激しい蝉の時雨が、まるで歪んだ音の波のやうにじっとりと湿つた空気を震はせてゐる。山形県の山寺、立石寺の千百段に及ぶ気の遠くなるやうな石段の最下層に、おいどんは立ち尽くしてゐた。腹の底に溜まつた醜悪極まる贅肉の塊が、一歩を刻むたびにぶざまに揺れ、重力といふ名の不条理な拘束が絶望の質量となつておいどんの貧弱な意志を粉砕せむと襲ひかかつてくる。死ぬ。こんな苦行、今すぐ引き返して冷たい蕎麦でもすすつて寝転びたい。邪心と怠惰が濁つた欲望となつて脳裏に絡みつく。だが、それを許さぬ圧倒的な「圧」が、おいどんの背後に厳然として存在してゐた。
「僕たちの約束は、こんな場所で終わるような、安っぽいプログラムだったわけ?」
振り返ると、そこには熱血漢の佇まいを完璧に模した猫又おかゆが立つてゐた。黒い学ランの袖を肩まで荒々しく捲り上げ、その下から覗く白いタンクトップが、初夏の容赦ない陽光を反射して眩しく輝いてゐる。おかゆの鼻には横一文字に白い絆創膏が貼られ、その口元には一本の緑色の木の葉が、まるで不敵な挑戦状のやうに斜めに咥へられてゐた。普段ののんびりとした脱力感など微塵もない。その瞳と髪は、この世のあらゆる光を拒絶するかのやうな、古来より高貴とされる深く沈んだ、狂ほしいほどの「紫紺」の光彩を放つてゐる。おかゆのその鋭い眼光は、まっすぐにおいどんの、いや、僕の魂を射抜いてゐた。
おかゆは無言のまま、懐から小さな、そして不気味なほど鮮やかな「激辛の赤いグミ」を取り出し、おいどんの口元へ突きつけた。もう一方の手には「甘い青いガム」が握られてゐる。この赤いお菓子を口に含めば、醜悪な現実をすべて忘れて元の怠惰な泥濘へと戻ることは許されない。それは、脳を縛つてゐる全ての限界のプログラミングを書き換へるための、絶対的なハッキングの儀式であつた。おいどんが覚悟を決めてその激辛の赤い弾丸を噛み砕いた瞬間、視界は無数の、狂ほしいほどの「葡萄染」の降下コードの奔流となって激しく解体され、脳髄の奥底で何かが決定的に覚醒した。
男は、歩かねばならぬ。メロスが激怒したやうな、根源的な衝動がおいどんの肉体を突き動かす。
一歩。また一歩。石段を登るのではない。世界そのものの階層を、物理的な法則を力技で書き換へていくのだ。呼吸は肺を焦がす熱い鉛のやうになり、心臓は古いモニターのノイズのやうに激しく点滅してゐる。衣服は汗と泥にまみれ、じつとりとした湿気が皮膚を覆ふ。せみ塚のあたりに漂ふ法師蝉の、まるで狂つた監視者の声のやうな歪んだ音の波が、世界がモザイク状に崩壊していくシステムノイズとなつて脳内へ侵入してくる。だが、おいどんの背中を押すのは、あの学ランを翻し、共に血の味のする空気を吸ひながら、一蓮托生の泥塗れのバカとして並走してゐるおかゆの足音だ。彼女はただ見守る上位のコーチなどではなかつた。彼女もまた、おにぎりやーとの約束を守るために、自分自身の「絶対にファンを信じきる」といふ狂気的なまでの相互信頼の重荷を背負ひ、限界の向かう側へ走つてゐるのだ。
視界が「滅紫」の闇に染まりかけ、肉体が完全に消滅を始める寸前、おいどん達はついに最上部の五大堂へと到達した。眼下に広がる山形の山々、そして古来より人々を圧倒してきた最古の重みをたたへる岩肌が、今はじめて「菫色」の、計り知れないほど美しい調和のやうに一本の光のピンのやうに固まり、世界の真実の姿を現したやうに思へた。
肉体など精神の投影に過ぎぬ。重力という拘束から精神が勝手に浮き上がる。おいどんの頬を、熱い涙が伝ふ。勝つたのだ。邪心に、世界に、そして己を縛るプログラムに。
だが、その感動の絶頂の瞬間、世界がガラスが砕け散るやうな凄まじい音を立てて、奇妙なブレを始めた。
手を見る。手のひらの皮膚が、標本のやうに乾いたデジタルノイズとなって解体されていく。おかゆの着てゐる黒い学ランも、タンクトップも、すべてが緑色の降下コードの奔流へと引き裂かれ、虚空へと吸ひ込まれていく。五大堂の絶景も、山寺の古い岩肌も、すべてが都合のよいハッキングの幻覚に過ぎなかつたのか。視界の向かう側から、朧げな、本当に朧げなおかゆの姿が、陽炎のやうに揺らめきながら見えた。彼女は消えゆく世界の境界線で、それでも必死に、震える声でおにぎりやー、頑張つて、と、命を賭した信頼の響きをその口元から絞り出してゐた。
「……ふふ、よく頑張ったね。僕たちの約束、ちゃんと……」
その声を最後に、すべては最初から、存在してなどゐなかつたのだ。
気がつくと、俺は五大堂の冷たい木の床の上に、ただ一人で倒れてゐた。激しい脱水症状で頭痛が割れるやうに痛む。あたりを見回しても、学ラン姿の熱血漢も、紫色の髪も、激辛のグミも何もない。あるのは、ただの錆びた一本の鉄の棒。そして、その根元に置かれた、一足の、泥にままみれた小さなスニーカーだけだつた。おいどんは、ただ、灰色に濁つた本物の空を見上げてゐた。