あと五分で到着すると車内アナウンスが流れ、ナーサは重たいまぶたを開けた。
座席に滑り落ちていた教科書を膝の上に置くと、両手を組んで前に伸ばす。長時間揺られていて、肩や首が少し痛かった。
「起きたのか。外はひどい雨だ」
窓に身を乗り出し、カーテンを閉めながら、アッシュが言った。
「すみません、眠ってしまっていたようで。
……こんなに雨が降るなんて思わなかったです。傘を持ってきたらよかった」
「雨を弾く魔法があるから大丈夫だ。インパービアス」
軽くナーサの額に杖を当て、アッシュが魔法を唱えた。
ほんの一瞬、全身を薄布で覆われたような感覚があったが、瞬きをする前に消えてしまう。
ナーサは思わず立ち上がって、両手を見下ろした。特に何も変わっていないように思える。
アッシュは続けて網棚に向けて杖を振り、自分とナーサのトランクを慎重に下ろした。
「僕はもう行く。監督生は皆を先導しなければならないんだ。
君は車掌が見回りに来るのを待ってから出るといい。誰かにこの車両から出ていくのを見られると、また騒がれるだろう」
カーテンを閉めたのもそのためだったのか、とようやく気がついた。ナーサはそっと微笑んだ。
「色々とありがとうございました、アッシュ」
体感的にも列車の速度は大分落ちていた。アッシュは立ち上がってドアに手をかけたが、ふと思い直したように振り返った。
「ナーサ、きっと……しばらくはつらいことが続くと思う。けど、君ならやり過ごせるだろう」
ぎこちない励ましの言葉に、ナーサは頬を緩めた。監督生用のコンパートメントで過ごした時間はとても静かだったけれど、沈黙が苦痛になることはなかった。
組分けの儀で憧れたアッシュ・クラウチは、やはり思った通りの人だった。
彼が出て行き、ほどなくして列車が完全に止まった。生徒達が一斉に降りようとしているからか、足音が振動となって伝わってくる。
ナーサは教科書をトランクの中にしまうと、カーテンの隙間から、そっと外を覗き見た。
暗いプラットホームには無数の明かりが見えた。皆、杖先に明かりを灯しているらしい。まだ杖先に光を灯せない下級生もいるだろうが、明かりの数を見たところ、もうほとんどの生徒が降車したようだった。
二年生からはボートで湖を渡るのではなく、馬車でホグワーツまで向かうのだと聞いたことがある。あまり遅く出ると置いていかれてしまうかもしれない。
ナーサはコンパートメントを開けて廊下の様子を窺った。人気はなく、見られる心配はなさそうだった。
こっそりと監督生の車両を抜けだすと、すぐ後ろの車両の乗降口を目指す。窓から見られないように屈んで移動するのは骨だったが、なんとか辿り着いた。
開けっ放しのドアの向こうから、うるさいほどの雨音が聞こえてくる。
ナーサは小さく喉を鳴らし、手だけをそっと外に伸ばしてみた。雨は手のひらの少し上で見事に弾かれ、下へとすべり落ちていく。皮膚には微かな冷たさも水滴すらも残っていない。
思いきってプラットホームに降り立った。
明るい車内から出ると、杖明かりは見えるが、誰がいるのかまでは分からない。
自分も杖を出そうと思った、まさにその時。刺すような光が目に焼きつき、ナーサは咄嗟に両手で目を覆った。閉じた目の裏にチカチカと丸い残光が踊っている。
誰かが「見て」と叫んだ。それを皮切りに、次々と襲い来る光の洪水。何事なのかと腕全体で目元を隠し、そろりと目を開ける。
──あの子でしょ。さっき駅で抱き合ってたの。
──死喰い人のブラック卿だってさ。
──へぇぇ? お盛ん。ヤックスリー兄弟を引っかき回したのにね。
雨音に入り混じって聴こえる声に、ナーサは無言でトランクを握りしめた。
ややあって杖明かりは顔よりも少し下に向けられたが、視界の滲みはすぐに治まりそうもない。
少しずつ目が慣れ、周りが見えてくる。好奇心あるいは嫌悪の表情を浮かべている生徒が多い。
その中にアリッサとメイジー、グレイスの姿を見つけたが、彼女達は強ばった顔でナーサを見ていた。
(ジャニスは──)
素早く周囲を見回した。こんな時、唯一味方になってくれるジャニスの姿は見つけられなかった。
「一年生はこちらに! 二年生以上は監督生について行きなさい!」
引率の先生の声が響き、集団が二つに別れた。
