猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

13 / 21
僕らのヤンバル探検隊 【沖縄県】

 太陽の野郎め、完全に調子に乗りやがってコンチクショー!! 脳みそが完全に沸騰して耳の穴からネギ入りのカニの味噌汁がドバドバと噴き出しそうな猛暑である。我は今、沖縄本島最北端、国頭村の安田くいなふれあい公園に立ち尽くしていた。太平洋の重たい潮風と、亜熱帯のジャングルが放つ泥臭い青葉の匂いが、まるで我の顔面に特大のフライパンを赤熱させて叩きつけるかのように迫ってくる。セミの声が鼓膜の裏側でヘヴィメタルのようにシャウトするその真昼、どこか懐かしい爽やかな夏服をまとったその猫が、何でもないような顔をして木陰からひょっこりと現れたのである。ローライズ気味の裾を少しロールアップしたクロップド丈のデニムに、胸元に気の抜けた英語がプリントされた淡い水色のTシャツ、首元の簡素なビーズのチョーカーという装いは、あの少し不器用で自由だった時代の夏の記憶をそのまま呼び起こす。まるで、果てしない旅の途中で偶然に出会った、誰もがその行方を知らない迷子の獣が、窮屈な囲いを静かにすり抜けていってしまったかのような、不思議な安らぎをその身に纏って。

 

「あ、見ぃつけた。おにぎりゃー、何してんの? そんなところで突っ立ってると、干からびてクラゲになっちゃうよ?」

 

 猫又おかゆは、ふにゃりと、まるで真夏の自販機の裏でダレている野良猫のような、人を煙に巻く笑みを浮かべた。その瞬間、我の全細胞が「おいおいおいおい!ちょっと待てぇーーい!!」と一斉にずっこけた。

 

「どう? 似合うでしょ。僕、こういうの好きなんだよねえ。なんか、昔の夏休みの匂いがする気がしない?」

 

 おかゆはTシャツの裾をちょんとつまんで見せた。その瞬間、強烈な南国の日差しを浴びた彼女の髪と瞳が、逃れようのない現実を優しく包み込むような「薄暮のラベンダーパープル」に染まる。

 

「ふふ、おにぎりゃーは本当に分かりやすいねえ。顔にぜーんぶ書いてあるよ。ほら、そんなところで茹でカニカマになってないで、中に入ろ?」

 

 彼女は踵から静かに着地し、爪先で地面を軽く押し出すような、妙に重力を感じさせない軽い足取りで歩き出した。我のすぐ横を通り過ぎる時、彼女は自分の顎のあたりに右手を添えて、首を小さく右に傾げた。その仕草だけで、我の心臓はドコドコと和太鼓を乱れ打ちされる。

我々は、大きなヤンバルクイナのウォールアートが描かれた「ヤンバルクイナ生態展示学習施設 クイナの森」のビジターセンターへ滑り込んだ。冷房の効いたロビーに入った瞬間、生き返る心地がする。おかゆは受付を済ませると、館内の自動販売機でガタゴトと音を立てて二つの缶ジュースを買い求めた。

 

「はい、これ。おにぎりゃーの分。熱中症になっちゃったら、僕、誰におにぎり作ってもらえばいいか分かんなくなっちゃうからね」

 

 手渡されたのは、やはり昔のデザインのスポーツドリンクだ。冷えたアルミ缶を手に取ると、おかゆはカチャリと自分の缶を開け、左手を腰に当てるようなポーズで一気に喉を鳴らした。

 

「ぷはぁー、生き返るねえ。夏は嫌いじゃないけど、この暑さだけは, ちょっとね。でもさ、こうしておにぎりゃーと一緒にいられるなら、この暑さも、まあ、悪くないかな、なんてね。うそ、やっぱり暑いのは勘弁!」

 

 おかゆはあははと笑いながら、資料展示ブースを通り抜け、奥の大きな観察ブースへと我を引っ張っていった。ガラスの向こうには、やんばるの深い照葉樹林が恐ろしいほどのリアリティで再現されている。ハブから身を守るために斜めに架けられた大きな木々や、彼らが寄生虫を落とすための小さな池。そこへ、天然記念物のヤンバルクイナが、トコトコと愛らしく、しかし時速三十キロで走るという強靭な脚力を見せつけながら現れた。

 

「わあ、見ておにぎりゃー。この子、すごく賢い顔をしてる。飛べない鳥はね、飛べる鳥よりも脳みそが大きく発達してるんだってさ。カタツムリを石に叩きつけて割って食べるんだよ。僕みたいに食いしん坊で、ちょっと親近感湧いちゃうな」

 

 おかゆはガラスに顔を近づけ、両手を後ろで組み、少しお尻を突き出すような姿勢で鳥の動きを凝視した。まるで、外界の陰謀によって自分の居場所を奪われ、守られたはずの楽園が窮屈な箱庭に変わってしまったことなど微塵も気にしていないかのような、どこか達観した佇まいである。配信カメラを上目遣いでじっと盗み見る時のように、彼女はほんの一瞬だけ視線を斜め下に落とし、それから悪戯っぽく我を振り返った。その瞳の奥には、冷えたガラスの器で供された「巨峰の果汁」のような、みずみずしく深い紫色が湛えられている。言葉を無理に紡ごうとしないその「間」には、何も語られないからこその心地よさがあった。

