そこは、音もなければ、温もりもない世界。天と地が逆転し、捻くれた重力が支配する、世界の裏側――反転世界。
私はずっと、そこにいた。どれほどの時間を、たった一人で過ごしてきたのだろう。現実世界の人間たちが「ギラティナ」と呼び、恐れ、あるいは忘れ去った影の存在……それが私だった。
現実世界が汚されれば、この世界に黒い霧となって歪みが現れる。私はただ、その歪みを直すためだけに存在する、孤独な歯車だった。寂しいという感情すら、最初は知らなかった。
けれど、現実世界の生き物たちが、楽しそうに寄り添い、笑い合っている姿を歪みの隙間から覗き見るたび、私の胸の奥には、どす黒く冷たい「何か」が澱のように溜まっていった。
(どうして、私はあの中にいられないの?)
(どうして、誰も私を見てくれないの?)
そんなある日、世界の歪みを直していた私の目に、ひと筋の強烈な「光」が飛び込んできた。それは、現実世界のフタバタウンという小さな街の、とある一軒家の庭だった。まだ幼い、青い髪の女の子が、一生懸命にポッチャマのぬいぐるみを抱えて走っている。
『見てママ! 私、大きくなったらママみたいなトップコーディネーターになるの!』
女の子――ヒカリの瞳は、まるで見たこともないほど澄んだ宝石のように輝いていた。その純粋な、未来を一点の曇りもなく信じるエネルギーが、次元の壁を突き破って、暗黒の反転世界を照らしたのだ。
凍りついていた私の心が……ドクン、と大きく跳ねた。
眩しい。なんて、温かいのだろう。気づけば私は、異形の姿のまま、境界の壁に顔を押し付けていた。もっと見たい。もっと触れたい。あの光を、私だけのものにしたい。いや、あの光の傍にいられるなら、私はなんだっていい。
私は自分の強大すぎる力を限界まで抑え込み、現実世界に適応できる「人間の女の子」の姿を創り上げた。淡いクリーム色の髪、黄金の瞳。ヒカリより少しだけ小さな、守ってあげたくなるような子供の姿。
境界を越え、私はフタバタウンの森の奥へと足を踏み入れた。初めて歩く現実世界の地面は柔らかく、空気は甘かった。そして、導かれるようにして、私はヒカリの前に姿を現した。
「……あ、あれ? 誰、かな……?」
森の木陰で、迷子になって泣きそうになっていた幼いヒカリが、私を見て涙を引っ込める。私は、震える声で、必死に作り笑いを浮かべた。
「……ティナ。私の名前、ティナ。君は……?」
「私、ヒカリ! ねぇ、ティナはどこから来たの? お洋服、すっごく可愛い!」
ヒカリは警戒するどころか、満面の笑みで私の小さな手を握りしめてくれた。その瞬間に伝わってきた温もりに、私の頭の芯がジィンと痺れた。
決めた。この子は、私のもの。この光を濁すものは、世界のどこにいる誰であろうと、私が絶対に許さない。その後、私を見つけて血相を変えて駆けつけてきたヒカリの母親――アヤコは、元トップコーディネーターとしての直感か、あるいは母親としての勘か、私の正体が「人間ではない、恐るべきもの」だと瞬時に見抜いた。
けれど、アヤコは私を排除しなかった。怯えることもなく、私を抱きしめるヒカリの姿を見て、ただ静かに溜息をついたのだ。
『……あなた、ヒカリを傷つけるつもりはないのね?』
『ない。絶対に、ない。私は、ヒカリの光を守るためにここにいるの』
人間の姿のまま、私の黄金の瞳がギラリと怪しく光ったのを、アヤコは確かに見たはずだ。それでも彼女は『なら、よろしくね。ティナちゃん』と言って、私を家族として、ヒカリの「目に見えないパートナー」として受け入れてくれたのだった。
それから、数年の月日が流れた。
私は普段、頼りなげで、いつもヒカリの後ろをついて歩く大人しい少女として過ごしていた。ヒカリが私を「大切な友達」として扱ってくれるのが、たまらなく愛おしかった。そして今日、ヒカリは10歳になり、ポケモントレーナーとして旅立つ日を迎えた。
「大丈夫、大丈夫!……うん、バッチリ!」
鏡の前で、ヒカリがいつもの決め台詞を口にする。お馴染みのピンクのミニスカートに、白い帽子。その輝きは、あの頃から少しも衰えていない。
「ねえ、ティナ! どうかな? 似合ってる?」
振り返ったヒカリが、私に笑いかける。私は胸元に贅沢なフリルがあしらわれたクリーム色のブラウスの裾をきゅっと握りしめ、少し頬を赤らめて俯いた。
「……うん。ヒカリ、世界で一番可愛いよ。すごく似合ってる」
「えへへ、ありがと! あ、そうだ、ティナ。旅立ちのお祝いに、これあげる!」
ヒカリが差し出したのは、鮮やかな黄色いリボンだった。
