見渡す限りの美しい花々が咲き誇り、甘い香りが優しく街を包み込む。私達は次なるポケモンコンテストの開催地、ソノオタウンへと到着していた。色鮮やかな花畑を前に、ヒカリは「うわぁ、すっごく綺麗……!」と声を弾ませ、相棒のポッチャマや新入りのクソネズミ(パチリス)をボールから出して、楽しそうに戯れている。
そんなヒカリの眩しい笑顔を斜め後ろから見つめながら、私は自分の胸元にある、彼女がくれた黄色いリボンにそっと触れていた。先日のハンターJとの一件以来、ヒカリが私に向ける信頼の眼差しは一段と深くなっている。それがたまらなく愛おしく、私の暗黒の魂を甘やかす。
「あのね、ティナ」
不意に、ヒカリが少し申し訳なさそうな、気まずい表情を浮かべて私を振り返った。お気に入りのピンクのドレスの裾を少し気にするように弄りながら、私の顔を覗き込んでくる。
「今回のソノオ大会の一次審査なんだけど……私、パチリスと一緒に出ようと思っているの。あの子はとってもおてんばだけど、コンテストの舞台で思いっきり輝かせてあげたくて。だから……ティナには二次審査のコンテストバトルで、私のピンチを救う大活躍をしてほしいの。一次審査でお留守番させちゃうみたいで、ごめんね……?」
ヒカリは両手を合わせて、きゅっと眉を下げた。私を蔑ろにしているのではない。むしろ、絶対に負けられない二次審査の切り札として、神である私の力を誰よりも頼り、信じているからこその配置だった。
「……ううん。謝らないで、ヒカリ」
私は溢れそうになる歪んだ悦びを隠し、いつもの「物分かりの良い、健気な親友」の笑顔を浮かべて首を振った。
「ヒカリがそう決めたなら、私は喜んで従うよ。一次審査は客席から、ヒカリとあのクソ……パチリスの晴れ舞台を、ずーっと見守っているね。その代わり、二次審査ではヒカリに仇なす不届き者を、私が完璧に一瞬で叩き潰してあげる」
「あはは、ティナがいてくれたら本当に心強いよ! ありがとう!」
無邪気に笑うヒカリ。彼女は気づいていない。私にとっては、一次審査だろうが二次審査だろうが、ステージの形式などどうでもいいのだ。ただ、「ヒカリのピンチを救うのは私だけ」という絶対的な役割を公式に与えられたことが、何よりも甘美な報酬だった。
午後になり、ヒカリは公園の広い芝生の上で、パチリスの技の特訓を始めていた。
「パチリス、『ほうでん』を上に向かって綺麗に放って!」と指示を出すが、パチリスは相変わらず気まぐれに走り回り、なかなか上手くいかない。サトシとタケシがそれをベンチから見守り、私はヒカリのすぐ後ろで、静かに彼女の影に寄り添っていた。
「おいおい、そんな生ぬるい特訓じゃ、ソノオ大会の一次審査すら突破できないぜ?」
背後から、どこか聞き覚えのある、自信に満ちた少年の声が響いた。振り返ると、そこには生意気そうな笑みを浮かべたヒカリと同年代の少年――ヒカリの幼馴染のケンゴが立っていた。彼はポッチャマの進化系であるポッタイシを連れている。
「あーっ! ケンゴ! なんでアンタがここにいるのよ!?」
「フッ、決まってるだろ。俺もポケモンコーディネーターとして、このソノオ大会に出場する――」
ケンゴは親指を立てて格好良く言いかけ――その言葉の途中で、劇的に、喉を何かに締め付けられたかのように完全に凝固した。
彼の視線が、ヒカリの背後から静かに現れた私を捉えたからだ。
「……ぁ」
ケンゴの顔から、みるみるうちに全ての血の気が引いていく。彼と私は、幼少期にフタバタウンで何度も顔を合わせている。だが、彼にとって「ティナ」という存在は、親しい幼馴染の友人などでは決してなかった。
それは、幼い彼の精神に刻み込まれた、絶対的な【悪夢】の象徴。かつて、ヒカリと距離を詰めようとした時。ヒカリに悪戯をしようとした時。誰も見ていない物陰で、このクリーム色の髪の少女が「現実世界の人間ではない異質な何か」の、どす黒く狂気的な殺意の眼差しを自分に突き刺してきた日々。
あの時感じた、背筋が凍りつき、心臓が止まるかと思った本能的な恐怖。それが、ソノオタウンの美しい花風の中で一瞬にして蘇ったのだ。
