ちょっと独自解釈などが出てきます
波乱に満ちた静岡での推薦入試から、一週間が経とうとしていた金曜日の夕方。
筒美家のリビングには、穏やかで家庭的な空気が満ちていた。
風呂から上がったばかりの緋色は、お気に入りのマグカップに注いだ温かいココアを飲み小さく息を吐いた。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、どこか懐かしく、甘酸っぱいケチャップの香り。
キッチンでは、エプロン姿の火伊那が楽しげに鼻歌を口ずさみながらフライパンを振るっていた。
普段は前世の独身生活で鍛えあげた家事スキルをフル活用し、緋色が料理を含めた家事全般を担当している。しかし、今日は火伊那の貴重なオフの日だ。
「久しぶりに緋色に私の料理を食べさせられるんだ。美味しく作るから、大人しく待っていなさいね」
そう言って、まるで少女のようにウッキウキでナポリタンを作っている彼女の後ろ姿を見ながら、緋色は密かに微笑んだ。
ナポリタンは火伊那が数少ないまともに、かつ美味しく作れるレパートリーの一つだ。
ヒーロービルボードチャート上位10名の常連であり、世間からはクールで完璧なトップヒーローとして尊敬の念を寄せられるレディ・ナガンが、家庭ではこんなにも可愛らしい一面を見せる。
緋色はそのギャップを愛おしく思う反面、彼女が家の中で二人きりの時にだけ見せる、どこか艶っぽく境界線の曖昧な態度には未だに慣れずにいた。
ピンポーン
静かな部屋に、玄関のチャイムが響き渡る。
「郵便です。書留のお届けに参りました」
郵便配達員の少し緊張した声がインターホン越しに聞こえた。
「今手が離せない。緋色、代わりに出てくれるか?」
「分かった。行ってくる」
緋色はマグカップをテーブルに置き、玄関へ向かった。
受領印を押し、配達員から手渡されたのはずっしりとした重みのある封筒。その中央には赤い蝋で、雄英高校の校章がプレスされたシーリングワックスが施されていた。
「これ……推薦入試の合否通知か」
ごくりと唾を飲み込み、リビングへと戻る。
ちょうどキッチンから、出来立てのナポリタンが盛られた皿を両手に持った火伊那が戻ってきたところだった。テーブルに皿を置いた彼女は、緋色の手にある封筒を目に留め少しだけ瞳を細める。
「届いたのね……冷めないうちに食べたいけれど、先にそっちを見ましょうか。緊張する?」
「まあ、やるだけのことはやったけどね」
穏やかに答える緋色だったが、前世では無縁だった『超一流国立高校の合格発表』という大イベントに、胸の鼓動は確実に速くなっていた。
赤い蝋封を慎重に剥がし、封筒の中に手を滑り込ませる。
だが中から出てきたのは、予想していた紙の書類ではなく金属製の重みがある手の平サイズの円盤状の端末だった。
「ん? 書類が一枚も入ってないな。何だこれ?」
「あら……映像端末のようね。そこに置いてごらんなさい」
火伊那に促され、テーブルのフラットな面に円盤を置く。
すると端末の上部が青く発光し、空間に鮮明なホログラム映像が投射された。
『やあ、筒美緋色くん! 受験お疲れ様なのさ!』
現れたのは、真っ白な毛並みにダンディなスーツを着こなしたネズミとも、犬とも、熊ともとれる生き物――根津校長だった。その愛らしくもどこか底知れない知性を感じさせる姿に、緋色は目を見張る。
『君の推薦入試での成績……何より実技試験での立ち回りは実に見事だった!氷塊を即座に鏡面として利用し、これまでにない未知の変身能力を披露して上位に食い込んだ機転。そして何より、面接で君が言った人々に寄り添うヒーロー像……実によい。満場一致で、君の合格をここに通知する!四月から雄英高校ヒーロー科で待っているよ!』
パチリ、とホログラムの根津校長がウインクをし、映像が静かに消える。
「合格……よっしゃあ!」
緋色はガッツポーズをし、歓喜の声を上げた。
これで、火伊那の負担を少しでも減らすための第一歩を踏み出せた。
仮面ライダーのように、誰かの力になれる切符を手に入れたのだ。
「ふふ……よく頑張ったわね、緋色。信じていたわ」
火伊那が、緋色の隣にそっと歩み寄る。
彼女はまるで、この世で最も尊い宝物に触れるかのような手つきで、緋色の白銀と赤の混ざる頭を優しく、慈しむように撫でた。その端麗な表情には母親としての誇らしさと、それ以上の――自分と同じ場所に、ようやく愛しい存在を引き寄せられたという、どこか熱を帯びた歪な歓喜が宿っていた。
