堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。 作:an-ryuka
足立透が釈放された日は、よく晴れていた。
不釣り合いなくらいだった。
前の晩まで降っていた雨は朝にはすっかり上がっていて、稲羽の空は薄く青い。道路の端にはまだ水たまりが残っていたが、そこに映る雲は白く、ひどく軽かった。
真白は朝早くから荷物をまとめていた。
もともと部屋に物は多くない。服、本、仕事の資料、食器、調理道具。足立のものはもっと少ない。ほとんどは必要最低限の衣類と、古い鞄と、腕時計だけ。
足立はソファに座り、段ボールへ詰められていく荷物を見ていた。
「……手際いいねぇ」
声には皮肉が混じっている。
だが、外で使う軽い足立の声より、少し低い。
「前から準備してたから」
真白が答えると、足立は目を細めた。
「へぇ。僕が出られる前提だったわけ」
「出すつもりだったから」
「自信満々で何より」
「透が余計なこと言わなければ、もっと早かったよ」
「はいはい。すみませんねぇ」
足立は肩をすくめた。
不起訴。
その言葉が出てから、足立はずっとこうだった。
半笑いで、不機嫌で、どこか現実味がない顔をしている。
自分が戻れたことを、まだ信じきれていない。
戻れた先が真白の隣であることにも、たぶん納得していない。
けれど、逃げもしない。
それが真白には嬉しかった。
「その箱、閉じてくれる?」
「僕、病み上がりみたいなもんなんだけど」
「手は動くでしょ」
「弁護士先生、人使い荒いな」
文句を言いながら、足立はガムテープを手に取る。
ぴい、と雑に引き出し、段ボールの口を留めた。端が少し曲がっている。
真白はそれを見て、少し笑う。
「下手」
「うるせぇ」
そのやり取りだけなら、大学時代とあまり変わらない。
だが、部屋の外にはもう警察官の足立はいない。
堂島家に何食わぬ顔で晩ご飯を食べに来る足立もいない。
菜々子に「足立さん」と呼ばれて、面倒そうに返事をする足立もいない。
真白はそのことを分かっていた。
分かっていて、荷物を詰めている。
足立を連れて、稲羽を出るために。
昼前、二人は堂島家へ向かった。
別れの挨拶をするためだった。
足立は最初、行きたがらなかった。
「僕が行く必要ある?」
「あるよ」
「堂島さんに殴られに?」
「殴られたら、受けて」
「お前、僕の味方じゃなかったの」
「味方だよ。だから一発くらいで済むなら安いって言ってる」
「怖すぎ」
そう言いながらも、足立はついてきた。
堂島家の前に立つと、足立の足が一瞬止まった。
見慣れた玄関。
菜々子が駆けてきたことのある廊下。
真白が何度も台所に立った家。
堂島が帰ってきて、煙草を吸いかけてやめた家。
足立はその家を見て、少しだけ顔を歪めた。
「……行くよ」
真白が言う。
「分かってるって」
足立は肩をすくめる。
だが、その声はいつもより硬かった。
玄関を開けると、菜々子が出てきた。
「お姉ちゃん!」
元気な声だった。
けれど、以前より少しだけ慎重になった声でもあった。大人たちの空気が変わったことを、菜々子は分かっている。全部は分からなくても、何かが壊れたことは知っている。
真白はしゃがんで、菜々子の目線に合わせた。
「菜々子ちゃん」
「今日、行っちゃうの?」
「うん」
菜々子の眉が下がる。
「遠い?」
「前よりは遠いね」
「また来る?」
真白は少しだけ息を止めた。
来る。
そう言えば、菜々子は安心する。
来ないかもしれない。
そう言えば、菜々子は傷つく。
真白は、嘘を選べる。
いつも通りなら、菜々子に一番優しい嘘を選べる。
でも堂島の言葉が、喉元に残っていた。
家の中では、せめて娘でいろ。
菜々子の姉でいろ。
