2037年 11月
「夕張銀行……ですか?」
「そうだ」
小室課長は手元の厚いバインダーを押し開き、冷めきったお茶に口をつけた。
「資料にも書いてあった通り、我々にとっては将来的に心強い味方になるかもしれないし、逆に最も手強いライバルになり兼ねない相手だ」
「なるほど……あそこが囲い込んでいる顧客層やその思想は、確かに我々連合にとっては相性ぴったりでしょうね」
北海道夕張市に本店を構える、ある地方銀行。
かつて炭鉱の街として隆盛を極めたものの、エネルギー革命とバブル崩壊、その後の度重なる金融ショックで街自体が財政破綻した。『日本の衰退都市の代表例は?』と問われれば、誰もが真っ先にその名を挙げる場所だ。各種データが示す惨状は今も変わらない。
かつて北海道東部から中部までを勢力圏に収めていたその地銀も、街の衰退と共に瀕死の重傷を負い、いつ倒産してもおかしくないと囁かれていた。
だが、誰からも歯牙にもかけられなかったはずのその銀行は、いつの間にか異様な変貌を遂げていたのだった。
『いいよな、お前ら銀行様はよぉ! 晴れの日に傘を貸し出して、雨が降ったら傘どころか家ごと奪っていきやがる!』
夕張銀行に限った話ではないが、メディアや世間が好んで使う「銀行の冷酷さ」を象徴する決まり文句。だが、それを承諾したのもその暴言を吐く本人であるのだが。事態が自分の思った通りに行かないと知った瞬間に駄々をこねる子供のような大人の姿である。
それに対し、夕張銀行が出した答えは前代未聞のものだった。
『――分かりました。ではご所望通り、あなた方には二度と傘をお売りしません』
彼らはリスクの高い一般融資事業の規模を急速に縮小させ、収益の軸を「自力での金融ディール(運用)」へ完全に振り切ったのだ。
米国債の利回り収入に甘んじる他行を横目に、個別株、外為、先物取引といったハイリスクな市場へ積極的に参入。どのようなアルゴリズムや手法を用いているのかは不明だが、それが驚異的な運用益を生み出し始めた。
「安定とは言いがたいが、自己資本比率を着実に回復させているらしい。……まあ、連合の上層部すら当時は『どうせ一発の大暴落で破滅する』と冷ややかに見ていたらしいがね」
当時は大成功か破産かのギャンブルに過ぎないと片付けられていた。
驚異的とは言っても、それはあくまで「夕張銀行の小さな保有資産から見れば」の話であり、他行のスケール感からすれば利益額などまだ高が知れていたからだ。
「ですが課長、彼らは最近、再び融資事業を拡大させているんですよね?」
「ああ。中規模以上の事業者相手限定だがな。」
市場でむしり取った莫大な金融収益を盾に、夕張銀行は再び融資の現場へ殴り込んできた。
ただし、一般の住宅ローンや弱小個人事業主向けの無担保ローンは完全に絞ったままだ。貸し出す対象は「財務基盤も事業体制も完璧に整った優良企業」主体。あるいは少数ではあるが、確実な資産を持っていると審査された個人。
銀行融資の審査項目となる「将来性」など彼らには無いのだろうか?いや、逆だ。
「仮に失敗して、今持っている資産がどこまで減るか?」
普通の銀行なら『成功すればどれだけ利益を産むか?』を主に計算する。だが夕張銀行はまるでそれを捕らぬ狸の皮算用と扱うかの如く、『マイナスの将来性』ばかりを見ているのだ。
これが強い。なぜなら成長する将来性が低い企業があったとすれば、他行は審査を通すだろうが優先順位を低めに若干金利を高めにするだろう。
「その融資資金でもっと成長性の高い製造業企業にも貸せたかもしれないのに・・・これは機会損失分の上乗せだ。」
しかし、夕張銀行は違う。マイナスの将来性を見ているなら成長性よりも安定性を見る。この企業は彼らにとっては歓迎すべきお客様である。
「どうぞ、こちらの優遇金利をご提案いたします!」
夕張銀行は投資事業では夢をひたすら追うかもしれない。しかし融資事業では夢は見ない。
「仮に成長したらどうなる?ウチのような資金量で対応できなくなると勝手に札幌や旭川の地銀に行くか、メガバンクに取られるだけだ。融資を残してくれるなら良いが、乗り換えで更なる優遇条件を出されて、乗り換えられれば損ではないか?その穴をまた埋めねばならんのだから・・・」
夕張銀行はこう考える。ならば方針は決まっている。
「営業は訪問する際は他の上位地銀の審査状況を重視するんだ。衰退事業と言われるものの安定性のある企業を見つければそれこそが我々の顧客だ。基本的な財務審査のダブルチェックまで向こうがやってくれているなら審査部門も安心だろう?」
それは露骨なまでの選別(チェリーピッキング)だった。
だが、『金が払えないくせに文句ばかり言う客は、こちらから願い下げだ』という過去の自暴自棄とも取れる宣言は、一切ブレていなかった。
当然、この極端な経営姿勢に対して金融庁は激怒し、強烈な苦言を呈したという。
『不良債権処理を進めろとは指示したが、地域に根差す一般ローン層まで切り捨てろとは言っていない!』
対する夕張銀行の反論は、容赦のない毒に満ちていた。
『では何か? 我々が市場で血みどろのリスクを冒してむしり取ってきた資金と、札幌の大地銀様と競合して血の滲むような苦労で勝ち取った優良企業様が納めてくださった利息。これらの血のにじむお金をボランティアとして……低金利が続くと高く括って返済不能に陥った無計画な個人や零細企業に献金しろとおっしゃるのですか?』
バチバチの全面戦争だった。
「……とまあ、これが事の経緯だ」
小室課長は淡々と書類をめくった。
「北海道エリアには札幌、函館、旭川と地銀や信金が乱立している。札幌勧業銀行や北海道道南銀行といった中堅どころも多いが……我が連合本部が今、最も不気味がり、かつ『思想が近い』と警戒しているのが、未だ下位に甘んじているこの夕張銀行なんだよ」
「課長……自分たちに一番近い存在を『不気味』と評するのは、なんだか滑稽ですね」
「そうだね」
小室課長はオドオドとした笑みを浮かべ、困ったように肩をすくめた。
「自分たちの本当の姿を、自分たち自身もよく分かっていないからね。だってほら……我々は未だに、連合上層部の幹部たちの名前すら知らないじゃないか」
「……そうですね。そうでした」
私も自嘲気味に苦笑いを返した。
地銀連合とは、日本全国の多種多様な事業者をネットワークで繋ぎ、各加盟行間で情報を融通し合うことで、最適な「質」と「価格」と「納期」を提供する——いわば巨大な『商社』のような組織だ。
対する夕張銀行は、投資市場で稼いだ潤沢な資本と低金利を武器に、競合から優良企業を力ずくで強奪していく『純粋な金融屋』。
目的も手段も異なるが、冷徹なまでの合理性と「奪う側」としての覚悟は、驚くほど似通っていた。
「相模原の次に向かうべき場所は……北の大地になるかもしれませんね」
そう呟く私の言葉に、小室課長は何も答えず、ただ静かに書類の束をバインダーの中へ閉じ込めたのだった。