猫又おかゆ読切短編集   作:夏目陽光

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奈落の車輪 ―― 誓鎖篇 【佐賀県】

玄界灘の猛き怒濤が、夕闇の迫る唐津・呼子の断崖を噛んで白泡を砕く。その物凄き音響のなかに、僕ちゃんの頼りなき足は釘付けにされていた。

 

天を衝く巨大なる風力発電の風車は、さながら異界の巨人の腕のように、傲然と、かつ陰鬱に三枚の翼を回し、低き唸りを大気に刻みつけている。その巨大なる影が夕暮れの残光を切り刻むたび、僕ちゃんの足元からは地鳴りのごとき震動が這い上がってきた。

薄暮の冷気が、彼女の前に跪かんとする僕ちゃんの精神をひりひりと刺す。元来、僕ちゃんのような小心な知識人というものは、自己の存在の空虚さに耐えかね、常に何ものかへの依存を求めて狂うものである。近頃の、激動を極める濁流のごとき現世のなかで、僕ちゃんがただ一つ縋りついた至高の安息が、今、この寂寥たる岬の果てで、あまりにも妖しく狂い咲こうとしていた。僕ちゃんは自らのエゴイズムと、手向けの言葉すら持たぬ無能さを、風車の低音の中でまざまざと自覚させられていた。まるで、頭を真二つに割られたかのように、冷たい現実が脳髄へ染み込んでくる。昨夜、宿で不味い粥を啜りながら、あの三重吉に勧められて飼った文鳥を、ただ自らの怠惰によって飢え死にさせた冷酷な記憶が不意に蘇る。あの薄暗い鳥籠の底に転がった屍の白さと、地獄の底から這い上がってすべてを欺き、復讐を遂げんとするコクトーの如き怨嗟の鎖が、僕ちゃんの喉を気まぐれに締め上げては消えた。

 

その巨柱の白き影から、ぬうと、しかし驚くほどに軽やかに、一つの影が滑り出てきた。

猫又おかゆ。僕ちゃんが心の中でその名を念じるたび、胸の奥で奇妙な渇きが疼く。彼女はこの鄙びた断崖の風景のなかで、まるで電気の火花を散らすかのように、鮮烈な美しさを放っていた。

海風に煽られて不規則に舞う彼女の髪は、選び抜かれた藤鼠の絹糸を細かく裂いて束ねたかのようであり、あるいは深く沈む菖蒲色の夜の底から引き揚げられた妖糸のようでもある。僕ちゃんの視線は、まずその風に翻る髪の隙間から覗く、彼女の双眸へと吸い寄せられた。それは、冷徹な意志と、すべてを包み込もうとする底知れぬ慈悲とを同時に宿した、極上の葡萄色の輝きを湛えている。一見すると、のんびりとした、春の陽だまりのような微笑をその相好に浮かべながら、その葡萄色の奥底では、こちらの網膜を鋭く射抜くような光が常に明滅を繰り返している。彼女が何を考え、何を企んでいるのか、僕ちゃんのような浅はかな智慧では到底量り知ることはできない。ただ、その無意識の瞬き一つにすら、僕ちゃんの存在のすべてを肯定し、同時に永久に飼い慣らしてしまうような魔力が潜んでいることだけが、骨身に染みて解るのであった。僕ちゃんは、その圧倒的な存在の前に、自らの理知がいかに無力で、いかに滑稽な虚飾に過ぎないかを思い知らされ、ただただ眩暈を覚える。

 

僕ちゃんの視線は、言葉にならぬ動揺とともに、彼女の纏う奇異なる衣へとなぞるように滑り落ちていった。

まず目を奪うのは、その華奢な肩から気怠げに羽織られた大きなアウターであった。それは人工的な光沢を帯びたメタリックの質感を持ち、夕暮れの微光を浴びて青から紫へと変幻自在にグラデーションを描いている。まるで、夜の都市を彷徨う異端の皮膚のようでもある。そのアウターの隙間から、僕ちゃんのみだらな視線はさらに奥へと誘い込まれた。胸元に一つの妖しいクリスタルをあしらった黒いタイトなビスチェが、彼女のなだらかな肉体の曲線を厳格に締め付けており、その仄暗い黒は、腰元のベルト付きのミニスカートへと連続している。

