Another Childhood   作:やまうぇ

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第48話 恋の歩幅

千夏が目を覚ました時、守屋家のマンションには、まだ朝の静けさが残っていた。カーテンの隙間から入る光が、床に敷いた布団の端まで届いている。枕元のスマートフォンを見ると、普段なら朝練へ向かっている時刻だった。今日は土曜日で、女子バスケットボール部の練習は休みになっている。それでも身体に染みついた習慣までは休みにならず、目覚ましを掛けていなかった割には早く起きてしまった。

 

ベッドでは、花恋が掛け布団を肩まで引き上げて眠っている。昨夜は千夏の方が先に目を閉じたはずだが、話を終えた後も撮影の資料を確認していたのかもしれない。千夏は音を立てないよう布団から起き上がり、借りていた部屋着の袖を整えた。

 

机の上には、充電器につながれた花恋のスマートフォンが置かれている。画面は消えていたが、昨夜、文化祭の写真を見ながら話したことは、朝になっても変わらなかった。千夏がカーテンへ手を掛けると、背後で布団が動いた。

 

「ちー、起きるの早くない?」

「ごめん、起こした?」

「ううん。今何時?」

「八時半」

「あと三十分寝る予定だったのに」

「撮影、午後からなんでしょ」

「だから九時までは寝られたの」

 

花恋は枕へ顔を戻したものの、すぐに諦めたように身体を起こした。寝癖のついた髪を手で押さえながら、机に置かれたスマートフォンを確認する。

 

「大喜くんから連絡来てた?」

「来てないよ。昨日、帰る時間は伝えたから」

「今日、猪股家に戻るんだっけ」

「うん。夕方にお母さんのところへ戻って、そのまま荷物を運ぶ予定」

 

祖父は手術後の検査でもまったく問題がなく、すでに以前と変わらない生活へ戻っていた。通院の付き添いも必要なくなり、千夏の母が日本に残る理由もなくなったため、マンスリーマンションは今日で引き払うことになっている。一時的な別居が終わり、千夏は猪股家へ戻る。

 

「じゃあ、買い物早く行こうか」

「うん。四時には戻るって、お母さんに伝えてある」

「分かった。私も午後から撮影だし、ちょうどいいかも」

 

二人で布団を片付け、洗面所を順番に使った。寝室を出ると、マンションの廊下には朝食の匂いが漂っている。リビングダイニングでは、花恋の母がトーストと卵料理を用意していた。千夏と花恋が席へ着いたところで、菖蒲が自室から出てくる。

 

菖蒲はすでに外出用の服へ着替えていたが、手には鞄ではなくスマートフォンだけを持っていた。空いている椅子へ座ると、何事もなかったようにトーストへ手を伸ばす。

 

「おはよう。二人、何時に出るの?」

「十時半くらい。菖蒲はデートじゃなかった?」

「別れたから、なくなった」

「……いつ?」

「昨日」

 

花恋の手が止まった。千夏も思わず菖蒲の顔を見る。けれど本人は落ち込んでいる様子もなく、トーストにジャムを塗っていた。

 

「何があったの?」

「一緒に飲み物を買うと、毎回あの人がLって言ってるのに、店員さんからMですかって聞き返されるの」

「それで?」

「昨日も聞き返されてた。これで何回目だろ。四回か五回」

「それが、別れた理由?」

「うん。毎回同じやり取りを見るの、もう無理だなって思っちゃって、夜別れた」

 

花恋はしばらく菖蒲の顔を見た後、額へ手を当てた。

 

「店員さんに聞き返されることが?」

「Lって言ってるのに、毎回Mに聞こえることが。しかも、聞き返されるたびに同じ顔するんだよ」

「どんな顔?」

「何で伝わらないんだろうって顔」

「普通に聞き返されただけでしょ」

「一回ならね。でも毎回だよ。これから一緒に出かけるたびに、またMですかって聞かれるんだと思ったら、急に無理になった」

 

菖蒲の説明を聞いても、千夏には別れるほどの理由なのか分からなかった。花恋も同じらしく、ジャムを塗ったままのトーストを持って黙っている。

 

