宝伝のうらぶれた港から、わずかばかりの鉄の腹を波頭にぶつけて進む発動機船は、ひどく無骨な響きを瀬戸内の海面へ撒き散らしていた。夏の盛りを告げる陽光が船室の狭い窓から容赦なく差し込み、宙に浮遊する埃の粒子を金色に狂わせている。その硝子窓の向こうには、ただ重く、平坦な青が横たわるばかりであった。木製のベンチはエンジンの執拗な振動をそのまま骨へと伝えてくる。隣に腰掛ける猫又おかゆは、その真夏の熱気から完全に超越した佇まいで、微動だにせず、ただ涼然としていた。頭上には、十九世紀の倫敦の街頭を思わせる厳格な輪郭を持った黒いシルクハットが、いささか斜めに載せられている。まとっているのは、仕立ての佳い夏の黒いスーツである。薄手の、しかし織りの細かい上質なウールが、身体の線に沿ってしなやかな襞を作っていた。その徹底された黒は、彼女がふとこちらを見据えるその双眸の奥、静謐にして底知れぬ深紫(こきむらさき)の色彩を、冷酷なまでに際立たせるための暗がりであった。肌の白さは、真夏の太陽の下にあって、いっそ不自然なほどに透き通っている。それは漆器の底に沈む白練(しろねり)の、わずかに体温の名残を錯覚させながらも、本質的には冷徹極まる、神秘的な白であった。
船室を揺らす発動機の轟音の隙間に、不意に彼女の声が滑り込んでくる。
「ねえ、そんなに見つめられると、僕、なんだか照れちゃうな。それとも、この格好がおかしい?」
低く、しかし驚くほどによく通る、あの独特の鼻にかかった声音であった。彼女の発声には、常に固有の間が潜んでいる。言葉と言葉のあいだに、薄い絹を一枚挟み込んだような、あるいは吐息の余白が数ミリ秒だけ長く引き延ばされるような、奇妙な風情がそこには宿る。眉の端を緩やかに崩して、猫が甘えるように喉を鳴らすその仕草には、愛嬌が不意に溢れ出ていた。
「君は、僕が夏に黒い服を着るのが、少しばかり天邪鬼に見えるんだろう。でもね、これが僕の落ち着く形なんだ」
唇の端をわずかに吊り上げて笑う。その細い首筋から覗く皮膚と、鎖骨の線の繊細さは、見る者の目を惹きつけずにはおかないが、その微笑みは、私という存在を透過して、遥か彼方の空間を見つめている。網の目の向こうにいる無数の群衆を、ただ一言の符牒で魅了してきた彼女の立ち振る舞いは、一対一の空間にあってもその磁力を失わない。目の前にいる彼女が本物の肉体を持った人間であるのか、あるいは私が電脳の海の底で見た美しい幻影の残滓に過ぎないのか、その境界が奇妙に曖昧になっていく。――私はただ、黙って彼女の横顔を凝視するほかなかった。
船が犬島の波止場に着くと、私はその小さな島へと足を踏み入れた。かつて銅の精錬で栄え、今やその遺構を芸術の器へと転生させた、静かなる隠れ家である。潮の香りと、島特有の花崗岩――犬島石の乾いた匂いが混ざり合う土の道を歩く彼女の歩調は、どこまでも緩やかであった。時折、シルクハットの鍔を指先で軽く触れる癖がある。それは自らの思考の焦点を合わせるための儀式であった。彼女のスーツの裾が、島の穏やかな風に吹かれて、ひらひらと揺れる。大人の色気というには、いささか少年めいた中性的な危うさがあるが、その歩みは確実に、この静泊した島そのものの時間を狂わせていく。
「ここが、精錬所の跡なんだね。……なんだか、大きな化石の中に迷い込んだみたいだ。ほら、置いていかれちゃうよ、急いで」
目の前に現れた「犬島精錬所美術館」の遺構は、圧倒的な存在感をもって私を迎えた。明治の末期に建てられ、わずか十年ほどで操業を終えたというその場所は、大量の鉄とガラスの成分を含んだカラミ煉瓦によって築かれている。その煉瓦の色は黒く、あるいは鈍い焦茶色を帯びており、太陽の光を吸い込んで重々しく佇んでいる。おかゆは、そのカラミ煉瓦の壁に、そっと掌をあてた。
