堂島家の姉は、犯罪者が好きなことを隠している。   作:an-ryuka

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16.最終話

 

足立透が釈放された日は、よく晴れていた。

 

不釣り合いなくらいだった。

 

前の晩まで降っていた雨は朝にはすっかり上がっていて、稲羽の空は薄く青い。道路の端にはまだ水たまりが残っていたが、そこに映る雲は白く、ひどく軽かった。

 

真白は朝早くから荷物をまとめていた。

 

もともと部屋に物は多くない。服、本、仕事の資料、食器、調理道具。足立のものはもっと少ない。ほとんどは必要最低限の衣類と、古い鞄と、腕時計だけ。

 

足立はソファに座り、段ボールへ詰められていく荷物を見ていた。

 

「……手際いいねぇ」

 

声には皮肉が混じっている。

だが、外で使う軽い足立の声より、少し低い。

 

「前から準備してたから」

 

真白が答えると、足立は目を細めた。

 

「へぇ。僕が出られる前提だったわけ」

 

「出すつもりだったから」

 

「自信満々で何より」

 

「透が余計なこと言わなければ、もっと早かったよ」

 

「はいはい。すみませんねぇ」

 

足立は肩をすくめた。

 

不起訴。

 

その言葉が出てから、足立はずっとこうだった。

半笑いで、不機嫌で、どこか現実味がない顔をしている。

 

自分が戻れたことを、まだ信じきれていない。

戻れた先が真白の隣であることにも、たぶん納得していない。

けれど、逃げもしない。

 

それが真白には嬉しかった。

 

「その箱、閉じてくれる?」

 

「僕、病み上がりみたいなもんなんだけど」

 

「手は動くでしょ」

 

「弁護士先生、人使い荒いな」

 

文句を言いながら、足立はガムテープを手に取る。

ぴい、と雑に引き出し、段ボールの口を留めた。端が少し曲がっている。

 

真白はそれを見て、少し笑う。

 

「下手」

 

「うるせぇ」

 

そのやり取りだけなら、大学時代とあまり変わらない。

 

だが、部屋の外にはもう警察官の足立はいない。

堂島家に何食わぬ顔で晩ご飯を食べに来る足立もいない。

菜々子に「足立さん」と呼ばれて、面倒そうに返事をする足立もいない。

 

真白はそのことを分かっていた。

分かっていて、荷物を詰めている。

 

足立を連れて、稲羽を出るために。

 

昼前、二人は堂島家へ向かった。

 

別れの挨拶をするためだった。

 

足立は最初、行きたがらなかった。

 

「僕が行く必要ある?」

 

「あるよ」

 

「堂島さんに殴られに?」

 

「殴られたら、受けて」

 

「お前、僕の味方じゃなかったの」

 

「味方だよ。だから一発くらいで済むなら安いって言ってる」

 

「怖すぎ」

 

そう言いながらも、足立はついてきた。

 

堂島家の前に立つと、足立の足が一瞬止まった。

 

見慣れた玄関。

菜々子が駆けてきたことのある廊下。

真白が何度も台所に立った家。

堂島が帰ってきて、煙草を吸いかけてやめた家。

 

足立はその家を見て、少しだけ顔を歪めた。

 

「……行くよ」

 

真白が言う。

 

「分かってるって」

 

足立は肩をすくめる。

だが、その声はいつもより硬かった。

 

玄関を開けると、菜々子が出てきた。

 

「お姉ちゃん!」

 

元気な声だった。

けれど、以前より少しだけ慎重になった声でもあった。大人たちの空気が変わったことを、菜々子は分かっている。全部は分からなくても、何かが壊れたことは知っている。

 

真白はしゃがんで、菜々子の目線に合わせた。

 

「菜々子ちゃん」

 

「今日、行っちゃうの?」

 

「うん」

 

菜々子の眉が下がる。

 

「遠い?」

 

「前よりは遠いね」

 

「また来る?」

 

真白は少しだけ息を止めた。

 

来る。

そう言えば、菜々子は安心する。

 

来ないかもしれない。

そう言えば、菜々子は傷つく。

 

真白は、嘘を選べる。

いつも通りなら、菜々子に一番優しい嘘を選べる。

 

でも堂島の言葉が、喉元に残っていた。

 

家の中では、せめて娘でいろ。

菜々子の姉でいろ。

 

真白は菜々子の髪を撫でた。

 

「来るよ」

 

嘘ではない。

ただ、どれくらい先かは言わない。

 