「相手は納得したの?」

「ちゃんと話したよ。最初は意味分からないって言われたけど、私も何で嫌なのか上手く説明できないし、合わなかったってことで終わった」

「昨日別れたばかりなのに、平気なの?」

「もう終わったことだし。それに、今は別に気になる人いるから」

「早すぎない?」

「別れてから見つけたわけじゃないよ。見たのは文化祭の前」

 

花恋が呆れたように息を吐くと、菖蒲は気にせず千夏へ顔を向けた。

 

「ちーちゃん、今日、私も一緒に行っていい?」

「私は大丈夫だよ」

「お姉は?」

「ちーがいいならいいけど、撮影があるから午後には別れるよ」

「分かってる。家にいても暇だし、服も見たい」

「さっきの話、もう少し気にした方がいいんじゃない?」

「別れた相手のことを一日中考えても戻りたいとは思わないし、だったら出かけた方がいいでしょ」

 

菖蒲はそう言って、二枚目のトーストを取った。切り替えが早いというより、終わったことを抱えて立ち止まる理由を持っていないようだった。花恋が針生との予定を決める時には、互いの練習や仕事を確かめ、会える時間を探している。菖蒲は一つの関係が終わっても、空いた時間をすぐ別のものへ向けられる。

 

千夏には、同じようにはできないと思った。大喜と何かがうまくいかなかった時、その日から別の誰かへ目を向ける自分は想像できない。二人の間には、恋愛になるより前の時間があまりにも長く積み重なっている。朝食を終えると、三人は身支度を整えてマンションを出た。エレベーターを待つ間も、菖蒲はスマートフォンで服やアクセサリーを調べている。扉が開くと真っ先に乗り込み、一階へ着く前には今日見たい店をいくつか決めていた。

 

最寄り駅へ向かう道では、菖蒲が半歩先を歩いた。ショーウインドーへ次々と目を向け、気になる物を見つけると急に速度を落とす。花恋は午後の撮影時刻を確認しながら、残された時間に収まるよう行き先を選んでいた。千夏は二人の間を歩きながら、気になる方へ迷わず進む菖蒲と、仕事までの時間を計算して歩く花恋を見ていた。同じ道にいても、歩く速さも、立ち止まる場所も違っている。

 

三人が向かったのは、数駅先にある商業施設だった。休日の館内は、開店して間もない時間にもかかわらず、家族連れや学生でにぎわっていた。菖蒲は入口近くの服屋へ向かおうとしたが、花恋が先にスポーツ用品店を指す。

 

「最初にこっち寄っていい?撮影へ行く前に買っておきたい物があるの」

「服じゃないの?」

「健吾に渡す物」

「彼氏へのプレゼントなら、もっとかわいい店じゃない?」

「使わない物を渡しても仕方ないでしょ」

 

花恋は迷わず店へ入り、バドミントン用品の並ぶ一角へ向かった。ラケットやシューズではなく、壁一面に並ぶグリップテープの前で足を止める。同じように見える商品でも、厚さや表面の感触、汗の吸い方が違う。花恋はパッケージの表示を確認しながら、いくつかの商品を見比べた。

 

「針生君が使ってるの、分かるの?」

「メーカーと種類はね。健吾の鞄に入ってるのを何度も見てるから」

「色まで同じにするの?」

「目立つ色は嫌がるし、白はすぐ汚れるって言ってたから黒」

「細かいところまで覚えてるんだね」

「ちーだって、大喜くんが何を使ってるか知ってるんじゃない?」

 

急に話を振られ、千夏は棚に並んでいる商品へ目を向けた。

 

「メーカーは分かるけど、厚さまでは知らないよ」

「メーカーは分かるんだ」

「同じ体育館で何度も見てるから」

「大喜のこと、よく見てるんだね」

 

菖蒲は特に意味を込めた様子もなく言った。昨夜のことを知っている花恋も、千夏の顔を一度見ただけで、何も付け加えなかった。花恋は黒いグリップテープを数本手に取り、買い物籠へ入れた。贈り物らしい華やかさはないが、練習を続ければ必ず使う物であり、針生の好みにも合っている。

 