「温かいね。この壁、お日様の光をたくさん吸い込んでいるんだ。触ってみる?」
彼女は目を細めて微笑む。その視線の奥には、容易に他者を踏み込ませぬ絶対的な冷徹さが潜んでいる。
美術館の内部へと進むと、空気の質が劇的に変わった。化石燃料を一切使わず、自然の気流と地熱、そこへ差し込む僅かな光の交錯に、私の思考がふと停止する。太陽光だけで内部の環境を調節するよう設計されたアースギャラリーと呼ばれる長い、薄暗い通路を進む。壁面はやはり黒々としたカラミ煉瓦で覆われており、足元はひんやりとした空気に満ちている。おかゆの髪が、その暗がりのなかで、かすかな光を捉えて葡萄鼠(ぶどうねずみ)の、渋みのある高貴な紫へと変化した。彼女は一切の物音を立てずに歩く。その足取りは、どこか獲物を探す野性のそれでありながら、過去の遺物を検分する冷徹な批評家でもある。
「暗いところは、落ち着くね。……ねえ、君は怖くない? もし怖かったら、僕の服の裾、掴んでもいいんだよ」
立ち止まり、振り返って私を見る。シルクハットの影が彼女の顔の上半分を覆っているため、その表情を完全に読み取ることはできない。しかし、その薄い唇が、からかうように僅かに開かれているのは分かった。彼女の喋り方には、相手の反応を愉しむような、猫じみた含み笑いが混じる。それは、文字の連なりのなかに潜ませるあの悪戯っぽいニュアンスと、まったく同じ性質のものであった。だが、その背後に隠された彼女の思考の本体は、この煉瓦の迷宮よりも遥かに深く、暗い。
通路を進むと、突如として視界が開け、天井から強烈な自然光が降り注ぐホールへと出た。そこには、古い邸宅の廃材を用いた芸術作品が、宙に吊らされ、あるいは床に配されている。文字や鏡、解体された家屋の破片が、自然光を受けて複雑な影を床に落としていた。ホールの天井はガラス張りになっており、そこから差し込む太陽熱によって内部の空気が温められ、上昇気流となって遥か頭上の古い煉瓦造りの煙突へと抜けていく。その煙突効果によって、先ほど私たちが通ってきた地中の涼しい空気が、文字通り吸い上げられているのだ。
「すごい構造だね。太陽と、地球の力だけで、この大きな建物が息をしているんだ。……僕たちのいる場所も、こんな風に、みんなの熱量で動いているのかもしれないね。君の熱量も、僕に届いてるよ」
感嘆とも呟きともつかぬ声で云う。「僕」という響きは、この西洋風のスーツをまとった姿において、この上なく自然に響く。それは少女の背伸びではなく、また少年の模倣でもない。猫又おかゆという、ひとつの完成された個性が選んだ、もっとも座りの佳い衣裳なのだ。肌は、この強い光の下でふたたびその神秘的な白さを露わにした。それは光を浴びても決して赤く火照ることはなく、ただただ静かに光を撥ね返している。彼女が動くたびに、スーツの仕立ての良さが際立つ。上着のボタンはあえて留められず、内側の白いシャツが覗く。そのシャツの白もまた、白磁(はくじ)のように透明感のある涼しげな白であった。
「ちょっと疲れたから、あそこで休おうか。ほら、手を貸して」
