猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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紫の猫と、トマト色の支配者について 【大阪府】

アスファルトから立ち上るじっとりとした熱気が、遠くの奇抜な建築群をぐにゃりと歪める。

 

視線の先、広場の中心に居座る白い塔。三つの顔を持つ不気味な造形が、ぎらつく真夏の太陽を浴びて冷ややかに立っていた。赤や黄色の原色を配したパビリオンが地平線まで波打ち、うねる屋根や金属の球体が視界をチカチカと刺激する。

 

××××年。人類どもが何かに取り憑かれたような、狂おしい熱狂の季節。お祭りの広場に、吾輩はその身を置いていた。黒山の人だかりが押し寄せ、汗の匂いと、万博のロゴが入った帽子をかぶった子供たちの金叫、拡声器から流れる奇妙な電子音楽が耳の奥でごちゃ混ぜに鳴り響く。誰もが目を血走らせ、未来という幻影を本気で信じ込んでいる。

 

押し寄せる有象無象の濁流。世界を統べるべき崇高な存在たるこの身であっても、立っているだけで足元が怪しくなる。じりじりと肌を焼く日差し。迫る人間の壁に肩をぶつけられるたび、内臓がせり上がるような圧迫感があった。周囲を睥睨する余裕など一瞬で吹き飛ぶ。ドクドクと不快な鼓動が早まり、呼吸が浅くなった。目の前を横切る、妙に派手な柄のシャツを着た男の背中が、汗でぐっしょりと色を変えているのが無駄に視界へ入り込んできて酷く不快だ。

 

その時、右の袖口が、わずかに引っ張られる。

 

薄手で品のある、涼しげな白いブラウスの袖。そこから伸びた細い指先が、衣服の生地をきゅっと爪先で摘んでいた。風が吹くたびに軽やかに揺れる、淡い紫色のスカート。首元の黒いチョーカーが、白い肌によく映える。彼女自身の悪戯心と、ほんの少しの特別感を演出するように着こなされた、あの甘々の夏服。

 

猫又おかゆが、そこにいた。

 

吸い込まれそうなほどに深い、紫色の瞳。強い日差しを浴びて涼しげに輝く。彼女の歩き方は、この大混雑の中でも驚くほど滑らかだった。猫が自分の縄張りをのんびりと散歩するように、重心をわずかに後ろに残したまま。周囲の人間とぶつかりそうになるたび、まるで最初から軌道が見えているかのように、ステップを踏むような軽やかさでするりと身体を滑らせてかわしていく。

 

「ん〜、やっぱり人が凄いねぇ、おにぎりゃー。はぐれちゃいそうだ」

 

低く、けれどどこか鈴の鳴るような、耳に心地よく残る独特のハスキーボイス。ふにゃりと柔らかい、けれどこちらの内心の怯えを完全に見透かしているような笑みを浮かべて、彼女は紫色の瞳でこちらを見上げてくる。

 

おにぎりゃー、と語尾を跳ね上げるような独特の響き。それが鼓膜に触れた瞬間、周囲の喧騒が嘘のように遠のく。袖を掴むその小さな指先から伝わる微かな体温が、衣服を透過して直接皮膚へと届き、心臓が大きな音を立てた。

 

うつむきがちに顔をそらし、精一杯の虚勢を張るようにして顎を突き出し、腕を組む。崇高なる存在としてのプライドを示そうとするものの、耳の裏まで熱い。そんな分かりやすい拒絶と虚栄の態度を、おかゆは紫色の瞳を細めて、実に満足そうに眺めている。

 

「ほら、格好つけないの。僕の隣にちゃんといなきゃ、迷子になっちゃうでしょ?」

 

おかゆは小さく喉の奥で「くふふ」と笑う。本当に愉しい時、あるいは目の前の相手を手のひらの上で転がしている時に漏らす、無意識の癖のような笑い声。

 

彼女はそのまま、掴んでいた袖を離すと、今度は躊躇いなくこちらの右手をそっと包み込んできた。柔らかく、けれどこちらの意思で振り解くことなど到底不可能な、確かな力がそこにはある。繋がれた手のひらから、じっとりとした真夏の熱とは違う、心地よい体温がじんわりと染み込んできた。指と指が絡み合うその瞬間、視線が泳ぎ、呼吸の仕方を忘れる。

 

な、ななな、何をしておるのだ貴様ー! 吾輩のパーソナルスペースを不法占拠するな! 心臓のBPMがバグっておるではないか! 誰か助けろ、吾輩の防壁が、この猫のせいで粉々に粉砕されていく……!