「ティナの髪、すっごく綺麗だから、黄色が映えると思って! つけてあげるね」
ヒカリの細い指先が、私の頭頂部に触れる。それだけで、背筋に甘い電流が走るようだった。大きなリボンが結ばれ、さらに右のサイドには小さなリボン型のヘアピンが留められる。
「できた! うん、ティナもバッチリ! これで私たちが、ずーっと一緒のパートナーだって証拠ね!」
「……うん。一緒。ずーっと、一緒……何があっても、ね」
私はリボンに触れながら、愛おしさに胸を掻きむしりたくなっていた。ああ、ヒカリ。君は本当に罪深い。そんな風に私を縛り付けたら、もう一生、ここから逃げられないのに。
私たちはアヤコさんに見送られ、フタバタウンの自宅を出た。ナナカマド博士の研究所がある、隣のマサゴタウンを目指して、緑豊かな道を歩く。
「まずは博士のところに行って、最初のポケモンを貰うんだよね! どんな子にしようかなぁ……ポッチャマもいいし、ナエトルも、ヒコザルも捨てがたいなぁ!」
カバンを揺らしながら、楽しそうに歩くヒカリ。私はその一歩後ろを、静かについていく。
(ポケモンなんて、私がいるんだから必要ないのに……)
心の奥底で、どす黒い嫉妬が鎌首をもたげる。ヒカリが自分以外の「ポケモン」に愛情を注ぐところなんて、想像するだけで胸が引き裂かれそうだ。けれど、ヒカリが「トレーナーになりたい」と言うなら、私はその夢を全力で叶えてあげたい。ヒカリの笑顔のためなら、どんな我慢だってできる。
その時だった。草むらの奥から、ガサガサと不穏な音が響いた。
「キャッ!?」
飛び出してきたのは、狂暴化した野生のリングマだった。大きく鋭い爪を振り上げ、ヒカリに向かって咆哮をあげる。
「な、なんでこんなところにリングマが……!?」
ヒカリが恐怖に顔を引きつらせ、後ろへよろめく。その瞬間、私の頭の中で、何かがパチンと弾けた。
――わたしのヒカリに、恐怖を与えた。
――わたしのヒカリを、傷つけようとした。
「……消えなさい」
ぽつりと、私の口から冷酷な呟きが漏れた。普段の自信なさげな少女の気配は、一瞬で霧散する。私の周囲の空気が、凍りつくように重く、禍々しく変貌していった。
「え……? ティナ……?」
ヒカリが驚いて私を見る。私はヒカリを背中に隠すようにして、一歩前へ出た。前髪の奥にある黄金の瞳が、爛々と狂気の光を放っている。
「ヒカリの敵は……わたしが、一匹残らず噛み殺してあげる」
ブワッ、と私の身体から漆黒のシャドーオーラが噴き出した。人間の少女の肉体が、影へと溶けていく。
次の瞬間、空間が大きく歪み、そこには現実世界の誰も見たことがない、異形にして絶対的な神の姿が現れた。大きな黒い翼のような触手をなびかせ、金色の装飾を輝かせる、ギラティナ。
「グルルルルル……ッ!!」
地響きのような咆哮一閃。それだけで、先ほどまで狂暴だったリングマは、完全に生命の危機を察知して恐怖に身を震わせた。戦うどころではない。リングマは文字通り脱兎のごとく、背を向けて森の奥へと逃げ惑っていった。
『ふふ、あははは! 逃げても無駄だよぉ……?』
私はトドメを刺すべく、触手を伸ばそうとした。ヒカリを脅かした罪は、その命で購わせる。それが私のルールだ。
「ティ、ティナ……! もう大丈夫だから! 落ち着いて……!」
後ろから、震える、けれど愛しい声が響いた。ヒカリが、私の大きな影の身体に、恐れることなく縋りついてきたのだ。
「……っ」
その温もりで、私の暴走しかけた意識が急速に冷えていく。いけない……ヒカリを怖がらせてしまったら元も子もない。
私はすぐに力を収束させ、再び小さな人間の姿へと戻った。頭には、ヒカリがくれた黄色いリボンが、少しも乱れずに留まっている。
「……ごめんね、ヒカリ。びっくりさせちゃった?」
さっきまでの狂気が嘘のように、私はまた、いつもの「自信なさげなティナ」に戻ってヒカリの顔を覗き込んだ。
「う、うん……ちょっとびっくりしたけど、守ってくれてありがとう、ティナ」
ヒカリはホッとしたように微笑み、私の手をぎゅっと握ってくれた。
「ティナはやっぱり、私の最高のパートナーだね!」
「うん。わたし、ヒカリのためなら、なんだってするよ」
握り返す手に、じわりと力を込める。マサゴタウンの研究所は、もう目の前だ。これから始まる旅の途中で、ヒカリに近づく人間やポケモンがきっとたくさん現れるだろう。
(誰も、ヒカリに触らせない。ヒカリの視線は、私だけのもの)
フタバタウンから始まる私たちの旅。その光溢れる世界の裏側で、私は静かに、けれど狂おしいほどの愛の罠を、ヒカリの周りに張り巡らせていくのだった。