新学期が始まってから二週間経ったが、ナーサの状況は依然として変わらない。授業で少人数のグループに分かれて行う作業など、どうしても話さなければならない時以外は誰とも口を利かない日々を過ごしていた。
一年生の学年末も似たような状況だったが、あの頃はジャニスがいた。
消えた彼女のことを口に出す生徒は皆無だった。まるで最初から彼女が存在していなかったかのように。
いなくなってから、ジャニスが自分にとってどれだけ大切な存在だったかを思い知らされた。
世間知らずな言動を笑いに変え、さらりと皆の輪に引き入れてくれた。ナーサにとって大事なものを、自分の価値観とは関係なく尊重しようとしてくれた。
ナーサは二人の関係に名前をつけていなかった。
けれど──あれは、確かに『友達』だった。そうとしか呼べないことが、今になってはっきりと分かった。
*
「最近なんだかぼんやりとしているが、大丈夫かい?」
薬草学の授業が終わった後、ロングボトム先生に呼び止められた。
反射的に「大丈夫です」と返したが、何か引っかかったらしく、ロングボトム先生の執務室に招かれた。
ブボチューバーの原液は肌を痛めるから、必ずドラゴン革の手袋をつけるように──そう言われた直後に、素手で器を持ってしまった。
その場でも厳しく注意されたが、罰則もあるのかもしれない。
「……今日は、不注意でご迷惑をおかけしました」
ギュッと手を握りしめて、そう言うと、先生は目を見開き、すぐに細めた。
「ああ。珍しいね、君が事前の注意を聞き逃すなんて。
迷惑をかけたんじゃない。君自身を傷つけないように叱ったんだよ。
……色々と、君も大変だったようだね」
先生は最後の一言をそっと言い添えた。『色々』が何を指しているのかを量りかねて、ナーサは曖昧に笑った。
ロングボトム先生とは紅茶を飲み、ぽつりぽつりと当たり障りのないことを話しただけだった。けれど、たったそれだけのことで、ささくれ立っていたナーサの心はしっとりと包まれるように癒された。
*
その数日後、レグルスからの手紙が届いた。
放課後、人けのない図書館の片隅で、ナーサは封を切った。
その途端、ふわりと鼻をかすめたのは、柑橘と洗いたての布の香り──レグルスとの抱擁で包まれた、あの匂いだった。
ナーサは目を瞑り、震える指先で便箋を鼻に近づけた。遠く離れても繋がっている。理屈ではなく、はっきりとそう感じ取った。
親愛なるナーサ
たった二週間なのに、もう随分長いこと君に会っていない気がしている。元気にしているだろうか。
クリーチャーは君がいる生活に慣れて、料理をたくさん作るクセができたようだ。もっと食べるようにと毎日せがまれて困っている。
あの日、君と少しでも長く一緒にいたいとプラットホームまで見送りに行ってしまったが、生徒の保護者には私のことを知る者も多かったろう。
そのことで君が嫌な思いをしていたら本当に申し訳なく思う。
ホグワーツは最高の学び舎だが、閉ざされた狭い世界でもある。組分けで団結力が養われる反面、輪から少しでも外れた者には容赦がない。
孤独は視野を狭くし、正しい選択をすることが難しくなる。私はそうだった。
もし、あの時に戻れたら──そう考えてしまう夜が、今でもある。
君が今、同じように悩んでいるのであれば打ち明けてほしい。私は君がどんな選択をしようと、ずっと味方でいる。
レグルス・アークトゥルス・ブラック
ナーサの置かれている状況が全て分かっているような文面だった。何度も読み返しているうちに、ツンと鼻の奥に軽い痛みを感じた。
手の甲で目をこすると、手紙を置いて深呼吸する。インク壺を取りだすと、真新しい便箋を並べて羽根ペンを走らせる。
レグルスおじさまへ
お手紙ありがとうございます。
お察しの通り、今は少し厳しい状況です。自分の浅慮で周囲との距離ができてしまいました。
ただ、あの別れの挨拶に関して適切ではなかったにせよ、誤りだったとは思いません。
意図と異なる捉え方をされるのは残念ですが、あの時の自分の判断を尊重したいと思っています。
夏休みの二ヶ月は短くて、まだまだおじさまと話していないことがたくさんあることに気づきました。
クリスマス休暇で是非教えてください。
クリーチャーにご馳走を楽しみにしていると伝えてくださいね。
ナルシッサ・アークトゥルサ・マルフォイ
滑るように書き終えると、頬が自然と緩んだ。
早くインクを乾かしたいと便箋の両端をつまみ、小さくはためかせる。
「──それ、誰への手紙だ?」
大きく肩が跳ねた。
いつの間にか、すぐ側まで来ていたリラルド・ヤックスリーが、便箋に鋭い視線を向けていた。
ナーサは咄嗟にひっくり返して机に置くと、レグルスからの手紙も手繰り寄せ、その上に覆いかぶさった。
卵を守る親鳥のような仕草に、リラルドの目つきが一層鋭くなる。
「答えろよ。誰に書いてた?」
「……関係ないでしょ」
視線を落として、そう呟いた。まだ真っ向から見つめるには胸が痛すぎた。
リラルドはしばらく立ち尽くしていたが、やがて意を決したようにナーサの腕のすぐ側に手をつき、軽く背を屈める。
触れているわけではないのに、彼のいる側がひどく熱い。
「……ケイレブから聞いた。俺のこと、誰よりも大切だったって……」
ナーサは両手を握りしめた。
「……やめて。それは、もう過去の話。終わったことだよ」
「俺は……まだ終わってねぇ。
なあ、手紙の相手はブラック卿なのか? あの人は……お前にとって何なんだよ」
たまらずナーサは椅子を引いて立ち上がった。
咄嗟に身を引くリラルドに構わず、折れないように丁寧に手紙をしまうと、羽根ペンとインク壺を片付ける。
「……あなたに答える必要ある?
