反転の影、光を乞う   作:鉅鹿

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7話 純真なる祈りと月光

コトブキシティのコンテスト会場の控室は、独特の緊張感と、煌びやかな熱気に包まれていた。ついに迎えた、ヒカリのポケモンコンテスト・デビュー戦。

 

「うわぁ……! すごい、本当に届いたんだ!」

 

ヒカリは故郷のフタバタウンにいる母親――アヤコさんから送られてきたばかりの、新品のステージドレスを身に纏い、鏡の前で瞳を輝かせていた。鮮やかなピンクを基調にした華やかなドレスは、ヒカリの可憐さをこれ以上ないほどに引き立てている。

 

私はその斜め後ろに静かに佇み、ドレス姿のヒカリを、陶酔の混じった黄金の瞳で見つめていた。世界中のどんな宝石よりも、今のヒカリは美しい。

 

「……あれ? おかしいな。首につけるチョーカーが入ってない……」

 

ヒカリが衣装箱をひっくり返して焦り始めた、その時だった。控室のドアがトントンと叩かれ、一人のボーイッシュな少女が顔を覗かせた。

 

「あの、これ、受付に落ちてたよ。『ヒカリ様へ』ってアヤコさんのメモがついてたから、届けてあげようと思って」

 

「あ、それ私のチョーカー! ありがとう……!」

 

親切に届けてくれた彼女の名はノゾミ。ヒカリと同じく、このコトブキ大会に出場する実力派のコーディネーターだった。ヒカリは嬉しそうにノゾミとコンテストのあれこれについて言葉を交わす。しかし、会話の途中で、ノゾミの視線がふと、ヒカリの背後に立つ私へと向けられた。

 

その瞬間、ノゾミの言葉がピタリと止まった。

 

彼女は卓越したコーディネーターであり、ポケモンの魅力を引き出すプロだ。だからこそ、ポケモンの『気配』に対して人一倍敏感だった。私の前髪の奥にある黄金の瞳と視線がぶつかった刹那、ノゾミの背筋に、氷水を浴びせられたような激しい悪寒が走った。

 

(……な、何、この子……!?)

 

ノゾミの額から、タラリと冷や汗が伝い落ちる。クリーム色のブラウスを着た小さな少女にしか見えないのに、その背後に視覚を狂わせるほどの『底なしの闇』の幻影が見えたのだ。近づけば、魂ごと噛み殺される――そんな本能的な恐怖。

 

「……あ、あのさ。私、そろそろ行くね。お互い、頑張ろう」

 

ノゾミは引きつった笑みを浮かべ、後ずさりするようにして、大急ぎで控室から退出していった。「不思議な人だね」と小首を傾げるヒカリに、私は「そうだね」といつもの健気な少女の声で微笑みかけた。私のヒカリに無遠慮に近づく羽虫は、誰であろうと恐怖の味を教えてやるまでだ。

 

その後ロビーに出ると、別の騒ぎが起きていた。ヒカリの練習を見ていたサトシのエイパムが、コンテストの華やかな舞台に興味を持ってしまったらしく、サトシも急遽コンテストに参加することになったのだ。

 

2人は受付で、シンオウ地方のコンテストに出場するための『コンテストパス』を発行してもらい、更に士気を高めていた。

 

「よし! 俺もエイパムと一緒にバッチリ決めてやるぜ!」

 

「もう、サトシはジム戦専門でしょ? 負けないんだから!」

 

楽しそうに競い合う2人を見つめながら、タケシがふと、ヒカリに尋ねた。

 

「ところでヒカリ、一次審査のパフォーマンスは、どのポケモンで出場するんだ?」

 

「ティナよ! もちろん、演技の時は擬人化を解いて、モンスターボールから出ての登場になるけどね」

 

ヒカリは自信満々に胸を張り、私の手を握った。その言葉を聞いたタケシは腕を組んで、少し深く考えるような素振りを見せた。彼の表情には、いつもの温和な笑みはなく、どこか真剣な懸念が滲んでいる。

 

「……どうしたの、タケシ?」

 

「いや……ちょっと心配になってな。ティナの能力や存在が規格外なのは、俺たちも旅の中で見てきた。でも……コンテストは美しさと魅力を競う舞台だ。ティナが本来の姿になった時のあの『威圧感』は、審査員や観客にとって、強烈すぎるんじゃないかと思ってな……」

 

