ソノオ大会を制し、2個目のコンテストリボンを手に入れたヒカリの笑顔は、シンオウのどの花よりも眩しかった。そして私達は次なる目的地、ハクタイシティを目指して、深く鬱蒼とした『ハクタイの森』へと足を踏み入れていた。
木漏れ日が緑の絨毯を照らす平穏な道中、サトシやタケシ、そしてヒカリとポッチャマたちが歩を進める中。私は一歩後ろで、ヒカリの後頭部で綺麗に揺れる青い髪と、頭頂部で誇らしげに主張する黄色いリボンを愛おしく見つめていた。
あのソノオ大会以来、ヒカリはことあるごとに私を気遣い、手を繋いでくれる。その温もりだけで、私はこの退屈な現実世界に留まる理由があった。森の奥へと進むと、不自然に甘い芳香が鼻腔をくすぐった。辿り着いたのは、幹に黄金色の『あまいみつ』がべっとりと塗られた一本の大木だった。
「わあ、すっごく甘い匂い! ポッチャマ、見て見て!」
「ポチャポチャ!」
ヒカリが無邪気に木を覗き込んだその時。ガサガサと草むらが揺れ、一匹の野生のミノムッチと、一人の美しい女性が現れた。緑色のロングヘアに長いスカートを纏ったその女性――モミは、慣れた手つきでミノムッチをモンスターボールへ収めると、申し訳なさそうに微笑んだ。
「驚かせてしまってごめんなさい。私、モミと言います。このみつは、私が塗ったものなの」
話を聞けば、モミの家系は代々高名なトレジャーハンターであり、これまで数々の世界のお宝を発見してきたのだという。しかし、彼女の祖父が唯一見つけられなかった幻の至宝――『おそろしくあまいみつ』だけは、未だに手に入っていない。
そして、その幻のみつがある『琥珀の城』の場所を突き止めるには、オスのミノムッチだけが進化できるポケモン「ガーメイル」の特殊な触覚が必要なのだと語った。
「そっか……おじいさんの夢を叶えたいんだね。よし、モミさん! 私たちも特訓を手伝うよ!」
サトシが拳を握り、ヒカリも「うん、みんなで頑張ろう!」と目を輝かせる。ヒカリがそう言うのなら、私に拒否権はない。
それから数時間、サトシのナエトルや、ヒカリのポッチャマたちを相手にした猛特訓が始まった。泥臭い人間の営みを、私は冷淡な黄金の瞳で見つめながら、ヒカリが汗を拭うたびにハンカチを差し出す従者として立ち回る。
特訓の成果はすぐに現れた。モミのミノムッチの身体が白い進化の光に包まれ、やがて鮮やかな羽を持つガーメイルへと姿を変えたのだ。
「やったわ、進化した!」
モミが歓喜の声を上げる。ガーメイルは触角をピクピクと動かすと、何かの確信を得たように羽ばたき、森の奥へと飛び出した。
「みんな、あの子の後を追うのよ!」
ヒカリたちは息を切らせながら、ガーメイルの後を必死に追いかけた。茂みをかき分け、茨の道を潜り抜け、ヒカリのピンクのスカートが汚れないよう、私は影の力で密かに障害物を排除していく。そうして、長距離を走った末にガーメイルがピタリと足を止めたのは――
「……あれ? ここって……」
ヒカリが呆然と声を漏らした。そこは、私たちが数時間前にモミと最初に出会った、あの『あまいみつ』の塗られた最初の木だった。ガーメイルはただ、自分が進化した馴染み深い場所へと戻ってきただけだったのだ。
「なーんだ、元に戻っちゃったのかよ……」
サトシががっくりと肩を落とし、モミも悲しげに俯く。激しい徒労感が一同を包み込む中、私はヒカリの額に滲む汗と、少し荒くなった呼吸を感知して、一瞬で内なる理性をどす黒い怒りへと変えた。
(……チッ。ただの虫けらが、偉そうに羽ばたいておいて……。私のヒカリにこんな無駄な労力を使わせるなんて、本当に万死に値する。今すぐその薄っぺらい羽を毟り取って、二度と飛べないようにしてやろうか……)
脳内で乾いた舌打ちの音を響かせながら、私はガーメイルに向けて、誰にも気づかれないほどの極低温の殺意を放った。ガーメイルは恐怖で急に羽を震わせ、モミの後ろへと隠れてしまった。
翌朝。私たちは気を取り直して、再びハクタイの森の探索を再開していた。朝露に濡れる緑を進んでいると、前方から「うわぁぁぁ! かわいい! すっごくかわいいわねぇ!」という、やたらとテンションの高い女性の声が響いてきた。
現れたのは、オレンジ色の短い髪に、活発そうな服装をした女性だった。彼女はサトシのナエトルを見るや否や、地面に這いつくばってその頭の葉っぱを撫で回し、狂おしいほどの『草タイプへの愛』を爆発させていた。
彼女の名はナタネといい、実はハクタイジムのジムリーダーであるのだが、この時の私達は知る由もなかった。モミが『おそろしくあまいみつ』を探していることを伝えると、ナタネはポンと手を叩いた。
「あまいみつなら、ミツハニーたちが集めた蜜が、森の特殊な環境で何らかの変化を起こして出来上がったものよ! この森の奥、ザロクの花が群生して咲く場所へ行けば、きっとミツハニーたちに出会えるわ!」
