。

 

 食料。

 

 縄。

 

 布。

 

 火打ち石。

 

 飼葉。

 

 すべて数は合っている。

 

 問題の飼葉も、きれいに合っていた。

 

「合わなくてもよかったのに……」

 

「帳簿は合わなければなりません」

 

「敵に渡った方だけ、少なく書いておけばよかったでしょう!」

 

「それでは実際の控えではなくなります」

 

 俺は元御者を呼んだ。

 

「この量の飼葉を見たら、馬は何頭いると思いますか」

 

 元御者は木札へ顔を近づけた。

 

「並の軍馬なら、数頭分には見えます」

 

 関羽が誇らしげに言った。

 

「友一頭で、それだけを食う」

 

「なぜ胸を張るんだ!」

 

 赤兎馬が飼葉を噛みながら、こちらを見た。

 

 自分が軍馬数頭分と評価されたことを、誇っているようにしか見えなかった。

 

 ◆

 

 単福は、敵が持ち帰った支給控えと同じ内容の木札を見ていた。

 

「敵が知った可能性のあることは、いくつかある」

 

「北へ見張りを出し続けている」

 

「水と食料を定期的に運んでいる」

 

「北方の見張りへの支給をまとめて記す者がいる」

 

「そして、後方で待つ馬のために多くの飼葉を送っている」

 

「数頭の騎馬がいると思いますか?」

 

「そう読むかもしれぬ」

 

「荷運びの馬だと思うかもしれぬ」

 

「結局、分からない?」

 

「分からぬ」

 

「では、この話は何なんですか!」

 

「敵が、分からぬものを持ち帰ったという話だ」

 

 敵に確実な情報は渡していない。

 

 だが、何もないとも思わせていない。

 

 博望の南には、継続して物資を受け取る者がいる。

 

 馬もいる。

 

 ただし何人、何頭いるのかは分からない。

 

「複数の騎馬なんていませんよ」

 

 俺が言うと、関羽が答えた。

 

「友がおる」

 

「一頭だろ!」

 

 張飛も会話へ入ってくる。

 

「俺が馬に乗れば、二騎になるぞ」

 

「お前は馬から降りた方が速い!」

 

「ならば騎兵ではないな」

 

「自分で納得するな!」

 

 支給控えには、一頭とも数頭とも書かれていない。

 

 しかし、存在しない騎馬部隊の可能性だけが、敵の手元へ渡ってしまった。

 

 ◆

 

 県丞が、襄陽へ送る報告をまとめた。

 

 博望北方の街道休息地にて、物見への水食等の受け渡しと、日ごとの支給を照合。

 

 敵は前回より多い人員で接近。

 

 本道と東側へ分かれて行動。

 

 林の物見位置へ近づいたため、命により同位置を放棄。

 

 物見役は第二の退路から帰還。

 

 休み場の人員も、敵の回り込みを受け、南東の道から退避。

 

 死者、負傷者、捕虜なし。

 

 見張りへの支給を記した当日分の控えと木箱を置いたまま退避。

 

 控えには、人名、兵数、武器、倉の残量を記していない。

 

 敵は控えを持ち去った。

 

 一騎が控えを持って先に北へ戻った。

 

 残る敵も博望へ進まず北へ戻った。

 

 休み場に、前回と似た印を確認。

 

 関羽、張飛、赤兎馬の姿は見せていない。

 

 固定した林の物見位置は、今後使用しない。

 

「『敵が騎馬を恐れて帰った』とは書きませんね?」

 

 俺が確認する。

 

「書きません」

 

 県丞が答えた。

 

「敵が控えをどう読んだかは分かりません」

 

 単福も頷いた。

 

「では、帳簿を奪われただけ?」

 

 糜氏が訂正する。

 

「元の記録ではなく、当日分の控えです」

 

「負け方の説明だけ、どんどん上手くなってる……」

 

 ◆

 

 夜の軍議。

 

 地図へ、また新しい線が増えた。

 

 博望北方の休み場。

 

 敵が本道を進んだ線。

 

 東へ分かれた騎馬の線。

 

 放棄した林の物見位置。

 

 西の溝。

 

 南東の畑道。

 

 敵が控えを見つけた場所。

 

 一騎が先に北へ戻った道。

 

 二つ目の炭の印。

 

「敵は、前回より北で成果を得て戻った」

 

 単福が言った。

 

「敵が持ち帰る成果の位置を、前より北へ移すことはできた」

 

「では、成功ですね?」

 

「敵が次も同じように止まるとは限らぬ」

 

「またそれ?」

 

「今度の敵は、林の物見を探した」

 

「退路の先へ回ろうとした」

 

「こちらの逃げ方を学んでいる」

 

「敵まで成長しなくていい!」

 

 単福は、支給控えの元になった木札を指した。

 

「次に確かめに来るとすれば、これだ」

 

「帳簿を?」

 

「飼葉だ」

 

「飼葉を確かめに、兵が来るんですか?」

 

「この先に、何頭の馬がいるのか」

 

「敵は知りたがるかもしれぬ」

 

 俺は関羽と赤兎馬を見た。

 

「一頭しかいませんよ」

 

 関羽が答える。

 

「友一頭で不足はない」

 

「食費だけなら騎兵隊に勝ってるよ!」

 

 単福の指が地図の南側へ移る。

 

「敵が、存在しない騎馬部隊を探しに来るなら、その動きは読める」

 

「いない軍勢を囮にするの?」

 

「敵がいると思っている間は、存在しているのと同じだ」

 

 俺は支給控えを見下ろした。

 

 赤兎馬一頭へ渡した飼葉。

 

 ただそれだけの記録が、敵の手元では何頭分にも見えるかもしれない。

 

「赤兎馬の飼葉を書いただけなのに、騎兵隊を置いたことになってるんだけど……」

 

 関羽は赤兎馬の首を撫でた。

 

「友は、一頭で軍に等しい」

 

「食費の話をしてるんだよ!」

 

 赤兎馬だけが、当然だと言わんばかりに飼葉を噛み続けていた。

 

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