時計塔の鐘の音が七時を告げる。もうとっくに夕食の時間を過ぎていることに気づき、ナーサは大広間に急いだ。
グリフィンドールのテーブルは前方に複数のグループが固まっていたけれど、ほとんどが食事を済ませてしまったらしい。大皿の料理は盛りつけが崩れ、食欲をそそられるとは言い難い惨状。
それでも大勢の視線に晒されながら食事するよりはずっといい、とナーサは自分に言い聞かせた。
皿の端からマッシュポテトとコーンをかき集めると、長テーブルの端の席に掛ける。中腰の姿勢で長時間洗い物をしたせいで身体がこわばっていた。
うつむいたまま機械的に食事を口に運んでいると、向かい側の席に誰かが腰を下ろした。
顔を上げると、そこにはリンジーがいた。
「お邪魔するね。少し食べ足りなくて」
ナーサは微笑みかけ、それから視線を周りに移し、小声で囁いた。
「こんばんは、リンジー。あの……ここにいて大丈夫ですか?」
「あら、迷惑?」
「迷惑じゃないけど、でも……」
言い淀んでいると、前方の座席からやってきた何人かが二人の側を通った。
「おっと、リンジー。いいのか、あのマルフォイだぞ?」
「ケイレブ様が可愛がってた、お気に入りの子じゃない?」
クスクス笑いながら行き過ぎようとする彼らに、リンジーは肩越しに振り返った。
「……ふふ、いいでしょ。可愛い子ちゃんと食べると、目の保養になるからね」
スコティッシュ・アクセントでそう言うと、リンジーは快活に笑ってみせた。後ろで友人達がドッと声を上げて笑うと、ひらひらと手を振る。
ナーサは握りしめていたスプーンを皿に置いた。じわりと胸が温かくなって、頬が緩んだ。
「ねえ、それっぽっちで足りる?
今日はね、ローストチキンがお勧めだよ。グレイビーも重くないし」
リンジーはきょときょと周りの大皿を見回し、白い歯を覗かせた。
「……ふふ、グリフィンドールは後に来る人のことを考えず、すぐ平らげちゃうんだから。ハッフルパフから少し分けてもらおうか」
リンジーは隣のテーブルの生徒に声をかけ、一言二言和やかに話すと、ほとんど手つかずの胸部分が乗った皿を持ってきた。ナーサとの間に置くと、一切れ取って頬張った。
「ん〜……おいしい!」
ローストチキンを噛み締めながら、あんまり幸せそうに言うものだから、ナーサは声を立てて笑ってしまった。
「あたしも、いただいてみますね」
時間は経っていたけれど、皮はまだパリッとしていたし、内側には熱がこもっていた。口内に広がる肉汁が香ばしく、とてもおいしく感じた。
「マッシュポテトと一緒に食べると格別だよね。
リーキのスープも少しどう? 身体が温まると思うよ。
あと、アップルクランブルとか。後で食べようと狙ってたんだよね」
リンジーは次々と料理を勧めてきた。無理強いするわけではなく、好みの食べ物を味見しないかといった体で言うものだから、気づけばいつもの二倍は食べていた。
久しぶりの誰かと一緒に摂る食事だった。他愛もない話をしながら食べると、こんなにも味を感じられるのかとナーサは膨れ上がったお腹をそっと撫でた。
「うーん、もうお腹いっぱい」
最後にかぼちゃジュースを飲み干した。『食べ足りない』の言葉通り、小柄な彼女の前には気づけばナーサ以上に小皿が積み上げられていた。
「ありがとうございます、リンジー。一緒に食べてくれて……すごく楽しかったです」
「ねえ、ナーサ。そんな堅苦しくなくっていいよ? 告白し合った仲でしょ」
リンジーは悪戯っぽくそう言うと、ハニーブロンドの一房を耳にかき上げた。
「年も、二歳しか違わないんだから」
「ありがとうございます。でも……リンジーは大人っぽいから。
……あたしも、二年後にはあなたみたいになれるでしょうか?」
二歳の差とは思えないほど、リンジーは磨き上げられている。前にリラルドを軽くあしらった時もそうだが、真っ向からぶつかるのではなく、人あしらいが上手い。
ファッションもいつも同じではなく、日によって服装やメイクも変えている。けれど、どんな時でも輝く──リンジーはそんな人だと思った。
リンジーは軽く身を乗り出し、ナーサの額を軽くつついた。思わず両手で庇うと、小さく笑う。
「嬉しいけど、『私みたいに』を目指さなくていいの。
『自分らしさ』を大事に、いいところを伸ばしていけばいいんだよ」
「……ありがとう」
言ってから、ナーサは敬語を落としていたことに気づいてハッとした。
口を少し開いたまま凍りつくナーサに、リンジーは軽やかに笑う。