二年生以上は、先導する監督生に従ってプラットホームの端から、なだらかな坂を下りていくようだ。
流れに加わりながら、ナーサは針のむしろを歩いているような気分だった。前後の間隔を必要以上に空けられ、前を行く生徒達はわざわざ振り返って見てくる。そのくせ、直接何かを訊いてくるわけでもない。
ホグワーツに入学した去年も今と同じだった。遠巻きにされて、誰ともまともに話せなかった。
けれど、今のように悪意まで向けられていただろうか。
ナーサは意識して口角を上げた。顔が笑みを拒否し、引き攣りそうに頬が痛んだ。
水をはらんで重たい足音がぐんぐんと迫ってきた。
誰かが、からかおうとしているのかもしれない──爪を突き立てるように両手を握りしめた、次の瞬間。
「──マルフォイ」
何処か怯えたような、かすれ声が耳を撫でる。
ナーサは振り返りそうになるのを何とかこらえ、前に足を出すことに集中した。目の奥がじんわりと熱を帯びてきたことに気がついた。
「マルフォイ、頼む……こっち向いてくれ」
視界の端をかすめる光。陽光のように輝いていた髪は、雨の中、くすんでいた。
道のぬかるみも気にならないのか、ナーサの隣に並んだまま、なおも訴える。
「本当に悪かった。許してくれ……。
俺は……お前に、見てほしかっただけなんだ。
あいつのことは許して、俺は駄目なのかと思ったら……頭が真っ白になって」
心を震わせる懐かしいスコティッシュ・アクセント。何度も慰められ、そして最後に深く抉られた音。
ナーサは僅かに顔を傾け、リラルド・ヤックスリーを見た。
罰を受けたと聞いたが、怪我をしている様子はない──そのことを確認すると、僅かに歩みを早めた。顎を上げ、前だけを見つめる。
しばらく横並びしていたリラルドは、やがて諦めたように歩を緩めた。
クスクス笑いが耳を打つ。頬を熱いものが伝ったのは、決してくだらないからかいのためではなかった。
やがて辿り着いた馬車道には、五〇台ほどの馬なしの馬車が並んでいた。
柔らかい地面は馬の足跡と轍跡だらけで、雨水が溜まって池のようになっている。ぬかるみに足をとられないように気をつけながら、慎重に歩みを進める。
馬車の前には監督生が三人立っていた。順々に生徒を乗せ、ドアを閉めて走らせてから、次の馬車を呼んでいるようだ。
列が前の方に進み、ナーサは監督生の中にミケイラ・ヤックスリーがいることに気づいた。彼女の目がナーサを捉えた瞬間、ナーサは心臓を握られたような痛みを覚えた。
「さすがはマルフォイ家のお姫さま。私だって、こんな広い馬車を独占しようなんて思ったことないわ」
「……独占しようとなんかしてません」
ナーサは乗り込みながら、なるべく感情的にならないように答えた。
すると、ミケイラがよく通る声で叫んだ。
「ねえ! ここ、まだ乗れるわよ。マルフォイ嬢に噂の真相を聞きたい子はいない? あのブラック卿と『どういう関係』なのか、知りたがってる男子は?」
忍び笑いと囃し立てる声が波のように広がった。
ミケイラは周囲を悠然と見回し、肩をすくめた。
「あなた、よっぽど皆から嫌われてるみたいね、ミス・マルフォイ。誰もあなたとは一緒にいたくないみたい。それじゃ、仕方ないわね」
馬車のドアが閉められ、ゆっくりと動きだす。ナーサは杖明かりを消した。暗闇と一つになるのは限りなく孤独で、しかしこの上なく安堵できた。
*
新入生の組分けと宴会が終わる頃には、ナーサはすっかり疲れきってしまっていた。
寮へ戻ると、談話室には目もくれずに女子寮に上がっていった。部屋にはすでにルームメイト達が戻っていたが、彼女達はナーサが入っていくとピタリと話を止めた。
「……皆、久しぶり。元気だった?」
「ご覧のとおりよ」
あまりに素っ気ない返答だったが、ともかく返事はしてくれた。
その時、ナーサはふと室内の違和感に気づいた。ベッドの配置だ。少し間隔が空けられている。
ここは五人部屋なのに、一つ足りない──。
気づいた途端、ざわりと背筋を悪寒が駆け抜けた。震える指先でローブを握りしめながら、おそるおそる口を開いた。
「……ジャニスは、どうしたの? 部屋が変わったの?」
投げかけた質問は、空中で凍りついたようだった。
沈黙が落ちた後、微かな笑い声を漏らしたのはアリッサだった。
「ジャニスのこと、知らないの?
