「よし、かかった……! って、また流木かぁ……」
ハクタイシティへと続く美しい川のほとりで、サトシが釣り竿を引き上げながらガックリと肩を落としていた。私達は今、この近くの川に『滅法強い野生のブイゼル』が生息しているという噂を聞きつけ、ゲットを試みるために全員で釣りを始めていた。
ヒカリはポッチャマを傍らに置き、真剣な眼差しで釣り竿を見つめている。私はそのすぐ隣に座り、彼女の手元をじっと見つめていた。
おてんばなクソネズミに続き、また新しい泥棒(手持ちポケモン)が増えるかもしれないと思うと、内心はひどく憂鬱だった。が、ヒカリが楽しそうならば、その時間を邪魔するわけにはいかない。
「あれ? みんな、こんなところで何してるの?」
不意に、背後の草むらから聞き覚えのある小気味いい声が響いた。振り返ると、釣り竿を肩に担いだボーッシュな少女――コトブキ大会の決勝で私と戦った、ノゾミが立っていた。彼女もまた、新しい水ポケモンを求めてこの川を訪れたようだった。
しかし、ノゾミはサトシたちと挨拶を交わし、ヒカリの隣にぴったりと寄り添う私の姿を認めた瞬間、その顔からスッと血の気が引いていった。
「あ……」
決勝戦のステージで肌に感じた、あの次元をねじ曲げるような暗黒の神話のプレッシャー。その正体が『ギラティナ』であると確信して以来、彼女にとって私は『決して関わってはいけない禁忌』そのものだった。
「あ、あはは……。やっぱり私――、なんだか急に今日、体調が優れない気がしてきたから、釣りは止めとくわ。じゃ、じゃあね!」
ノゾミは引きつった笑みを顔に張り付けたまま、慄くように後ずさりし、今来た道を全速力で引き返そうとした。命の危険を察知した野生動物のような、見事な変わり身だった。
「えーっ! 待ってよノゾミ、せっかく会えたんだし一緒にやろうよ!」
しかし、無邪気なヒカリがノゾミの手を掴んで引き止めてしまう。「う、嘘でしょヒカリ……」と絶望の表情を浮かべるノゾミ。彼女は私の黄金の瞳が、「余計な真似をしたら、この川ごと世界の裏に沈めるよ」と無言で威嚇しているのを確実に察知していた。
「じ、じゃあ……お邪魔します……」
ノゾミは私の視線から逃れるように、サトシとタケシの後ろ側へ遠慮しがちに、小さくなって腰を下ろした。冷や汗をダラダラと流しながら釣り竿を握る彼女の姿は、普段の自信に満ちたトップコーディネーターの面影を完全に失っていた。
やがて川面が激しく波立ち、ザバーッと勢いよく水しぶきを上げて、一匹のポケモンが岩の上に飛び乗った。首の周りに浮き輪のような器官を持つ、凛々しい顔つきのブイゼル。それが噂の『最強の野生ポケモン』だった。
ブイゼルは腕を組み、不敵な笑みを浮かべながらサトシたちを見下ろしてきた。その態度は「お前たち人間など、俺の足元にも及ばない」と言わんばかりの、傲慢で強烈なプライドに満ちていた。その不遜な態度を見た瞬間、私の胸の奥で、冷酷な苛立ちがふつふつと湧き上がった。
(……ただの川ネズミ風情が、誰に向かってそんな目をしているの? 私のヒカリを見下ろすなんて、本当に生意気。格の違いっていうものを、その貧相な骨ごと砕いて教えてあげなきゃね)
「ヒカリ、下がって。わたしがやる」
私が冷たく告げ、一歩前に出た瞬間。私の身体を縛っていたフリルブラウスと、くすんだ黄色のハイウエストスカートが、漆黒の霧となって霧散した。
