ナーサ・マルフォイが、グリフィンドールのシーカーに選ばれたというニュースは、瞬く間にホグワーツ中を駆け巡った。
──スリザリンのスパイをチームに入れるなんて勝負を捨てたも同じ。
──マルフォイは金持ちの道楽で、神聖なポジションを金で買った。
そんな声が耳に入ることもあったが、正面切って何か言われるわけではない。少なくとも、これまでより状況が悪くなったとは思わなかった。
何より授業の他にスネイプ先生の罰則、クィディッチの練習、宿題に予習復習──やることが山ほどあって、思い悩む時間はなかった。
「シーズンの始めに、練習試合が一試合ずつあるんだ」
ある日の朝練習後の食事中に、アデリナがパンを頬張りながら教えてくれた。
「今年はスリザリンとレイブンクロー、グリフィンドールとハッフルパフの組み合わせで戦うことになる」
「ハッフルパフのシーカーは二年生だって。ルーク・ディゴリーって子。知ってる、ナーサ?」
リンジーの言葉に、ナーサはかぼちゃジュース入りのコップをテーブルに置いた。
「うん。飛行訓練のディゴリー先生の息子だよ」
初めての飛行訓練で、うまく箒を浮かばせることができずにいたナーサを、彼は落ち着かせてくれた。それ以来、特に話したことはなかったけれど、太陽のように温かい笑顔はよく覚えている。
「マジか。あいつ、飛行訓練の時もかなり優秀だったんだ。
そういや、スリザリンは? まさか、あのケイレブの弟だったりしないよね? あいつも正直かなり筋がよかったんだよね」
アデリナは眉根を寄せて、リンジーの方へ身を乗り出す。
リンジーは食事の手を止め、思わずスプーンを握りしめたナーサを横目で見た。
「スリザリンのシーカーは変わらずロウルだよ。
……ヤックスリー家からはクィディッチ禁止令が出てるし、ケイレブからもきつく止められてるから、あの子は参加しない。
だから、大丈夫だよ、ナーサ」
ナーサは軽く頷きながらも、スプーンを持つ手がまだ動かない。
リラルドが出場しなくても──あの、ロウルがいる。
あのスリザリンテーブルで挨拶した時のハイエナのような目を、ナーサは忘れていなかった。
「ふぅん、意外だね。リンの参加には何も言わなかったんだ。ケイレブ・ヤックスリーも、少しは学習したってこと?」
「アデリナッ──」
ナーサは思わず声を上げたが、リンジーは少し肩を竦めただけだった。
「……ふふ。あの人も遠慮してるんだと思うよ、色々とね」
踏み込んだ言葉だった。けれど、リンジーは傷ついた顔をしていない。声も震えていなかった。ナーサは浮きかけた腰を、そっと椅子に戻した。
ゆっくりと食事を続けていると、段々と大広間が賑わいを増してきた。
空いていた反対側の席に誰かが座り、椅子が軽くぶつかった。
反射的に謝ってリンジー側へ椅子を寄せようとした途端──あんぐりと口を開けたグレイスと視線がぶつかった。傍には、同じくルームメイトのアリッサとメイジーもいる。
「あら、グレイス。おはよ」
ナーサの後ろから、リンジーが声をかけると、金縛りが解けたようだった。
「おはよう、リンジー! その……おはよう、ナーサ」
「お、はよう……」
あの新学期が始まった日の夜以来、挨拶をされたのは初めてだった。アリッサとメイジーは何も言わなかったけれど、彼女達の目からも、あからさまな敵意は消えていた。
「それにしてもさ、あんたの箒なんとかならないかな、ナーサ? 学校の箒であれだけできるのは才能だと思うけど、試合で戦うにはね」
「練習試合で成果を出せたら……おじさまに相談してみようかと思ってるの。ちゃんとできるか分からないのに、ご負担をかけるわけにはいかないから」
「……ふふ、あんまり肩に力入れないでやりなよ。きっと自然体の方がうまくいくから」
ナーサはクィディッチの会話に戻ったが、何故かその後も、リンジーと言葉を交わすたび、横から探るような視線を感じ続けた。
*
練習試合当日のハロウィーンの朝、ナーサは下腹が強く締めつけられる痛みで目を覚ました。
ベッドサイドから懐中時計を引っ張り出して見ると、まだ六時半だった。そっと寝巻の中を確かめると、熱っぽい身体とは裏腹に、下腹の辺りだけがひんやりとしていた。
やがてカーテンの向こうでルームメイト達が起きだす気配がし始める。部屋の外から響いてくる足音も気になりだした。
じっとしていても治まる気配はない。