「特別な日じゃなくても渡すの?」

「なくなりそうだって言ってたから。今日見つけたし」

「自分で買えるでしょ」

「買えるよ。でも私が買っても困らない物だから」

「付き合ってると、そういうのまで買うんだ」

「付き合ってるからって、毎回特別な物を渡すわけじゃないよ」

 

花恋はそう答え、会計へ向かった。練習があれば会えず、撮影が延びれば予定も変わる。それでも花恋は、針生が使う物や嫌がる色を知っている。互いの競技や仕事を止めず、生活の中へ自然に相手を置いている。

 

千夏と大喜には、説明しなくても知っていることがもっと多い。朝練の時間も、好きな食べ物も、疲れている時の返事の短さも分かる。だからこそ、それが幼馴染として積み重ねたものなのか、その先へ進むためのものなのかを、簡単に分けることができなかった。

 

スポーツ用品店を出た後は、菖蒲が見たがっていた服屋へ入った。菖蒲は棚から気になる服を次々と取り出し、迷うことなく試着室へ持っていく。花恋は撮影で似た服を着た経験から、形や丈について率直に意見を伝えた。千夏は二人のやり取りを聞きながら、練習の行き帰りにも着られる上着を一枚選んだ。試着を終えた菖蒲が、千夏の手にある服を見て首を傾げる。

 

「ちーちゃん、それだけ?」

「必要なのはこれくらいだから」

「もっと違うのも着てみればいいのに。文化祭の服、似合ってたよ」

「あれはクラスの衣装だから」

「でも似合ってたなら、普段もああいうの着ればいいじゃん」

「学校や練習に着ていく服じゃないでしょ」

「好きな人と出かける時なら着られるよ」

 

菖蒲は何気なく言っただけだったが、千夏は上着を畳み直す手を止めた。花恋がすぐに菖蒲の肩を軽く叩く。

 

「何でも恋愛につなげないの」

「昨日、ずっとちーちゃんと何か話してたじゃん」

「だからって、ちーに好きな人がいるとは限らないでしょ」

「ちーちゃん、いないの?」

 

千夏はすぐには答えなかった。大喜の名前を伝えるつもりはない。けれど、好きな人などいないと否定することも、もうできなかった。昨夜、自分から大喜へ近づきたくて行動したと認めたばかりだった。ここで否定してしまうのは、何か違う気がした。

 

「今は服を選んでるところでしょ」

「その答え方、いる人だ」

「菖蒲、そこまで」

「分かった。名前は聞かない」

 

菖蒲はあっさりと引き下がり、別の服を手に取った。相手が大喜だとは、まったく考えていないようだった。千夏と大喜が幼馴染で、現在は同じ家で暮らしていることを知っていても、二人を恋愛の関係として見る発想がないのだろう。

 

昼食は、同じ施設内にあるカフェへ入った。花恋は午後の集合時刻を考え、待ち時間が短い店を選んだ。三人で窓際の席へ座ると、菖蒲はメニューを開くより先にドリンクのサイズを確認した。

 

「私はLにする」

「何でこっち見ながら言うの?」

「今日はちゃんとLって伝わるかと思って」

「菖蒲が注文するなら関係ないでしょ」

「私なら一回で伝わるよ」

 

注文を取りに来た店員へ、菖蒲は普段よりはっきりした声でLサイズを頼んだ。店員がそのまま注文を通すと、満足そうにメニューを閉じる。

 

「ほら、一回で伝わった」

「普通はそうだよ」

「だから気になったんだって。毎回Mですかって聞かれるの」

「それでも、別れるほどかな」

「ちーちゃんは気にならない?」

「私なら、本人が気にしてないなら、そのまま頼むと思う」

「そういうところ、ちーちゃんは優しいね」

「菖蒲が細かすぎるだけ」

「お姉は彼氏だからって何でも許すタイプ?」

「何でもは許さないよ。ただ、飲み物のサイズを聞き返されるだけでは別れない」

 

菖蒲は自分が少数派であることを気にせず、水の入ったグラスへ口をつけた。食事が届くまでの間、話題は自然と菖蒲が気になっている人物へ移った。

 

「どこで見た人なの?」

「学校の体育館」

「菖蒲の学校?」

「そう。文化祭の準備で残ってた日、体育館の前を通ったら男子がバドミントンしてたの」

「男子バド部なら、大喜たちじゃないの?」

「大喜じゃないよ。顔は知ってるし」

「練習試合の日だったのかな」

 