緋色はそれをただの親心と解釈し、素直にその温もりを受け入れていた。
「ありがとう。これで四月からは静岡か……アパートとか、早めに探さないと」
「アパート?それなら心配いらないわ。これで心置きなく引っ越しができるわね」
ナポリタンを口に運ぼうとしていた緋色は、フォークを止めて首を傾げた。
「引っ越し?どういうこと?」
「まだ言っていなかったな。私たちの“終の棲家”に良さそうな物件を、もう静岡で探しておいたのよ。緋色が推薦に落ちるなんて思ってなかったから、合格通知が届いたらすぐに契約する手はずにしていたの」
「え……?」
火伊那はキッチンから、綺麗に製本された一冊の不動産資料を持ってきた。
緋色が差し出されたパンフレットを開いた瞬間、彼の顎は外れそうになった。
そこに印刷されていたのは広大な日本庭園と、ヨーロッパの古城を思わせるクラシカルな洋館が融合した文字通りの『大邸宅』だった。
敷地面積は一般の住宅地の何十倍から何百倍。防犯設備は大企業レベル。プライベートプールやトレーニングジムまで完備されている。
「………ねえ火伊那。これ、どこかの貴族の館か歴史的建造物の間違いじゃないか?」
「いいえ。今売りに出されている優良物件よ。緋色の個性の練習をするにも、これくらい広いお庭がないと困るでしょう? 鏡もたくさん配置できるし、何より遮音性が高いから二人で静かに暮らすには最適だ」
「いやいやいや! これ、かなりの買い物になるんじゃ……いくらしたんだ?」
前世のしがない小市民だった金銭感覚が、脳内で激しく警報を鳴らす。
火伊那はナポリタンを上品に咀嚼し終えると、何でもないことのようにあっけらかんと言い放った。
「大したものじゃないわ。精々15億くらいよ」
ガタタッ!と椅子を鳴らし、緋色は今度こそ本当にすっコケた。
「じゅう……ごおく!? 15億って、あのお金の単位の億!? そんな高い買い物して大丈夫なのかよ!?破産するだろ!」
「失礼ね。これでも私はビルボードチャート一桁常連で――今期No.7ヒーローなんだぞ? 世間からの信頼も、それに見合う収入もお前が思っている以上に莫大なんだ。この程度、何の痛手でもない……ちなみに、No.2のエンデヴァーなんてこの三倍は広い純和風の屋敷に住んでいるんだぞ。それに比べれば可愛いものさ」
「上位ヒーローの金銭感覚……バグりすぎだろ」
絶句する緋色。
だが久しぶりの火伊那の手料理であるナポリタンを一口食べると、そのどこか不器用で、だけど愛情がこれでもかと詰まった甘い味に肩の力がふっと抜けていくのを感じるのだった。
◇◇◇◇
その日の夜。
自室のベッドに寝転びながら、緋色はスマートフォンでこの世界の頂点に立つ者たちの規格外さに思いを馳せていた。
「No.7の火伊那であれなら……No.1のオールマイトはどうなんだ?」
検索エンジンに『オールマイト 自宅』と打ち込んでみる。
しかし平和の象徴のプライベートについては徹底的に秘匿されており、一切が謎に包まれていた。代わりにヒットしたのは、ファンの間で有力な憶測だった。
『オールマイトは、六本木にある個人事務所を自宅代わりにしているのではないか?』という噂だ。
その事務所の画像を検索した緋色は、再び息を呑んだ。
画面に映し出されたのは、あの六本木ヒルズにも匹敵する超巨大ビルだった。
「ビル丸ごと事務所兼自宅…やっぱり人気上位ヒーローっていうのは、全員が雲の上の存在なんだな」
圧倒的な現実感のなさに舌を巻いていると、スマホの画面の下部に一本の動画広告が流れた。
そこに映っていたのは、スタイリッシュなライダースジャケットを羽織り、海外製の高価なオートバイに跨ってクールに微笑む火伊那の姿だった。
彼女がイメージアンバサダーを務める世界的メーカーのCM広告だ。
「そうか。ヒーローってのは、ヴィラン退治の報酬だけじゃなく、広告の契約料やスポンサー収入、グッズのライセンス料でも稼いでるんだ」
そう考えると、15億の家を買えるのも納得がいった。
同時に、緋色の脳裏に俗っぽいビジネスアイデアが閃く。
(もし将来人気プロヒーローになれたら……色々なグッズを売り込めるんじゃないか!? 俺の場合はモンスターたちもいるから、女性向けにデフォルメ化させたぬいぐるみとか、マニア向けの精巧なアクションフィギュアだって用意できる。それに、Vバックルやドラグバイザーのなりきり玩具……アドベントカードなんて、子供に絶対受けるだろ。めちゃくちゃ稼げるのでは?)