タケシの指摘は、極めて冷静で的確だった。神の放つプレッシャーは、一般人にとっては恐怖そのものだ。バトルならまだしも、魅せる舞台には不向きではないか、という年長者としてのリアルな不安だった。しかし、ヒカリは少しも怯むことなく、いつもの笑顔で言い放った。

 

「大丈夫、大丈夫! ティナの本当の姿は、すっごく格好良くて綺麗なんだもん。審査員の人たちだって、絶対にびっくりして感動しちゃうよ!」

 

ヒカリのその絶対的な信頼の言葉に、私の胸の奥が、甘い熱で満たされていく。

 

(ああ、ヒカリ……。君がそう言ってくれるなら、私はコンテストの舞台だって、君の望む通りに染めてあげる……)

 

 

その晩、コンテスト会場に併設されたホテルの部屋は、静まり返っていた。サトシとタケシは別の部屋でとうに寝静まっている。私達の部屋でも、ポッチャマやミミロルは健やかな寝息を立てていた。

 

けれど、ヒカリだけはベッドの中で何度も寝返りを打ち、どうしても眠れずにいた。明日はいよいよ本番。トップコーディネーターだった母親の背中を追いかける、初めての大きな舞台。押しつぶされそうな緊張が、彼女の小さな身体を支配していた。

 

ヒカリは静かにベッドを抜け出し、月明かりが差し込む窓辺へと歩いた。その手には、アヤコさんから「お守り」として持たされた、かつてアヤコさんが勝ち取った、美しく輝くコンテストリボンが握られていた。

 

「……ヒカリ、眠れないの?」

 

影の中から滑り出すようにして、私は人間の姿のまま、ヒカリの隣にそっと寄り添った。ヒカリは驚くこともなく、少し困ったように微笑んで、月光に照らされたリボンを私に見せた。

 

「うん……なんだか、ドキドキしちゃって。明日、ちゃんと皆の前で、ティナの素敵なところを見せられるかなって、不安になっちゃって」

 

ヒカリはリボンを胸元できゅっと抱きしめ、夜空に浮かぶ満月を見上げた。その横顔は、私が反転世界の底から初めて見つけたあの日のように、一点の曇りもなく、純粋で、眩いほどに輝いていた。

 

「お母さん……私に力を貸して。明日のステージで、ティナが世界で一番、魅力的に見えるように……ティナの格好良さと美しさを、皆にちゃんと伝えられますように。どうか、お願いします……」

 

ヒカリは、目を閉じて一途に祈った。神である私に向かって祈るのではなく、母親のリボンに向かって、私の「魅力」が周囲に伝わるようにと、心から願ってくれているのだ。

 

その純真な祈りの姿を見つめながら、私の胸の中は、言葉にできないほどの狂気的な悦びと、ドロドロとした独占欲で狂いそうになっていた。

 

(ねえ、ヒカリ……。君は本当に、どこまでも純粋で、そして残酷だね)

 

ヒカリは、タケシが心配していた私の『威圧感』を、単なる『格好良さ』として受け入れ、それを皆に認めさせたいと願っている。私の狂暴性すらも、彼女の純粋なフィルターを通せば、ただの『愛すべき相棒の個性』になってしまうのだ。

 

私は、祈るヒカリの細い腰を、後ろからそっと両腕で抱きしめた。ヒカリの身体がビクッと跳ねる。けれど、拒絶はされなかった。私はヒカリの項に顔を埋め、その甘い髪の香りを深く吸い込みながら、低く、掠れた声で囁いた。

 

「ありがとう、ヒカリ。君の願いなら、私が全部、現実にしてあげる」

 

月光の下、私の黄金の瞳が、現実世界の法則をあざ笑うように怪しく爛々と輝く。

 

(わたしを魅力的に見せたいなんて……。いいよ、ヒカリ。明日のステージでは、君の望む通りの最高のパフォーマンスを見せてあげる。でもね、観客や審査員なんてどうでもいいの。私が魅せたいのは、世界でただ一人――君だけだから。君のその澄んだ瞳を、明日、私だけの美しさで、完全に狂わせてあげるね?)

 

抱きしめる腕に、じわりと、人間としては少し強すぎる力を込める。ヒカリはその重すぎる愛の気配に一瞬だけ息を呑んだが、私の頭の黄色いリボンを優しく撫でてくれた。

 

世界の裏側で生まれた暗黒の神と、光を夢見る少女。2人の歪な約束を乗せて、運命のデビュー戦の朝が、すぐそこまで迫っていた。

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