千夏は文化祭前の男子バドミントン部の予定を思い返した。大喜が代表合宿で学校を空けていた頃、栄明の体育館では他校を招いた練習試合が行われていたはずだった。菖蒲は、その日が普段の部活動ではなかったことすら知らないらしい。

 

「どの人?」

「名前は知らない。背が高くて、髪がマッシュっぽかった」

「栄明の選手だった?」

「分からない。体育館にいたから、うちの学校の人だと思ってたけど、違う学校の人もいたの?」

「練習試合なら、相手校の選手もいるよ」

「じゃあ、うちの人じゃないかもしれないんだ」

 

そう言いながらも、菖蒲に落胆した様子はなかった。

 

「でも、男子バド部に行けば分かるかも」

「何を?」

「名前とか、どこの学校か」

「そのために部活へ入るつもり?」

「それだけじゃないよ。マネージャーって、ちょっと面白そうだし」

 

花恋が菖蒲を見た。

 

「さっきまで名前も知らなかったのに?」

「名前を知ってから気になるんじゃなくて、気になったから名前を知りたいんでしょ」

「前の彼氏と別れた次の日に言うことじゃないと思う」

「前の人と、その人は別だよ。付き合ってた時に声を掛けたわけでもないし、見ただけだから」

 

菖蒲は何の後ろめたさもなく答えた。確かに、相手の名前も所属も知らない。気になる人物を遠くから一度見ただけで、何か関係が始まっているわけではない。それでも、次に会うため部活動へ近づこうと考える速さは、千夏には真似できないものだった。

 

「マネージャーって、どんなことするの?」

「選手が使うコートや練習内容によるけど、ずっと座って見ている仕事ではないよ。大会なら選手より先に準備することもあると思うし」

「選手のタオルを渡すだけじゃないんだ。朝早いのは嫌だけど、準備するのは嫌いじゃないかも」

「見学して、実際に聞いてから決めた方がいいね」

 

花恋も、妹の考えをすぐには否定しなかった。

 

「格好いい人がいたからって理由で興味を持つのは止めないけど、入ったら仕事はちゃんとやりなよ」

「やるよ。始める理由と、続ける理由は別でしょ」

「また勢いで決めて、一週間で辞めないでね」

「仕事が思ってたのと違ったら考えるけど、最初から辞めるつもりで入らないよ」

「その人が部にいなくても?」

「それは……入る前に確認する」

 

菖蒲は一瞬だけ考え、すぐに答えた。その選手が栄明の部員ではない可能性を、まだ現実的には考えていないようだった。食事が運ばれてくると、話題は一度途切れた。花恋は時計を確認しながら食事を進め、午後の撮影内容を説明する。今日は冬物の服を屋外で撮る予定があり、天気が崩れれば終了時刻が遅くなるらしい。菖蒲はしばらく食事へ集中していたが、半分ほど食べたところで千夏へ顔を向けた。

 

「ちーちゃんは、好きな人がいるなら、自分から誘う?」

「またその話?」

「名前は聞かないって言ったでしょ。どうするのか気になるだけ」

「今までなら、待ってたと思う」

「今までは?」

「最近、自分から誘ったことがあったから」

 

大喜の名前も、文化祭のライブのことも口にしなかった。それでも、質問へ答えずに逃げるのではなく、自分がしたことだけは伝えられた。菖蒲はすぐに身を乗り出した。

 

「じゃあ、できるじゃん」

「一度誘えたからって、全部簡単になるわけじゃないよ」

「好きなら付き合えばいいのに」

「そんなに簡単じゃないこともあるよ」

「相手に彼女がいるとか?」

「そういうことじゃなくて。今ある関係を変えたくない時もあるでしょ」

「変えたいから好きなんじゃないの?」

「近づきたいけど、今までの関係も大事にしたいことはあると思う」

「まあ、ちーちゃんに彼氏ができたら、大喜は寂しがりそうだね」

 

予想していなかった名前が出て、千夏は菖蒲の顔を見た。けれど、菖蒲は二人の関係を疑っている様子もなく、ストローでグラスの氷を動かしている。

 