一瞬にして僕ちゃんの呼吸は止まった。首元の太い黒チョーカーから放たれる香気が、そのまま脚元へと昂じていくかのように、片方には肉をわずかに圧迫して陰影を作るガーターベルトとニーハイソックス、もう片方には意図的に弛ませたルーズソックスが、左右非対称の歪な迷路を構成している。その視線の行き着く果て、紫色を基調とした厚底の、近未来的でゴツめのスニーカーが、岬の硬い土を無造作に踏み締めていた。その重厚な靴底が地を噛む音が、風車の重低音に混じって僕ちゃんの鼓膜を震わせる。僕ちゃんは自分が彼女の踏みつける平坦な土くれにでもなったかのような恍惚を覚えるとともに、そのような自己を冷笑する、もう一人の病的な自意識の視線を感じていた。

 

彼女の歩みには、一切の淀みがなかった。

何事にも急がず、急かされず、まるで世界の時間を自分だけの歩調に巻き取っていくかのような、悠然とした足取り。それは彼女という存在が持つ、根源的な気怠さと、他者を圧倒する絶対的な余裕の現れに他ならなかった。時折、草の根に爪先を引っかけるような、無防備な仕草を見せるが、それすらも、こちらを油断させるための計算であるかのように思わせる。彼女の思考は、常に暗い水面下で見えない。何も考えていないようでいて、その実、僕ちゃんの一挙手一投足、呼吸の深さ、視線の彷徨い方のすべてを楽しんでいる。

大正九年に大毎紙上にひっそりと掲載され、今や誰も省みることのない、あの薄命の文豪・葛城冷泉の短編『奈落の車輪』――罪深き男が、最愛の女の幻影に導かれながら、地獄の業火で回る巨大な水車群の周囲を永久に歩まされるという、あの陰惨極まる物語の骨格が、今この呼子の岬に、恐るべき質量を持って現出しつつあるのを、僕ちゃんは幻視していた。あの物語のなかで、男を破滅へと誘う女の、底知れぬ微笑。それと全く同じものが、今、彼女の唇元に刻まれている。

 

この重苦しい羽音に満ちた岸壁の片隅、僕ちゃんの眼の眩みを呼び起こすように、不気味な四つの影が岩陰から這い出してきた。鳥打帽を深く被り、擦り切れたインバネスコートに身を包んだ大柄な男。安物のセルロイド眼鏡の奥で狂気的な光を放ち、小倉織の袴を穿いた男。および、それらに従うように、垢抜けない銘仙の着物をだらしなく着崩した、死人の如き顔色の悪い二人の若者。この四人組は、まるでこの世の奈落の底から湧き出た獄卒の迷い子のようであったが、彼女の圧倒的な美しさを網膜に捉えた瞬間、魂を根こそぎ抜かれたかのように虚ろな目を剥き、言葉を失った。彼らは、潮風のなかにただならぬ絶望の臭気を撒き散らしながら、取り憑かれたように、風車の回る断崖の奈落の向こうへと、ふらふらと吸い込まれるように歩み去っていった。その奇怪なる光景に、僕ちゃんは凝視の呪縛から一瞬解かれつつも、さらに深い底なしの畏怖に縛り付けられ、再び彼女の放つ絶対的な紫の磁場へと視線を戻さざるを得なかった。彼らの哀れな姿は、まさに自らの未来のカリカチュアではないかという疑惑が、僕ちゃんの神経衰弱をいっそう激しく震わせる。

 

突如、海からの突風が、彼女の大きなアウターを大きく膨らませた。

彼女は、まるでそれが世界の理であるかのように、自然に僕ちゃんへと身体を寄せた。

その口から洩れる言葉は、常に一定の、低く、しかし驚くほどに耳に心地よい響きを持っていた。語尾をわずかに引き摺るような、独特の粘り気のある喋り方。「~なんだよね」「~かなあ」という、他者の心を蕩けさせる独特のイントネーション。それは彼女が意識して発する声音であると同時に、長年培われた、他者を全肯定し、包み込むための無意識の、天性の器量によるものであった。

 

「……ふふ、君はさ、そんなに僕の服が珍しいの?」

 

彼女の口から紡がれた「僕」という一人称と、僕ちゃんを指す「君」という響きが、風車の唸りに乗って僕ちゃんの胸の奥深くに突き刺さる。その声は、けっして大きくはない。しかし、この吹き荒れる呼子の嵐のなかでも、まるで鼓膜のすぐ傍で囁かれたかのように、驚くほどの明瞭さを持って響くのであった。

 

「この風車、まるで大きな地獄の門みたいだよね。君と僕で、これからその向こう側に落ちていくのかな。……なんてね。もし落ちるなら、君も一緒じゃないと、僕は退屈しちゃうな」