もう、話しかけないで。その方がお互いのためだと思う」
机に置かれたリラルドの手は白ばんで震えていた。
「……どうしてだよ。
前もそうだったじゃねえかよ。勝手に全部決めて……理由も言わずに消えんのかよ」
その言葉は刃のようにナーサの胸を切りつけた。紛れもなく真実だったからだ。
仲のよかった兄弟の諍いの種になったことが耐えられなくて、二人から距離を置いた。いつか、また元通りになることを信じて。
ナーサは鞄を抱きしめて、リラルドの目を静かに見据えた。彼の言葉と同じ、感情の起伏の激しい強い眼差し。
もし、あの時に戻れたら──。
レグルスの文面が、頭に蘇る。
そんな夢想をしたって、もう意味はない。
「そうだね。理由くらい伝えればよかった。
でも……もう、あの言葉を聞かなかった時には戻れないから」
ナーサは背を向け、図書館を後にした。
けれど、石床を叩く足音はナーサを追ってくる。小走りになっても、何処までも──。
廊下ですれ違った生徒達の顔に嘲笑の色が浮かぶ。
ナーサは胸元で弾む懐中時計を握りしめ、足を止めると、背後の足音も静まった。
息を整えてから振り返ると、僅かに色づいた頬が固くこわばった。
「お願いだから、もう、ついてこないで」
「……嫌だ」
今にも感情が爆発しそうな彼の様子に、ナーサはつま先を見つめた。できるだけ感情を殺して、淡々と告げる。
「話し合っても、どうにもならない。
……もう傷つくのは嫌だし、傷つけたくない」
その時、ざわりと周囲の声が高まった。
階段を上がってきたスネイプ先生が、ナーサを、そしてリラルドを順に見つめる。
「マルフォイ、ヤックスリー、何をしている?」
思わず、ひやりとするような厳しい目だった。
ナーサは小さく息を飲み、かすれた声で呟いた。
「何も、していません」
先生の黒い目は油断なくナーサを見つめてきた。まるで、開心術を使った時のケイレブのような目。
「──何も?」
薄い唇の端を歪ませ、低く囁いた。胃を絞られるような痛みに耐えながら、ぎこちなく頷いた。
続いて先生の目が、リラルドに向かう。
何処か不貞腐れたような顔で、リラルドは姿勢を正した。
「話をしていただけです」
先生は深々と溜め息を吐くと、成り行きを見守る生徒達を一瞥する。彼らは皆すぐに視線を逸らし、そそくさと歩み去った。
「ヤックスリー、寮に戻れ。
そして、ミス・マルフォイ。廊下に留まり、私情を晒して衆目の注意を集めた。グリフィンドール、二点減点」
「そんな……どうして」
思わず漏れた言葉を、先生は聞き逃さなかった。
「説明は不要だ。罰則も与える。我輩についてくるのだ」
ナーサは唇を噛んだ。
リラルドは罰則と聞いた瞬間、抗議するように口を開きかけた。けれど、先生と視線が交わった瞬間、口を閉じ、拳を握りしめた。
ナーサは黙って、先生の後に続いた。
横を歩くリラルドが時折気遣わしげに覗き込んでくるのに気づかないふりをして、毅然と顔を上げながら。
魔法薬学教室の前に辿り着くと、リラルドは先生にお辞儀をして、最後にもう一度ナーサを見つめてから寮へと戻っていった。
遠ざかる背中を横目で見ると、ナーサは溜め息混じりに中に入っていった。
先生は杖を振り、蝋燭に一斉に火を灯した。
地下牢教室がぼんやりとした灯りに包まれると、ナーサに座るよう促した。眉間には深々とシワが刻まれている。
「何故、君は騒ぎを起こすのだ。レグルスの気遣いを無下にしたいのかね、ミス・マルフォイ?」
「……騒ぎを起こしたつもりはありません」
「レグルスは、少しでも君がホグワーツで安全に暮らせるよう配慮してきた。それに応えようとするなら、穏やかに過ごすべきではないかね」
「あたしは、何も──」
先生の拳が机を叩いた。振動で机上に置かれたままだったフラスコが、カタカタと音を立てて震えた。
ナーサは思わず先生の顔を見つめた。
スネイプ先生は厳しい先生だと評判だ。けれど、感情的に怒るわけではないと思っていた。
「悲劇のヒロインのように振る舞っているとお見受けするが、元は君の軽率な行いが引き起こした事態だと理解しているのか?」
その言葉には私情が挟まっているのをひしひしと感じた。
けれど、どうして──ナーサに思い当たる節はない。
困惑したまま、押し黙っていると、先生はゆっくりと机の周りを回り始めた。
「放課後、実験器具を洗う。魔法を使わずに。二週間だ」
その宣告に、ナーサは思わず椅子から立ち上がりかけた。
「二週間……毎日ですか?」
「さよう。罰則の意味がお分かり頂けなかったかね、ミス・マルフォイ」
ナーサは目を伏せた。
罰せられるようなことは何もやっていないと思った。そして、リラルドは何もお咎めがなく、自分だけが減点と罰則を与えられる。
ナーサは膝にかかったローブを握りしめ、ひと呼吸ついた。
「……承知しました。今日の分があれば、作業いたします」
無造作に渡された腕まである長い手袋をはめると、ナーサは流しに溜まった実験器具の山へと向かった。
ビーカーやフラスコの底にこびりついた液体は、流水だけではなかなか落ちない。跳ねた水しぶきがかからないよう気をつけながら、ナーサは猛然と洗っていった。手袋越しにも段々と手がかじかんでいくのを感じた。