坂道を登るということは、重力に対してささやかな反逆を試みるということだ。それも、ただの坂道ではない。足元を埋め尽くしているのは、かつて誰かが土を捏ね、炎で焼き、そして用済みとして放り出した土管や焼酎瓶の破片だった。愛知県常滑市。「やきもの散歩道」と呼ばれるその場所は、まるで神様が粘土細工に飽きて、ゴミ箱をひっくり返した後のような立体感に満ちている。
俺の数歩前を、猫又おかゆが歩いている。
彼女の髪は、雨に濡れた菖蒲の深い紫を思わせた。その髪が、坂を吹き抜ける知多半島の風に揺れていた。
「ねえ、おにぎりゃー。ここ、なんだか迷路みたいだね」
おかゆが振り返る。その瞳は、水浅葱――微かに緑を孕んだ明るい水色の輝きを宿していた。その瞳が俺を捉え、細められる。彼女の言葉には、いつも独特の「間」があった。一音一音を急がず、まるで口の中で転がして、一番美味しい温度になってから差し出すような喋り方だ。語尾は穏やかに伸び、聞く者の警戒心を無条件で溶かしていく。
だが、その日の彼女の装いは、いつもの気怠げな和服とはまるで違っていた。白と黒を基調とした、モノトーンのストリート・カジュアル。
黒いタイトなキャミソールと、太ももが大胆に切り抜かれたワイドパンツ。歩くたびに、その隙間から肌の白さが覗き、垂れ下がったジッパーやストラップが小さく金属音を立てていた。足元は厚底のサンダル。涼しげで、それでいて今すぐにでも激しいダンスが踊れそうなアクティブさがある。
「どう? これ。そら先輩の衣装を僕風にアレンジしてみたんだけど……似合ってる?」
おかゆは両手を軽く広げ、その場でくるりと一回転してみせた。紫の髪が円を描き、水浅葱の瞳がいたずらっぽく揺れる。俺の視線が太もものカットアウト部分に固定されているのに気づいたのだろう、おかゆは「にへへ」と、喉の奥を少し鳴らすような、猫特有の無意識の笑い声を発した。
「あんまり見られると、さすがの僕もちょっと恥ずかしいかも。なんてね。嘘だけど」
彼女はそう言って、再び前を向いて歩き出した。厚底のサンダルが、土管が敷き詰められた坂道をしっかりと踏み締めていく。
その風景は、どこか現実離れしていた。右を見ても左を見ても、黒く燻された木造の壁や、レンガ造りの高い煙突がそびえ立っている。煙突の多くはもう使われていないのか、頂部から草が生い茂り、空を切り取るだけのただの記号と化していた。壁に埋め込まれた巨大な焼酎瓶の列は、まるでこの街を守る古代の兵士の目のようにも見える。巨大なワニの体内を散歩している気分だ。もちろん、消化される前の。現に、すれ違う観光客の姿はいつの間にか絶え、周囲にはただ、セミの鳴き声と、風が古い建物を揺らす音だけが響いていた。
どこか遠くで、古い木造の駅舎に響くようなガタゴトという電車の音が聞こえた気がした。錆びついた自転車の警音器がチリンと鳴り、木造の軒下からは、夕立の後の湿った土の匂いが立ち上っている。ひび割れたアスファルトの隙間から伸びる夏草の青さが、忘れ去られた少年の日の夏休みを思い出させた。入道雲が西の空を覆い尽くし、トタン屋根からは不揃いな雨の雫が規則正しく地面を叩いている。そんな、日本人の血肉に溶け込んでいる懐かしい静けさが、この細い路地には満ち満ちていた。
細い路地の向こうから、一人の男が歩いてきた。背が高く、仕立てのいいスーツを着ている。男は前を歩くおかゆの姿を一瞬だけ一瞥すると、無表情のまま、まるで耳の奥で鳴り響くお気に入りの音楽にしか興味がないといった様子で、俺たちの脇を通り過ぎていった。
その直後、別の男が小走りで通り抜ける。騒々しいロックバンドのTシャツを着て、ひどく機嫌が悪そうだ。ウォークマンのイヤホンからは、ドラムの激しい金属音を伴うノイズがシャカシャカと漏れ出ている。彼は歩きながら不器用そうに煙草に火をつけようとして、結局諦めてポケットに突っ込んだ。二人の奇妙な通行人は、言葉を交わすこともなく、そのまま別々の坂の闇へと溶けていった。
さらに、坂の少し開けた場所には、別の男が一人で立っていた。真夏だというのに薄手のトレンチコートを羽織り、強い眼差しで遠くの空を睨みつけている。彼は周囲の空気と同化しているかのように静かだったが、その呼吸はどこか、目に見えない巨大な怪物と戦っているような張り詰めた緊張感を孕んでいた。「流されるな、自分の頭で考えろ」とでも自分に言い聞かせているかのように、彼は固く拳を握りしめ、一度だけ深く息を吐くと、回れ右をして歩き去った。