あの子のお父さん、収監されたの……」
「……しゅう、かん?」
その言葉が『収監』と気づいた瞬間、ナーサは息を呑んで立ち尽くした。
みるみる血の気を失うナーサを見て、ルームメイトの三人は目配せする。
「その様子だと、心当たりがあるの?」
詰問するようなアリッサの口調に、ナーサは顔を上げる。眼鏡の奥の目は鋭く、冷ややかだった。
ナーサは張りついた喉をほぐそうと、小さく咳払いした。
「……心当たりって?」
「はぐらかさないで。ずっとジャニスと二人でいたじゃない。あの子のことをスパイしてたわけ?」
いつもなら剣呑な雰囲気になると、すかさず助け舟を出すメイジーは下を向いている。グレイスは腕組みをしたまま、唇を引き結んでいる。
二人とも加勢はしない。けれど、明らかにどちらの側に立っているのかは分かる。
「ジャニスからお父さんのこと、聞き出したんじゃないの? だって……あなたのおじいさまは死喰い人じゃない。死喰い人のお友達は多いんでしょう」
「あたしは何も……」
言いかけた途端、疑惑が閃光のように駆け抜けた。
黒塗りの歴史書。消された校長、アルバス・ダンブルドア。アッシュの言葉が、不意に頭に浮かんだ。
──延長五回で、周囲の人間にも疑いの目が向く。
(……あたしが、巻き込んだ? ジャニスには『血の盾』がない。なのに、あたしが余計なことを教えたせいで……)
「あの子は、もうこの国にはいない」
その言葉に、ナーサは胸の奥深くを貫かれた。
最後に会ったのは、学期末の車内。精神的に削られた時期を共にしてくれた彼女の最後の姿が、よく思い出せない。
──また休み明けにね、ナーサ。
その一言だけが、鮮やかに蘇る。
そう、今日この日に会えることを疑っていなかった。あれが最後の姿になるなんて、誰が知っていただろう。
「なんで組分け帽子は、あなたをグリフィンドールに決めたの。頼み込んだの? 皆をスパイするために」
「……あたし、何もしてない」
グレイスが髪をかき上げ、一言漏らした。
「駅で抱き合ってたよね。あのブラック卿と」
「あれは──」
アリッサの青い目が、一段と冷えた。
「あなたがルームメイトになって戸惑ったけど、親は選べないからって思ってきた。
でも、あの人は……ブラック卿は親じゃない。自分で選んだんでしょ?
私は、叔母を死喰い人に殺された。今はそういう時代だと分かってるけど、やっぱり進んで死喰い人と親しくする人とは仲よくできない」
反論の言葉が喉まで上がりかけたが、三人の目にはもはや自分が『敵』としか映っていないことを思い知らされた。
ナーサは口をつぐんで、ベッドの周りをカーテンで囲うと、靴を脱いで倒れ込んだ。
カーテンの向こうからは三人の会話が聞こえてくる。夏休みに何があったか、報告しあう声だ。
(……ジャニスに、会いたい。無事なの? それとも……)
考えるだけで切り裂かれるように胸が痛んだ。
ナーサは布団の中に潜り込んで、耳を塞いだ。急に涙がボロボロこぼれてきてシーツを濡らす。胸が苦しかったが、決して声は漏らすまいとした。