紫苑と明音が登場しますが、他のお話とはつながっていません。
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息を弾ませながら栞が辿り着くと、明音と紫苑が待っているはずの教室はしんと静まりかえっていた。
憂鬱極まる高校受験の気配がひたひたと忍び寄ってくる秋、三年生の帰宅は早い。だからだろう、長い廊下にも人影はまばらだった。
「ごめん、遅くなった…」
けれども、そんな栞の言葉は途中で止まってしまった。
栞ががらっと教室のドアを開けると、そこにはたしかに明音と紫苑がいた。ただ、ふたりは向かい合って立ち、目を閉じたまま互いの手を握り合っていたのだ。
「!」
ドアが開いたとたんぱっとふたりの指がほどけて。跳ねるように後ずさった拍子にまわりの机がガタガタ押しのけられて。静かだった教室は急に騒がしくなる。
そして怪訝そうな栞の瞳。
「なにやってるの?」
「えっと、ね」
元気が取り柄の明音がめずらしく言葉に詰まる。続いて紫苑に目線を向けると、やっぱり紫苑もぎゅうっと口を噤む。
「あつーく手を握りあっているように見えたのだけど。いや、べつにいいんだけどね」
スカートを揺らしながら栞がふたりに近づくと、いよいよ明音の目線は泳ぎまわる。そして首を傾げながら栞が椅子に座っても、やはりふたりは立ったまま。けれどもなんどか躊躇ったあとにようやく明音は叫ぶように言った。
「ウエディングドレス!」
「?」
今度は栞が面食らう番だった。
いきなり「ウエディングドレス」と言われても、だからどうしたの?としか言いようがない。純白なのか、それともオフホワイトなのか、そんなことよりまえになぜドレス。
そういう栞の戸惑いが伝わったのだろう。今度は紫苑があたふたと説明をはじめた。
「ええとね、明音の家の近くにあるホテル。そこのショーウインドウに、素敵なウエディングドレスが飾ってあったの」
聞けば栞を待つ間、ふたりでそのドレスの話題に花を咲かせていたら、思ったより盛り上がってしまったのだと。
そうしてなにを思ったのか、ふたりで結婚式の真似事をしてしまったのだという。
ただ、そのことを黙って聞いていた栞はガタンと椅子をならして立ち上がった。
「じゃあ、やっちゃおうよ」
「え?」
「は?」
こんどはふたりが面食らう番だった。
「そうよ。結婚式、やっちゃおうよ。高校にあがっても絆が続くようにさ!」
キラキラと目を輝かせる栞の声と握ったこぶしに妙に力が入っている。
--それがちょうど、1週間前のことだった。
今日もやっぱり教室は静かだった。
残っているのは明音と紫苑、そして栞の3人だけ。あとは下校する子達や部活の騒がしさがはるか向こうから聞こえてくるだけ。
「それで、ちゃんと持ってきたの?」
栞に言われて、明音は「じゃーん」と自慢げな効果音付きで鞄からふたつの箱を出した。
ベルベット調の小箱がふたつ。蓋を開けると、小さな宝石が星のように輝くお揃いの銀指輪。
「へえ、上品でいいじゃない」
「大変だったんだよ。同じのふたつほしくて、ずいぶん探し回ったんだから」
「結局、何ヶ所まわったの?」
「あはは、行けるところはだいたい」
そう言う明音はカラカラ笑っていたけれど、それなりの苦労は滲んでいた。
結婚式のペアリングならジュエリーショップだ!と張り切ったのは最初だけ。
もちろんブランド専門店に突撃なんてさすがにしなかったけれど、ショッピングモールや商店街のお洒落なお店に背伸びして踏み入れたふたりは目を丸くした。
キラキラ眩い宝石はたしかに魅力的だけど、値札を見てはため息の山。
そしてやっぱり巷に溢れるペアリングはどうしても男女セットの組み合わせ。全く同じものがふたつ、じゃない。でも今回欲しいのはふたりのためのペアリング。
「で、結局いつものあそこにいったわけね」
「しかもこれまた、紫苑が選んだのは予算ギリギリ」
「だってこれ、これがいちばん輝いてたから。わたし、どうしても」
引っ込み思案の紫苑がそういうくらいだからよほど気に入ったのだろう。
ただ、箱までは手持ちが足りなかった。で、諦めて紙袋に入れてもらおうとしたときに店員さんが「わたしからの贈り物です」と箱をプレゼントしてくれたのだそう。
「閉店間際まで散々迷って、箱までもらっちゃった」
「お姉さんが『おふたりに』って、ね」
雑貨屋の名前が入った紙袋を畳みながら、紫苑も嬉しそうに頷く。
あとは、白いレースのハンカチが2枚と分厚い本。そして3人の覚悟。これが今日のために用意した全てだった。
「じゃあ、そろそろはじめよっか」
栞がそう宣言した途端、あたりの空気がすうっと静まった。
いつもの教室のはずなのに、さっきまで耳に入っていた吹奏楽部の練習曲も、運動部のかけ声も、どこかで走り回る足音も、全てがまるで遠くの出来事のようにゆらゆらとぼやけていく。