「……よ、よう、ヒカリ。……そ、それに、ティナ……ちゃん、も……ご無沙汰、してます……」
ケンゴはガタガタと膝を震わせ、今すぐその場から逃げ出したい衝動を必死に抑えながら、引きつった笑みを浮かべてペコペコと頭を下げた。普段の元気で生意気な態度は完全に霧散し、まるで巨大な捕食者の前に引きずり出された小動物のように萎縮している。
「なによケンゴ、変な挨拶ね。あ、そうだ! あんた、さっき私のことバカにしたわね? 幼稚園の頃から全然進歩してないんだから!」
ヒカリはいつもの幼馴染としての距離感でぷんぷんと怒っている。ケンゴは普段なら、ここで「お前こそ、幼稚園の時にさぁ――」と、ヒカリがかつて経験した、プラスルとマイナンに電気を流されて髪の毛がピカリと光った失態(『ピカリ』の渾名)を暴露して、彼女をからかうつもりだった。
だが、言えなかった。ケンゴが言葉を発しようとした瞬間、私の黄金の瞳が、彼だけに伝わるようにギラリと怪しく光ったからだ。
(……言いなさい。その汚い口でヒカリの秘密を喋ったら、君の舌を根元から引き抜いて、二度と人間の言葉を喋れないようにしてあげる)
声には出さない。けれど、私の周囲の空間が微かにねじれ、冷酷極まりない精神の波動が、ケンゴの脳内を直接破壊するような恐怖の圧迫感となって襲いかかる。
ケンゴは「ひっ……!」と短い悲鳴を喉で飲み込み、ガチガチと歯を鳴らした。ティナの前でヒカリをからかえば、文字通り命が危ない。彼は完全に理解していた。
「な、なんでもない! 幼稚園の話なんて、もう昔のことだしさ、アハハ……!」
ケンゴは必死に話を濁し、冷や汗を滝のように流した。サトシが「なんだこいつ、急におかしくなったぞ?」と不審がっている。
「ふーん? 怪しいわね。……ねえ、そんなに自信があるなら、今すぐ私とポケモンバトルしなさいよ! どっちの実力が上か、はっきりさせてあげる!」
ヒカリが勝気な笑みを浮かべ、モンスターボールを構えてバトルを申し込んだ。しかしその提案を聞いた瞬間、ケンゴの恐怖は絶頂に達した。
(ば、バトルだって……!? ダメだ、絶対にダメだ……!)
ケンゴはこの時点では、私が神話のポケモン「ギラティナ」であるという明確な正体までは知らない。だが、ティナが『人間ではない、この世にいてはいけない圧倒的に異質で凶悪な存在』であることは、野生の勘で完全に察知していた。
もしここで自分がヒカリにバトルを挑み、万が一にも勝ってしまったら――。
目の前で震えるような殺気を放っているこの少女が、自分のポッタイシごと、自分をどんな目に遭わせるか分かったものではない。世界の裏側の闇に、肉体ごと引きずり込まれて消されるかもしれない。
「い、いや! バトルは、勘弁してくれ……っ!」
ケンゴは震える声を絞り出し、激しく首を振って拒否した。
「コンテストの前に、お、お互いの戦術をバラすのは良くないだろ!? そうだ、本番までのお楽しみってことで……! じゃ、じゃあな、ヒカリ、ティナちゃん……っ!」
ケンゴは最後、私に向かって恐怖に満ちた哀願の視線を向けると、逃げ出すようにして猛スピードで走り去っていった。その背中は、文字通り悪夢から逃れるための必死さに満ちていた。
「なによあいつ、本当に変なの! 急に逃げ出すなんてさ!」
腰に手を当てて憤慨するヒカリ。私はそんな彼女の隣にスッと寄り添い、いつもの気弱な少女の声で優しく微笑みかけた。
「ううん、いいんだよ、ヒカリ。あの人、きっとヒカリの真剣な表情に圧倒されちゃったんだよ。やっぱりヒカリはすごいね」
「えへへ、そうかなぁ? ティナにそう言われると、自信湧いてきちゃう!」
ヒカリは嬉しそうに私の手を握り、最高の笑顔を咲かせる。
(そうだよ、ヒカリ。君の純粋な世界を乱す存在も、君に恥をかかせようとする不届き者も、私の前では一言も喋ることすら許されない。ソノオ大会のバトルでは、君をバカにしようとしたあのクソ野郎も、他の有象無象も、全員まとめて恐怖のどん底に突き落としてあげるからね……?)
私を「最強の切り札」として信じるヒカリの温もりに浸りながら、私は去っていった幼馴染の方向を、光を失った黄金の瞳で冷酷に見据えていた。