「いいじゃない。すごく自然だった。その言い方、好きだよ」
崩した言葉を褒められたのは初めてだ。
頬が急に熱を帯びて、ナーサは視線を落とした。けれど、ふつふつと込み上げてくる想いが、口角を動かしてしまう。
「──リン!」
よく通る声が響いた。
パッと立ち上がったリンジーが、こちらに近づいてきた男女に向かって手を挙げた。
「二人とも、こっち」
誰だろうと身構えたナーサだったが、それは見覚えのある二人だった。
「こんばんは、ミスター・マクドゥガル。ミス・フォーテスキュー」
丁寧に挨拶すると、フォーテスキューが思いっきり顔をしかめた。
「はっ? 今の『ミス・フォーテスキュー』って──ひょっとして、私のこと?」
クィディッチのキャプテン、アデリナ・フォーテスキューが、さわさわと二の腕をさすりながらリンジーの隣に座った。
「『私』以外、誰がいるんだ?」
イアン・マクドゥガルが妹を挟むようにして座りながら、ナーサと目を合わせ、軽く顎を引いた。
「だって『ミス』だよ。ゾワッとした。もはや先生達にだって、そんな呼称つけられなくなったっていうのにさ」
リンジーの背中越しに軽く言うと、フォーテスキューはナーサに向かって目を細めた。キラキラと輝く緑の目は、まるでエメラルドだ。
「ハイ、マルフォイ。久しぶりだね、お邪魔するよ。
ねえ、もしかしてマルフォイにあの話をしてた?」
「これからしようかなって思ってたところ」
フォーテスキューが両手をテーブルについてグッと身を乗り出し、反射的にナーサは僅かに身を引いた。
「ねえ。一年生の時に誘ったの、覚えてる? 二年生になったらチームに入ってって」
「クィディッチ……ですか?」
「そっ。超問題児だったヤツがようやく卒業してくれて、晴れて王座が空いたんだよ。あんたにはシーカーを任せたいんだ」
「シーカー……」
不意に卒業記念年報で見た父の顔が蘇った。チームメイト達と手を叩き合っていた、自分とそっくりだった得意げな笑顔。
けれど、父は──本当の『父』ではなかった。
ナーサはテーブルの下で手を握りしめた。
「……折角お誘いいただいたのにすみません。クィディッチをやるつもりはないんです」
「え、何でっ?」
断られたのが信じられないと言わんばかりのフォーテスキューに、マクドゥガル兄妹が目配せする。
「ねえ、何かあった? 前に、空を飛ぶのが好きだって話してたじゃない。危険だから、ブラック卿に止められてる?」
ナーサはうつむき、首を振った。
ルシウスには、はっきりと反対されていたクィディッチも、ナーサの選択を尊重してくれるレグルスなら何も言わない気がした。
けれど、父と同じことをやりたいという想いは、それを望んでいいのかという気持ちに取って代わっていた。
フォーテスキューは髪を掻きむしるように動かした。
「分っかんないな。家族に反対されてるわけじゃないし、空を飛ぶのも大好き。それなら、迷うことないじゃん。やろうよ!」
「……無理に、とは言わない。
技術面では申し分ないと思うけど、少なからずチームの士気にも影響しそうだ」
その横で、イアンがぼそりと呟いた。
遠く時計台の鐘が響き、ポンポン音を立てながら大皿の料理が消えていった。
天井を見上げると、投影された空は深い藍色から群青色に染め上げられていた。月が輝く、明るい夜空だ。
リンジーは椅子に掛けたまま、大きく伸びをした。
「クィディッチをやるかどうかは、この際置いておいて……食後に軽い運動でもしない? カロリー消費しなきゃ」
「……運動?」
「うん。折角いい天気だし、まだ帰寮時間じゃないよ。夜空の散歩に行こっ」
*
箒置き場から、それぞれ箒を借り受けると、玄関ホールの扉を開けた。
風は柔らかだったが、冷たい。ナーサは軽く身震いし、ローブの襟元をそっと合わせた。
「こんな遅くに城の外に出ても、いいんでしょうか」
「監督生がここにいるし。大丈夫だよね、兄さん?」
リンジーがイアンを見上げると、彼は渋い顔をした。
「多分な。校則では、そこまで決まってないし。
……ただ、スリザリンのロウルみたいに難癖をつける奴もいる。俺がいない時は絶対にやめとけよ。何をされるか、分かったもんじゃない。
君もだぞ、マルフォイ」
「ねえ、イアン。何で、そこに私の心配は含まれてないのさ」
箒を片手に仁王立ちしたアデリナが鼻を鳴らした。
その言葉にイアンは目を見開き、それから肩を揺らした。眉尻が下がった優しげな目元が、リンジーそっくりだとナーサは気がついた。