「電話もする」

 

菜々子は少しだけ安心したように笑った。

 

「うん」

 

その顔を見ると、胸が痛む。

 

真白はその痛みを丁寧に飲み込んだ。

消すのではなく、奥へ置いた。

 

足立は玄関の少し後ろに立っていた。

菜々子は彼を見つけて、ほんの一瞬だけ表情を迷わせた。

 

「足立さん……」

 

足立の肩がわずかに強張る。

 

「……や。菜々子ちゃん」

 

外向きの声だった。

でも、以前よりずっと弱い。

 

菜々子は足立をじっと見ていた。

 

事件のことをどこまで聞いているのか、真白には分からない。

堂島はきっと多くを話していない。

鳴上も、菜々子に余計なものを背負わせないだろう。

 

それでも、子どもは空気を読む。

 

菜々子は少し考えてから、言った。

 

「お姉ちゃんを、泣かせないでね」

 

足立の顔から、色が抜けた。

 

真白も動けなかった。

 

菜々子は真剣だった。

怒っているわけではない。責めているわけでもない。ただ、自分に言える精一杯の言葉を選んだ顔だった。

 

足立は口を開きかけて、閉じる。

 

いつものように「はいはい」と流せばいい。

「怖いなぁ」と笑えばいい。

けれど、それができなかった。

 

「……努力はするよ」

 

菜々子の顔が少し曇る。

足立は目を逸らして、低く言い直した。

 

「……泣かせない」

 

菜々子は頷いた。

 

「約束」

 

「……約束」

 

その声を聞いて、真白は足立を見た。

 

足立は目を逸らした。

 

奥から堂島が出てきた。

 

怪我はまだ完全には治っていない。

だが、立ち姿は刑事のそれだった。鋭く、重く、逃げ道を塞ぐような視線。

 

足立は反射的に背筋を伸ばした。

 

「……堂島さん」

 

その呼び方だけは、昔と同じだった。

 

堂島はしばらく足立を見た。

 

殴るかもしれない、と真白は思った。

それなら止めないつもりだった。

足立も、たぶん避けないだろう。

 

けれど堂島は殴らなかった。

 

その代わり、低く言った。

 

「お前に言うことは、山ほどある」

 

「……はい」

 

「今ここで言ったら、菜々子の前で終わらねぇ」

 

足立は何も言わない。

 

堂島の視線が、真白に移る。

 

「真白」

 

「はい」

 

「行くんだな」

 

「うん」

 

「足立と」

 

「うん」

 

堂島の眉間に深い皺が寄る。

 

「俺は、許してねぇ」

 

「分かってる」

 

「足立も、お前もだ」

 

真白は頷いた。

 

「分かってる」

 

「分かってねぇ顔だな」

 

堂島の声が少し荒くなる。

 

「お前はいつもそうだ。分かった顔をして、必要なことだけ飲み込んで、自分の行きたいほうへ行く」

 

真白は何も言わない。

 

それは事実だった。

 

堂島は足立を見た。

 

「足立」

 

「……はい」

 

「真白を連れて行くなら、逃げるな」

 

足立の目がわずかに動く。

 

「俺からも、こいつからも、菜々子からも、自分からもだ」

 

足立は半笑いを作ろうとして、失敗した。

 

「……厳しいっすね」

 

「当たり前だ」

 

堂島はさらに低く言う。

 

「次に菜々子を泣かせたら、俺は父親じゃなく刑事としてお前らの前に立つ」

 

真白は、その言葉を前にも聞いていた。

だが今は、足立も一緒に聞いている。

 

足立は堂島を見た。

いつもの薄い笑いも、間延びした返事も出てこなかった。

 

「……分かりました」

 

短い返事だった。

 

堂島は、信じた顔をしなかった。

ただ、それ以上は言わなかった。

 

居間には鳴上もいた。

 

彼は玄関から少し離れたところに立っていた。

真白と目が合う。

 

鳴上の目は静かだった。

怒りも、軽蔑も、全部奥へ沈めている。菜々子の前だからだ。

 

真白はその沈黙に、少しだけ感謝した。

 

「悠くん」

 

真白が声をかけると、鳴上は軽く頭を下げた。

 

「お元気で」

 

それだけだった。

 

足立には何も言わなかった。

足立も、鳴上には何も言わなかった。

 

ただ一瞬、二人の視線がぶつかった。

 

鳴上の目には、まだ答えを求めるような強さがあった。

足立の目には、逃げたくなるような苛立ちと、負けたことを認めたくない薄い笑いがあった。

 