「どうして?」

「だって、家でも学校でもずっと一緒なんでしょ。今までみたいにはいかなくなるじゃん」

「それなら、私も同じだよ。大喜くんに彼女ができたら、今の生活とは変わるだろうし」

「ちーちゃんも寂しい?」

「生活が変われば、お互い変な感じはすると思う」

「幼馴染って、思ってたより面倒なんだね」

「菖蒲ちゃんが簡単に考えすぎなの」

 

千夏の中では、大喜との幼馴染としての時間も、猪股家での生活も、互いの競技も、どれか一つだけを切り離せるものではなかった。好きだから近づきたい。それと同時に、好きだからこそ、今あるものを簡単に壊したくなかった。菖蒲はしばらく考えた後、首を傾げた。

 

「難しいね」

「菖蒲が簡単に考えすぎなの」

「お姉はどう思う?」

「私は、ちーが今すぐ決める必要はないと思うよ」

「でも、ずっと待ってるだけだと何も変わらないじゃん」

「菖蒲は何でも早すぎるけどね」

「それでも、慎重にするのと、何もしないのは違うでしょ」

 

菖蒲の言葉に、千夏は箸を持つ手を止めた。昨夜、花恋へ話したことを思い出す。文化祭では、いつもと違う自分を大喜に見てほしくて、自分から動いた。それは告白ではなかったが、何もしていなかったわけでもない。

 

「何もしないつもりではないよ」

「じゃあいいんじゃない?」

「何が?」

「ちーちゃんの好きな速さで進めば。私は待てないから先に行くけど」

 

菖蒲はそう言って、残っていた飲み物を口にした。花恋は笑いながらも、千夏へ何かを決めるようには求めなかった。

 

「菖蒲は、相手を置いて先に行きすぎないようにね」

「分かってるよ。振り返って来てなかったら待つ」

「最初から一緒に歩けばいいでしょ」

「それだと遅い時もあるじゃん」

 

三人の間で、同じ答えが出ることはなかった。それでも、自分と違う進み方を否定する必要もないのだと、千夏は思った。花恋には花恋の、菖蒲には菖蒲の進む速さがある。自分も、どちらかと同じでなくていい。

 

昼食を終えると、三人は撮影場所へ向かいやすい出口へ移動した。途中でスポーツ用品店の前を通ると、菖蒲がもう一度、バドミントン用品の並ぶ店内へ目を向ける。ラケットを持つ選手の大きなポスターを見ながら、スマートフォンへ何かを入力した。

 

「何してるの?」

「男子バド部の活動日、調べてる」

「もう見学するつもりなんだ」

「気になってるうちに行かないと、面倒になりそうだから」

「そういうところだけは、自分のこと分かってるね」

「お姉、褒めてる?」

「半分くらい」

 

菖蒲は気にせずスマートフォンを鞄へ戻した。花恋を撮影場所へ向かう改札まで送ると、三人はそこで別れることになった。花恋は紙袋の中のグリップテープを確認し、千夏へ向き直る。

 

「ちーは、このまま戻るんだよね」

「うん。四時までにマンションへ帰る」

「引っ越し、今日中に終わりそう?」

「荷物は多くないから。大喜くんたちも手伝いに来てくれるって」

「じゃあ、明日からまた一緒に朝練?」

「そうなると思う」

「寝坊しないようにね」

 

菖蒲が横から口を挟む。

 

「大喜が寝坊するの?」

「時間ぎりぎりまで練習のことしてる時があるから」

「ちーちゃんが起こすの?」

「毎日起こしてるわけじゃないよ」

「でも同じ家なら起こせるんだ。便利だね」

「その言い方、やめなさい」

 

花恋に注意されても、菖蒲は何が悪いのか分かっていない顔をしていた。千夏と大喜が同じ家に暮らしていることを、恋愛とは結びつけていないためだろう。

 

「撮影、頑張ってね」

「ありがとう。引っ越しが終わったら連絡して」

「うん」

「菖蒲も、帰ったらお母さんに連絡してね」

「分かってる。お姉も遅くなるなら連絡して」

 