「君に『何か』できる勇敢な奴はいないだろ、決闘クラブのチャンピオンさん」
「まあ、それほどでも──あるね」
フォーテスキューはわざとらしく肩をそびやかす。
彼女は確か五年生のはずだけど、ちっともそんな気がしなかった。小さな女の子の純真さやあどけなさを損なうことなく、そのまま大きくなったようだった。
「アデリナは魔法使いの決闘も負けなしだけど、杖がなくても強いの。
マグルのボクシングって知ってる? 拳で殴り合うスポーツらしいんだけど、アデリナはそれもやってたんだって」
リンジーがこそっと耳打ちする。
無駄がなく、しなやかな身体つきを見つめて、ナーサはほうっと吐息を漏らした。
「それじゃ、空の散歩と洒落込みますか」
リンジーは素早く箒に跨り、一気に上空へ駆けた。続いてフォーテスキューが強く地面を蹴り、跳ね上がる。声こそ聞こえるものの、二人はすっかり闇夜に包まれている。
「悪いな、付き合わせて」
イアンは短い髪を掻きむしるように動かしながら、ふいと視線を逸らした。
「……それに、去年。あの大広間では態度が悪かった。すまなかった」
小声でつぶやいた。
ナーサは一瞬目を見開いた。それが何を指しているのか、すぐに理解が追いつかず、言葉を返すことができなかった。
イアンは背を向け、すぐに暗い空に舞い上がった。
去年の大広間──それがヤックスリー兄弟と食事した、あの日のことだと気づき、胸の中を乾いた小石がカラカラと音を立てて駆け抜けたようだった。
ナーサは思いを振り切るように髪を左右に揺らし、ゴツゴツとした箒の柄に跨った。握りしめた両手を伝い、魔力が移る。まるで泡立った血が、一体化した箒に流れ込むような──初めての感覚にナーサは目を瞬いた。
(……これ、リリーと練習した杖なし魔法と同じ?)
以前までは感じなかった衝動に、口元が綻んだ。全く手応えのなかった特訓の成果は、しかと身についていたのだ。胸に広がる温みに押されるように、ナーサは両足を強く蹴った。
身体の重みが消え失せ、風が頬を切る。地上の光が遠ざかると、球形の星空に抱き留められるようで、上下の感覚が遠のいていく。
父がシーカーだったから──在りし日の父の姿に近づくためにクィディッチをやろうかと思っていた去年。
けれど、違う。今、空を飛んだ瞬間に胸を駆け抜けたのは、自分自身の気持ち。湧き上がる興奮は父のものではなく、ナーサ自身のものだった。
「ナーサー! 何処ー?」
声のした方を向くと、横髪が舞い上がる。もう一つの月のように大きな光が三つ、下の方で八の字を描くように動いている。下降していくと、それは杖明かりだった。
「あ、いたいた。杖明かりも出した方がいいよ。見失っちゃうもの」
リンジーがすぐ隣まで来て言うと、すぐさまフォーテスキューとイアンが挟み込むように反対側にやってきた。
「お互い猛スピードでぶつかったら、あの世行きだからね。
うちのチームは弱すぎて、勝敗が賭けにならないからって言われてるんだよね。代わりに五体満足で戻れるかがネタになってる」
「おい、怖がらせるなって」
イアンの目の陰が濃くなった。
けれど、ナーサは静かに微笑んで、首を振った。少しだけ前進し、方向転換すると三人と向き合った。
「……ううん。怖くないです。
あたし……自分で思っていた以上に、空を飛ぶのが好きだったみたい。
さっきは断ってしまったけれど……やっぱり、あたし……クィディッチをやりたい」
夜風にさらされた頬が燃えるように熱い。唾を呑み込み、三人の顔を順に見る。真っ先に声を上げたのはフォーテスキューだった。
「やった! これで優勝も見えてきたかも!」
パッと弾けるような笑顔に変わった。万歳をしたまま、くるんと一回転してみせる。ナーサの真ん前まで来ると、サッと手を差し出した。
「改めてよろしくね、ナーサ! 私のことはアデリナって呼んでよ。『ミス・なんとか』って呼ばれても、多分永遠に気づかないからね!」
そう言ってケラケラと笑う。
ナーサはきつく箒を握りしめていた手から片手を離し、はにかんで笑った。繋いだ手は力強かった。
「歓迎するよ、マルフォイ──いや、ナーサ」
イアンもそう言い、握手を交わした。
最後にリンジーが軽く肩を叩いて、にこりと笑った。
「グリフィンドール・チームへようこそ!」
夜空を切る風が髪をかき乱したが、不思議と不快感はない。
ここは誰かに与えられた居場所ではない。自分で選び、自分で掴んだ──自由が尊重された場だった。