反転の影、光を乞う   作:鉅鹿

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4話 不協和音の始まり

ポケモンセンターの白いベッドの上で、ピカチュウはすっかり元気を取り戻していた。「ピカピカ!」と愛らしく鳴く黄色いネズミを、ヒカリは嬉しそうに撫でている。

 

その光景を私は少し離れた壁際から、感情の消えた黄金の瞳で見つめていた。ロケット団を消し去った時、私の心に宿っていた高揚感は、現実に戻るにつれて冷淡な焦燥感へと変わっていく。

 

ピカチュウを元のトレーナーに返すため、私達は再び202番道路へと歩みを進めていた。すると前方の草むらから、大声を張り上げながら走ってくる少年と、少年より年上の青年の姿が見えた。

 

「ピカチュウーーーッ!!」

 

「ピッカァァァッ!」

 

ヒカリの横を歩いていたピカチュウが、弾かれたようにその少年に向かって飛び込んでいく。少年はピカチュウをしっかりと抱きしめ、地面に転がりながら再会を喜んでいた。

 

「よかった、本当に無事だったんだな……! ありがとう、探してくれたんだろ?」

 

「あ、ううん。見つけたのは私と、このティナだよ。悪者からピカチュウを助けたの」

 

ヒカリが私を振り返り、優しく微笑む。サトシともう一人の年上の青年が、私に向かって頭を下げた。

 

「俺、サトシ! マサラタウンから来たんだ。本当にありがとう!」

 

「俺はタケシだ。ピカチュウを保護してくれて助かったよ」

 

少年――サトシは人懐っこい笑みを浮かべ、年上の青年――タケシは落ち着いた物腰で私を見る。私はフリルブラウスの裾をきゅっと握り、いつもの「人見知りで自信なさげな少女」を演じて、ヒカリの後ろに一歩隠れた。

 

「……う、うん。ヒカリが助けたかったから、私は手伝っただけ……」

 

私の内側では、ドロドロとした不快感がとぐろを巻いていた。サトシという少年の、あまりにも真っ直ぐで濁りのないエネルギーが、反転世界の影である私にとっては酷く肌に合わなかった。更に、ヒカリが彼と親しげに話しているだけで、胸の奥がキリキリと痛む。

 

話を聞けば、サトシはシンオウリーグのチャンピオンを目指してバッジを集める旅をしており、タケシは最高のポケモンブリーダーを目指して同行しているのだという。

 

「へぇ、そうなんだ! ……ねえ、それならさ、どうせ目指す方向が同じだし、一緒に旅をしない?」

 

ヒカリが何気なく放ったその一言に、私の心臓が凍りついた。

 

(……え? 今なんて言ったの、ヒカリ?)

 

一緒に旅をする?この今日出会ったばかりの、素性の知れない男二人と?

 

私の頭の中が、一瞬で真っ黒な拒絶に染まる。旅はヒカリと私だけの聖域のはずだった。それを、こんな泥臭い男達に汚されるなんて耐えられない。今すぐこの二人を反転世界の底へ引きずり込み、二度と現実世界の光を見られないようにしてやろうか――。

 

「お、いいな! よろしく頼むよ、ヒカリ!」

 

「ああ、賑やかになりそうで楽しいな」

 

サトシとタケシが快諾する。ヒカリは「やったぁ!」と嬉しそうにポッチャマと顔を見合わせている。私は口を一文字に結び、何も言わなかった。

 

ここで拒絶すれば、ヒカリに嫌われてしまうかもしれない。『物分かりの良い親友』の仮面を被ったまま、私はただ、笑顔のサトシの背中に、冷徹極まりない視線を突き刺すことしかできなかった。

 

 

サトシたちと合流し、マサゴタウンのすぐ近くの森まで戻ってきた時のことだった。少し開けた広場で、一人の少年が複数のムックルを前に、冷淡な視線を注いでいるのが見えた。

 

紫色のブルゾンを着た、冷徹な雰囲気を纏った少年。彼は手元のポケモン図鑑で、捕まえたばかりの3体のムックルのデータを代わる代わる確認していた。

 

「……使えないな」

 

少年は吐き捨てるように言うと、3体のうち2体のムックルを、何の躊躇もなくモンスターボールから野に放った。能力の低い個体を「厳選」し、不要なものは捨てる――それが彼のやり方だった。