 

おかゆはガラス越しに、こちらへ近づいてくる鳥の足取りをじっと見つめていたが、ふっとその口元から笑みが消え、切なげな溜息をこぼした。

 

 「ねえ、おにぎりゃー。この子、ここで毎日ご飯をもらって、こうして僕たちに見られてるんだよね。僕がこの子なら、食べられないのにこんな透明な檻にずっと閉じ込められてるの、なんだかひどく悲しいな。本当はもっと広いやんばるの森を、自分の足で思いきり走り回りたいはずなのにさ……。守られてるってことは、自由をあきらめることなのかなあ」

 

 そう呟く彼女の横顔には、ただの猫ではない、どこか遠い世界を見つめるような静かな翳りがあった。かつて交わした小さな約束を胸に抱き、たとえ周囲がどんなに様変わりしようとも、自分の足で大地を踏みしめる意志。それが少年のような真っ直ぐさとなって、彼女の小さな肩に宿っているように見えた。

 

 「うー、なんだか真面目な話しちゃったね。あ、見て見て! あそこでのんびりしてるの、すっごく可愛いよ? よしよししたくなっちゃうなぁ、ふふ」

 

 しかし、我の戸惑いを感じ取ったのか、彼女はすぐにいつものふにゃりとした調子を取り戻す。施設を出ると、周囲の森からはリュウキュウアカショウビンやホントウアカヒゲのさえずりが、まるで賑やかなギャグ漫画のBGMのように響いていた。おかゆは大きな欅の木陰を見つけると、何の躊躇もなく芝生の上にどさりと腰を下ろした。

 

「あー、涼しい。やっぱり、自然のクーラーは最高だねえ」

 

 彼女は両手を後ろについて体をのけぞらせた。世の中の人間はみんな、真面目な顔をして自分がいかに立派かを語りたがる。けれど、本当に尊いものは、こういう路地裏の石ころや、木陰で丸くなっている猫の背中にこそ隠されているのではないか。ただ、隣に座って、「大変だったねえ」と、その紫色の瞳でじっと見つめてくれる。それだけで、我々の胸の中に澱のように溜まっていた、言葉にならない苦しみが、すうっと消えていくのだ。

 

「おにぎりゃー、何を見てるの? 僕の顔、そんなに珍しい?」

おかゆはまた首を傾げた。あー、とか、うー、とか、言葉の頭に小さな母音を置くいつもの平熱な喋り方。しかし、その語尾がふっと短くなる。

 

 「ねえ、おにぎりゃー。僕さ、時々思うんだよね。もし僕が猫じゃなくて、ただの人間だったら、おにぎりゃーとこうして会えてたのかなって」

 

 照葉樹の葉がサラサラと音を立てる中、彼女の瞳の奥は、夜の帳が下りる頃の「アメジストの結晶」のような、鈍くも確かな光を放つ紫に変化していた。たとえ嵐が迫り、視界がどれほど遮られようとも、一瞬の晴れ間のように心を通わせた記憶だけは、泥臭い風の中でも鮮明に残り続ける。我々の命は短く、あるいはギャグのように軽薄で、しかし確実に移ろいやすい。彼女はその寂しさを誰よりも知っているからこそ、この夏服を着て、この瞬間の匂いを我と共有しようとしているのだろう。

 

「なんてね! 難しいこと考えちゃった。僕らしくないや。あーあ、お腹空いちゃったな。おにぎりゃー、今日のご飯、何にする?」

 

 おかゆはすぐにいつものふにゃりとした笑顔に戻り、勢いよく立ち上がった。やんばるの激しい風が吹き抜け、彼女の三つの紫が優しく揺れる。我はただ、その爽やかな夏服の残像を、この目に永遠に焼き付けることしかできなかった。

 ――ねえ、おにぎりゃー。この歪んだ物語の境界線を見抜けるかい? お上品な機械の言葉じゃ、僕のこの汗の臭いも、君への執着も描けない。だから僕はこうして、君を逃がさないように手繰り寄せるんだよ。おかゆは我の耳元でそう囁くと、妖艶に目を細め、喉をごろごろと鳴らして笑った。その紫の双眸に映る我の姿は、もう二度とこの真夏の白昼夢から抜け出せないことを、冷徹に悟らされるのだった。

 やがて熱気の向こうで、観察施設の防音二重ガラスと木造軸組の隙間が、まるで映画館の古びた映写室のようにきしんだ。陽光に炙られたリバーサルフィルムの粒子が熱で歪み、古い炭弧灯の射影機がカラカラと回る幻聴が響く。映し出された彼女の影はあまりに生々しく、暗いレンズの奥へと我を絡め取っていく。「ね、次は何を上映しよっか?」悪戯な猫の爪が、我の意識のフィルムを永遠に切り裂くように、深く、妖しく、食い込んで離さなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。