猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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藤の主人

煤けた石壁の隙間から、凍てつく風がひゅうひゅうと鳴り響いている。どこか遠くの回廊で、古い氷が自重に耐えかねて割れるような、からん、という乾いた音が鼓膜を叩いた。主を失って久しい巨大な石造りの館。外の世界はすでに冷徹な夜の帳に完全な支配を許し、容赦のない嵐がすべてを削り取っていた。泥に塗れ、体温を奪われ、境界の結界を越えてこの部屋へと流れ着いた肉体には、もはや自らの名前を思い出すだけの余力すら残されていない。重い瞼を押し上げた視界の先、薄暗い部屋の中心に据えられた木製のベッドに、その影は静かに座っていた。

 

揺らぐ灯火の明かりが、彼女の輪郭を幽かに浮かび上がらせる。

 

衣服と呼べるものは何ひとつ纏っていない。ただ、病的なまでに白く滑らかな肌の上を、無造作に巻かれた白い包帯だけが幾重にも覆っていた。首元から胸元、そしてしなやかな四肢を縛るように這う布の帯は、冷たい館の空気の中で微かに震えている。衣服を持たないその肢体は、生々しい肉の熱を閉じ込める監獄のようであり、灯火に照らされた皮膚は、包帯の荒い繊維に擦れてかすかな赤みを帯びていた。その不調和な身体の頂には、闇の底で自ら発光するかのような、くすんだ淡いピンク色の髪が、まるで生き物のように音もなく揺れている。

 

彼女が、ゆっくりと首を傾げた。髪の隙間から覗くその瞳は、深い、底の知れない紫色だった。光の反射を拒絶する、澱んだ夜の底の色。一度視線を合わせれば、そのまま意識ごと底なしの沼へと引きずり込まれるような、昏い色彩がそこにあった。

 

「……あ、起きた?」

低く、微かにかすれた声が、室内の静寂を切り裂いた。驚くほど平坦で、それでいて耳の奥へと直接融けていくような独特の揺らぎがある。語尾が微かに鼻に抜けるようにして消えていくそのテンポは、異常なほどに遅い。一言を紡ぎ、次の言葉を選ぶまでに、長い、濃密な沈黙が贅沢に挟み込まれる。これほど異形の、悍ましくもある包帯姿であるのに、彼女の佇まいには羞恥も拒絶もない。ただ、世界が始まる前からそこに座っていたかのような、絶対的な自然さでこちらを見つめていた。衣服を奪われたその白い皮膚から、微かな、しかし抗えない獣の匂いが立ち上り、鼻腔を満たしていく。

 

「驚かせちゃったかな。……うん, そうだよね。こんな格好だし、こんな場所だし。でも、安心していいよ。ここはね、何にも君を脅かさない場所だから」

 

彼女――この館の主人である猫又おかゆは、ふっと目を細めた。文節の途中で、ふっと息を吸い、吐き出す。その息づかいそのものが、部屋の空気の密度を変えていく。彼女は、包帯の隙間から覗く自身の指先を、もう片方の手で静かに、しかし執拗になぞり始めた。指先の不自然なほどの白さと、包帯の粗い繊維の対比が、薄暗い視界の中で異様な立体感を持って迫る。それは、こちらの出方を観察しているようであり、同時に、内に秘めた肉食獣の衝動をかろうじて押し留めているようにも見えた。計算か、あるいは本能か、その境界は彼女の深い紫色の瞳の奥に隠されていて窺い知れない。

 

「外は酷い嵐でしょ?あの雨に打たれたら、心の奥まで凍りついちゃう。ここに来るまで、いっぱい頑張って走ってきたんだね。足、すごく冷たくなってる」

 

おかゆは、ベッドのシーツをそっと撫でた。その指の動きには一切の躊躇いがなく、流れるように滑らかだ。初めて対面したはずの存在に対して、彼女の纏う空気はあまりにも親密で、それでいて恐ろしいほどに無防備だった。自らの包帯姿が相手にどう映るかなど、ハナから思考の隅にも置いていない。いや、その無防備さそのものが、迷い込んだ者の足元を絡め取る、見えない蜘蛛の糸のようでもあった。

 

「おいで。こっち。……寒いでしょ?」

 