真白はその間に入らなかった。

 

ここは自分が触る場所ではない。

少なくとも、今は。

 

別れは短かった。

 

菜々子が真白に抱きついた。

真白はそれを受け止めた。

 

「お姉ちゃん、ちゃんとご飯食べてね」

 

「菜々子ちゃんもね」

 

「お父さんにも作ってあげてね」

 

「うん」

 

「お兄ちゃんにも」

 

「うん」

 

「足立さんにも?」

 

菜々子が足立を見る。

 

足立はぎこちなく笑った。

 

「僕はまあ、適当に食べるから」

 

真白が横から言う。

 

「作るよ」

 

足立は嫌そうにする。

 

「……あっそ」

 

菜々子は少し安心したように笑った。

 

その笑顔が、真白には痛かった。

 

堂島は最後まで玄関先に立っていた。

見送るというより、送り出す責任を自分に課しているようだった。

 

真白は靴を履き、振り返る。

 

「おじさん」

 

堂島は何も言わない。

 

「ありがとうございました」

 

昔、家を出て大学へ向かった日にも、同じことを言った。

 

あの日の堂島は、「何かあったら帰ってきていいんだからな」と言った。

真白は「うん」と答えて都会へ出た。

 

今回は、堂島はすぐには言わなかった。

 

言っていいのか迷っている顔だった。

 

それでも、最後には言った。

 

「……何かあったら、帰ってこい」

 

真白の胸がまた痛む。

 

「うん」

 

「ただし」

 

堂島の目が鋭くなる。

 

「足立を連れてくるなら、先に連絡しろ」

 

足立が半笑いで口を挟む。

 

「そこ、条件つくんすね」

 

堂島が睨む。

 

「当たり前だ」

 

足立はすぐ黙った。

 

真白は小さく笑った。

 

「分かった」

 

その笑顔は、いつものものだった。

穏やかで、少し寂しそうで、ちゃんと娘の顔をしている。

 

堂島はそれを見て、何かを言いかけた。

けれど言わなかった。

 

車に乗り込むとき、真白は一度だけ堂島家を振り返った。

 

菜々子が手を振っている。

鳴上はその後ろに立っている。

堂島は腕を組み、怖い顔でこちらを見ている。

 

真白は手を振り返した。

 

姉の顔で。

娘の顔で。

 

そして、足立の隣に乗った。

 

 

車が走り出す。

 

稲羽の町が後ろへ流れていく。

商店街、河川敷、ジュネスへ続く道、堂島家へ曲がる角。雨上がりの空気はまだ湿っていて、車内には足立の煙草の匂いと、真白の荷物から漂う紙と洗剤の匂いが混じっていた。

 

足立はしばらく黙っていた。

 

真白も黙っていた。

 

町の端が見えてきたころ、足立が口を開く。

 

「……どうしてこうなったんだろうな」

 

半笑いだった。

でも、疲れていた。

 

「不起訴になったから」

 

「そういう話じゃねぇよ」

 

「私が助けたから」

 

「それも違う」

 

「透が逃げなかったから?」

 

足立は一瞬黙った。

 

それから、窓の外を見たまま言う。

 

「逃げたろ。テレビの中まで」

 

「でも戻ってきた」

 

「負けて引きずり出されただけだろ」

 

「戻ってきたことには変わりないよ」

 

足立は舌打ちする。

 

「お前のそういうとこ、ほんと腹立つ」

 

「好き?」

 

「嫌い」

 

「そっか」

 

真白は少し笑った。

 

高速へ向かう道に入る。

町の建物が少なくなり、窓の外には山と田畑が増えた。稲羽が少しずつ後ろへ遠ざかる。

 

真白は膝の上で手を重ねた。

 

言おうか迷った。

迷うこと自体が珍しかった。

 

足立はそれに気づいたらしい。

 

「何」

 

「うん?」

 

「何か言いたい顔してる」

 

「透、分かるんだ」

 

「分かりたくねぇけどな」

 

真白は少しだけ目を伏せる。

 

「……ずっと一緒じゃ、ダメ?」

 

足立の手が、ハンドルの上で止まりかけた。

 

車はまっすぐ走り続ける。

だが、車内の空気だけが一瞬止まった。

 

「……今さら何言ってんの」

 

足立の声は低い。

 

「聞きたくなった」

 

「お前が全部決めたんだろ。保証人になります、一緒に住みます、都会行きますって」

 

「うん」

 

