新潟の、すこし塩気の混じった生温かい風が、ボクの麦わら帽子の隙間を通り抜けていく。海沿いの国道を歩いていると、アスファルトから立ち上る陽炎の向こうに、まるで海に浮かぶお城みたいな白い建物が見えてきた。長岡市寺泊水族博物館。それが、ボクとおかゆが目指していた、この夏の特別な場所だった。
ジリジリと焦げるような暑さに、ボクは思わず足取りが重くなる。
「ほらほら、ボクくん。あんまり下ばっかり向いてると、セミとごっつんこしちゃうよ?」
一歩後ろから、おっとりとした声が降ってくる。振り返ると、おかゆが歩幅を緩めながら、ボクを見て目を細めていた。
おかゆの着ているワンピースは、風が吹くたびに波のようにひらひらと揺れている。白地に淡い模様が入った、いかにもおかゆらしい、気取らないけれどどこか特別なお洋服。その頭に乗った大きな麦わら帽子の下では、いつもはぴょこんと立っている江戸紫の猫耳が、帽子に押されて綺麗にぺたんと伏せられていた。それがなんだか、ボクにだけ見せてくれる秘密の姿みたいで、暑さとは違う理由で顔が少し熱くなった。
「ふふ、そんなに見つめられると、顔におにぎりでも付いてるのかなって思っちゃうね」
おかゆは悪戯っぽく笑うと、首をすこし傾げた。その仕草ひとつをとっても、まるで猫が日向ぼっこをしている時のような、ゆったりとした、でも無駄のない不思議な心地よさがある。喋り方の語尾がいつも小さく跳ねるような、優しく包み込むリズム。おかゆが喋るだけで、周りの騒がしいセミの声が消えていく。
長い階段を上って、水族館の入り口をくぐる。一歩中に入ると、外のじっとりとした暑さが嘘のように消え去り、ひんやりとした空気と、古いコンクリートが水に濡れたような独特の匂いがボクたちを迎えてくれた。
「わあ……涼しいねえ、ボクくん。生き物たちの匂いがするよ」
おかゆは小さく鼻をひくつかせながら、館内の案内図を見上げた。立体的な構造になっているこの水族館を、おかゆはすたすたと、でもしなやかに進んでいく。
最初のコーナーには、寺泊の目の前の海、日本海に住む魚たちがたくさん泳いでいた。地味な灰色や茶色の魚たちだけれど、水の光を浴びてきらきらと光っている。おかゆの薄紫色の髪が、水槽の青い光を受けて、夕暮れ時の桔梗の花みたいに静かに色を変えた。
「ねえねえ、見てボクくん。あのカレイ、砂の中に上手に隠れてる。ボクくんは、どこにいるか分かる?」
おかゆがガラスにそっと指先を触れる。ボクが目を凝らして「あそこ!」と指をさすと、「正解。よく見つけられたね、えらいえらい」と言って、ボクの頭をぽんぽんと叩いてくれた。おかゆの手のひらは、夏の割には少しひんやりとしていて、でもすごく安心する温かさがあった。頭を撫でられるたび、ボクの鼻先におかゆのシャンプーの甘い匂いがふわりと掠めて、胸の奥がくすぐったいような、言葉にできない熱さに満たされる。おかゆの柔らかな指先が髪を梳く感覚に、ずっとこのままでいたいと思ってしまう。
そのまま順路を進むと、小さな足でペタペタと楽しそうに岩場を歩くマゼランペンギンたちや、丸い瞳をきょろきょろと輝かせるゴマフアザラシが、冷たい水の中で気持ちよさそうに宙返りを決める姿が目に飛び込んできた。テッポウウオの水槽では、水面からピュッと水を吹いてエサを撃ち落とす様子が見られて、ボクはすっかり夢中になった。
はしゃぐボクを、おかゆは目を細めて見守ってくれていた。
ボクはもっと色んな生き物が見たくて、少し薄暗い通路を小走りで進んでいった。次はカニかな、それとも深海の魚かな。青い光に照らされた水槽をいくつか早足で通り過ぎ、冷たい水の気配を肌に受けながら、薄暗い角をふたつほど曲がったところで、ふと気がついた。
