五月雨の晴れ間より、ねっとりとした夏の風が吹き出でて、鎌倉の山々を深く濡らし渡る。古きもののふの執念が地底に眠るというこの都は、ただに神仏の霊気に満ちたるのみならず、異界のあやしき気配をも孕みて、迷い込む人の魂を惑わす心地ぞする。極楽寺坂の切り通しを抜け、そぞろ歩む路地の奥に、ひっそりと佇む御霊の社あり。その狭き境内に、あぢさゐの花の、雨を含みて重たげに、かつ妖しく咲き乱れたるさま、目もあやに美し。その静寂を破りて、門前をば、鈍き響きを立てて鉄の車が通り過ぐれば、古い家々の瓦がかすかに震え、現と夢の境がおぼろげに揺らぐ心地がする。その線路のほど近く、大輪の青紫の花の海に溺るるが如く、一人の乙女が立ち尽くしをり。その名をば、猫又おかゆとぞ言ふなる。その姿を見れば、江戸の昔の町人らが暑さを避けんとして好みて纏ひし、帷子に交じりおびたる夏の装ひを身に浸せり。細き麻糸をまばらに織り成したる単衣は、そのしなやかなる身体の線を、夕暮れの霧の如くにおぼろげに見せ隠し、透き通るような白き肌が、藍染めの衣の隙間より仄かに浮かび上がりて、えも言われぬ艶を帯びたり。されど、何よりも見る人の魂を射すくめるは、その御髪と瞳の色にぞありける。今を去る一千五百年の昔、飛鳥の帝の御世に、最高の気品を示すものとしてめでられ、古き歌集に「万葉の紫」と記されたる、あの深くして、されど底の知れぬ、怪しきまでに澄み渡りたる紫の色。その濃き紫を宿したる髪が、重たき潮風にふわりと揺らぎ、同じ色を湛へたる瞳が、キミの姿をじっと見据ゑをり。「んー、やっぱりここの紫陽花は綺麗だねぇ。もぐもぐ……あ、キミも食べる? おおにぎり」とおかゆは、衣の袂より、竹の皮に包みたる小さき握り飯を取り出で、悪戯げなる笑みを浮かべ、現世の言葉にて嘯く。その語り口は、いつの時にあっても、ぽわぽわとして長閑に、聴く者の耳を心地よく擽る。されど、その歩みは不思議と軽々しく、足音をば毛ほども立てず。キミがその歩みの遅れがちになるを、言葉には出さねど、ただふっと立ち止まるその双つの瞳の揺らめきだけで察し、静かに寄り添ふ。そのぽっかりと開いた愛らしき口元とは裏腹に、その視線の奥には、人ならぬ妖の、万事を見通すかのような冷徹なる知性と、それを覆い隠す底なしの情愛が、まどろむように湛えられてをり。「ほら、見て。この紫陽花、ボクたちの髪や瞳と同じ色だよ。なんだか不思議な縁を感じちゃうね」とおかゆの細き指先が、雨の雫を湛へたるあぢさゐに触るるや、その花の陰より、ありてはあるまじき、ふたつに分かれたるあやしき尾の影が、ゆらりと陽炎の如くに立ち上り、一瞬にして消え去りぬ。キミはその影に一瞬息を呑み、胸の鼓動の高鳴るを覚ふるが、おかゆは何事もなき如くに微笑むばかりなり。この古き神社の土に眠る死者たちの情念を吸い上げて咲くという花々が、彼女の持つ霊気に恐れをなしたるか、あるいは歓びを覚えたるか、心なしかその色をいっそう深く染めるが如し。細きうなじから零れ落ちる紫の毛髪が、汗ばむ肌にぴたりと張り付き、ぬめりたる光沢を放つのを、キミは凝視せざるを得ず、視線のやり場に惑ふ。おかゆはふと足を止め、濡れた葉の上に這う小さな蝸牛の歩みを、まるで世界の終わりを見届けるかのように、ただじっと、飽くことなく見つめをり。再び鉄の車が地響きを立てて去り、辺りに濃密な静寂が戻るや、おかゆは、いと自然なる仕草にて、キミの衣の袖を、いと淑やかに引きぬ。「じゃあ、次は江ノ島に行こっか。海が見たいな」と二人は車に揺られ、海岸の線を進む。車内には、家路に就く地元の学生らの賑やかなる声が満ち、誰ぞの持つ雨傘より滴る水の、床に小さな水溜りを作るを、キミは意味もなく見つめをり。窓の向こう、由比ヶ浜の海は、傾きかけた夏の光を浴びて、きらきらと、されどどこか物哀しげに輝きたり。キミはそのあまりに広大なる海の青さに、己が身の小ささを覚えてかすかに身震いするが、その時、隣のおかゆがそっと肩を寄せてきたる。江ノ島の駅に降り立ち、弁天橋の長き道を歩むにつれ、汐の香りが、肌に纏いつくように濃くなりゆく。古来、神仏の隠り処として畏れられ、江戸の世には多くの衆生が物見遊山に訪れたるこの孤島は、今もなお、現実の世と常世の境の如きあやしきけはひを漂わせをり。「わぁ、海風が気持ちいいねぇ。ねぇ、キミ、ちょっと歩くの早くない? ボクのペースに合わせてよ」とそう言いながら、おかゆはわざと一歩、二歩と遅れて歩み、キミの顔を、下よりじっと覗き込む。