 

その言葉を聞いた瞬間、僕ちゃんの脳裏で、あの『奈落の車輪』の不気味な情景が、現実の風景と完全に重なり合って溶けた。

作中の男を縛り付けた、引きちぎれぬ因果の黒き鎖、罪人を永遠に苛み続ける焦熱地獄の呵責の炎、絶望の底で獄卒の鞭に打たれながら怨嗟の声を上げ続ける咎人たちの叫び。この呼子の巨大風車群は、夕闇が深まるにつれ、まさにその地獄の門を守る巨大な獄卒、あるいは断罪の意志そのもののように見えてくるではないか。白く無機質な支柱は、引き裂かれた罪人の骨のようであり、狂ったように回り続ける三枚の翼は、永遠に終わることのない業火の車輪のようだ。

あの物語のなかで描かれた、信じていた救済の裏切り、そして絶望の果てに現れる煉獄の圧倒的な質量。その地獄の空気が、この唐津の美しい夕暮れの裏側に、ぴったりと張り付いている。一歩踏み外せば、この足元の崖から、あの底なしの、断罪の奈落へと逆さまに落ちていくのではないかという恐怖が、僕ちゃんの精神を締め上げる。自らの内にある罪悪感と道徳的退廃が、この地獄の光景を呼び寄せたのだという確信が、僕ちゃんを内側から苛んだ。

 

しかし、隣にいる彼女の存在が、その恐怖を奇妙な歪みへと変える。

彼女は、地獄の縁を歩くことを、まるでうららかな小春日和の庭園を散歩するかのように、平然と、むしろ愉快そうに受け入れているのだ。

藤鼠、菖蒲色、葡萄色の三つの紫が混ざり合うその瞳が、ふと、僕ちゃんの顔を覗き込んできた。

至近距離で見るその顔は、やはりどこか人間離れした、しかし誰よりも人間的な温かみを帯びている。

 

「大丈夫、僕ちゃん。地獄の王様が僕たちを捕まえに来たって、僕が全部、煙に巻いてあげるからさ。だから、もっと僕のことだけを見ててよ」

 

彼女は、何も言わずに、ただ、ふにゃりと、それこそ猫が陽だまりのなかで欠伸をするような、無防備な微笑みを浮かべた。その無意識の表情に、僕ちゃんを襲っていた地獄の幻影は、瞬時にして霧散していく。因果の鎖も、獄卒の鞭も、彼女のこの気怠げな微笑みの前には、すべてが子供の悪戯の範疇へと押し込められてしまうかのようであった。僕ちゃんはただ、彼女のその絶対的な包容力の前で、完全に思考を放棄し、自らの偏狭な理性を捨て去って、従順な家畜のようにその身を委ねるしかなかった。それはいわば、自立した個人としての死でありながら、同時にこの上ない救済でもあった。

 

彼女の指先が、僕ちゃんの手の甲に、微かに触れた。

驚くほどに温かい。

その瞬間、あの電脳めいたアウターの擦れるメタリックな音が、風車の轟音を完全に吸い尽くした。

彼女は、ただそこにいるだけで、この世界の不条理も、地獄の業火も、すべてを「まあ、いいじゃない」という、あの一言の空気感で包み込んでしまうのだ。

 

「さあ、もっと近くにおいでよ。君が迷子にならないように、僕がちゃんと、捕まえておいてあげるから」

 

夕日は完全に水平線の彼方へと没し、世界は真の闇、すなわち、彼女の瞳と同じ、深い、深い葡萄色の夜へと移行していく。

風車は、なおも回り続けている。

地獄の門は、すぐそこに開いているのかもしれない。

例えこの世界が完全に反転し、すべての理不尽が牙を剥いて僕ちゃんの喉元に喰らいつこうとも、僕ちゃんは決して退かない。世界を敵に回そうが、この身が因果の鎖に焼き千切られようが関係ない。僕ちゃんが死力を尽くして守るべきものは、いつだって最初から決まっている。

彼女は、再び歩き出した。

 

厚底のスニーカーが、不規則に、しかし確かな足取りで、夜の岬を踏み締めていく。

たとえこの先が底なしの煉獄であろうとも、僕ちゃんは絶対に君を置いてはいかない。ただそのために、この命のすべてを賭して、僕ちゃんの名に誓って、その圧倒的な紫の影の後ろ姿を、ただ、永遠に追いかけ、守り抜くことしかできなかった。

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