Fate/Last Snow Grail 作:ボルメテウスさん
温室の湿った空気の中で、キャスターは目を閉じていた。
四枚の頁が夜の雪原へ放たれてから、三分が経過している。彼の瞼の裏には四つの視界が並列して展開されている。北西の旧市街。南方の雪原。上空の雲海。そして山間部の闇。それぞれの使い魔が、標的へ向かって飛行を続けていた。
「まず、北西。アサシン陣営です」
キャスターの声は穏やかだった。報告というより、観察の記録を読み上げるような口調だ。
「霧の中に潛んでいました。使い魔が結界の縁に触れた瞬間──消えました」
「消えた?」
アロイシアは剪定鋏を止めた。
「はい。視界が途絶えました。使い魔が捕捉したのは、霧の中に佇む小柄な人影。それから〇・三秒ほどの空白があります。その後、使い魔の背後から刃が見えました。それで終わりです」
アロイシアはわずかに目を細めた。
「気配遮断による瞬殺ね。使い魔が気づいた時には、もう背後にいた」
「左様です。探知能力は極めて高い。使い魔が結界に触れた魔力の波紋を感知したのでしょう。だが、その反応速度は異常です。気づいてから消えるまで〇・三秒。姿を見せたのは一瞬だけで、すぐに気配遮断へ移行した。実体化と攻撃が同時」
「迎撃手段は」
「短刀。単一の刃による切断。魔術的な攻撃ではありません。純粋な身体能力と気配遮断の複合」
アロイシアは鋏を手にしたまま、温室の天井を見上げた。
「アサシン陣営。脅威度、中。単独行動が前提のクラスだとしても、あの気配遮断の精度は高い。ですが、正面から戦うタイプではない。結界内にいれば、侵入される前に排除できる。問題は──彼らが結界の外からどう攻めてくるか、ということだけ」
彼女は鋏で一本の枝を落とした。パチンという音が、温室の静寂を切り裂く。
「次は南方。アーチャー陣営です」
キャスターは視界を切り替えた。
「こちらは──興味深い結果になりました」
*
雪原は、静かだった。
南方の平原。木も岩もない、ただ白一色に染まった雪の海。使い魔が飛行を始めてから一分ほどが経過していた。目標地点まではまだ二キロメートル以上ある。頁の鳥は低空を滑空し、雪面すれすれを飛んでいた。
何も起きなかった。
使い魔の視界には、ただ雪と闇が広がっているだけだ。アーチャーの気配は、どこにも見えない。キャスターの術式が感知する限り、半径五百メートル以内に魔力反応はない。それがアーチャーの隠蔽能力なのか、それとも本当に不在なのか。
頁の鳥が高度を上げた。もう少し近づけば、何かが見えるかもしれない。高度十メートル。二十メートル。雪原を見下ろす位置まで上昇した瞬間だった。
風が、変わった。
キャスターの瞼の裏で、使い魔の視界がぶれた。いや、視界そのものが揺れたのではない。空気が震えたのだ。雪原のどこか遠くで、何かが空気を切った。その余波が、ここまで届いた。
次の瞬間、頁の鳥の翼が砕けた。
視界が消える。だが消える直前に、使い魔が捉えたものが一つだけあった。雪原の遥か彼方。一キロメートル以上離れた地点から、何かが飛んできた。それが何であるかを認識するより早く、頁は貫かれていた。
「──報告します」
キャスターは目を開けずに言った。
「アーチャー陣営。迎撃確認」
「距離は」
「推定一・二キロメートル。使い魔が高度を上げた瞬間に射撃されました。アーチャーの位置は特定できていません。雪原に潛んでいることは確かですが、魔力反応は終始ゼロ。気配も感知できませんでした」
アロイシアは、わずかに眉をひそめた。
「気配のみで感知したの?」
「いいえ。気配すらありませんでした。使い魔が高度を変えたことで、アーチャーの視界に入った。それだけです。おそらく、最初から狙われていた。使い魔が接近していることに気づき、撃つタイミングを計っていた」
「つまり、一・二キロ先から、雪に埋もれたまま、頁の鳥の飛行速度を計算して、高度を変えた瞬間に精密射撃したと」
「はい。射撃の精度は極めて高い。頁一枚分の厚みを、一キロ以上の距離から貫きました。魔術的な補正があるかどうかは不明ですが、純粋な射撃技術だけでも一級品です」
「迎撃手段は」
「単一の弾丸。物理的な貫通。魔力を用いた狙撃ではありません。だが、それが逆に恐ろしい。魔術で撃たれたなら結界で防げる。純粋な物理攻撃なら、防ぐには物理的な障壁が必要になる」
アロイシアは鋏を置いた。彼女の手が、初めて戦術的な思考を巡らせるために、道具から離れた。
「アーチャー陣営。脅威度、高。あの sniper が雪原に潛んでいる限り、こちらから動くことはできない。大魔術を撃てば、発動地点を特定されて撃たれる。使い魔を飛ばしても、高度を変えた瞬間に墜とされる。正面から近づけば、射程圏内に入る前に殺される」
彼女は温室の窓を見た。ガラスの向こうで、雪原が闇に沈んでいる。
「私の蜂では距離が足りない。アーチャーを無力化するには、結界を張ったまま接近できる手段が必要だわ」
