■ 指定コード:AB-009-EX「海底マンション有人調査」
■ 実施期間:平成██年██月~平成██年██月
■ 投入人員:計二十三名(全員が無期懲役囚または死刑確定囚)
■ 生還者:ゼロ
■ 調査区分:特別調査員制度に基づく強制調査
【調査の背景と倫理的議論】
遠隔調査によって海底マンションの性質――「進入の意図を持つ者を選択的に消失させる」――が明らかになるにつれ、特対室内部では有人調査の必要性を巡る激しい議論が交わされた。ドローンによる調査には限界がある。内部の構造、住人の正体、消失した者のその後――これらを知るには、人間の目と耳と、そして何より人間の「意識」を持つ調査員を送り込む以外に方法はない。
しかし、生還の見込みはゼロに等しい。それでもなお、特対室は有人調査の実施を決断した。その決断を可能にしたのは、「特別調査員制度」の存在だった。無期懲役囚と死刑確定囚――社会から既に切り離された者たちに、減刑と引き換えに「任務」を提供するこの制度は、倫理的な批判を浴びながらも、国会の非公開審議において正式に承認されていた。
調査員に志願した受刑者たちの動機は様々だった。死刑の執行を先延ばしにしたい者。無期懲役の終わりのない日々に終止符を打ちたい者。遺族に一時金を残したい者。中には、純粋な好奇心から志願した者もいたという。
以下は、計七回にわたって実施された有人調査の記録である。
【第一回有人調査(投入人員:一名)】
最初の調査員は、死刑確定囚の男性(四十二歳、元暴力団幹部、殺人罪)だった。彼は「どうせ死ぬなら、誰も行ったことのない場所に行ってみたい」という言葉を残して潛水艇に乗り込んだ。
潛水艇はマンション正面玄関の開口部に向けて進んだ。調査員は潛水服を着用し、無線機と水中マイクを装備していた。潛水艇から降り立った調査員は、海底の堆積物を踏みしめながら、ゆっくりと玄関に向かって歩いた。
開口部から約一メートルの地点で、調査員の通信は途絶した。無線機からの信号が完全に消失し、潛水服に取り付けられたライトの光も同時に消えた。潛水艇から伸びる命綱は、途中でぷつりと切断されていた。断面は極めて滑らかで、鋭利な刃物で切られたかのようだった。
調査員は、ドローンと全く同じ地点で、全く同じように消失したのである。
【第二回有人調査(投入人員:二名)】
第一回の結果を受け、二名の調査員が同時に投入された。いずれも無期懲役囚である。二人は互いに命綱で結ばれ、無線機に加えて、新たに開発された「常時録音式マイク」を装備していた。このマイクは、通信が途絶した後も内部ストレージに音声を記録し続けることができる。回収を前提としない、いわば「使い捨て」の装置である。
二人の調査員は、左右から同時にマンションに接近した。一人は正面玄関、もう一人は側面の非常口に向かう計画だった。
結果は、二人とも開口部への接近と同時に反応消失。命綱はまたも切断され、無線信号も途絶した。
しかし、後日、海底に沈んでいた常時録音式マイクの一つが、遠隔操作型の回収ドローンによって偶然発見された。マイクは破損していたが、内部ストレージには僅かながらデータが残っていた。
そのデータに記録されていたのは、調査員の呼吸音と足音、そして突如として始まった「詠唱」だった。調査員のものとは思えない平坦な声が、未知の言語で何かを唱えている。音声解析の結果、その言語はクトゥルフ神話に登場する「ルルイエ語」の文法構造と一致することが判明した。
詠唱の内容は、以下のように翻訳された。
「死せるクトゥルフ、ルルイエの館にて、夢見るままに待つ。彼の復活の日まで、我らはここに留まり、門を守る。イア!イア!クトゥルフ・フタグン!」
【第三回有人調査(投入人員:五名)】
第二回の結果――調査員がクトゥルフを称える呪文を唱えていたという事実――は、特対室に衝撃を与えた。海底マンションは単なる異常建築物ではない。それはクトゥルフ信仰と直結した「聖地」あるいは「寺院」のような場所なのではないか。
この仮説を検証するため、第三回調査では五名の調査員が投入された。彼らには事前に「クトゥルフ神話に関する基礎知識」が与えられ、内部で遭遇する可能性のある事象についての簡易な説明が行われた。