指差したのは、館内の一角にある、犬島石の巨石が置かれた休憩場所であった。おかゆはスーツの膝を軽く折り、大した躊躇もなくその岩の上に腰を下ろす。シルクハットを脱いで膝の上に置くと、細い指先で、紫の髪をかき上げた。その瞬間、彼女のうなじから背中にかけての柔らかな皮膚が露わになり、周囲の廃墟的な空間のなかに、鮮烈な大人の色気が立ち上る。外光を浴びた髪の筋が、一瞬だけ藤紫(ふじむらさき)の淡い諧調を帯びて、すぐにまた陰へと沈んだ。彼女は、じっと天井の煙突を見上げている。その横顔は、万人の前で見せるあの常に笑顔を絶やさない親しみやすさとは裏腹に、遠くのものを見つめるような、深い孤独の影を宿している。私がその影に触れようとすると、彼女はすぐに、あの調子で微笑みかけてくるのだ。
「君とこうして島を歩いていると、時間が止まってしまったみたい。……ねえ、次の機会には、今日のことをみんなに話そうか。それとも、僕たちだけの秘密にする? 僕は、秘密にする方が好きだけどな」
彼女の瞳の深淵が、悪戯っぽく揺れる。私はその瞳の中に、すでに失われた過去の幻影を見ている。彼女は確かにここにいる。しかし、その存在の半分は、別の世界の、決して触れることのできない冷たい光の中に属している。
迷宮のごとき煉瓦の通路を抜けて外へ出ると、島の空気は先ほどよりもいささか湿り気を帯びて、海からの生暖かい風が、彼女の被るシルクハットの縁を小さく揺らした。島を囲む波の音は、遠くで規則正しい拍子を刻み、こちらの歩調をいやが応にも緩やかにさせる。彼女は、西洋仕立ての黒い上着のポケットに両手を突っ込んだまま、舗装も満足にされていない、砕かれた犬島石の混じる土の道を気怠そうに歩いている。衣服の襟元から覗く首筋の白さは、日本の古来より尊ばれる胡粉色(ごふんいろ)の極みであり、それは瀬戸内の強い日差しを浴びて、むしろ冷ややかに発光している。不意に、道端に咲く野花を見つけると、彼女はしゃがみ込み、「あ、見て見て、小さくて可愛い」と目を輝かせた。その無邪気な一瞬の表情は、先ほどまでの大人の艶やかさを綺麗に覆い隠してしまう。細い指先で花弁を突くとき、その爪がかすかに若紫(わかむらさき)の光沢を反射した。
「君はさ、さっきから僕の後ろばかり歩いているけれど、そんなに僕の背中に何か付いている? それとも、僕に見惚れちゃった?」
振り返ることもなく、ただ声を後ろへと放るようにして云った。その声音には、網の目の向こうの人々を翻弄する、あの気まぐれな全能感が滲んでいる。彼女の喋り方には、常に独特の、そう、呼吸を整えるかのような絶妙な「間」がある。相手の予測の一歩手前で止まるか、あるいは遥か先へと飛び越える。この間の取り方こそが、彼女の計算であり、あるいは天性の資質なのだろう。私は彼女の影を踏まないように、しかしその確かな背中を見失わないように、静かに従うしかなかった。
精錬所を離れ、島の中央へと向かう細い坂道を上り始めた。犬島は、歩いて一時間もあれば一周できてしまうほどの小さな島である。道すがら、島に住む高齢の女性が、軒先に腰掛けてこちらをじっと見つめていた。その深く刻まれた皺だらけの顔は、この島が辿ってきた激動の歴史を無言で物語っているが、おかゆがその横を通り過ぎる際、シルクハットの鍔を軽く指で弾いて「こんにちは」と微笑むと、その老女の顔がふっと綻んだ。その特異な親しみやすさは、老若男女を問わず、また世界の境界を問わず、一瞬にして他者の警戒心を融解させてしまう。それは彼女の行動でありながら、同時に周囲との関係性を常に良好に保ち続けるための、彼女固有の引力であった。
「島の時間は、本土とは違う時計で動いているみたいだね。ねえ、君はどっちの時間が好き?意味もなくのんびり握飯でも頬張りたくなるような、こういう時間も悪くないでしょ。僕ね、今のこの、君といる時間が一番好きだよ」