もう一度懐中時計に目をやると、七時少し前だった。
なんとか身支度を整えると、肖像画の穴をくぐっていった。
まだ朝食には少し早い時間で、大広間に生徒の姿は少なかった。グリフィンドールの長テーブルの最前列に、チームの面々が陣取っているのが見える。
アデリナが声を張りあげて、今日の試合用に考えたサインをレクチャーしていた。お世辞にも上手とは言えないイラストに、キーパーのレスリー・ブラウンが戸惑い顔で何度も質問している。苛立ったアデリナの声が耳を突く。
のろのろ近づいていくナーサに気づいたリンジーが、慌てた様子で駆け寄ってきた。何を言う間もなく肩を支えられ、イアンの引いた椅子に座らされる。
「ナーサ、どうした? 真っ青だぞ」
「ちょっと、お腹が痛くて……でも、大丈夫だから」
「ちょっとじゃないでしょ。今にも倒れそうじゃない」
遮るようにリンジーが声を上げ、ナーサの額にハンカチを当てた。冷や汗をかいていたようだ。
チームメイト達は不安げに顔を見交わした。
そんな中で、チェイサーのクレイグ・ゼノンだけは鼻の頭にシワを寄せ、嫌悪感丸出しの顔をしていた。
「おいおい、勘弁してくれよ。試合当日にブッチなんて、あり得ないだろ」
「黙れ、クレイグ」
ピシャリと言ったのはビーターのブラッドリー・キャメロンだ。
ゼノンは言い返そうと口を開きかけたが、彼にジロリと睨みつけられると、絞められた鶏のような顔をして黙りこくった。自分の二倍はある筋肉隆々の腕を見て、なおも言い続けることができるほど、肝っ玉が座っているわけではないのだ。
アデリナは親指の爪を噛みながら、顔をしかめていた。ナーサは剥き出しの心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
「アデリナ、大事な試合でしょ。あたし、出る……」
「……馬鹿。そんな顔で出せるわけないじゃん!」
「集中したら、きっと大丈夫……あたし、逃げたくない……」
ナーサが言い切ると、アデリナは苦い顔で黙り込んだ。唇を噛み、やがてぽつりと言う。
「……少しでも無理だと思ったら降りる。こっちが止めたら、絶対に従う。それでも出るって言う?」
「……うん。だから、任せて」
決意を込めてそう言うと、アデリナはゆっくりと頷いて立ち上がった。副キャプテンのイアンも倣うと、目配せしあって全員がそれに続いた。
七つの手が、剣を掲げるように頭上でそろうと、アデリナが威勢よく言った。
「今年は万年ドンケツのグリフィンドールの汚名をそそぐ一年だ。この練習試合から、いつもとは違うってことを見せつけてやるよ!」
クィディッチ競技場の更衣室でユニフォームに着替え、ウォームアップをしていると、ピッチの方が少しずつ騒がしくなってきた。今日は天気もよく、風も凪いで絶好のクィディッチ日和だ。
ざわめきの大きさに、小心者のブラウンはガタガタ震えていたし、ゼノンは忙しなく歩き回っていた。他のメンバー達もそれぞれ強ばった顔をしている。
アデリナは緊張をほぐそうとしているのか、アップにした髪を何度も払うような仕草を見せていた。
「ナーサ」
目の下にアイブラック・シールを貼り、見るからに気合十分なリンジーが、ナーサの肩を軽く叩いた。
「いい? 勿論勝ちたいけど、これは練習試合だから。
無理だと思ったら、すぐに箒を降りるんだよ。分かった?」
ナーサはお腹を撫でながら、小さく頷いた。痛みの波がほんの僅かに遠のいた気がした。
「さあさあ、ついにやってきました! クィディッチ・シーズン開催を告げる練習試合。今日はグリフィンドール対ハッフルパフ!
グリフィンドールはあの有名人、ナーサ・マルフォイを加えています。実力ではなく、金でシーカーの座を買ったのだともっぱらの噂ですが、真相や如何にっ?」
クィディッチの実況の声が響き渡る。増幅呪文で拡声しているようで、実況席は離れた場所にあるのに一言一句聞き取れる。
悪意のこもった紹介だったが、気にする余裕もなかった。
「対するハッフルパフは昨年の王者!
今年度抜擢されたシーカーは、マルフォイと同学年のルーク・ディゴリー! 皆様ご存知、飛行訓練のディゴリー先生の息子です。
選ばれたのが親の七光りではないことはすぐに分かるでしょう。何せ両親が共にシーカーだった、クィディッチのサラブレッドです!
