杖を使わない訓練は思いのほか難しかった。
リリーは片手を上げ、指を曲げ伸ばしするだけで物を自在に動かせる。ナーサは何度試してみても羽根ペン一つ動かせなかった。
「……あたし、杖なし魔法の才能がないのかもしれません」
リリーから夏休み最後のトレーニングを受けた後、ナーサは気落ちして漏らした。一ヶ月間、ほぼ毎日数時間ずつ習っていたというのに成果らしい成果は何もなかった。
その途端、リリーは声を立てて笑い出した。
「そんな簡単にできてもらっちゃ困るわ。
私が杖なし魔法を制御できるようになるまで、二年もかかったのよ」
「二年……?」
疲れも忘れて、ナーサは声を上げた。
クスクス笑いながら、リリーがタオルを差し出してくれた。いつの間にか額や首筋を汗が伝っていた。
「それも、自分の杖を奪われてから、必死に特訓した二年後にね」
「奪われた? 杖を、ですか?」
柔らかな布地を押し当てながら訊くと、リリーの頬が一瞬引き攣るように動いた。けれど、すぐに緊張は緩み、いつものリリーの顔に戻った。
「余計なことを言ってしまったわね。
マグル出身者は杖を持たせてもらえないの。うまく制御できないからって」
「でも、リリーはホグワーツを首席で卒業したのに?」
「大丈夫。もう杖がなくても不自由はしてないもの」
リリーは笑った。見ているだけで胸がキュッと締め付けられた。もう哀しみは去ったと自らに言い聞かせているかのような、儚く美しい微笑み。
「ねえ、ナーサ。あなたは才能がないって言ったけれど、魔法使いは皆、魔力を発現する時は杖なしだと思うわ。子どもの頃は杖を持っていなかったでしょう?
杖がなくても魔力は放てる。問題は制御が難しいってことだけ。
そうね……自分の杖腕を見て。どの指が一番、杖の代わりになると思う?」
ナーサは手を開いて、じっと見つめた。よく使う指を考え、一つ頷く。
「人差し指、だと思います」
「それじゃ、人差し指に意識を集中させましょう。全身の熱を人差し指の先に集めるイメージね」
部屋を出て廊下を並んで歩きながら、ナーサはそっとリリーの顔を見た。
玄関ホールにある暖炉の前まで行ったら、もうしばらくは会えない。ナーサはギュッと手を握りしめると、震えそうになる口元で精一杯の微笑を浮かべる。
「ありがとうございました、リリー。
……明日から会えないと思うと、少し寂しいです」
リリーはふっと目を細めた。
「私もよ、ナーサ。よかったら手紙を書いて。私も書くわ」
「本当に?」
こんこんと湧き上がる温かなものが胸を満たしていき、頬が緩む。
ナーサの中では手紙は家族か、それに近い人に書くものだという思いがあった。送っても迷惑ではないというだけで、一歩近づくことを許された気がした。
「勿論よ。
学校に行っても、一日十分でいいから羽根ペンを動かす訓練を続けてみて。ほんの少しでも動いたら大成功だから」
フルーパウダーを握りしめ、リリーは振り返る。その顔はホグワーツ入学前夜に送り出してくれた母の顔を思い起こさせた。
*
新学期の朝を迎えたその日は、紫色に陰った厚い雲が空全体を覆い隠していた。
朝食を終えると、ナーサはそのまま玄関ホールに向かった。
見送りに来たクリーチャーは洋服代わりの枕カバーを目元まで引き寄せ、大粒の涙を拭きとっていた。
しんみりと別れを告げると、レグルスと連れだって駅に向かって歩きだした。
湿り気をはらんだ風がひんやりと冷たい。マルフォイ邸を出た時はあんなにも行きたいと望んでいたホグワーツなのに、今は足取りが重たく感じてしまう。
駅に近づくにつれてマグル達の姿が増えてきた。
大きなトランクを引いた二人は観光客に紛れ、九と四分の三番線プラットホームに着くまであまり時間はかからなかった。
時計はすでに発車時刻の五分前を示していた。
ホームはほとんど見送りで埋め尽くされていて、生徒達の姿はあまり見えない。座席を確保した上で、窓から身を乗りだして家族と話し込んでいるのだ。
「ナーサ。この二ヶ月間、君と暮らせて本当に楽しかった」
「それは……あたしの方です」
目頭が熱くなってきて何度もまばたきしてしまう。
レグルスに差し出されたトランクを受け取った後、そっと地面に置いた。小さく喉を鳴らすと、レグルスに一歩一歩近づいていく。自分が何をしようとしているのかに気づいて、ナーサは心臓が絞られるような思いだった。
両手を広げた瞬間、レグルスはハッと息を呑んだ。やはり迷惑かもしれない――けれど、もう止まらなかった。大きな背中に腕を回す。
ざわめきが遠のいたような開放感。ふわりと鼻をくすぐる甘すぎない柑橘と、洗いたての布の香り。