その紫の瞳に、キミの困惑したる、されど愛おしげなる表情が映る。キミは思わず視線を逸らすが、その耳朶の赤く染まるを、彼女は見逃さず、ふふ、と喉の奥で転がすように笑ふ。彼女のその行動には、人の心を捉えて放さぬ、猫特有のあやしき魔性が潜めり。参道へと入れば、栄螺の壺焼きの香ばしき煙が立ち上り、人の行き交ふさま、大層にぎははし。おかゆはふと足を止め、店先に並ぶ団子の焦げ目の数をじっと数ふるが如き、無駄なる執着を見せたるが、やがて思い直したるように振り返り、「んー、いい匂い。でもね、ボクはやっぱりキミと一緒に食べるご飯が一番美味しいと思うんだよね。……なーんてね」とおかゆはキミの腕に、我が細き腕をそっと絡ませぬ。藍染めの麻衣越しに、彼女の柔らかなる、されど時折、人よりもわずかに高い、熱を帯びたる体温が、じわりとキミの肌へと伝わり来たる。その瞬間、キミの身体がわずかに強張るを、彼女は嬉げに肌で受け止める。その御髪より、微かに夏のひだまりの匂いと、獣ともつかぬ、えも言われぬ妖しき香りが漂ひ、キミの理性をなぞるように掻き乱す。夕暮れの湿り気を含んだ大気が、彼女の薄衣をさらに肌へと密着させ、豊満にしてしなやかな肢体の起伏をあからさまに写し出すさまは、毒気を含んだ花の如く、キミの目を惹きつけて離さぬ。二人は、海の神を祀る社の、木々の深く生い茂る石段を上りゆく。木漏れ日の落ちるその道すがら、おかゆの足取りは、さらに滑らかに、重力を失いたるが如くに浮き立ちぬ。「ここから見る景色、最高だね。ねぇ、キミ。ボクね、こうしてキミと色んな景色を見られるのが、本当に嬉しいんだ。ずっと前から知っていたような、そんな懐かしい気持ちになるのはどうしてかな」と彼女の紫の瞳が、黄金の海を見下ろしながら、遠き時を見つめるように細められる。キミはその横顔を見つめながら、彼女がいつかこの世からふっと消えてしまうのではないかという、底知れぬ怖れを抱き、思わずその小さな手を強く握りしめる。おかゆは驚いたように目を見張ったが、すぐにその手を優しく握り返し、慈しむような視線をキミに注ぐ。一千五百年の昔の紫、江戸の夏衣、不可思議なる因果の糸に引かれるが如く、あるいは、かつて見たる『河童』の物語に云ふ、僕の過去は僕の未来を、いや、僕の未来は僕の過去を照らし出し、己れをも照らし出すといふ言葉の如くに、すべての時がこの一瞬に溶け合ひて、今の世に。その全てを、彼女はその身に宿しながら、ただキミとのこの一瞬のみを深く愛おしんでをり。日は落ちかけて、空の色は薄紫から茜色へと移り変わる。岩屋へと続く道の西日の中に、二人の影が長く伸びゆく。その時、おかゆの影だけが、人間のそれとは異なる、長き耳と双つの尾の形を、くっきりと地表に描き出したり。キミは目を見張る。影は動かない。否、確かに揺らめきをり。人の理を外れたる長き齢を生き、化け衰ふることもなきその異形は、ただキミを魅了し、眩惑の奥へと引き摺り込まんとするが如し。「今日はたくさん歩いたから、ちょっと疲れちゃった。ねぇ、あそこのベンチで少し休も?」とおかゆはキミの腕を優しく引き、木のベンチに腰掛けぬ。山の端より忍び寄る夜の気配が、徐々に境内を包み込み、昼の賑わいを闇の奥へと引き摺り込んでゆく。暗がりは静かに、されど確実に街を侵食し、二人の境界をも曖昧にしてゆく。そして、ごく自然なる動きにて、キミの肩に、その小さき頭を預けぬ。その御髪の柔らかさと、首筋に触れる涼しき風に、キミがそっと息を吐き出すと、彼女はその吐息に合わせるように、さらに深く身体を寄せてくる。密着せる半身から伝わる肉の柔らかさと、吐息が首筋を撫でる熱さは、いよいよ艶めかしく、キミの髄までを蕩かすやうに痺れさせる。「ふふ、キミの肩、あったかいや。ボクさ、言葉にするのはちょっと照れくさいんだけど……キミのことが、本当に大好きなんだよね。これからも、ずっとボクの隣にいてね」と、今の世の鳴き声もて囁く。そのおかゆの喉の奥から、低く、ゴロゴロと、悦びに震える猫の如き鳴き声が、微かに響き渡る。その音を聴くうちに、キミは自分が明日どこへ行くべきだったのか、己が名前すらも忘れてゆくようであった。キミはその甘やかな響きに囚われ、もう二度と日常へは戻れぬことを悟りながらも、その心地よさにただ身を委ねるほかなし。江ノ島の海に沈みゆく夕日の光が、彼女の美しい紫の瞳と髪を、この世のものならぬほど神秘的に照らし出し、二人の紡ぎ出すひとときは、鎌倉の悠久なる歴史の底へと、消えぬ契りとして静かに刻み込まれゆくのであった。