隣から聞こえていた、おかゆの柔らかな足音がしない。
振り返ると、青白い非常灯が照らす細い通路には、ボク以外の誰もいなかった。急に、ゴボゴボという水槽の濾過機の音がやけに大きく響いて聞こえた。ひんやりしていたはずの空気が、急に背筋を凍らせるような冷たさに変わる。天井の配管から時折滴る水滴の音が、不気味なほどはっきりと静寂を切り裂いていく。
あらゆる物が奇妙に誇張されて、ボクの目には、水槽のガラスのなかの魚たちが、まるで冷たい液体に浮かぶ無数の幽霊のように見えた。どこを見ても、ただただ、底知れぬ深い青があるばかりだった。
声に出してみたけれど、水音にかき消されてしまう。さっきまであんなに楽しかったのに、心臓がドクドクとうるさく鳴り始めた。どうしよう、迷子になっちゃった。戻らなきゃ。朝にパンフレットで見た、この水族館名物のジンベエザメの大水槽の場所まで行けば会えるだろうか。でも、どっちから来たんだっけ。閉ざされた空間の圧迫感に息が詰まりそうになり、不安で胸がぎゅっと締め付けられ、視界が少し滲みそうになった時だった。
「もー、ボクくん。あんまり急ぐと、迷子の子猫ちゃんになっちゃうよ?」
後ろから、ひんやりとした、でもすごく安心する柔らかい手が、ボクの手首をそっと握った。
振り向くと、薄暗がりの中で、おかゆが少しだけ困ったような、でも優しい微笑みを浮かべて立っていた。菫色の瞳が、ボクの顔を覗き込んでいる。おかゆは小さく目を細めると、いたずらが成功した猫のように喉の奥でくくくと笑った。
「うう……」
「うう、じゃないよー。僕もよそ見してたから。……はぐれないように、手、繋いでよっか」
おかゆはボクの手をすっと握り直してくれた。指先が絡み合うとき、おかゆの綺麗な爪がボクの肌に優しく触れる。その少し大人びた体温に触れた瞬間、男の子としての小さなプライドが胸の奥で音を立てて、でもそれ以上に彼女に包まれている心地よさに、さっきまでの怖さが嘘みたいに溶けていく。
「さ、行こっか。この奥にね、すごいのがいるみたいだよ」
おかゆに手を引かれて、ボクたちは通路のさらに奥へと進んだ。
古い建物の入り組んだ構造を抜けた先。そこは、これまでの小さな水槽が並ぶ空間とは全く違う、ぽっかりと開けた大ホールだった。
館内の最も広い場所に位置するその場所には、寺泊の目玉展示として親しまれている巨大水槽が据えられていた。ホールの壁一面を満たすアクリルパネルは、底の見えない深海をそのまま切り取ってきたかのように青く、深い。
そこには、言葉を失うほどの、圧倒的な「青」の世界が広がっていた。
何千、何万という数の銀色のイワシの群れが、上からの光のカーテンを浴びてきらきらと蠢いている。そして、その群れを割るようにして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、巨大な影が近づいてきた。
ジンベエザメだ。
ボクは繋いでいたおかゆの手を握りしめたまま、ガラスに張り付いた。
「うわあ……」
口から出たのは、たったそれだけの言葉だった。
その大きさは、ボクが知っているどんな生き物よりも大きい。背中には、夜空の星をそのまま散りばめたような白い斑点模様が広がっている。大きなエラがゆっくりと開いたり閉じたりして、胸ビレをほんの少し動かすだけで、巨体が滑るように青い水の中を進んでいく。この水族館のひんやりとした空気の中に、こんなにも大きくて、静かな世界が当たり前のように息づいている。