さあ、両チームに登場して頂きましょう。グリフィンドール! ハッフルパーフ!」
「よし! 皆、行くよ!」
アデリナの掛け声と同時に皆、箒に跨った。
一斉にピッチに向かって飛びだすと、空気を揺らすような大きな歓声に出迎えられる。
反対側からはカナリア・イエローのユニフォームに身を包んだハッフルパフチームが、同じように向かってきた。
両チームとも、ピッチを一周してから中央部に降り立つ。そこには、ディゴリー先生がホイッスルを片手に立っていた。
チームごとに二列に並ぶと、先生は頭をかき乱しながら苦笑した。
「参ったな。まさか、あんな紹介をされるなんて──後で、厳重に注意しておく。
グリフィンドール諸君、気を悪くしただろうが、審判はもちろん公平だと誓うよ。
さあ、皆、向き合って。握手をして」
最後尾のナーサと向き合ったのは、ルーク・ディゴリーだった。
いつも大勢の友達に囲まれた彼を間近で見るのは、一年生の飛行訓練の時以来だ。陽光を映して、きらきらと輝く灰色の目。試合直前とは思えない柔らかな笑みを浮かべながら、ナーサに向かって手を差し出した。
「デビュー戦だ。お互い頑張ろうね、マルフォイ」
ナーサはこわばった笑みを浮かべ、握り返すのがやっとだった。
高々とクアッフルが舞い上がり、試合が始まった。
ナーサはすぐに上空に舞い上がり、ピッチの隅々に目を光らせた。遥か下では、もうすでに熾烈なクアッフルの奪い合いが始まっている。
ハッフルパフはチェイサー三人の連携がしっかりと取れている。パスを回したと思ったら、別のチェイサーが横から滑りでてきて、なかなかクアッフルを奪う隙を見せない。
「おっと! イアン・マクドゥガル、ナイスです! メイシー・ギボンの腕にブラッジャーをヒットさせました!
取りこぼしたクアッフルを、猛スピードでやってきたリンジー・マクドゥガルが拾います!」
グリフィンドール勢の反撃は、そう長くは続かなかった。リンジーからアデリナへのロングパスがカットされ、ハッフルパフにあっという間に先制点を取られてしまった。
それからも、どんどん点差が開いていき、そのたびグリフィンドールの応援席からは落胆の声が響いた。
(……まだ、スニッチを取ったら逆転できる)
決してグリフィンドールのチェイサー陣の能力不足とは言えないが、全体的に動きが固い。特にキーパーのブラウンがガチガチになっていて、三つあるゴールの真ん中から動かないものだから、両端のゴールを狙われると防ぎようもなかった。
鈍い痛みがどんどん強くなっているのに気づかないふりをしながら、ナーサはピッチを八の字型に飛び回っていた。
そうこうするうちにじっとりとした汗が、額から滑り落ちてきた。
その時、スリザリンの観客席の方からきらりと何かが光った。猛スピードで向かうナーサだったが、あまりに馬鹿正直に向かいすぎた。すぐにルーク・ディゴリーも気づいたようだ。角度を変え、スニッチに向かってまっすぐに飛んでいく。ずっと下方にいる彼の方が、圧倒的に有利だ。
もっと魔力を箒に伝わせれば、さらに加速できるかもしれない──覚悟を決めて急降下するナーサだったが、進路を塞ぐようにブラッジャーが斜め下から迫ってきた。
間一髪、身体を倒して避けようと思った途端──急に指先から力が抜けた。
瞬く間に両手が柄から弾かれた。ぐるんと身体が逆さになり、両足だけで箒にぶら下がるような格好になる。
ヒッと息を呑む音よりも、風を切る音の方が大きい。
凄まじい勢いで迫りくる観客席から、スリザリン生達が我先にと逃げていく。
(ぶつかる! 減速……でも、どうやって──?)
手を伝って箒に魔力を送るのに、その手が届かなければどうすればいい?
恐怖に頭がパニック寸前だった。『死』という一語が、脳裏にちらついた。
──人差し指に意識を集中させましょう。全身の熱を人差し指の先に集めるイメージね。
咄嗟に頭を駆け巡ったのはリリーの言葉だった。夏休みに教わった、杖なしで魔法を使うコツ。
考えるより先に、ナーサは人差し指を前方に向けていた。
「アレスト・モメンタム!」
その途端、押し戻す力が一気に全身を渦巻いた。
まるで暴風に真正面から突っ込んでいくような凄まじさ──あまりの衝撃に、柄に絡めた足が外れ、一気に吹き飛ばされる。
頭を庇って、反射的に腕を突きだした瞬間、右半身を切り落とされたような痛みが走った。
大きくバウンドするたび、肺をギュッと押しつぶされるようだった。
ボールのように転がった身体が、何度かの衝撃の後でようやく止まった。
その頃にはナーサはもう何も感じられなくなっていた。
「……サ──ナーサ……しっかりしろ!」
(……だれ?)
誰かが必死に呼びかけている声がする。そして、カチカチと石と石をぶつけるような音。
考えるのも億劫だった。
気づけば世界は光を失ったように真っ暗で、次第に周囲の音も消えていく。
そうして、ナーサの意識はぷつりと途切れた。