代わりに現れたのは本を携えてすました顔の栞。そして、ブレザーを脱いで頭にハンカチヴェールを載せた明音と紫苑。
ふたりの花嫁は神妙な顔をしていた。成り行きとはいえこれはまがりなりにも結婚式。そして実は、ふたりにとってただの遊びと言い切れない。
紫音と並んで立つ明音は、紫苑の様子を横目でうかがうと息を呑んだ。
頭にヴェールをのせた紫音は普段のおとなしい雰囲気も相まってまさに花嫁。そうはいっても薄化粧すらままならない中学生の身なのだから明音と大差ないはずなのだけど、それでも普段よりずっと大人びて見えた。
対して紫苑もちらりとこちらを見遣ると、頬をそっと赤らめる。
明音。貴女はここにいる紫苑を、病めるときも、健やかなるときも・・・
よく耳にする言葉を、栞は静かにふたりに問いかける。
ちゃんと暗記してきたんだ。という明音の感心をよそに、澱みなく問いかけの言葉は終わる。今度は明音と紫苑が誓いを示す番だ。
「誓います・・・」
意外とあっさり言えた。
もっと重いものかと思っていた。いや、実感がわかないまま、ふわふわと続けてしまったというのが本当のところ。
これは上手くいかない試験の感覚に似ているかもしれない。問題に流されるままに時間ばかりが過ぎていくあの感覚。ただ違うのは栞が、そして紫苑がいるということ。
そしてなにより、紫苑と大切な契りを結ぶということ。
紫苑が白い指を差し出してくる。
そんなありふれた仕草にもなぜかどきどきしている。背中には冷や汗。でもそれすらも心地よい。
これで紫苑と一緒に進むんだ。そう思うだけでこんなにも気持ちが明るくなる。いまなら何でも乗り越えられるようにすら思えてくる。だからその証である指輪を嵌めることにも何のためらいもない。
むしろ、紫苑と二人で選んだ指輪を互いに交わすことが嬉しくてたまらない。
ただ、ここで急に冷や水をかけられた。我に返ったと言っても良い。
「では、誓いの口付けを」
相変わらず栞はすました顔のまま。立会人の役を完璧に演じている。
(これは本当の結婚式ではないんだ)
他方、はじまる前まで明音はどこかでそう思っていた。軽く考えていた、といってもいい。けれどもいよいよクライマックスを迎えて胸が高鳴る。どうしようもなく激しく暴れて頬が上気し、身体が震える。
同時に、いままで感じていなかったこの儀式に対する疑問。
果たして自分に覚悟はあるのだろうか。
果たしてこの誓いを守れるのだろうか。
いや、そもそもこの誓いはいったいなんのために。
ゆらりと湧いた迷いが次の迷いを呼び、不安や焦りに重なって昂る気持ちとともに頭の中をかき乱していく。
(これ以上は、やめておいたほうが・・・)
けれどもそんな明音に、そっと紫苑が触れてきた。
ヴェールの陰で紫苑も瞳が揺れている。指が震えている。でも、だから紫苑は明音に触れてきた。明音と一緒に前に進むために。
その途端、明音に紫苑の体温がすっと混ざってきた。呼吸が落ち着きを取り戻し、ぐしゃぐしゃだった思考がひとつのまとまりを成していく。
そうだ。これはお互いが愛で結ばれることを誓う儀式。
だったらわたしは紫苑が好き。ずっと一緒にいたい。いまこの時に、それ以上の理由が要るのだろうか。
紫苑は明音のヴェールをめくると、顔をほころばせて目を閉じた。
ずるい。これじゃあわたしからしなきゃいけない。でも悪い気はしない。
紫苑が明音の背中に右手を回すと、明音は紫苑の左の手を探って指を絡める。そこにははっきりとさっき交わした指輪がある。
ああ、夢じゃないんだ。そんな思いと共に、まるで引き寄せられるようにそっと唇を触れさせた。
紫苑も吐息を漏らしながら首を傾けてさらに身体を寄せ、ふたりは唇だけでなく身体までしっかりと重なっていく。
柔らかな身体と、その奥で激しく跳ねる鼓動をブラウス越しに感じながら、この時間がずっと続いたらどんなに幸せだろう、と。そんな衝動のままに、息が詰まるのもかまわずに唇を重ね続ける。
そうして、これが愛するってことなのかな。そう思った瞬間、栞が鼻を啜る音が微かに聞こえたような気がした。
「・・・さて、そろそろいいかしら」
栞の声にふたりははっと現実に戻された。
いったいどのくらいの間、口づけを交わしていたのだろう。ただ、唇は離れたものの、明音と紫苑はぎゅっと手を握り合ったままだった。
「よかったじゃん。ふたりともお似合いだよ」
栞は厳かに抱えていた分厚い本・・・じつはただの英和辞典を机に置く。それが合図だったのだろう。栞はすました顔を脱ぎ捨てて普段の彼女に戻るとふたりの首に手を回し、ぎゅうっと引き寄せた。
「まったく妬けちゃうぞ。でも、わたしとも遊んでよね」
「もちろんだよ!」
笑い声と一緒に、3人の瞳から涙があふれる。
傾いた陽を浴びてきらきらと零れるその白露は、どんな宝石よりも美しく輝いたのだった。