それは恐ろしいほどに巨大で、それでいて、どこかこの世のものとは思えないほど美しい、大きな水生獣の幻影を見ているかのようだった。
怖い、でも、かっこいい。
ボクは瞬きも忘れて、ただその巨大な生き物を見上げた。あんなに大きいのに、水の音ひとつ立てない。まるで世界の時間を全部ひとりで持っているみたいに、ゆったりと泳ぐ姿から目が離せなかった。ボクの胸の奥が、熱いものでいっぱいになる。
気がつくと、おかゆもボクの隣で、大きな麦わら帽子を少し後ろに傾けながら、じっとジンベエザメを見上げていた。ぺたんとなった猫耳の隙間から覗く横顔が、水槽の深い青色に染まっている。おかゆの長い尻尾が、ワンピースの裾から覗いて、楽しそうにゆっくりと左右に揺れていた。
「……おっきいねえ」
おかゆの声は、いつもより少し低くて、静かな水底に響くように心地よかった。
「あんなに大きくて、きっと誰よりも強いのに……食べるのは、すごく小さなプランクトンなんだって」
おかゆは、ゆっくりと泳ぎ去るジンベエザメの背中を目で追いながら、ぽつりと呟いた。
「強いのに、優しくて、誰のことも傷つけない。誰も急かさないで、自分のペースで、広い海をずーっと泳いでる……。僕、こういうの、すごく好きだなあ」
おかゆはそう言って、ボクの方を振り向いた。その瞳の奥には、飾らない、本当の気持ちが揺れているのが分かった。おかゆの言葉は、ボクの心の中にすっと落ちてきた。
ただ「でかい、すげえ」と思っていただけのボクの目に、そのジンベエザメが、急にすごく優しくて、頼りになる存在に見えてきた。いつもみんなを優しく包み込んでくれるおかゆが、どうしてこの生き物をそんな目で見るのか、ボクには少しだけ分かった。おかゆの気まぐれに見えて実は周りをよく見ている、猫のような、それでいて全てを受け入れてくれる海のような優しさが、ボクには何よりも頼もしかった。ボクもいつか、あんな風に、大きくて、静かで、かっこいい大人になりたい。おかゆみたいに、誰かを安心させられる強さが欲しい。
おかゆはボクの手を、もう一度きゅっと握り直した。おかゆの柔らかい肉球のような手のひらが、ボクの小さな手をそっと包み込む。
「ボクくんも、あのジンベエザメみたいになれるといいね。僕、ずっと見ててあげるからさ」
その言葉が、ボクの耳の奥に心地よく残る。おかゆの手の温もりが、ボクの背中をそっと押してくれた。
大きな水槽の前で、ボクたちはしばらくの間、ただ並んでジンベエザメが円を描いて泳ぐのを眺めていた。ジンベエザメが目の前を通るたびに、水槽のガラスから確かな振動が伝わってきて、そのたびにボクの心は新しく震えた。
水族館を出ると、外はもう夕方の気配が近づいていた。
日本海に沈む夕日が、空を燃えるような茜色に染め上げている。海からの風は、昼間よりも少し涼しくなっていた。
おかゆは麦わら帽子を手で押さえながら、夕日を浴びて輝く海を見つめていた。その横顔は、まるで一枚の絵画のように綺麗で、でもやっぱり、いつものおっとりとしたおかゆだった。おかゆは目を細めて眩しそうに、喉を小さく鳴らすように息を吐いた。
「楽しかったね、ボクくん。今日のことは、僕、ずっと忘れないよ」
おかゆはボクに微笑みかけると、猫みたいに足音を立てない、いつもの歩き方で夕日に向かってしなやかに歩き出した。夕日の影が、おかゆの足元から長く伸びていく。ボクは、その少し先を歩く背中を追いかけて、一歩を踏み出した。麦わら帽子の下で、ぺたんと寝た猫耳が、海風に揺られて気持ちよさそうに揺れていた。