真白は菜々子の髪を撫でた。
「来るよ」
嘘ではない。
ただ、どれくらい先かは言わない。
「電話もする」
菜々子は少しだけ安心したように笑った。
「うん」
その顔を見ると、胸が痛む。
真白はその痛みを丁寧に飲み込んだ。
消すのではなく、奥へ置いた。
足立は玄関の少し後ろに立っていた。
菜々子は彼を見つけて、ほんの一瞬だけ表情を迷わせた。
「足立さん……」
足立の肩がわずかに強張る。
「……や。菜々子ちゃん」
外向きの声だった。
でも、以前よりずっと弱い。
菜々子は足立をじっと見ていた。
事件のことをどこまで聞いているのか、真白には分からない。
堂島はきっと多くを話していない。
鳴上も、菜々子に余計なものを背負わせないだろう。
それでも、子どもは空気を読む。
菜々子は少し考えてから、言った。
「お姉ちゃんを、泣かせないでね」
足立の顔から、色が抜けた。
真白も動けなかった。
菜々子は真剣だった。
怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、自分に言える精一杯の言葉を選んだ顔だった。
足立は口を開きかけて、閉じる。
いつものように「はいはい」と流せばいい。
「怖いなぁ」と笑えばいい。
けれど、それができなかった。
「……努力はするよ」
菜々子の顔が少し曇る。
足立は目を逸らして、低く言い直した。
「……泣かせない」
菜々子は頷いた。
「約束」
「……約束」
その声を聞いて、真白は足立を見た。
足立は目を逸らした。
奥から堂島が出てきた。
怪我はまだ完全には治っていない。
だが、立ち姿は刑事のそれだった。鋭く、重く、逃げ道を塞ぐような視線。
足立は反射的に背筋を伸ばした。
「……堂島さん」
その呼び方だけは、昔と同じだった。
堂島はしばらく足立を見た。
殴るかもしれない、と真白は思った。
それなら止めないつもりだった。
足立も、たぶん避けないだろう。
けれど堂島は殴らなかった。
その代わり、低く言った。
「お前に言うことは、山ほどある」
「……はい」
「今ここで言ったら、菜々子の前で終わらねぇ」
足立は何も言わない。
堂島の視線が、真白に移る。
「真白」
「はい」
「行くんだな」
「うん」
「足立と」
「うん」
堂島の眉間に深い皺が寄る。
「俺は、許してねぇ」
「分かってる」
「足立も、お前もだ」
真白は頷いた。
「分かってる」
「分かってねぇ顔だな」
堂島の声が少し荒くなる。
「お前はいつもそうだ。分かった顔をして、必要なことだけ飲み込んで、自分の行きたいほうへ行く」
真白は何も言わない。
それは事実だった。
堂島は足立を見た。
「足立」
「……はい」
「真白を連れて行くなら、逃げるな」
足立の目がわずかに動く。
「俺からも、こいつからも、菜々子からも、自分からもだ」
足立は半笑いを作ろうとして、失敗した。
「……厳しいっすね」
「当たり前だ」
堂島はさらに低く言う。
「次に菜々子を泣かせたら、俺は父親じゃなく刑事としてお前らの前に立つ」
真白は、その言葉を前にも聞いていた。
だが今は、足立も一緒に聞いている。
足立は堂島を見た。
いつもの薄い笑いも、間延びした返事も出てこなかった。
「……分かりました」
短い返事だった。
堂島は、信じた顔をしなかった。
ただ、それ以上は言わなかった。
居間には鳴上もいた。
彼は玄関から少し離れたところに立っていた。
真白と目が合う。
鳴上の目は静かだった。
怒りも、軽蔑も、全部奥へ沈めている。菜々子の前だからだ。
真白はその沈黙に、少しだけ感謝した。
「悠くん」
真白が声をかけると、鳴上は軽く頭を下げた。
「お元気で」
それだけだった。
足立には何も言わなかった。
足立も、鳴上には何も言わなかった。