「よぉし……この将来の副業プランを実現するためにも、頑張らないと」
フッと笑い、ベッドの上で寝返りを打つ。
その時、手元のスマートフォンが短いスパンで三回、立て続けに震えた。
LINEの通知だ。
送り主はかつて各地で出会い、ミラーモンスターを託した懐かしい友人たち。
【三奈】:『ヒロ君! 私、雄英高校ヒーロー科に合格したよー!すごいでしょ! ヒロ君はどうだった?』
【梅雨】:『緋色ちゃん。私も雄英の合格通知が届いたわ。これでまた同じ学校に通えるかもしれないわね。緋色ちゃんはどうだった?』
【お茶子】:『緋色君、お疲れ様! 私ね、無事に雄英の合格を勝ち取ることができたよ! ずっと、緋色君に報告したかったんだ』
それぞれがそれぞれの戦いを経て、約束の地への切符を手に入れたという報告だった。
純粋に、かつての友人たちが夢に向かって進んでいることが嬉しかった。
緋色は何の疑いも持たず、温かい笑みを浮かべながら返信を打ち込む。
【緋色】:『合格おめでとう! 本当に凄いな。実は俺も、推薦入試で無事に合格したんだ。四月からまた同じクラスになれたら良いね。楽しみにしているよ』
三人それぞれに送信し、スマホを胸の上に置く。
「四月からまた賑やかになりそうだな」
そんな呑気な期待を胸に、緋色は心地よい眠りへと落ちていった。
――だが彼が放ったその短い返信は、受け取った側の少女たちの中で、眠っていた狂気を完全に呼び醒ます劇薬となった。
◇◇◇◇
――千葉
照明の消えた暗い部屋で、スマートフォンの液晶の光だけが、芦戸三奈の顔を白く浮かび上がらせていた。
その瞳は、緋色からの返信を見つめたまま異常なほどに細められている。
「あはっ……あはは! ヒロ君も合格したんだ。また同じクラスになれるかも…だって!」
彼女の脳裏に、幼い頃に自分を助けてくれた緋色の「大好きだから」という言葉が、歪んだ熱を帯びて再生される。
「また、ヒロ君と一緒に居られるんだ。今度はもう、絶対に離さないからね」
彼女の背後にある姿見で、紫色の巨大な大蛇――ベノスネーカーが音もなく鎌首をもたげた。
主の狂おしい喜びに呼応するように、鏡の向こうでシャーと不気味な牙を鳴らし、暗黒の鏡面を這い回っている。
◇◇◇◇
――愛知
蛙吹梅雨は、ポーカーフェイスのままスマホを見つめていた。
だがその白い頬は、かつてないほどに朱に染まり、呼吸は浅く速くなっている。
「ふふ…緋色ちゃん。やっと、やっと追いついたわ」
ただの友達としての「好き」だなんて、もう言わせない。
あの時、自分の心の殻を壊してくれた少年の熱が、今も皮膚の奥で燻っている。
「もう二度と、私の前からいなくならないでね…」
部屋の窓ガラスの向こう。
夜の深い闇を映すその鏡面から、巨大な二足歩行のカメレオン――バイオグリーザが、じっとその複眼を不気味に蠢かせていた。長い舌をガラスの内側に這わせるようにして、蛙吹梅雨を包み込むように見守っている。
◇◇◇◇
――三重
麗日お茶子は、学習机の上でスマホ―両親にわがままを言って買ってもらった―を痛いほど強く胸に抱きしめていた。
画面に表示された、緋色からの『同じクラスになれたら良いね』という一文を、貪るように何度もなぞる。
「緋色君……合格おめでとう。また私のこと、助けてくれるよね? ずっと、私のヒーローでいてくれるよね?」
あの時、いじめから救い出してくれた彼の温かい手。
自分のために、
彼女の世界は、すでに筒美緋色という光を中心に回っていた。彼を失うことなど、自分の存在が消えることと同義だった。
窓ガラスの奥。重厚な鋼の鎧を纏った犀――メタルゲラスが主の狂おしい独占欲に応えるように、鏡の向こう側から地響きのような唸り声を、低く暗く響かせていた。
鏡の向こうから見つめる、契約モンスターたちの不気味な眼光。
そして、それ以上に暗く沈んだ、恋焦がれる少女たちの歪んだ笑顔。
「また、会えるね。ヒロ君――」
「緋色ちゃん――」
「緋色君――」
その声は重なり合い、やがて来る春の嵐の予感となって、静かに夜の底へと消えていった。
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