坂の途中で立ち止まり、眼下に広がる瀬戸内海を見下ろした。そのとき、雲の切れ間から差し込んだ光が、彼女の瞳を紫苑色(しおんいろ)に染め上げる。彼女の瞳の奥には、日々向き合っている無数の視線が、静かに沈殿している。時に一言、時に短い符牒だけで、人々の心を掴んで離さない彼女は、自らの魅力を完全に理解し、どう振る舞えば相手が喜ぶかを熟知している。身にまとう夏の黒いスーツは、この島の緑や青い海とはあまりにも不調和であるはずなのに、彼女がそこに立つだけで、まるでその風景のほうが彼女のために誂えられた舞台装置である。
世間の大部分の人間が、ただ一色の生活を甘んじて送っているのに、僕たちの前には常に無数の境界が口を開けている。――頭の中には、ただ凝っと坐って動かない、一つの女の影があった。私は彼女の、アクリル板の前に佇むその姿を凝視しながら、ふと奇妙な静寂のなかに引きずり込まれる。彼女は常に完璧な偶像を生き、その裏側にある個人の境界線を決して他人に見せない。その徹底した自己制御のなかにこそ、彼女の真の孤独と、あるいは抗いがたい大人の色気が潜んでいる。歩を進める彼女の影が、古い畳の上に滅紫(けしむらさき)の染みのように長く伸びていた。
「ねえ、君。僕がもし、ある日突然、この島みたいに静かになってしまったら、君はどうする?」
アクリル板に映るこちらの姿を見ながら、彼女はぽつりと呟いた。その声は、いつもの悪戯っぽい響きを完全に排除した、いささか低すぎる、そして剥き出しの響きを持っていた。私の喉が息を呑み、何かを言いかけようとした瞬間に、……遠くから船の鈍い汽笛が鳴り響いた。潮風がその余韻をかき消すように強く吹き抜け、彼女はそれ以上語らず、ただ何もなかったかのように静かに歩き出した。その横顔には、二度と触れられない深淵が張り付いていた。彼女を追いかける私の足元で、乾いた犬島石が小さな音を立てて転がった。
日の光がいよいよ衰えて、瀬戸内の波が黄金の波紋から藍色の帳へと移ろう頃、私たちはただ無言で歩調を合わせた。おかゆの黒いスーツの肩が、私の肩と時折、かすかに触れ合う。その度に、彼女から漂う、夏の汗とは無縁の、微かに甘い、しかしどこか清潔な香りが鼻腔をくすぐった。肌の質感は夕闇のなかでなおも乳白色の神秘的な光を保っている。
「楽しかったね、今日の小旅行。……君と一緒で、本当によかったよ。また、僕をどこかに連れて行ってね」
波止場に滑り込んできた船のタラップを上がる直前、彼女は振り返り、シルクハットを胸に当てて、優雅に一礼した。その仕草は、完璧に計算された演者のそれでありながら、同時にこちらに対する純粋な親愛の情の表れでもある。彼女は船室に入ると、すぐに窓際の席に座り、元の、涼然とした、何もかもを見透かしたような江戸紫の瞳に戻っていった。船が島を離れ、犬島の影が徐々に小さくなっていくのを、私たちはただ黙って見つめていた。彼女の思考も、こちらの思考も、この瀬戸内の深い夜のなかに、カラミ煉瓦の黒とともに、静かに沈み込んでいく。その沈黙は、かつて万の衆生を熱狂させた美しい偶像が、いつか完全に消え去る日の予兆のように、ひどく冷たく、そして甘美な重みをもって、ただそこにあった。
夕闇の迫る水平線の彼方、網の目のように交錯する世界の片隅で、数千、数万の絆が静かに息づく。物言わぬ遺品のごとき廃墟の記憶を乗せた船のなか、彼女はただ一言の合図を世界へと送るように、静かに、しかし力強く、僕らの未来を肯定する微笑みを湛えた。窓の外に広がる入道雲が、赤銅色の夕日に染まりながら静かに形を変えていく。遠ざかる島影を背にして、彼女は小さく悪戯っぽく微笑み、……「よろしくお願いしまあぁぁすっ!」と、かつて世界を救った少年のような底抜けに明るい声を、どこまでも広がる盛夏の青空へと響かせた。