ただ一瞬、二人の視線がぶつかった。
鳴上の目には、まだ答えを求めるような強さがあった。
足立の目には、逃げたくなるような苛立ちと、負けたことを認めたくない薄い笑いがあった。
真白はその間に入らなかった。
ここは自分が触る場所ではない。
少なくとも、今は。
別れは短かった。
菜々子が真白に抱きついた。
真白はそれを受け止めた。
「お姉ちゃん、ちゃんとご飯食べてね」
「菜々子ちゃんもね」
「お父さんにも作ってあげてね」
「うん」
「お兄ちゃんにも」
「うん」
「足立さんにも?」
菜々子が足立を見る。
足立はぎこちなく笑った。
「僕はまあ、適当に食べるから」
真白が横から言う。
「作るよ」
足立は嫌そうにする。
「……あっそ」
菜々子は少し安心したように笑った。
その笑顔が、真白には痛かった。
堂島は最後まで玄関先に立っていた。
見送るというより、送り出す責任を自分に課しているようだった。
真白は靴を履き、振り返る。
「おじさん」
堂島は何も言わない。
「ありがとうございました」
昔、家を出て大学へ向かった日にも、同じことを言った。
あの日の堂島は、「何かあったら帰ってきていいんだからな」と言った。
真白は「うん」と答えて都会へ出た。
今回は、堂島はすぐには言わなかった。
言っていいのか迷っている顔だった。
それでも、最後には言った。
「……何かあったら、帰ってこい」
真白の胸がまた痛む。
「うん」
「ただし」
堂島の目が鋭くなる。
「足立を連れてくるなら、先に連絡しろ」
足立が半笑いで口を挟む。
「そこ、条件つくんすね」
堂島が睨む。
「当たり前だ」
足立はすぐ黙った。
真白は小さく笑った。
「分かった」
その笑顔は、いつものものだった。
穏やかで、少し寂しそうで、ちゃんと娘の顔をしている。
堂島はそれを見て、何かを言いかけた。
けれど言わなかった。
車に乗り込むとき、真白は一度だけ堂島家を振り返った。
菜々子が手を振っている。
鳴上はその後ろに立っている。
堂島は腕を組み、怖い顔でこちらを見ている。
真白は手を振り返した。
姉の顔で。
娘の顔で。
そして、足立の隣に乗った。
車が走り出す。
稲羽の町が後ろへ流れていく。
商店街、河川敷、ジュネスへ続く道、堂島家へ曲がる角。雨上がりの空気はまだ湿っていて、車内には足立の煙草の匂いと、真白の荷物から漂う紙と洗剤の匂いが混じっていた。
足立はしばらく黙っていた。
真白も黙っていた。
町の端が見えてきたころ、足立が口を開く。
「……どうしてこうなったんだろうな」
半笑いだった。
でも、疲れていた。
「不起訴になったから」
「そういう話じゃねぇよ」
「私が助けたから」
「それも違う」
「透が逃げなかったから?」
足立は一瞬黙った。
それから、窓の外を見たまま言う。
「逃げたろ。テレビの中まで」
「でも戻ってきた」
「負けて引きずり出されただけだろ」
「戻ってきたことには変わりないよ」
足立は舌打ちする。
「お前のそういうとこ、ほんと腹立つ」
「好き?」
「嫌い」
「そっか」
真白は少し笑った。
高速へ向かう道に入る。
町の建物が少なくなり、窓の外には山と田畑が増えた。稲羽が少しずつ後ろへ遠ざかる。
真白は膝の上で手を重ねた。
言おうか迷った。
迷うこと自体が珍しかった。
足立はそれに気づいたらしい。
「何」
「うん?」
「何か言いたい顔してる」
「透、分かるんだ」
「分かりたくねぇけどな」
真白は少しだけ目を伏せる。
「……ずっと一緒じゃ、ダメ?」
足立の手が、ハンドルの上で止まりかけた。
車はまっすぐ走り続ける。
だが、車内の空気だけが一瞬止まった。
「……今さら何言ってんの」
足立の声は低い。
「聞きたくなった」
「お前が全部決めたんだろ。保証人になります、一緒に住みます、都会行きますって」