彼女は少しだけ身体を傾け、ベッドの半分を開けてみせた。その動きに伴い、包帯の隙間から覗く首筋の白い肌が、灯火の下で幽かに波打つ。足が、自らの意志を離れたかのように、ゆっくりとベッドへと向かっていく。一歩進むごとに、張り詰めていた肩の力が、自分でも気づかないうちにふっと抜けていく。

 

吸い寄せられるようにベッドへと身体を横たえると、重厚なベルベットの毛布が全身を覆った。けれど、それ以上に感覚を支配したのは、すぐ隣から漂ってくる、お香のような、古い紙のような、私的な甘さを孕んだ彼女の体香だった。包帯の間から漏れ出るかすかな皮膚の熱が、毛布の隙間に満ちていく。

 

おかゆは、隣に肉体が収まったのを確認すると、満足そうに喉の奥を鳴らした。ゴロゴロと、獣が至福を感じた時に発する、微かな地鳴りのような振動。彼女もまた、ゆっくりと横になる。包帯に包まれた彼女の身体が、微かな衣擦れの音を立てて、すぐ隣に滑り込んできた。

 

「うん。……これでよし。ねえ、僕のこと、じっと見てどうしたの? やっぱり、この包帯、気になる?」

 

おかゆは、いたずらっぽく唇の端を上げた。薄い唇が弧を描き、その隙間から、驚くほど白く尖った小さな犬歯がのぞく。湿った唇の裏側に隠された、鋭利な白が一瞬だけ光る。肉を引き裂くための、小さな、けれど確かな牙。それに触れたらどうなるか、想像するだけで首筋の肌が粟立ち、こちらの呼吸は浅く乱れていく。

 

「これはね、ただの趣味……って言ったら、信じる? うふふ。冗談だよ。ここにあるものは全部、古い記憶の残り香みたいなもの。この館も、僕も、……ううん、この包帯もね。深い意味なんて、探そうとしなくていいんだよ。ただ、今、こうして隣にいて、僕がここにいる。それだけで、この世界のルールは完成してるの」

 

彼女の声が、耳元でゆっくりと転がる。陰鬱で退廃的な美しさを湛えたこの世界の空気が、彼女の声によって、より濃密に編み上げられていく。

 

おかゆは、自身のピンク色の髪を一房、指先で弄んでいた。くるくると指に巻き付けては、解く。その繰り返し。彼女の思考は極めて冷静で、客観的であるように見える。自分がどう振る舞えば相手が安心するか、どう言葉を紡げば相手の心を縛り付けられるか、それを完全に理解しているかのようだ。けれど、その底にあるのは、ただの孤独のようにも思えた。この広い、時が止まった館の中で、一人で夜を数え続けることの寂寥。胸の奥が小さく疼き、指先がピクリと動く。

 

「心臓の音、トクトクって、すごくいいリズム。僕より、少しだけ早いかな。……でも、だんだん、落ち着いてきた。僕の音と、混ざり合っていくみたい」

 

おかゆは、包帯に巻かれた細い腕を、そっと胸元へと伸ばした。肌と肌が直接触れ合うわけではない。粗い包帯の質感が、布越しに皮膚へと伝わる。けれど、その奥にある彼女の体温は、驚くほど温かかった。凍てつくようなこの館の中で、彼女の身体だけが、確かな生の熱を帯びている。

 

「ねえ。怖がらなくていいんだよ。明日のことなんて、考えなくていい。この館の外には、もう何も残っていないかもしれないし、あるいは、新しい朝が待っているかもしれない。でもね、今、この瞬間だけは、世界で僕たち二人だけしかいないの」

 

彼女の声は、さらに低く、密やかになっていく。語る速度が落ちれば落ちるほど、部屋の空気は重みを増し、同時に心地よさに満たされていく。ただ、温かい泥の底へ沈んでいくような、ひどく甘やかな安堵だけが体を満たしていく。呼吸は、自然と彼女の遅いテンポと同調し始めていた。

 

おかゆは、じっと顔を見つめていた。瞳が、細められる。彼女の動きは常に最小限だ。無駄な動きをしない。それは、自らのエネルギーを温存するためでもあるし、獲物を確実に仕留める肉食獣のそれにも似ている。けれど、彼女は時折、髪にそっと触れた。愛おしそうに、壊れ物を触るかのように、指先で前髪を払う。

その指先は、包帯のせいで少しだけ不器用で、それがかえって、彼女の純粋な欲求を際立たせていた。

 

「何を忘れたいの? 辛かったこと? 苦しかったこと? ……それとも、自分自身の名前?」

 

