湖のボートの上で、初めて『友達』を手に入れたあの日から、ナーサはほんの少しだけ肩の力が抜けたのを感じた。
あれから数日経ったけれど、寮が違うから、その後アッシュと話す機会はなかった。大広間の向こうに、それらしい姿を見かけるだけだ。
それでも──自分を受け入れてくれた人が、この学校にいる。そう思うだけで、逃げるように席を立つことなく、食事を摂ることができるようになった。
ルームメイト達が目を合わせただけで大袈裟に離れていくことも、むっつり顔のリラルドが合同授業で近くの座席に掛けた時も、静かに前を見据えることができるようになってきた。
むきだしだった心が、一枚薄い膜に包まれたようだった。
*
罰則を終えたナーサは、かじかむ両手を擦り合わせながら、魔法薬学教室を後にした。
そろそろ夕食の時間だ。寮に戻るよりも、少し早めに大広間に向かった方がいいかもしれない。
中庭に差し掛かったところで、ナーサはふと足を止めた。
その日は、霧のように立ち込める雨が城全体を覆い、壁のない回廊の中ほどまで黒く染めていた。
何気なく目を向けた先──茂みの合間に人影が見えた。金髪の女子生徒だ。木と一体化するように佇んだ、その横顔。
ナーサはホグワーツ特急でアッシュが使った防水魔法をかけると、おそるおそる中庭に足を踏み入れた。濡れた草が重たげな音を立てる。
「……ミス・マクドゥガル」
彼女はすぐには振り返らなかった。
呼びかけが届いていないのか、それとも……迷惑なのかもしれない。
ナーサは彼女の背中と来た道とを見比べ、唇を引き結んだ。スッと息を吐くと、彼女の隣に並んだ。
「こんにちは、ミス・マクドゥガル」
もう一度、声をかけると、彼女はハッとしたようにナーサを見た。
「──マルフォイ。久しぶりだね」
お手本のようにきれいな標準英語のアクセントだった。
リンジーのことは大広間や、談話室でよく見かけた。
けれど、彼女の周りにはいつも大勢の生徒がいたし、快活に笑う輪の中に入っていくことは躊躇われた。
彼女も防水魔法をかけているのか、髪は張りついていないし、服も重たげではない。ただ、微笑んで見えるその顔は深い哀しみで彩られているようだった。
「前にここで会ったのは、四月だったっけ……」
ぽつりと言った、その目の端から雨のしずくが弾かれて流れた。
ナーサの胸が、ギュッと締めつけられるように痛んだ。
この場所で、彼女と並んで立った記憶がある。否応なしに今、ここにはいない二人の影が浮かび上がる。
「あれから……色々とありましたね」
リンジーはすぐには答えなかった。しばらくの間、雨音だけが二人の間を満たしていた。
人けのない回廊に視線を滑らせ、リンジーは軽く吐息を漏らした。
「……ここはね、よくデニスと二人で話したところ。
中庭って不思議でね。真横は大勢通るのに、ちゃんと見る人ってあまりいないの」
ナーサは改めて中庭に目を向けた。
回廊の太い柱の間には低木が生い茂り、程よい目隠しになっている。クィディッチの練習に使われることもある広場だが、殺風景すぎる。
人の気配が絶えないのに、誰の視線にも引っかからない。そんな場所だった。
「あの人のこと、大切に想っていたんですね」
「うん。大切な──『友達』だった」
ナーサは思わずリンジーの顔を見つめた。彼女の喉が僅かに上下した。
「私ね……初めての宴で、ケイレブに選ばれたの。その後、皆の前で気持ちを打ち明けられて……私は有頂天だった。
けど、段々と……彼は、本当に私を好きなのか……血筋のためだけなのか、分からなくなってきて、別れたんだ。
それでもね、周りの扱いは何も変わらなかった。宴では相変わらず彼のパートナーで、皆には、ずっと『ケイレブの恋人』として見られてた」
リンジーは足元に目線を落とした。相槌を打つことも憚られて、ナーサは開きかけた口を閉じた。
不意に光が差した。急に開けた雲間から覗いた陽が、絹糸のように細い雨を照らし、中庭を染め上げる。
金色に包まれたリンジーは、今にも消え入りそうに見えた。
「……デニスは、入学した時から仲がよかったの。ケイレブのことも、色々話してた。あの人の影から抜け出したいって……そうしたら、隠れて付き合わないかって言われた。
デニスとはクラスが違う。許されないことだって、分かってた……でも、彼だけが私に近づいてきてくれたの。皆、ケイレブが……ううん、ヤックスリー家が怖くて、遠巻きにしていたのに」
リンジーはそっと両手を組み合わせた。その合間に、きらりと光るものがあった。
「……手を繋ぐだけの、ままごとみたいな関係だった。でも、デニスがいたから、私は息ができていたんだと思う」
「ケイレブとの婚約は──あなたが望んだものではなかったんですね」
「……そうだね。一方的なものだった。でも、選択肢がない中で、あの人は……」
リンジーは左手の指輪を撫でながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私を生かす道を探そうとした……多分、そうだったんだと思う。
……デニスには、それが与えられなかった。彼には『血の盾』がなかったから。誰にも、どうしようもなかった。分かっていたはずなのに、私が寄りかかってしまったから……デニスには、もう二度と会えない」
ナーサは思わずリンジーの両手を取った。冷たく震える、自分と同じくらいの大きさの手。
「……自分を責めすぎないで。感情って思い通りにはならないもの。
あたしも、自分の選択でジャニスを失いました。でも……あの時、彼女がいなければ、きっと耐えられなかった。今、ここに自分はいないって思うと……分からないの。あれは、全て間違いだったのか」
雨はいつの間にか止んでいた。空を仰いで、リンジーが遠慮がちに呟いた。
「……あなたは、家を出たって聞いたよ」
「ええ」
リンジーの目は『知っている』と言っていた。事情はきっとケイレブから聞いたのだろう。
ナーサも空を見上げた。重たげな雨雲はまだ残っていたけれど、その奥に冷たく澄んだ空がはっきりと覗いている。まるで、こちらを見返すように。
「……知ってしまったからには、もう一緒にはいられないと思いました。それでも……あたしを裏切っていた祖父──ルシウスも、母のことも、嫌いになりきれないんです。愛されていると疑わなかった、子どもの頃の自分を信じたいのかもしれない」
その言葉にリンジーは笑った。
「……複雑だよね。でも、よく分かるよ」
その言葉で、自分の言葉を正確に理解してもらえた、とナーサは直感した。
微笑みかけると、リンジーは重ねたままだった手に、指を絡めた。
「マルフォイ。家を出たなら……あなたのこと、ナーサって呼んでいい? もう、他人とは思えないから」
思いがけない言葉にナーサは息を呑んだ。驚きに、微かな笑みが滲んだ。
「──はい。あたしも……あなたのこと、リンジーって呼んでもいいですか?」
「……ふふ、勿論だよ」
その柔らかな笑い方に、ナーサはほんの一瞬ケイレブの面影を重ねた。けれど、それは胸の痛みよりも、じわりと広がる温かさをより強く感じさせた。