一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。   作:モラがない

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気が向いたタイミングで天才クラブの話を小出ししていこうかなと。


一番のルールは自分自身を欺かないことだ

 

最初に感じたのは温度だった。

 

熱くもなく、冷たくもない液体が全身を包み込み、指先を動かしてもその動きはゆっくりと水の中へ溶けていくだけだった。音は聞こえない。ただ一定の振動だけが、身体を通して伝わり規則正しく鼓動のような低い音が遠くで繰り返されていた。

 

視界はぼやけている。透明な筈の壁は淡く曇り、その向こう側には白い光だけが滲んで見えた。

 

眩しい。

 

これは、その一言すら知らない頃の話だ。

 

私はゆっくりと目を開く。閉じるという行為も、開くという行為も知らない。ただ光がある方向を見つめ、そこへ意識が引かれていく。

 

やがて規則正しかった振動が変化した。

 

低い駆動音が一瞬だけ大きな音を響かせ、身体を満たしていた液体が静かに流れ始めた。支えを失ったように身体が少しずつ重くなっていく。

 

そんな事は当然知らない。ただ、今まで当たり前だった世界がゆっくりと失われていく感覚だけがあった。

 

培養器の外殻がゆっくりと左右へ開く。

 

乾いた空気が流れ込み、思わず咳き込んでしまう。初めて触れる空気は驚くほど冷たく、皮膚へ触れた瞬間ピり付くように小さく身体が震えた。

 

私は一歩踏み出そうとするが、それは叶わなかった。足というものを知らない。立つという概念もない。身体はそのまま前へ傾き、重力へ引かれるまま床へ崩れ落ちた。

 

どしゃりと、鈍い音が静かな研究室へ響く。痛みという概念を知らなかった私は、動けなくなるほどの衝撃に息を詰まらせていた。

 

暫く経った後、私はゆっくりと顔を上げる。視界の先には白い天井や白い壁、白い照明。そのどれもが無機質で、どこまでも均一で、まるで世界そのものが色を失ってしまったかのようだった。

 

培養器のすぐ傍へ一人の人間が倒れていた。

 

その人物は白衣を着ていた。布は皺だらけで、ところどころに黒ずんだ染みが広がっている。酷く痩せていた。骨ばった肩が不自然に浮き出ていて、呼吸の気配はどこにもない。床へ投げ出された腕の先には乾き切った血痕が残り、ひび割れたように固まっている。指先は石のように動かない所か、そこに生命があった痕跡すら感じられなかった。

 

私はその人物へ近付いた。這うように、何度も床へ身体を打ち付けながら、それでもゆっくりと距離を縮めていく。床の冷たさが皮膚へと伝わり、その度に身体が小さく震えてしまう。それでも何かに引き寄せられるようにただ前へ進み続けた。

 

ようやく指先が届いた。恐る恐る頬へ触れると、思っていたよりもずっと硬く、温度のない感触が指先から腕へと広がっていった。私は首を傾げる。今度は少し強く押してみるが、当然何も変わらない。固まった皮膚は指圧に沈む事もなく、僅かな腐臭が増しただけだった。

 

何故なのだろう。分からない。ただ、そこにあるはずの何かが欠けているという違和感だけが胸の奥に静かに残り続けていた。

 

その場へ座り込み、しばらくその人を眺めていた。何かを待っていたのかもしれない。理由は分からない。ただ動かないという事実だけを観察していた。

 

どれくらい時間が経ったのだろう。一度その男から視線を外し、研究室を見回した。

 

机、端末、壁一面へ並ぶ資料、床へ散乱した紙束。誰も居ない静かな空間。施設全体が息を潜めているような、不自然な静寂だけが漂っていた。

 

一先ず立ち上がる。今度はゆっくりと壁へ手を付き、机へ身体を預け、転びながら徐々に最適な歩き方を覚えていく。

 

部屋の中央まで辿り着いた時、一冊の分厚いファイルが目へ入った。開いたまま放置されていたそれには、細かな文字がびっしりと並んでいる。

 

意味までは理解出来ないが、不思議と読む事自体は可能だった。

 

「培養個体識別番号は——……繧ォ繝ェ繝?」

 

 

 

 

 

 

私の滞在について許可を取らねばならないという事でスネージナヤへ到着して早々、私は広々としたロビーへ一人取り残されてしまった。

 