花恋は改札を通り、振り返って手を振った。千夏と菖蒲も手を振り返し、その姿が人の流れに隠れるまで見送った。帰りの電車では行きよりも座席が空いており、千夏と菖蒲は並んで座った。買った物を膝の上へ置くと、菖蒲は男子バドミントン部について調べ始め、何度も画面を上下へ動かしている。

 

「見学の日、分かった?」

「活動日は書いてあるけど、マネージャー募集は出てない」

「監督か部員に聞いた方が早いかもね」

「大喜に聞けば分かる?」

「男子バド部だから、分かると思うよ」

「じゃあ今度聞く」

「急にマネージャーになりたいって言ったら、驚くと思う」

「格好いい人がいたって言えば分かりやすいでしょ」

「その人が栄明の選手とは限らないよ」

「そうだった。練習試合かもしれないんだよね」

 

菖蒲はそこで初めて不安そうに画面を見たが、その表情も長くは続かなかった。

 

「いなかったら、どこの学校か聞けばいいか」

「誰に?」

「大喜とか、他の部員に。対戦した人なら分かるかもしれないでしょ」

「名前も分からないのに?」

「見た目を説明すれば、誰か分かるかも」

「それで分からなかったら?」

「その時考える」

 

菖蒲は、答えが出ないことを理由に動きを止めない。千夏は、その軽さを危ういと思う一方で、羨ましくも感じた。自分は大喜との間にあるものを一つずつ考え、確かめようとするが、菖蒲なら気になると思った時点で相手へ近づく方法を探している。電車が次の駅を出たところで、菖蒲がスマートフォンを鞄へしまった。

 

「さっき、お姉に止められたけどさ」

「まだ聞くの?」

「名前は聞かないよ。せめて、どんな人なのか教えて」

「どんな人って?」

「年上とか、同じ学校とか、何してる人とか」

「それを全部答えたら、名前を言うのとあまり変わらないでしょ」

「じゃあ、ちーちゃんが好きになったところを一つだけ」

 

千夏は窓の外へ目を向けた。流れていく住宅の屋根を追いながら、答えても大喜へ結びつかない言葉を探す。

 

「自分の目標に向かって、真っすぐ頑張れる人かな」

「スポーツやってる?」

「一つだけって言ったよね」

「今のは確認」

「追加の質問でしょ」

「同じ学校?」

「菖蒲ちゃん」

「分かった。そこから先は聞かない」

 

菖蒲はそう答えたものの、完全に諦めた顔ではなかった。千夏の横顔をしばらく見た後、座席の背もたれへ身体を預ける。

 

「でも、ちーちゃんが自分から誘うくらいなら、よっぽど好きなんだね」

「一度誘っただけだよ」

「その一度に時間がかかりそうだから言ってるの」

「菖蒲ちゃんは、すぐに動きすぎだよ」

「ちーちゃんは、考えすぎ」

「そうかもね」

「間を取ればちょうどよさそう」

「簡単に言うね」

「簡単に言わないと、また難しく考えるでしょ」

 

菖蒲は笑い、車窓へ顔を向けた。結局、相手が誰なのかは分からないままだ。それでも、千夏が自分から誘うまでに覚悟を必要としたことくらいは伝わったらしい。菖蒲はそれ以上、名前を当てようとはしなかった。最寄り駅へ着くと、二人は改札前で別れた。菖蒲はそのまま守屋家のマンションへ戻り、千夏は母の待つマンスリーマンションへ向かった。

 

部屋へ着いたのは、約束していた四時より少し前だった。玄関を開けると、廊下には畳まれた段ボール箱が並んでいた。母は台所用品を箱へ詰め、猪股家の母と電話で到着時刻を確認している。

 

「おかえり。楽しかった?」

「うん。荷物、もうかなり片付いてるね」

「家具は備え付けだから、あとは千夏の物くらいよ。大喜くんたちも、もうすぐ来てくれるって」

「おじいちゃんは?」

「今朝も自分で買い物へ行ってたわ。検査でも何も問題なかったし、もう手術前と同じ生活でいいって」

「本当に元気になったんだね」

「ええ。私がいつまでも側にいたら、かえって邪魔だって言われたくらい」

 