くすくす、と彼女は静かに笑った。

 

「何でもいいよ。全部、僕が食べてあげる。猫はね、秘密を食べるのが得意なんだ。持ってきた重たい荷物、ここに置いていっていいからね」

 

彼女の言葉は、まるで呪詛のようであり、同時に極上の救済を思わせた。あの救いのない、けれど破滅的に美しい終末感。世界が崩壊していく中で、二人だけで手をつないで眠るような、閉じた幸福。おかゆは、その世界の中心に、文字通り主として君臨している。

 

彼女は、自身の身体をさらにこちらへと寄せた。包帯の隙間から、彼女の髪が零れ落ち、頬を撫でる。彼女の呼吸が、首筋に当たる。規則正しく、臨終を待つかのように静かな呼吸。

 

彼女の指先が、胸元を優しく、気まぐれに引っ掻くように動いた。その爪は短く整えられているはずなのに、かすかな野生の鋭さを残している。ふと、彼女は顎を細い指先で持ち上げ、その深い紫色の瞳で、獲物の味を確かめるかのように唇を凝視した。ほんの数秒、気まぐれな捕食者のような冷徹な光を宿したかと思えば、次の瞬間には何もなかったかのように、ふにゃりと頬を緩めて胸元に額を擦りつける。その理不尽なまでの愛らしさと、拭いきれない獣の気配。ほんのわずかに混ざり合うその野生が、彼女という存在の底知れなさをいっそう引き立てていた。

 

彼女が呼吸を深くするたび、豊かな胸元を締め付けていた包帯の結び目に、わずかな張力の変化が生まれた。寝返りを打つように彼女が身体を捻った瞬間、摩擦によってせき止められていた布の端が、滑るようにして小さく弾ける。張りを失った白い帯は、重力に逆らうことなく、彼女の滑らかな鎖骨から胸の膨みへと滑り落ちていった。締め付けから解放された包帯がわずかに外側へとめくれ、その隙間から、灯火を吸い込んで淡く発光するような、未熟な果実を思わせる柔肌が露出する。布の白さと、露出した皮膚の淡い肉色のコントラストが、薄暗い部屋の中で鮮烈に浮かび上がっていた。おかゆ自身はその物理的な変化に気づいているのかいないのか、ただ、布の擦れる微かな音だけが、二人の間の沈黙に溶けていく。

 

彼女の身体が密着するたび、包帯越しであっても、その肉体の持つ特有の柔らかさが腕へと伝わってきた。押し当てられた胸元の、波打つような柔らかな弾力。彼女が小さく息を吐き出すごとに、その温かな皮膚が、薄い布の障壁を越えてこちらの肌へと融解していくかのような錯覚を覚える。首筋に触れる彼女の吐息は、甘く、どこか熱を孕んでいて、今が夜なのか朝なのか、自分の名前が何だったのかさえ、どうでもよくなっていく。指先で肌をなぞる彼女の動きは、ただの愛撫というにはあまりにも無防備で、それでいて、こちらの最も過敏な部分を的確に探り当てるような、奇妙なほど艶めかしさに満ちていた。その肉体が放つ熱と香りは、この冷徹な館の空気を一瞬にして塗り替え、五感を完全に支配していく。

 

「……ん。あったかいね。君の隣、すごく落ち着く。……なんだか、僕の方まで眠くなってきちゃった」

 

おかゆの瞼が、ゆっくりと重そうに閉じられていく。けれど、彼女の手は、しっかりと衣類を、あるいはその身体を、包帯越しに掴んでいた。離さない、と無言で主張するように。言葉の最後に残る、小さな吐息。それ自体が、彼女の寂しさと、こちらへの執着を雄弁に物語っていた。

 

「おやすみ。……僕の可愛い、迷子。明日になっても、ちゃんと隣にいてね。……約束、だよ」

 

彼女の瞳が完全に隠れ、長い睫毛が影を落とする。そっとこちらの胸元に頭を預けてくる彼女の、猫のように丸められた小さな背中。その絶対的な依存の姿勢が、心臓を狂おしいほどに締め付ける。館の外では、依然として風が吠え、世界を削り取っている。けれど、この包帯姿の主人が統べる、小さなベッドの上だけは、永遠に等しい静寂と、確かな温もりに満たされていた。彼女の微かな寝息を聴きながら、そのテンポに合わせて、ゆっくりと、深い、昏い眠りの中へと落ちていった。

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