何とも手持ち無沙汰で、人の流れなどぼんやりと眺めていた。そうして建築様式や装飾の意匠を観察して時間を潰していると、一人の美しい女性が声を掛けてきた。彼女は掌へ収まるほどの小さな飴菓子を差し出し、警戒する様子もなく受け取った私を見て僅かに目を細める。

 

そのまま自然な動作で頭を撫でられ、私は飴を眺めながらふとある人物を思い出していた。

 

彼女もまた、何かにつけて甘い菓子を持って研究室を訪ねて来ていた。目の前の女性とは似ても似つかないが、けれど不思議と重なるものがあった。

 

菓子そのものというよりは、まるで受け取ることが当然であるかのように疑いもなく差し出されるその様子に、どこか既視感を覚えた。

 

もう少し話をしてみようかと思った頃、手続きを終えたらしい博士が戻って来た。女性と鉢合わせになり、多少の一悶着あったものの、それは私にとって些細な出来事だった。

 

お菓子の悪魔。

 

恐らく彼女は誰よりも生命を愛している。だがその愛は個体へ向けられるものではなく、彼女が惹かれていたのは「生命」という現象そのものだった。一人の人生ではなく、細胞が分裂し、遺伝し、変異し、淘汰され、やがて次の生命へと繋がっていく、その連なりそのものを彼女は愛しているのだろう。

 

恐らく個体への執着がないわけではないのだろう。その在り方を、彼女自身は最後まで矛盾だとは思っていなかった。

 

彼女にとって研究とは思考と同じくらい自然で、呼吸のように無意識な営みだった。今にして思えば、私がそれを受け取ることさえも彼女の中では最初から定まった過程の一部に過ぎなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

「■■■」

 

穏やかな声だった。感情を削ぎ落としたような静かな響きなのに、不思議と冷たいとは思わなかった。春先の風が花弁を揺らすように、ただ自然とそこにある声だった。

 

顔を上げると、研究室の扉を開けた彼女はいつものように小さな箱を抱えていた。

 

「新しい焼き菓子を作りました。前回より砂糖の配合を減らし、蜂蜜と果糖の比率を変更しています。焼成時間も3分ほど短くしましたので、前回とは違った味わいになるかと思います。もしお時間がありましたら、感想を聞かせていただけませんか」

 

彼女の口元がほんの僅かに綻ぶ。その笑みは春先の陽だまりのように穏やかで、不思議と人の警戒心だけを溶かしてしまう力があった。

 

何処か既視感を感じながら問いかける。

 

「今度はどんな実験?」

 

彼女はすぐには答えなかった。私の言葉を吟味するように静かに目を伏せ、やがて否定も弁明もせず穏やかに頷いた。

 

「実験と分かっていて尚、受け取ってもらえる辺り。やはり私たちは相性が良いようですね」

 

「まぁ、それについてわざわざ否定するつもりはない、けど……っ、?」

 

身体の奥が、じわりと熱い。

 

なんだ、これは。発熱とは違う。熱源が皮膚ではなく、もっと内側——胸の奥からゆっくりと全身へ広がっていくような、不思議な感覚だった。

 

脈拍が想定よりも僅かばかり速い。思考そのものは驚くほど明瞭なのに、身体だけが私の意思と無関係に変化していくようだった。その乖離が、却って薬効をはっきりと自覚させた。

 

「……なるほど」

 

私は自分の手を見下ろす。

 

指先は普段より少しだけ熱を帯び、無意識に拳を握っては開いてを繰り返していた。

 

「薬効は確認できた。交感神経への作用が強いみたいだね。体温の上昇と心拍数の増加、それから……」

 

そこで言葉を切った。

 

続けようとした言葉が喉の奥で微かに引っかかる。理由は説明できる筈なのに、舌がそれを選び取る前に別の感覚が先に立ち上がってしまう。

 

視線を上げると、彼女はこちらを見ていた。

 

その視線を認識した瞬間、胸の奥の熱が一層強まった気がした。脈拍がさらに跳ねる。数値にすれば誤差の範囲かもしれないが、無視できるほどでもない。

 

「……」

 

「続けてください」

 

穏やかな声に促され、私は苦笑する。

 