母は困ったように笑った。祖父は完全に回復し、生活上の制限も残っていない。母も数日後には海外へ戻るため、千夏がこの部屋で暮らし続ける理由はなくなった。

 

「千夏の服と学校の物は、そっちの箱に入れてね。練習着は明日の分だけ別にしておいた方がいいんじゃない?」

「明日も朝練だから、バッグと一緒にしておく」

「戻った翌日から練習なのね」

「休んだら大喜くんに置いていかれるから」

「大喜くんも同じことを考えてそうね」

 

千夏は買ってきた上着をハンガーから外し、衣類の箱へ入れた。間もなく玄関のチャイムが鳴り、大喜と猪股家の両親が到着すると、部屋の中は一気に慌ただしくなった。大人たちは管理会社へ返す鍵や書類を確認し、台所用品をどう持っていくか相談している。大喜は廊下に置かれた段ボール箱を一つ持ち上げ、予想より重かったのか、いったん抱え直した。

 

「ちーちゃん、これ全部教科書?」

「ノートも入ってるよ」

「箱に重いって書いておいてほしかった」

「持ててるから大丈夫でしょ」

「持てるかどうかじゃなくて、心の準備の話」

「大喜くんなら持てると思って」

「そういう信用の仕方は困る」

 

口ではそう言いながら、大喜は箱を玄関の外まで運んだ。千夏も衣類や学校用品をまとめ、母と過ごした部屋を少しずつ空にしていく。もともと短期間の生活を想定していたため、荷物は多くない。全員で手分けをすると、一時間もかからず車へ積み終えた。母が千夏の隣へ立つ。

 

「向こうへ戻っても、学校や部活のこと、ちゃんと連絡してね」

「今までもしてたよ」

「部活の話がほとんどだったけどね」

「他に何を話せばいいの?」

「今日みたいに、友達と出かけたこととか」

「分かった」

 

母はそれ以上尋ねなかった。鍵を返し、車で猪股家へ向かう。空は夕方の色へ変わり始め、住宅街にはそれぞれの家の明かりがともっていた。見慣れた猪股家の前へ着くと、大喜が先に車を降り、玄関を開ける。

 

「おかえり、千夏ちゃん」

 

猪股家の母に迎えられ、千夏は靴を脱いだ。

 

「ただいま戻りました。また、お世話になります」

「もちろんよ。荷物を運び終えたら、みんなで夕食にしましょう」

 

大人たちが今後の予定を話す中、大喜は玄関脇に積まれた箱へ手を掛けた。

 

「ちーちゃん、教科書は部屋でいい?」

「うん。扉の前に置いてくれたら、自分で片付けるよ」

「ここまで運んだんだから、上まで持ってく」

「さっき重いって言ってたでしょ」

「持ち方が分かったから、もう大丈夫」

 

大喜は箱を抱え、階段を上っていった。千夏も衣類の入った鞄を持ち、その後を追う。部屋の扉は開いていたが、大喜は中へ勝手に入らず、入り口の横へ箱を下ろした。

 

「ここでいい?」

「ありがとう。あとは自分でできるよ」

「残りも同じところに置くね」

「うん」

 

大喜はすぐに一階へ戻っていった。部屋の中は、千夏が出た日のままだった。机の上には何も置かれていないが、ベッドも棚も位置は変わっていない。長く離れていたわけではない。それでも、自分の部屋へ戻ったというより、一度止まっていた生活が再び動き始めたように感じた。

 

窓の外から大喜たちが荷物を運ぶ声が聞こえる。千夏は鞄を置き、すぐに一階へ戻った。すべての荷物を運び終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。大人たちは夕食の準備と、千夏の母が海外へ戻るまでの予定を話すため、リビングへ入っている。大喜は玄関先で、畳んだ段ボール箱を物置へ運ぼうとしていた。千夏も残っていた箱を持ち上げる。

 

「それ、私も持つよ」

「軽いから大丈夫」

「二人で持った方が早いでしょ」

「じゃあ、半分お願い」

 

二人で箱を分けて物置へ運ぶ。朝から動いていた大喜の額には汗が残っていた。千夏も玄関脇に置かれた水のボトルを取り、半分ほど飲んだ。

 