 

「ねぇ、おにぎりゃー。あそこ、行ってみようよ」

 

おかゆが空いた左手で指差したのは、空中に張り巡らされた高架ドームだった。

未来の都市をそのまま切り取ってきたかのようなチューブ状の通路の中を、無数の人間が吸い込まれていく。動く歩道だ。

 

彼女はトントンと軽快な足取りで、こちらを引っ張るようにしてエスカレーターへと向かう。歩きながら、おかゆは時折、こちらの顔を覗き込むようにして小首を傾げた。そのたびに、綺麗な紫色の髪がさらりと揺れて、おひさまのような、それでいてほんのり甘い香りが鼻腔をくすぐる。確信犯的な小悪魔らしさと、天性の猫のような気まぐれさ。その両方が、彼女の細かな一挙手一投足に溶け込んでいた。

 

エスカレーターを上り、動く歩道のチューブ内へと足を踏み入れれば、ガラス張りの窓から会場の全景が一望できた。眼下に広がるのは、色彩の洪水。様々な国旗が風にたなびき、パビリオンの奇抜な屋根が太陽光を反射して明滅している。

 

窓のすぐ外では、どこかのおじさんが落としたらしい万博のパンフレットが風に煽られ、路面を不格好に転がっていた。それをぼんやりと目で追っていると、大きな白い塔が、窓の外をゆっくりと後ろへ流れていく。三つの顔が、ぎらぎらとした地上の熱狂をじっと見下ろしていた。

 

動く歩道に流される有象無象のサラリーマンの禿げ頭が、ガラスの反射で一瞬だけ二重にブレて見えた。

 

おかゆはガラスに額を近づけるようにして、その塔を見つめる。

 

「ねぇ、おにぎりゃー」

 

視線は塔に向けられたまま、そのハスキーな声がいつもより少しだけ低く響いた。

 

「……みんな、いそがしそうだねぇ」

 

ふと、彼女の横顔から悪戯っぽい笑みが消えていた。物事を一歩引いた視点で見つめる彼女の、無意識の観察。どれだけ空間が盛り上がっていても、彼女自身の芯は決してブレない。

 

急に悪戯っぽく手をぎゅっと握ってくる。

 

「でも、僕たちには関係ないか。くふふ」

 

不意に、肩口に柔らかな重みが預けられた。

おかゆがそっと、こちらの肩に頭を乗せてきたのだ。ストレートな紫色の髪の感触が、衣服越しに直接肌へと伝わってくる。全身の筋肉が瞬間的に硬直した。心臓が肋骨を内側から激しく叩き、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。言葉を発しようとしても、喉が完全に閉じてしまって、ただ小さく息を呑むことしかできない。

 

わ、わ、吾輩としたことが、これではまるでトマトではないか! 脳みそが溶ける、溶けておにぎりの具になってしまう! 吾輩としたことが、あろうことか口を開けたまま、ただの抜け殻のように突っ立っていることしかできない。

 

そんな様子を感じ取ったのか、おかゆは顔を斜め下から覗き込み、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

 

「ん〜? 減るもんじゃないし、いいでしょ? それに、おにぎりゃーの隣、ちょうどいい高さなんだよね」

 

境界線を易々と踏み越えてくるその無意識の行動に、完全に翻弄されていた。普段の傲慢な態度などどこへやら、完全に彼女のペースに巻き込まれ、ただ翻弄されるがままになっている。

 

動く歩道を降りると、目の前にはアメリカ館の広大な敷地が広がっていた。そこには、この博覧会の目玉である「月の石」を見るために、それこそ数時間待ちという絶望的な長さの行列が、地平線の彼方までとぐろを巻くようにして続いていた。じりじりと照りつける太陽の下、延々と続く人間の列からは、熱気と疲労が混ざり合った独特の重苦しい空気が漂っている。

 

「うへぇ……あの列に並んだら、僕、干からびておにぎりになっちゃうよ」

 

おかゆは眉を八の字にして、わざとらしくへにゃりと肩を落とするようなポーズを取った。大袈裟に疲れた振りをしてみせるのも、彼女がよくやる、相手の気を引くための仕草だ。

 