「観察される側になると、案外落ち着かないものなんだね……身体の反応は少し鋭敏過ぎる気もするけれど、思考能力への影響は今のところ限定的かな。少なくとも論理的な会話ができないほどではない」

 

「なるほど、興味深いですね。生理反応と認知機能の乖離は当初の予測より顕著のようです」

 

そこで彼女は一度言葉を区切り、再び私を見つめる。

 

「培養器で生育された生命体にはどうしても興味を惹かれてしまいます。ヘルタと長く関わっている貴女が、見た目通りの時間を生きているとは思っていません。血液の組成や細胞の分裂速度はどのように維持されているのでしょう。その特異な身体で新たな生命を宿すことは可能なのか……あるいは、全く別の形で生命が継承されるのかもしれませんね」

 

ソファへ背を預け薬効で僅かに乱れた呼吸を整えている私の腹部へ、彼女はためらいなく手を添えた。生きた標本へ触れて確かめるような指先が、ゆっくりと服越しの輪郭をなぞった。

 

熱で茹だった身体を無闇に触れないでほしかったが、彼女の視線は澄んでいて不埒な感情は一切見えない。ただ未知を確かめようとする静かな好奇心だけがそこにあった。

 

私は苦笑しながら肩の力を抜く。

 

「貴女にとって私は、興味深い現象の一つなんだろうね。その視線に悪意がないことは分かっているけれど、観察される側としては少しだけ落ち着かないとだけ言っておくよ」

 

その言葉に、彼女の指先がぴたりと止まる。

 

数秒の沈黙の後、やがて彼女は静かに手を引き、申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「……不快にさせてしまいましたか?」

 

「嫌だった訳じゃないよ」

 

あまりにも真っ直ぐ返され、言葉の逃げ場を失ったように肩からゆっくりと力が抜けていくのを感じた。まるで張り詰めていた糸が音もなく切れたかのように、身体の奥に溜まっていた緊張が静かにほどけていくのを感じた。

 

培養された生命へ強い関心を示す彼女の姿は、知識の魔女から聞いていた「人見知り」という印象とは随分とかけ離れていた。

 

もしかすると、人と接すること自体が苦手なのではないのかもしれない。

 

興味のない相手とは必要以上に関わらない。ただそれだけの話で、一度関心を抱けば彼女は驚くほど自然に相手との距離を縮めてくる。その在り方は研究者というよりは、未知を前にした探究者そのものだった。

 

「そうだね……」

 

私は僅かに視線を上げる。

 

「貴女は『培養器』と聞いて何を思い浮かべる? 単なる装置としてのものか、それとも……もっと別の意味合いを含んだものとして捉えているのか」

 

彼女はすぐには答えなかった。

 

視線は私の手元に置かれたまま微動だにしない。呼吸の音すら感じ取れないほど静かで、まるで時間そのものが一瞬だけ引き延ばされたようだった。研究室の空調が低く唸る音だけが、やけに耳に残る。

 

やがて彼女はほんの僅かに瞬きをし、その間に思考を整理するかのように、ゆっくりと息を吐いた。

 

「生命が形成される環境……でしょうか。外界から隔離され、温度や栄養、刺激、その全てが制御された生命の揺り籠。観測と再現のために最適化された、極めて純度の高い実験室、と言い換える事も出来ます」

 

「やっぱりそう答えるよね」

 

私は静かに笑う。

 

彼女が思い描いている「培養器」と、私が知っている「培養器」は、おそらく同じ言葉でありながら全く違うものだ。

 

彼女は生命を育む装置として認識している一方で、私にとって培養器とは、一つの文明そのものを指していた。

 

僅かに視線を伏せ、遠い記憶を辿る。

 

「私の生まれた星、モルタリスは条件だけを抽出した実験環境に近い状態だった。生命は完全に途絶えているのに、温度や大気組成、資源分布といった生物が生存に必要な要素だけは安定して維持されていた。原因は分からないけど、ある境にありとあらゆる生命に「産まれる」という機能だけが永遠に失われてしまったらしい」

 

私が話し始めると、彼女は僅かに視線を細め、呼吸を乱すこともなく静かに瞬きをした。その仕草には言葉を遮らずに最後まで聞き届けようとする意志と、未知の話題に触れた時特有の抑えきれない興味が滲んでいた。