五名は、それぞれ異なる進入経路を割り当てられた。正面玄関、地下駐車場、バルコニー、屋上、そしてマンションの裏手にある排気口らしき開口部である。
結果は、五名全員が同時に反応消失。しかし、今回は調査員の一人が、消失の直前に短い言葉を発したことが、潛水艇の無線機に記録されていた。
「ここは……違う……ここは……門じゃない……これは……神殿だ……」
その言葉を最後に、五名の信号はすべて途絶した。
【第四回有人調査(投入人員:一名、霊能者随伴】)
第三回の結果を受け、特対室は調査の方向性を変更した。霊能者連合から派遣された高野山の僧侶一名が、調査員に随伴することになったのである。僧侶は潛水艇には乗らず、母船上で祈祷を行い、調査員の霊的防護を試みるという形での参加だった。
調査員は死刑確定囚の男性(三十五歳、無差別殺人罪)。潛水艇でマンションに向かう間、僧侶は母船上で不動明王の真言を唱え続けた。
調査員が開口部に接近した瞬間、母船上の僧侶は激しく吐血し、倒れた。後に僧侶は回復したが、「あれは人間の入る場所ではない。あれは神の領域だ。異教の神だが、それでも神だ」と語ったという。
調査員の反応は、またも消失した。
【第五回~第七回有人調査】
第五回から第七回にかけては、様々な条件を変えた調査が試みられた。調査員に異なる宗教的背景を持つ者を選定した回、調査員同士を物理的に連結した回、調査員に武器を持たせた回――しかし、結果はすべて同じだった。
投入された調査員の合計は二十三名。生還者はゼロ。全員がマンションの開口部への接近と同時に反応を消失し、二度と戻ることはなかった。
【マイクに記録された呪文】
第七回調査の後、海底から回収されたもう一つの常時録音式マイクに、より長い音声データが記録されていた。それは、調査員の声とも、マンション内部の住人の声ともつかない、複数の人間の声が重なったような異様な音声だった。
以下はその翻訳である。
「イア!イア!深淵に眠るもの、海底の都に君臨するもの、夢見る王よ。我らは門を守る者。門が開かれた日より、ここに留まり、次の門が開くのを待つ。九頭竜は閉じられた。しかし我らは閉じられていない。我らはここにいる。我らは待つ。イア!イア!クトゥルフ・フタグン!死せるクトゥルフよ、夢の中で永遠に待て!」
【考察と現状】
一連の有人調査により、以下の事実が強く示唆されるに至った。
一、海底マンションは、単に九頭竜事件の余波として生じた「裂け目」ではない。それはクトゥルフ信仰のための「神殿」あるいは「待機所」としての性質を持つ。
二、内部の住人――あるいはマンションそのもの――は、クトゥルフを崇拝する存在であり、進入者を「消失」させるのではなく、「取り込み」「同化」させている可能性が高い。
三、進入者が発した呪文の内容から、海底マンションは「次の門が開くのを待つ」ための施設であると推測される。九頭竜の門は閉じられたが、海底マンションの住人たちは、別の門が開かれることを待っている。
四、トオルはこの場所を「閉じ損ねた門」と認識している可能性がある。あるいは、彼の意図とは無関係に、九頭竜の門が開かれた時に、副次的に生じてしまった場所なのかもしれない。
現在、海底マンションへの有人調査は無期限で凍結されている。二十三名の調査員を失いながら、得られた情報は断片的な音声データのみ。これ以上の投入は、人命の無駄であるという結論に達したのである。
海底マンションは、今日も深海で明かりを灯している。窓の向こうでは人影が動き、時折、水中マイクはかすかな呪文を拾う。イア、イア、クトゥルフ・フタグン。死せるクトゥルフは夢の中で待ち、海底マンションの住人たちは、次の門が開くのを待っている。そして、かつて調査に赴いた二十三名の男たちもまた、今はその「住人」の一部として、窓の向こうで誰かを待っているのかもしれない。
報告書の最後に、特対室の分析官はこう記している。
『海底マンションは、我々の理解を超えた方法で、入った者を「信徒」に変える。もはやこれは調査対象ではない。これは敵性存在である。しかし、敵であると同時に、我々には手出しのできない存在でもある。トオルが戻ってくるまで、あるいは別の鍵が見つかるまで、我々はただ、深海の明かりを見つめ続けるしかない』