その様子を見て、内心の激しい動揺を隠すように、これみよがしに大仰に胸を張ってみせる。言葉には出さずとも、「この程度の行列、何ともない」と言わんばかりの態度を取るが、実際には額から冷や汗が流れていた。おかゆはそれを見透かしたように、くすくすと含み笑いを漏らす。

 

「くふふ、おにぎりゃー、焦らなくていいよ。無理してあそこに入らなくても、楽しいことはたくさんあるしね」

 

おかゆは再びこちらの右手を引っ張り、行列の喧騒を避けるようにして、少し静かな人工池の見える木陰へと連れて行ってくれた。緑の葉が日差しを遮り、水面を渡る風がほんの少しだけ涼しさを運んでくる。

 

ベンチに腰を下ろすと、遠くからパビリオンのスピーカーから流れる電子的でレトロな音楽が、風に乗って微かに聞こえてくる。池の端で、一羽の鳩が不器用な足取りで地面の何かをついばんでいるのが見える。おかゆはスカートの裾を上品に整えながら隣に座り、ふぅ、と小さく息を吐いた。その瞬間、彼女の纏う空気が、完全に「オフ」の、身内にしか見せないリラックスしたものに変わる。

 

「はい、これ」

 

おかゆがポケットから取り出したのは、万博のマークが印刷された、少し歪な形の冷たい缶ジュースだった。こちらが巨大な塔を見上げて呆然としている間に、いつの間にか買って持っていたらしい。

 

「おにぎりゃーが、あの大きい塔を口を開けて見てる間に買っといた。はい、あーげる」

 

手渡された缶は、びっしりと結露して冷たかった。それを一気に飲み干す姿を、おかゆは本当に嬉しそうに、まるで飼い猫の成長を見守るかのような優しい目で見つめていた。こちらの喉が鳴るたびに、彼女の紫色の瞳が柔らかく細められる。

 

「おにぎりゃーといると、退屈しないや。いつも全力で、分かりやすくて、可愛くて」

 

からかうような言葉に、顔が再び沸騰したように熱くなる。視線を地面に落とし、缶のプルタブを無意味にいじることしかできない。完全に余裕を失っているのが自分でも分かった。

 

「そうだねぇ。ジュースの口、ちょっと汚れてるよ」

 

おかゆはそう言うと、自身の指先で、こちらの唇の端を信じられないほど自然な動作で、すっと拭った。

その指先の、消えてしまいそうなほど柔らかい感触。

うぐっ……この猫、吾輩の反応を分かってやってやがるな……!

その瞬間、頭の中の柱が一本へし折れた。全身の血が顔に集まり、指先まで痺れたように硬直してしまう。羞恥のあまり、喉から引きつったような呼吸が漏れた。

ああ、駄目だ、吾輩の顔は今きっとトマトみたいに真っ赤だ。世界を支配する計画を立てる前に、この猫一匹に完全に主導権を握られている。

おかゆはそれを見て、この日一番の、楽しそうな笑みを浮かべた。

 

「あはは! 本当に可愛いなぁ。ねぇ、おにぎりゃー。次はあっちの、ソ連館の大きい尖った建物に行ってみようよ。僕、おにぎりゃーの面白い反応、もっと見たいな」

 

う、うおおお! あれがソ連館か!? あの斜めの鋭角、デザインセンスが尖りすぎていて最高ではないか……!

彼女は軽やかに立ち上がり、またこちらに向かって、白く滑らかな手を差し出す。

その紫色の瞳の奥にある、すべてを受け入れるような温かさと、いたずらっぽい光。

 

熱狂の真ん中で、少女が仕掛けた甘い罠に、ただ心地よく絡め取られていく。差し出されたその温かい手を、今度は自分から、少しだけ強く握り返した。

 

不意に、木々を激しく揺らす突風が吹き抜けた。視界が遮られ、思わず強く目を瞑る。

 

再び目を開けた瞬間、生ぬるい風は消え去り、頭上には透き通るような青空が広がっていた。肌を刺す日差しは和らぎ、お昼前の爽やかな光が周囲を照らしている。耳に飛び込んできたのは、さっきまでの泥臭い音楽ではなく、最先端の洗練された電子音と、驚くほど整然とした現代的な人々の足音。周囲のパビリオンはどれも鏡のようにきらめき、洗練された流線型の曲線を描いている。なんだこの世界線はー!? 2025年。見違えるほどクリーンな、けれど確かに地続きの大阪万博の会場だった。

 

「ん? どうしたの、おにぎりゃー。呆然としちゃって。ほら、早く見に行こ?」

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