 

「自分の遺伝子と他個体の遺伝子を組み合わせることで個体数の回復を試みたらしいけど、遺伝子の適合性が低かったのか、正常な形態を維持できない個体が多数発生したと記録されていた。そのため次段階として自身の遺伝子のみを用いたクローン生成へと方針が転換されたようだけど、この手法は倫理的観点から強い反発を受けたんだ。個体の同一性が保証されないこと、ひいてはアイデンティティの喪失に繋がるという初歩的な理由でね」

 

私は一度言葉を切り、机の上に置かれた箱へ視線を落とした。指先で紐の結び目をなぞりながらも、遠い記録を辿るようにゆっくりと息を吐く。研究室の静けさが、かつての議論の喧騒をかえって際立たせるようだった。

 

 

「その結果、既存の個体は自然に減少を続け、補充が行われないまま数を減らしていった。最終的に残ったその個体が、私を作った創造主だったという訳だね。もっとも、私が産まれた時には彼はもう、既に亡くなっていたんだけどね」

 

白い壁と薬品の匂いは今でも思い出せる。培養器の向こう側へ倒れていた人影も、その周囲へ散乱した資料も、床へ転がった幾つかの器具も。今でも尚、驚くほど鮮明なまま焼き付いている。

 

あの時の私は、死という概念すら知らなかった。ただ目の前にあるものを観察し、残された記録を読み、自分という存在を理解しようとしていただけだった。後になって外の世界を知り、人と出会い、友人という概念を学び、ようやく「あれは悲しむべき光景だったのだ」と理解するようになった。今でもほんの少しだけ残念に思う。あの時の私は

、あまりにも無知だった。

 

「研究室には色々残ってたよ。培養器の観測記録や生物の遺伝子……特に私という生命について細かく記録されていた。……けれどどうして私を作ったのか。その理由だけはどこにも残ってなかったんだ」

 

私は苦笑しながら肩を竦める。

 

研究室へ静かな空調の音だけが流れる。彼女は一言も口を挟まなかった。いつものように質問を差し挟むこともなく、ただ静かに私の話へ耳を傾けている。その沈黙が心地良くて、私は自然と続きを口にしていた。

 

「貴女が私の創造主だったらよかったのにね」

 

「……」

 

彼女は何も答えず、その場を漂う様に視線が揺れた。

 

答えを探す様な沈黙ではなく、答えそのものを持っていない者だけが浮かべる、静かな困惑。

 

「もし貴女だったら、少なくとも研究記録の最後へ一行くらいは残してくれた気がしたんだ。『何故この生命を創ったのか』って。それが分かるだけで、きっと私は十分だったと思う」

 

私は焼き菓子を一つ摘まみ、ゆっくりと口へ運ぶ。香ばしい香りと蜂蜜の甘さが舌の上へ広がり、僅かに遅れて柑橘の爽やかな風味が口の中に溶けていく。こんな空気の後でなければ、きっと配合をどう変えたのかまで聞いていただろう。

 

対する彼女はまだ黙っていた。

 

珍しい事だった。考え込む事はあっても、ここまで長く言葉を失う姿を見た記憶がない。彼女は生命についてなら幾らでも語れるような生命学者だった。細胞分裂や遺伝子配列に至るまで数時間は平気で話し続けるような人物だ。

 

きっと今まで考えた事がなかったのだろう。生命を創る理由は考えても、創られた生命へその理由を伝える事までは。

 

「ちょっと困らせちゃったかな」

 

私は苦笑しながら焼き菓子をもう一口齧る。

 

「あれは質問じゃなくて、ただの独り言だから答えなくても大丈夫だよ」

 

彼女はゆっくりと瞬きをしたが、すぐには言葉を紡がなかった。

 

やがて訪れた長い沈黙の後、静かに視線を落とした。箱の中に整然と並ぶ焼き菓子へ目を向け、その一つにそっと指先を触れながら少し掠れた声で呟いた。

 

「……考えた事が、ありませんでした」

 

それは誰かへ説明する声ではなく、自分自身へ確認するような声だった。

 

「生命の創造。環境や刺激が肉体の成長や精神にどのような影響を及ぼすのか。それらについては、これまで幾度も思考を重ねてきました」

 

彼女はそこで一度言葉を切る。

 