 

「おい、お前! なんでせっかく捕まえたポケモンを逃がすんだよ!」

 

当然、ポケモンの絆を重んじるサトシが黙っているはずがなかった。激昂して少年に詰め寄るサトシ。しかし、少年は冷たい目でサトシを一瞥するだけだった。

 

「俺の名はシンジだ。使えないポケモンを持っていても意味がない。文句があるなら、バトルで証明してみろ。3対3だ」

 

「望むところだ! 受けて立つぜ!」

 

こうしてサトシと、シンジという名の少年との突発的なバトルが始まった。シンジが出したのはムックル、ヒコザル、そしてエレキッド。対するサトシは、新しく捕まえたムックル、エイパム、そして相棒のピカチュウを繰り出した。

 

バトルは熾烈を極めた。シンジの指示は的確で、一切の無駄がない。ポケモンの痛みを顧みないような冷酷な戦術に、サトシは怒りを燃やしながらも食い下がった。最終戦、ピカチュウとエレキッドの激しい技の応酬の末、両者ともに戦闘不能となり、結果は「引き分け」に終わった。

 

「フン……引き分けか。やはりその程度だな」

 

シンジはエレキッドをボールに戻し、興味を失ったように背を向けた。サトシが悔しそうに拳を握りしめる。ヒカリも「なんて冷たい人なの……」とシンジの態度に憤慨していた。

 

その去り際、シンジの足がふと止まった。彼の視線が、ヒカリの隣に静かに佇む、クリーム色の髪の少女――私へと向けられたのだ。シンジは徹底した合理主義者であり、同時にポケモンの「強さ」に対して異常なほど鋭い嗅覚を持っていた。だからこそ、気づいてしまった。

 

フリルブラウスを着た、一見すると可憐で気弱そうなその少女の周囲だけ、現実世界の「空間」が不自然に歪み、捻じれていることに。彼女が纏う底の知れない、神話の闇そのもののような圧倒的な質量。

 

ドクン、とシンジの心臓が激しく脈打った。本能が、遺伝子が、彼の全身の細胞が、最大級の警鐘を鳴らしている。

 

(何だ、こいつは……。人間じゃない。これまでに見たどんな強力なポケモンとも違う、圧倒的な『何か』だ……!)

 

シンジの背中に、じっとりと冷たい汗が伝う。恐怖で膝が震えそうになるのを、彼は強靭な精神力で無理やり抑え込んだ。ここで取り乱せば、目の前の「怪物」に一瞬で噛み殺される――そんな確信が、彼の脳裏をよぎった。

 

私は、そんなシンジの視線を真っ向から受け止めていた。前髪の奥にある黄金の瞳をすっと細め、彼だけにしか聞こえないような精神の波長で、冷酷に囁きかける。

 

(……気づいたんだ。利口な人間だね。でも、もし今のことをヒカリに言ったり、私達の邪魔をするなら――君の存在ごと、世界の裏側に消してあげる)

 

シンジの顔から、さっと血の気が引いた。彼は何とか平常心を装い、ポケットに手を突っ込んだまま、早足でその場を去っていった。その歩調が普段よりも僅かに乱れているのを、私は見逃さなかった。

 

「……ティナ? どうしたの、あの人のこと見て」

 

ヒカリが心配そうに、私の顔を覗き込んでくる。その瞬間、私の世界の闇は一瞬で晴れ、いつもの気弱な少女の笑顔へと戻る。

 

「ううん、なんでもないよヒカリ。ちょっと怖い人だなって、思っただけ」

 

「そうだよね! あんな冷たい人、気にしなくていいよ。さあ、皆で次の街へ行こう!」

 

ヒカリはサトシ達の元へ駆け寄っていく。その楽しそうな3人の背中を見つめながら、私は頭の黄色いリボンにそっと触れた。

 

(サトシ、タケシ。君達がヒカリの隣にいることを、今は許してあげる。でも、もしヒカリを危険に晒したり、私からヒカリを奪おうとするなら……あのシンジみたいに、本能から恐怖を植え付けてあげるからね?)

 

こうして歪んだ神の守護を背負ったまま、フタバタウンからの奇妙な4人の旅が、本格的に幕を開けるのだった。

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