「明日、朝練行く?」

「うん。必要な物は先に出してあるから」

「じゃあ、また一緒に行けるね」

「そうだね」

「ちーちゃんが別のところにいる間、家を出る時間が毎日ずれてたんだよね」

「私がいなくても、大喜くんの朝練の時間は同じでしょ」

「同じなんだけど、ぎりぎりまでストレッチしてたら、母さんに何回か急かされた」

「私がいる時も急かされてたよ」

「ちーちゃんが先に玄関にいるから、そこで気づけたんだよ」

 

大喜は困ったように笑った。千夏は、自分が先に靴を履き、大喜が下りてくるのを待っていた朝を思い出す。特別なことではなく、毎日繰り返していた時間だった。

 

千夏はボトルの蓋を閉めた。花恋のように、怖さを抱えたまま一度に大きく進むことは、まだできない。菖蒲のように、気になった瞬間から相手へ向かうこともできない。それでも文化祭では、大喜を自分から誘った。今なら、もう一つくらい聞いてもいいかもしれない。

 

「大喜くん」

「何?」

「私がいない間、寂しかった?」

 

大喜は手に持っていた空箱へ目を落とした。冗談だと思ったのか、千夏の顔を確かめるように見返す。千夏は笑ってごまかさず、その場で答えを待った。

 

「寂しかったっていうか……最初は、家が静かだなと思った」

「大喜くんとご両親はいたのに?」

「人数の話じゃないよ。朝に一緒に出る人がいなくなったり、帰っても部活の話をする相手がいなかったりして、何か変な感じだった」

「学校では会ってたでしょ」

「会ってたけど、家で会うのとは違うから」

 

大喜は、自分の答えを整理するように物置の方へ目を向けた。

 

「そのうち慣れると思ってたんだけど、結局ずっと変だった。ちーちゃんがここにいるの、もう普通になってたんだと思う」

「普通?」

「うん。だから戻ってくるって聞いて、よかったと思ったよ。また朝練も一緒に行けるし」

 

大喜は、それ以上の意味を持たせず自然に答えた。恋愛としての言葉ではない。それでも、千夏が猪股家で過ごした時間は、大喜にとっても一時的な出来事ではなくなっていた。いなくなれば違和感を覚えるほど、生活の中へ入り込んでいた。

 

「そっか」

「何で聞いたの?」

「私も、お母さんと暮らせたのはうれしかったけど、ここにいない間は変な感じがしたから」

「じゃあ、同じだね」

「うん。たぶん」

 

大喜はその答えに頷き、残っていた箱を持ち直した。

 

「明日、何時に出る?」

「いつもどおりでいいよ」

「分かった。寝坊したら声掛けて」

「大喜くんが?」

「ちーちゃんが」

「自分で起きてよ」

「念のため」

「今日戻ったばかりなのに、もう頼るつもりなんだ」

「だって、普通に戻ったんでしょ」

 

大喜はそう言って、家の中へ向かった。生活の形は以前と同じでも、千夏の中にあるものは、以前とまったく同じではなかった。菖蒲のような速さでは進めない。それでも、立ち止まったままでもない。千夏は空になったボトルを持ち、大喜の後を追って家へ入った。

 

夕食の後、部屋へ戻った千夏は、途中まで片付けた荷物の前へ座った。制服や練習着は棚へ収まり、机の上には教科書が並んでいる。残っているのは、小物が入った箱と、母から預かった書類くらいだった。スマートフォンを開き、花恋へ短いメッセージを送る。

 

『猪股家に戻ったよ。大喜くんに、私がいるのがもう普通になってたって言われた』

 

返信はすぐに届いた。

 

『よかったね。明日の朝、二人とも寝坊しないように』

 

千夏はその文面を読み、笑った。花恋は、大喜の言葉の意味を決めつけなかった。告白するべきだとも、もっと踏み込むべきだとも言わない。ただ、明日から戻る日常をそのまま受け取っている。

 

千夏は『大喜くんには自分で起きてもらう』と返し、スマートフォンを机へ置いた。階下から、大喜が母親に明日の朝食について聞いている声がする。続いて、寝坊しないよう早く寝ろと注意されていた。千夏は残っていた箱を開き、明日の朝に必要な物から片付け始めた。

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