「あるいは、アーチャーが移動を余儀なくされる状況を作るか」
キャスターが静かに提案した。
「ええ。それも考えましょう。続けて。上空のライダー陣営は?」
*
雲の上は、月光の世界だった。
頁の鳥は雲海を突き抜け、上空一千メートル付近を飛行していた。目標は旋回する小型機。ライダー陣営のマスターとサーヴァントが乗る飛行物体だ。
使い魔が機体の航路に沿って接近した。距離は五百メートル。小型機のプロペラ音が、かすかに聞こえる。月明かりを受けて、機体のシルエットが白く浮かび上がっていた。
コックピットの中で、何かが動いた。
キャスターの瞼の裏で、使い魔の視界が揺れた。機体が旋回を始めたのだ。急旋回ではない。緩やかな、だが確実な方向転換。機体の左翼が下がり、プロペラが風を切る音が変わる。
使い魔は接近を続けた。三百メートル。二百メートル。機体の尾部が見える。コックピットの canopy が月光を反射している。
その時、機体が急激に反転した。
左翼を深く下げ、ほぼ百八十度の方向転換。プロペラが巻き上げた気流が、雪煙となって雲海の表面を薙ぎ払う。その気流が、頁の鳥を正面から捉えた。
風圧だ。
使い魔は制御を失った。頁がばらばらに解体され、光の粒子が散る。機体が直接触れたわけではない。ただ、プロペラが巻き上げた気流だけで、使い魔は空中で分解された。
「──ライダー陣営。迎撃確認」
キャスターの声に、初めてかすかな感嘆が混じった。
「機体そのものを武器にしました。旋回によって生じる気流で、使い魔を叩き落とした。物理的な攻撃でも魔術的な攻撃でもない。純粋に、機動力そのものを迎撃手段にしている」
「反応速度は」
「使い魔を視認してから旋回まで、約二秒。肉眼での発見です。探知能力は他の陣営に比べれば低い。だが、見つけた後の対応が極めて速い。操縦技術そのものが、戦闘能力の核心ですね」
アロイシアは腕を組んだ。
「つまり、上空では彼らに勝てない」
「地上なら別でしょうが、空の制空権は完全にあちらのものです」
「迎撃手段は機動力のみ。攻撃弾薬は使わなかったのね」
「はい。撃つ必要すらなかった。旋回だけで対処できた。つまり、あの高度では、まだ本気で迎撃していません」
アロイシアは、わずかに息を吐いた。
「ライダー陣営。脅威度、中。空では手出しできないが、地上に降りれば脅威は限定的。問題は、彼らが空からこちらを観測し続けること。私たちが動けば、それを他の陣営に伝えることができる。それは厄介だわ」
「観測と伝達。それが彼らの役割かもしれません」
「ええ。なら、彼らを地上に引きずり下ろすか、あるいは観測そのものを無害化する手段が必要ね」
アロイシアは再び鋏を手に取った。温室の植物が、湿度と熱気の中でざわめく。彼女は剪定を続けながら、報告の最後を待った。
「三枚破壊。残るは一つ。山間部のランサー陣営です」
「まだ届かないの」
「いいえ。届くはずです。ですが、視界が途絶えています。山間部の地形が複雑で、魔力の流れも乱れている。使い魔の位置は把握できますが、視認情報が送られてきません」
「通信途絶?」
「ええ。ランサー陣営のみ、現時点で迎撃の有無すら確認できていません」
アロイシアは鋏を止めた。その瞳が、わずかに細められる。
「逃げたのか、壊されたのか、それとも別の何かが起きているのか」
「不明です。ですが、頁そのものはまだ存在しています。壊されてはいない。ただ、中身が見えないだけです」
「つまり、封じられたのね」
アロイシアは鋏を置き、温室の窓に歩み寄った。ガラスの向こうで、吹雪が強まっている。山間部の方向は、闇に沈んで見えない。
「ランサー陣営だけが、手の内を見せていない。それは偶然か、それとも──」
彼女は言葉を切り、窓に手を触れた。冷たいガラスが、熱気に満ちた温室と外の世界を隔てている。
「とにかく、三陣営の基本能力は把握した。アサシンは気配遮断による近接瞬殺。アーチャーは超長距離からの精密射撃。ライダーは空からの機動戦。それぞれがクラスの特性を極限まで磨いている」
アロイシアは振り返り、温室の中央にある果樹を見上げた。生命の樹。まだ完成していない。剪定が必要な枝が、いくつもある。
「問題は、これら三つの陣営が、バーサーカーをどう見ているか。そして、私たちをどう見ているか」
「セイバー陣営はどう動くと思いますか」
キャスターが問うた。
「あの若いマスターは、まだ何者でもない。だが、感応特性だけは本物だ。バーサーカーと直接遭遇して生き延びた。それだけで、十分に未知数」
アロイシアは鋏を再び手に取った。
「残るはランサー。頁が見えないということは、何かが起きている。蝶よりも慎重に、次は送りましょう」
「承知しました。ですが、あの頁はまだ生きています。いずれ情報は戻ってきます」
キャスターは本を開き、残りの頁に指を走らせた。ヘブライ語の文字が、かすかに明滅する。
温室の外で、吹雪が強まっていた。山間部の闇は、まだその姿を見せない。