ナーサは肺の奥まで満たすように大きく息を吸い込んだ。
「……幸せな二ヶ月でした、本当に」
レグルスの手の温度を背に感じた。引き寄せるわけではなく、ただ添えられた慎ましい手つき。
ナーサは顔を上げ、そっと身体を離した。
「クリスマス休暇に帰ります。また……お会いできる日を楽しみにしています」
「私もだ。何かあったらすぐに手紙を書いてくれ。私に言いづらいことであれば、リリーに連絡を。
学校生活を楽しめるよう祈っているよ」
「おじさまもお身体に気をつけて」
背後からコツコツと軽やかな靴の音が響き、すぐ傍で止まった。
「そうしていると、まるで恋人同士のようだな」
突然降ってきた言葉に、ナーサの肩が跳ねた。
振り返ると、すぐ側にマグルのビジネススーツに身を包んだクラウチ氏とアシュタロスがいた。
アシュタロスはすでに父親の背丈を越していたが、まるで見えない鎖でこの場に引きずってこられたような顔をしている。
「ご機嫌よう、ブラック。マルフォイ嬢」
「クラウチ、来ていたのか」
「ちょうど息子の見送りにきたところでね。
アシュタロス、ブラック卿とミス・マルフォイにご挨拶を」
前に押しやられたアシュタロスは溜息を吐きながら、ナーサとレグルスを順に見た。
「ご機嫌よう、ブラック卿。マルフォイ嬢、ご無沙汰しております」
抑揚のない声で、静かにそう言った。
側近くで見て、確信した。やはり、レグルスとアシュタロスはよく似ている。クラウチ氏よりも、レグルスの方が父親に見えるほどに。
――けれど、レグルスを見るアシュタロスの目は凍るように冷たい。
「アシュタロス、ここで折角会えたんだ。マルフォイ嬢をホグワーツまでエスコートするように」
「父上。あいにくですが、僕は監督生の車両に行かなければなりません。それに車内の見回りも――」
「同じコンパートメントにお招きすればいいだろう。一般生の車両は狭い。マルフォイ嬢に窮屈な思いをさせるつもりか?」
さりげなく息子の言葉を遮った。目を伏せたアシュタロスより先に、ナーサが声を上げた。
「お気遣い頂いてありがとうございます。ですが、特別な計らいは必要ありません」
クラウチ氏は笑いかけた。興味深いものを見つけた、というように。
「マルフォイ嬢。アシュタロスは君の三学年上だ。今後のホグワーツ生活を送る上で、ためになる話をできると思うよ。
……それに純血同士、親睦を深めるのは偉大なる闇の帝王のお望みでもある。そうだな、ブラック?」
ナーサは喉を押さえた。まるできつい首輪を絞められたように言葉が出てこない。
小さく震えるナーサの肩に、レグルスはそっと手を添えた。
「我が君は、純血の繁栄をお望みだ。対外的な政策が必要となる今の世には、よりよい血の、強い子が求められる。
この子はまだ若い。まだ見る目も培っていない時期だ……一人と親密な関係を築くよりも、多くの者と関わりを持ち、選定を行う時期に備えるべきだろう」
ナーサは思わずレグルスを見上げた。魔法省でも聞いた、突き放すような言葉。
けれど、すでにナーサは知っている。守るためには制度の言葉が必要となることを。
レグルスは胸元から金細工の施された懐中時計を取り出した。蓋を開けて時刻を確認すると、蒸気機関車を指し示した。
「もう時間だ。早く乗りなさい、ナーサ。アシュタロス、君もだ」
「行ってきます、レグルスおじさま」
その瞬間、けたたましい発車ベルが鳴り響いた。
慌ててトランクを掴んで車体に飛び乗ると、アシュタロスが後に続く。ベルが鳴り止み、ドアが閉められていく。
ナーサは乗降口の小さな窓に駆け寄り、両手を這わせた。
いつもと変わらない優しい笑みを浮かべたレグルスが手を振っていた。声は聞こえなかったが、口の動きから「元気で」と言っているのが分かる。
圧縮された蒸気が一挙に解放される鋭い音と共に、車体がゆっくりと動きだす。姿が見えなくなる前に、ナーサも手を振り返した。
やがてホームの端も見えなくなると、諦めて身体の向きを変えた。そこには、もうとっくに監督生の車両に向かったと思っていたアシュタロスの姿があり、ナーサは軽く息を呑んだ。
彼とこうして顔を合わせるのは、イースター休暇の図書館以来だった。
「変わったな、君。『守られる子』じゃなくなった」
「……はい?」
「さっきのは偶然じゃない。今後も気をつけるといい」
その時、廊下の向こうから来た同級生達がやってきた。目が合った途端、彼らが肩を揺らすのが見えた。ナーサを見る目に、ほんの一匙、ざらりとする感触がある。
(……今、笑われた? からかわれてる?)