「ですからその生命から『何故私を創ったのか』と問われる可能性については、一度も想定していませんでした」

 

研究室の空気は相変わらず静かだった。

 

知らなかった自分と向き合うための穏やかな静寂。その変化が何処か微笑ましいような、羨ましいような心地になって、私は思わず笑ってしまう。

 

「貴女にも分からない事はあるんだね」

 

彼女は否定しなかった。ただ困ったように目を伏せ、それでもどこか思い詰めるように、小さく息を吐いた。

 

 

その吐息が耳へ届いた瞬間だった。

 

世界がゆっくりと滲み始める。

 

彼女の輪郭が水面へ落ちた絵の具のように淡く溶けていく。研究室を満たしていた柔らかな光や積み上げられた論文も、甘い焼き菓子の香りでさえ、まるで最初から存在していなかったかの様に静かに色を失っていく。

 

あぁ、そうか。……これは夢だ。

 

そう気付いた瞬間にはすでに手遅れだった。景色は淡く溶けるように白へと滲み、意識はゆっくりと現実へ引き戻されていく。

 

 

 

 

 

 

 

重たい瞼を押し上げると、ぼやけた視界の先に見慣れた白い天井が浮かび上がった。

 

そこには彫刻も装飾もなく、ただ無機質な空間だけが静かに広がっている。

 

石造りの天井には細かな亀裂が一本走り、その隙間から朝とも夜ともつかない淡い光が差し込んでいた。

 

しばらく瞬きを繰り返し、ゆっくりと焦点を合わせていく。鼻を掠めたのは甘い香りではなく乾いた紙と薬品の匂いだった。私はゆっくりと身体を起こし、視線を改めて周囲へと巡らせる。

 

壁際には簡素な寝台がひとつだけ置かれており、向かい側には空の本棚が一つ。棚板は丁寧に磨かれているにも拘らず本は一冊も置かれていない。

 

窓際には机と椅子。

 

部屋の隅には分厚い木製のクローゼットが静かに佇んでいた。頑丈な鉄の蝶番と重い扉は衣類を仕舞うためというよりは、ちょっとした倉庫をそのまま切り取って置いたような無骨さがある。つまり部屋の内装に置くには合わなかった。

 

生活の痕跡は然程ないものの、最低限暮らせる程度には整えられている。

 

これら全ては博士が用意してくれたのだろうか?

 

どうにも結びつかない。あの研究者がこうして人の生活を整える姿など、想像するだけで妙なギャップがあった。

 

「……はぁ」

 

私は小さく息を吐き、天井を見上げた。

 

胸の奥には、未だ言葉にしづらい違和感が残っている。

 

夢から覚めた直後特有のまだ何処か現実へ戻りきれていない鬱屈とした感覚。指先の感覚が僅かに鈍く、思考もどこか水の中を漂っているように重たい。

 

……随分と久しぶりの夢だった。

 

あの空間の温度や匂い、声の響きや雰囲気に至るまで、まだ皮膚の内側に残っている気がした。現実の乾いた空気と混ざり合い、どちらが本物なのか一瞬だけ判断がつかなくなる瞬間があり、まるで麻酔の後の酩酊感に似ている。

 

お菓子の悪魔や知識の魔女、機械の紳士。

 

一度として呼ぶ事のなかった彼らの名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が僅かに軋むのは何故なのだろう。

 

それは懐かしい、という感情に似ている。しかし単純な郷愁とは少し違う気がした。もっと曖昧で、具体性の欠片もなく、絶妙に扱いづらいものだ。手を伸ばせば容易に届きそうなのに、決して触れられない距離にある何か。

 

あの頃は頻繁に顔を合わせていたというのに、今では夢の中でしか会えないこの現状に安堵しているのは何故なのか。時間の流れがあちらとこちらで違うのか。それとも、私の側が変わってしまったのか。

 

考えようとすればするほど沼に嵌っていく様な心地がする。或いはこのまま深く踏み込めば何かを壊してしまいそうな予感があった。

 

これがホームシックというやつだろうか。

 

その言葉を頭の中で転がしてみる。

 

…………私が? いやいや、まさか。

 

即座に否定する。

 

その筈なのに、胸の奥に残った微かな引っかかりだけが、どうしても消えなかった。

 

「はは……」

 

 

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