「堂島さんにも菜々子ちゃんにも、あんな顔してさ」

 

「うん」

 

「それで今さら、不安そうに聞くわけ?」

 

真白は黙った。

 

足立は横目で見る。

 

真白は本当に少し不安そうだった。

 

その顔に、足立は言葉を失いかけた。

この女が何をしたか知っている。

自分を助けるために、被害者も、堂島も、鳴上たちも、法も、全部踏み越えた。

それなのに今、たった一言の返事を待っている。

 

腹が立つ。

ひどく腹が立つ。

 

そして、どうしようもなく逃げられない。

 

足立は前を見たまま、少し間を空けた。

 

「……ダメじゃねぇよ」

 

真白の指が、わずかに動く。

 

「本当?」

 

「いちいち確認すんな」

 

「でも」

 

「どうせ、逃げられねぇんだろ」

 

足立は鼻で笑った。

 

自嘲のようで、降参のようでもあった。

 

真白は足立を見る。

 

足立も、ほんの一瞬だけ真白を見た。

 

「……逃げねぇよ」

 

小さな声だった。

 

でも、今までのどの言葉よりはっきりしていた。

 

真白は笑った。

 

嬉しそうに。

本当に、嬉しそうに。

 

「うん」

 

その笑顔を見て、足立は顔をしかめる。

 

「何笑ってんだよ」

 

「嬉しいから」

 

「重いんだよ、お前」

 

「知ってる」

 

真白は窓の外を見る。

稲羽の町はもう後ろに小さくなっていた。

 

堂島の顔。

菜々子の手。

鳴上の静かな目。

全部が胸の奥に残っている。

 

罪悪感はある。

痛みもある。

けれど、それは真白を引き返させない。

 

足立の隣にいることを選んだ。

選んでしまった。

 

だから、その選択を最後まで抱える。

 

真白はぽつりと呟いた。

 

「……逃げたら、殺しちゃうよ」

 

足立の横顔が固まる。

 

数秒後、彼は低く笑った。

 

「……冗談に聞こえねぇ」

 

「冗談だよ」

 

「嘘つけ」

 

「半分」

 

「半分かよ」

 

足立は呆れたように笑った。

その笑いは、稲羽にいたころより少しだけ軽かった。

 

真白はシートにもたれ、目を閉じる。

 

車は都会へ向かって走り続ける。

後ろに置いてきたものは、多すぎた。

前にあるものは、きっとろくでもない。

 

それでも、足立の左手首には、まだあの腕時計があった。

 

真白は目を閉じたまま、その音を聞いている気がした。

 

秒針が進む。

逃げない時間が、少しずつ積もっていく。

 

隣で足立が小さく息を吐く。

 

「……真白」

 

「うん」

 

「飯、ちゃんと作れよ」

 

真白は目を開けた。

 

「透が手伝ってくれてもいいよ」

 

「嫌だね」

 

「じゃあ、卵くらい割れるようになって」

 

「鳴上くんじゃねぇんだから」

 

その名前を出したあと、足立は少しだけ黙った。

 

真白も黙る。

 

だが、沈黙は長く続かなかった。

 

「卵くらいなら」

 

足立がぼそりと言う。

 

「割ってやってもいいけど」

 

真白は横を見た。

 

「うん」

 

笑いすぎないように、少しだけ息を整える。

 

「お願いね」

 

足立は前を見たまま、面倒そうに言った。

 

「……殻入っても文句言うなよ」

 

「取ってあげる」

 

「子ども扱いすんな」

 

「はいはい」

 

 

車の窓の外で、空が少しずつ暮れていく。

 

稲羽で終わらなかったものを抱えたまま、二人は遠ざかっていった。戻る場所を残したまま、戻らないための生活へ向かって。真白はその矛盾を、両手で大事に抱えるように、静かに息を吸った。

 

足立は右手をハンドルに残したまま、左手だけで真白の手を取った。

 

握るというより、捕まえるような手だった。

手首ではなく、指先を絡める。逃げるなと言っているのか、逃がすなと言っているのか、分からない。

 

真白はその手を見下ろして、少し笑った。

 

「透」

 

「何」

 

「好き」

 

足立は真白を見なかった。

 

「……知ってる」

 

窓の外で、稲羽の景色が完全に遠ざかっていく。

 

車は都会へ向かって走る。

二人分の罪と、嘘と、執着を乗せたまま。

 

 

その温度だけは、間違いなく現実だった。

真白はそれを、逃がさないように握り返した。

 

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