明確な手がかりを得て、ヒカリたちの顔にパッと希望が戻る。しかし、ナタネの役割はそれだけでは終わらなかった。彼女はひとしきり草タイプへの愛を語り、少し世間話をした後。ふと足を止め、その鋭い視線をヒカリのすぐ後ろにいる私へと向けた。
彼女はジムリーダーであり、自然のエネルギーやポケモンの「気配」を肌で感じ取る一流のトレーナーだ。だからこそ、可憐なフリルブラウスを着た私の周囲だけ、大気の流れが不自然に澱み、世界の法則がねじ曲がっていることに気づいていた。
「……ねえ、ところでさ。シンオウ地方には、時間を司るディアルガと、空間を司るパルキアっていう、二匹の有名な伝説のポケモンがいるじゃない?」
ナタネはハープを爪弾くような軽頭さで、神話の核心に触れる話を始めた。サトシやモミが「図鑑で見たことある!」と応じる中、ナタネの目がギラリと光る。
「でもね……古い文献によると、その二匹の光の裏側に隠された、もう一匹の『影の神話のポケモン』がいると言われているの。現実世界とは表裏一体の、もう一つの世界を支配する、恐るべき絶対者がね……」
ナタネはそう言うと、チラッ……と、わざとらしく私の方を見た。
(お嬢さん、あなたがその『影』なんじゃないの?)と言わんばかりの、探るような、そしてこちらの反応を楽しむような態度。
私の胸の奥で、じわりと不快な苛立ちが湧き上がった。
(……鬱陶しいな。この女、何を知った風な口を利いているの? 私の領域に無遠慮に首を突っ込む奴は、どんな身分だろうと世界の底へ引きずり込んでやるのに……)
前髪の奥で、私の黄金の瞳が冷酷な狂気の光を帯びる。だが私の隣にいたヒカリは、ナタネの瞳に悪意がないこと、ただ純粋な好奇心と探究心で話していることを直感的に見抜いていた。ヒカリは私の手をきゅっと握りしめ、優しく微笑みかけた。
「ティナ、大丈夫だよ。ナタネさんは、悪い人じゃないと思う。……正体を明かして、驚かせちゃってもいいんじゃないかな?」
ヒカリの言葉は、私にとって世界最高の命令だ。ヒカリがそう言うのなら、有象無象に私の姿を見せることなど、些細な対価に過ぎない。
「……うん。ヒカリがそう言うなら、いいよ」
私が小さく微笑んで承諾した瞬間、私の身体を包んでいたクリーム色のブラウスとくすんだ黄色のハイウエストスカートが、漆黒の霧となって一瞬で霧散した。
バリバリバリッ!!!
大気が、空間が、ガラスが割れるような音を立てて激しく歪む。現実世界の重力がねじ曲がり、木々の葉が一斉に逆立ち、突風が吹き荒れる。光の届かない暗黒のエフェクトの中から現れたのは――全長数メートルに及ぶ、金色の外殻を怪しく輝かせる世界の裏の主、ギラティナの姿だった。
「グオオオオオオオオッッ!!!」
森全体を震わせる、地響きのような圧倒的な咆哮。
「きゃぁぁぁぁっ!?」
その至近距離での神話の顕現を目の当たりにしたモミは、あまりの威圧感と恐怖の質量に、腰を抜かしてその場に尻もちをついてしまった。ガタガタと震えながら、目の前の異形を見上げることしかできない。
サトシとタケシも、何度見ても慣れないその圧倒的な神の威厳に息を呑み、身を固くしている。一方のナタネも、あまりの衝撃に言葉を失っていた。直感で異質だとは分かっていたが、まさか本物の、神話の最深部に君臨する伝説の神そのものが現れるとは夢にも思っていなかったのだ。
「ひ……っ」
ナタネは本能的な恐怖から、一歩、二歩と引き気味に後退りした。全身の皮膚が粟立ち、冷や汗が背中を伝う。しかし、それと同時に、彼女のトレーナーとしての、そしてポケモンを愛する者としての魂が、その圧倒的な美しさと絶対的な格の高さに、震えるような感嘆の声を上げさせた。
「す、すごい……! 空間が、世界がひっくり返りそうなほどのエネルギー……! あなたが、世界の裏側に潜むという、本物の影の神……ギラティナなのね……!」
ナタネは恐怖に身を竦ませながらも、その爛々と輝く私の姿から、目を離すことができなかった。私はそんな人間たちの畏怖の視線を冷淡に受け流し、すぐにスッと力を収束させて、再び頭に黄色いリボンをつけた人間の少女の姿へと戻った。
そして、何事もなかったかのように、ヒカリの隣へと寄り添い、彼女のドレスの袖をきゅっと掴む。
「ティナ、やっぱり格好いいよ! 驚かせてごめんなさい、モミさん、ナタネさん」
ヒカリは誇らしげに笑い、尻もちをついたモミを起こしてあげる。
「う、ううん……本当にびっくりしたわ……。でも、そんなすごいポケモンがヒカリさんのパートナーなんて、心強いわね……」
モミは未だに心臓のバクバクが収まらない様子で胸を押さえている。ナタネもようやく平常心を取り戻し、「あはは……ジムリーダーの私が、格の違いってやつを見せつけられちゃったわね」と苦笑いしていた。
(そうだよ、お姉さん。私はヒカリのためなら、この森ごと世界を滅ぼすことだってできるんだから。ミツハニーの城だか何だか知らないけれど、早く案内しなさい。私のヒカリを、これ以上疲れさせないようにね……?)