ナーサは咄嗟にトランクを掴み、アシュタロスに背を向けた。話していると思われないよう、そっぽを向いたままで呟いた。
「……あたし、コンパートメントを探しにいきます」
「もうコンパートメントは埋まっている」
「それでも……行きます。席がなければ、乗降口に」
――ヤックスリー兄弟の次は、ブラック卿。それにクラウチまで?
――大人しそうな顔してんのに、よくやるよな。
耳が、自然と周りの音を拾ってしまう。聞きたくもないのに、せせら笑う声が耳を何度も駆け抜ける。胃の奥がチクチクと刺されるように痛い。
「それはお勧めしない。ホグワーツまで何時間かかると思う? それなら、監督生車両に来るといい」
「あなたのお父さまに言いつけるつもりはありません。お気になさらないでください」
目を合わさないまま、囁くように言う。
すると、アシュタロスはハッと目を見開き、すぐに伏せた。
「……それは、どうだっていい。
ただ、あまり通路や人目につくところにいない方がいいと思っただけだ」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが……」
言いかけた言葉を、ナーサは呑み込んだ。
ふと見た、後方側の通路の奥――その先に、サンゴールドブロンドの輝きを見つけてしまった。こちらに向かいかけた『彼』の足が、ぴたりと止まる。
その瞬間、カチカチと歯が鳴り始め、ナーサは思わず懐中時計を握りしめた。心に溜め込んでいた澱が緩やかに浮き上がり、絶望的なまでに全てを覆い隠していく。
「……ミスター・クラウチ。
すみません、やはりお邪魔してもよろしいですか。お願いします」
「ああ。こちらへ」
アシュタロスはどんどん前に進んでいき、機関車に一番近い車両に入っていった。奥へと進み、四人掛けのコンパートメントのドアを開ける。
向かい合わせに座ると膝が触れあうほど狭い一般車両よりも、かなりゆったりとした造りだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ナーサはドアを閉め、アシュタロスの斜め向かいに腰を下ろした。幅の広いシートはふかふかとして座り心地がよかった。
トランクケースから制服のローブを出して羽織ると、杖を握り、きっちりとフタを閉める。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
トランクケースが羽のように網棚の荷物入れの高さまで浮かび上がる。杖を横に振ると連動して、すでに置かれていたアシュタロスの荷の隣りに収まった。
「お見事、ミス・マルフォイ」
「あの、ミスター・クラウチ。よかったら、あたしのことはナーサと呼んでください……お聞き及びかと思いますが、マルフォイ家を出たので」
「それなら、僕のことはアッシュと。
……アシュタロスという名前は好きじゃないんだ」
ナーサは思わず彼――アッシュを見つめた。胸の内で、その名を繰り返す。
親しくなるための愛称ではなく、本名を使わないための名。名家の嫡男の彼が、それを提示するのは少し不思議な気がした。
「あなたのお名前、珍しいですね。親族の方からもらったお名前なんですか?」
魔法界は血筋を尊ぶため、代々一族で受け継がれていく名前がある。そうした名前は他の血筋と重なることを避けるためか、一風変わったものが多い。
アッシュはほんの僅かに唇を歪めた。
「遠い昔、実在したと言われる魔法使いの名前だ。マグル達から神話化されるほどの、恐ろしい闇の魔法使いのね。
父が僕に望むのは、あのお方の役に立てる闇の魔法使いになることだけだから」
「……でも、監督生なんですよね。充分期待に応えてるんじゃないでしょうか」
以前、ケイレブから聞いた彼の評価を思い出す。
数年ぶりにO・W・Lで十二ふくろうを確実視される秀才。その上、監督生ならば誰の目から見ても『自慢の息子』に思えた。
けれど、口にした途端、アッシュの目が曇る。
「監督生はなって当然だ」
「そう、なんですか?」
「……魔法法執行部部長の息子だから」
不意にアッシュの目線が通路側のドアの窓に向かい、すっと立ち上がった。
「クロックフォードがこれから一時間に一度、見回りをしろって」
ドアを開けると同時に飛び込んできた声。
アッシュの陰からストロベリーブロンドの巻き毛がチラリと覗いた。
その色が『誰』か、考える間もなく彼の脇をすり抜けてミケイラ・ヤックスリーが入ってきた。その顔には、はっきりと敵意がこもっていた。
逃げ場のないコンパートメントで、ナーサは突き刺さる視線を真っ向から見つめ返した。
「……どうして、この子がここにいるの。監督生以外、この車両に入れちゃ駄目じゃない」
「何処も空いてなかったんだ。仕方ないだろう。
ずっとリラルドが彼女を探し歩いていた。気づいてるだろう」
「あなたまで、その子を庇うの?」
片足で床を踏みしめたミケイラが、ナーサを見る。感情をむきだしにしたその顔は、彼女の弟とよく似ていた。
「リラルドは夏休み中、ずっと罰を受けていた。
……知らなかった、なんて顔はしないで。それでも平気で、こうしていられるんでしょう?