大気が、空間が、ガラスのようにひび割れる凄まじい衝撃波が川辺を襲う。水面が恐怖したように激しく波立ち、周囲の木々が逆立つ。そこに現れたのは――6本の黒き翼の触手をくねらせ、底なしの暗黒を纏った世界の裏の主、ギラティナの姿だった。
「グオオオオオオオオッッ!!!」
天地を揺るがす地響きのような咆哮。それまで傲慢に胸を張っていたブイゼルの表情が、一瞬で絶望へと凍りついた。
目の前にそびえ立つのは、通常の『強いポケモン』という概念を遥かに超越した、神話の怪物。ブイゼルがこれまで川の王者として築き上げてきた、ちっぽけなプライドと自信は、その圧倒的な神の威圧感の前に、塵一つ残さず粉々に砕け散った。
背後では、ノゾミがタケシの背中に隠れてガタガタと震え、サトシ達もあまりの至近距離での顕現に息を呑んでいる。しかし、ブイゼルはただの弱卒ではなかった。
プライドを砕かれ、死の恐怖に全身を震わせながらも、彼は戦士としての本能を振り絞り、涙目で無我夢中に突撃してきた。放たれた最大火力の『みずでっぽう』と『アクアジェット』。
『――愚かだね』
私の冷徹な【念話】が響く。私は避けることすらしなかった。ただ、影の触手の一本を、目にも留らぬ速さで軽く一閃させた。
ドガァァァンッ!!!
凄まじい質量の一撃。巻き起こった漆黒の爆風がブイゼルを真っ向から直撃し、ブイゼルは悲鳴を上げる間もなく地面を何回転も転がり、一撃で満身創痍の戦闘不能状態へと追い込まれた。圧倒的な一蹴だった。
私はすぐにスッと力を収束させ、再び頭に黄色いリボンをつけた人間の少女の姿へと戻り、何事もなかったかのようにヒカリの隣へと寄り添った。川辺には静寂が戻り、サトシたちは恐る恐る岩の陰から顔を出した。
「す、すげぇ……。一撃かよ……」
サトシが呆然と呟く中、タケシが「さて……誰があのブイゼルをゲットするか、だけど……」と話し合いを持ちかけた。サトシも最初は欲しそうな顔をしていたが、最終的に圧倒的な力でブイゼルを負かしたのはギラティナのトレーナーであるヒカリだ、ということで全員の意見が一致した。
「じゃあ……私の新しい仲間になってくれるかな? いって、モンスターボール!」
ヒカリが優しくモンスターボールを投げた。ボールは地面に倒れているブイゼルに当たり、彼を中に吸い込んだ。通常であれば、野生のプライドが高いポケモンならボールの中で激しく抵抗するはずだ。
しかし、ブイゼルはすでにギラティナという神の存在を前にして、抵抗する気力すら完全に失っていた。ボールはピコ、ピコ、と弱々しく2回揺れただけで、静かにカチリとロック音を響かせた。
「やったぁ! ブイゼル、ゲットで大丈夫!」
ヒカリが大喜びでボールを掲げる。私はその笑顔を見つめながら、内心で冷酷に微笑んでいた。
(よかったね、ヒカリ。新しい手持ちが増えたのは癪だけど……あの川ネズミ、私の恐ろしさを骨の髄まで叩き込まれて、完全に牙を抜かれている。これなら、ヒカリの愛を横取りしようとする『クソネズミ』みたいな真似は二度とできないはずだよ)
ノゾミが「私、本当に今日はもう帰るね……」と幽霊のような顔で去っていく後ろ姿を見送る中、私はヒカリの手をきゅっと握りしめた。
「ティナ、今日も助けてくれてありがとう! ティナは私の最高の親友だよ!」
「うん。ヒカリのためなら、私はどんな相手のプライドだって粉々にしてあげるからね?」
夕日に染まる川辺で、私はヒカリの温もりに浸りながら、前髪の奥にある黄金の瞳に、誰にも暴けない深くて暗い狂愛の笑みを、そっと刻み続けるのだった。