「うん」
「堂島さんにも菜々子ちゃんにも、あんな顔してさ」
「うん」
「それで今さら、不安そうに聞くわけ?」
真白は黙った。
足立は横目で見る。
真白は本当に少し不安そうだった。
その顔に、足立は言葉を失いかけた。
この女が何をしたか知っている。
自分を助けるために、被害者も、堂島も、鳴上たちも、法も、全部踏み越えた。
それなのに今、たった一言の返事を待っている。
腹が立つ。
ひどく腹が立つ。
そして、どうしようもなく逃げられない。
足立は前を見たまま、少し間を空けた。
「……ダメじゃねぇよ」
真白の指が、わずかに動く。
「本当?」
「いちいち確認すんな」
「でも」
「どうせ、逃げられねぇんだろ」
足立は鼻で笑った。
自嘲のようで、降参のようでもあった。
真白は足立を見る。
足立も、ほんの一瞬だけ真白を見た。
「……逃げねぇよ」
小さな声だった。
でも、今までのどの言葉よりはっきりしていた。
真白は笑った。
嬉しそうに。
本当に、嬉しそうに。
「うん」
その笑顔を見て、足立は顔をしかめる。
「何笑ってんだよ」
「嬉しいから」
「重いんだよ、お前」
「知ってる」
真白は窓の外を見る。
稲羽の町はもう後ろに小さくなっていた。
堂島の顔。
菜々子の手。
鳴上の静かな目。
全部が胸の奥に残っている。
罪悪感はある。
痛みもある。
けれど、それは真白を引き返させない。
足立の隣にいることを選んだ。
選んでしまった。
だから、その選択を最後まで抱える。
真白はぽつりと呟いた。
「……逃げたら、殺しちゃうよ」
足立の横顔が固まる。
数秒後、彼は低く笑った。
「……冗談に聞こえねぇ」
「冗談だよ」
「嘘つけ」
「半分」
「半分かよ」
足立は呆れたように笑った。
その笑いは、稲羽にいたころより少しだけ軽かった。
真白はシートにもたれ、目を閉じる。
車は都会へ向かって走り続ける。
後ろに置いてきたものは、多すぎた。
前にあるものは、きっとろくでもない。
それでも、足立の左手首には、まだあの腕時計があった。
真白は目を閉じたまま、その音を聞いている気がした。
秒針が進む。
逃げない時間が、少しずつ積もっていく。
隣で足立が小さく息を吐く。
「……真白」
「うん」
「飯、ちゃんと作れよ」
真白は目を開けた。
「透が手伝ってくれてもいいよ」
「嫌だね」
「じゃあ、卵くらい割れるようになって」
「鳴上くんじゃねぇんだから」
その名前を出したあと、足立は少しだけ黙った。
真白も黙る。
だが、沈黙は長く続かなかった。
「卵くらいなら」
足立がぼそりと言う。
「割ってやってもいいけど」
真白は横を見た。
「うん」
笑いすぎないように、少しだけ息を整える。
「お願いね」
足立は前を見たまま、面倒そうに言った。
「……殻入っても文句言うなよ」
「取ってあげる」
「子ども扱いすんな」
「はいはい」
車の窓の外で、空が少しずつ暮れていく。
稲羽で終わらなかったものを抱えたまま、二人は遠ざかっていった。戻る場所を残したまま、戻らないための生活へ向かって。真白はその矛盾を、両手で大事に抱えるように、静かに息を吸った。
足立は右手をハンドルに残したまま、左手だけで真白の手を取った。
握るというより、捕まえるような手だった。
手首ではなく、指先を絡める。逃げるなと言っているのか、逃がすなと言っているのか、分からない。
真白はその手を見下ろして、少し笑った。
「透」
「何」
「好き」
足立は真白を見なかった。
「……知ってる」
窓の外で、稲羽の景色が完全に遠ざかっていく。
車は都会へ向かって走る。
二人分の罪と、嘘と、執着を乗せたまま。
その温度だけは、間違いなく現実だった。
真白はそれを、逃がさないように握り返した。