どうして好き好んでスリザリンの監督生と一緒にいるわけ。グリフィンドールのお友達のところに行ったらどう?」
罰を受けていた。その言葉がナーサの耳をこだました。
リラルド――その名は夏休み中、胸の奥深くに沈めていた。ナーサは膝の上に置いた手を握りしめた。
「君には関係ない。口出しするな」
アッシュの声が一段低くなった。静かな面に走る微かな緊張に気づいたのか、ミケイラは拗ねたように唇を歪める。
ミケイラの背に手を添えたアッシュが、肩越しに振り返る。
「見回りに行ってくる。気にせずここにいてくれ」
一人取り残されたナーサは眉根を寄せたまま、頷いた。
窓際の席に移ると、外を眺める。空模様は相変わらずで、遠く見える丘陵や湖まで暗い色に染まっている。よく見ると、一筋の細い線が窓に走っていた。そろそろ本格的に降ってくるのかもしれない。
しばらくぼんやりと外を眺めたままでいると、コンパートメントのドアが開いた。戻ってきたアッシュが、元いた席に静かに腰を下ろした。
「あの……ミス・ヤックスリーと一緒にいた方がいいんじゃないでしょうか」
「監督生同士で過ごさなきゃならないわけじゃない。首席に従って巡回をすれば基本は自由なんだ」
「……お二人は、いつも一緒のようでしたし」
スリザリンのテーブルで挨拶した時も、婚約間近のような空気感だったことを思い出す。
アッシュは鼻から長い吐息を漏らした。
「あの兄弟とは……幼なじみのようなものだ。
彼らの父親が魔法大臣なのは知っているだろう。大臣と魔法法執行部長には仕事柄、切っても切れない縁がある。それだけだ」
アッシュは言葉を切り、視線を落とした。
「君の方はどうなんだ? ブラック卿とは……昔からの付き合いなのか?」
探るような声音に、ナーサはまじまじと彼を見つめた。
改めて見ると、アッシュとレグルスの顔立ちはやはりよく似ている。
「子どもの頃に一度会っただけです。
でも……一番助けてほしい時に手を差し伸べてくれました」
「そうか。君には、手を貸したのか」
その声は穏やかだったが、強い感情の残滓が感じられた。胸に氷を押し当てられたように、思わず仰け反りそうになった。
血縁なのかを軽々しく訊くことは憚られた。
アッシュは唇を引き結び、しばらくの間、二人は黙りこくっていた。汽車の走行音だけがコンパートメントに流れる。
ナーサは何度も窓の外と廊下に視線を這わせた。落ち着きどころを探して、視線が行き場を失っていた。
「さっき、車内で君とブラック卿の噂が持ちきりだった」
汽笛の音で思い出したように、アッシュがぽつりとこぼした。
「……別れの挨拶をしただけです」
「分かっている。
ただ、相手が本当の父親ではないこと。しようと思えば、結婚できる間柄だ。
君は目立つ。君が望まなくても、皆が君のことを見ているんだ。これ以上、人目を惹く言動は避けた方がいい」
いつの間にか窓を叩く雨が激しさを増していた。水滴が次々と貼りつき、引き伸ばされた窓から見る景色は歪んでいる。
(濡れた窓越しに見られてるみたい)
何もやましいことはしていないはずなのに、騒がれてしまう。人目を惹きたいと思ったことなんて、一度もないのに。
ナーサは懐中時計をそっと握りしめた。その指の合間から光が漏れていることに、ナーサはまだ気づいていなかった。