「ねえ、おにぎりゃー。あそこ、何かいるよ」
おかゆが立ち止まり、細い指先で前方を指差した。
坂の分岐点に、一匹の大きな泥色の猫が座っていた。猫は微動だにせず、こちらの猫をじっと見つめている。おかゆは無意識のうちに、歩幅を狭め、足音を消した。重心がぶれず、音もなく移動する。彼女は泥猫の前にしゃがみ込むと、首を少し傾げた。
「やあ。君はこの街の主? 僕たちと同じ迷子?」
泥猫は答えず、ただ一度だけ低く鳴くと、焼酎瓶の壁の隙間へと滑り込むように消えていった。おかゆはその背中を見送りながら、キャミソールの胸元に手を当て、小さく息を吐いた。不安や緊張を感じたときに首回りに触れる、彼女のいつもの癖だった。
「なんだか、不思議なところだね。空気がさ、東京のとは違う。もっと重くて、湿ってて……おにぎりの匂いがする」
俺の表情を読み取ったように、おかゆは「冗談だよ」と笑った。
俺たちはさらに奥へと進んだ。道は徐々に狭くなり、斜度は増していく。両脇の壁は、赤茶色の土管で埋め尽くされている。それらが整然と、しかし不気味な規則性を持って並んでいる様は、やはりあのワニの背骨を連想させた。
足を進めるごとに、世界の輪郭が少しずつ歪んでいくのが分かった。空の色は、いつの間にか濁った朱色に変色している。昼下がりだったはずの時間は、一瞬にして夕暮れの底へと引きずり込まれたようだった。トタン屋根の影が異様に長く伸び、地面の土管の破片を黒く塗りつぶしていく。まるで見えない境界線を踏み越えてしまったかのような、胸のざわつきが止まらない。
ふと、背後でカラン、と高い音がした。振り返るが、誰もいない。ただ、風に揺られた錆びた看板が、古い民家の壁に当たっているだけだった。
しかし、何かがおかしかった。先ほどまで遠くに見えていた常滑の海や、中部国際空港へと続く連絡橋の姿が、いつの間にか濃い煙のようなものに覆われて見えなくなっている。今の常滑で、これほどの煙を出す窯は稼働していないはずだ。
「おにぎりゃー」
おかゆの声が、いつもより少しだけ低くなっていた。彼女は立ち止まり、辺りを見回している。ワイドパンツの裾が、風もないのに微かに揺れていた。紫の髪の隙間から覗く、三角形の愛らしい猫耳が、ピクリと動く。
「なんかさ、妙な気配がするんだよね。誰かに見られてるっていうか……ううん、街全体に見張られてるみたいな感じ」
周囲の古い窯の跡や、崩れかけたレンガの壁から、無数の視線を感じる。異物が紛れ込んできたことを、この古い土地が検知したかのような。
その時、俺たちの前に、一軒の奇妙な店が現れた。看板には文字が書かれておらず、ただ大きな「おにぎり」の絵が彫られた古い木板が掲げられている。店の入り口には、藍色の暖簾が下がっており、そこから香ばしい醤油の匂いが漂ってきた。
「わあ……美味しそう」
おかゆの目が、一瞬で輝きを取り戻した。彼女は躊躇なく暖簾をくぐり、店の中へと入っていく。モノトーンのストリートファッションが、薄暗い店内の影に溶けていく。俺も急いでその後を追った。
店内は、外観からは想像できないほど広かった。中央には巨大な赤レンガの窯が鎮座しており、その周囲をカウンターが囲んでいる。しかし、店員の姿は見当たらない。カウンターの上には、大皿に盛られた無数の焼きおにぎりが、まだ湯気を立てて並んでいた。
「誰もいないね。……おにぎりゃー、これ、食べてみてもいいかな?」
おかゆはカウンターに近づき、焼きおにぎりの一つに手を伸ばそうとした。
その瞬間、俺の脳裏に、強烈な違和感が走った。誰もいない店、用意された食事、エンドレスに繰り返される蝉の声。ここで出されたものを口にすれば、二度と元の世界には戻れなくなるのではないか。俺は思わず、彼女の細い手首を掴んだ。黒いキャミソールから伸びる手首は、驚くほど冷たく、手触りは柔らかかった。
「……え?」
おかゆは動きを止め、水浅葱の瞳を大きく見開いて俺を見た。いつもなら「どうしたの?」と優しく問いかけるはずの彼女が、言葉を失って、ただ俺の顔をじっと見つめている。
「ねえ、もし僕が壺になったら、毎朝美味しいお米を入れてね」
少しの間をおいて、おかゆはそんな冗談を口にした。その声はいつもの気怠いトーンを保っていたが、指先が微かに震えている。
店の奥から、低く地響きのような声が響いた。
『名を持たぬ器どもが、何故ここに立ち入る』
声の主は見えなかった。しかし、カウンターの奥にある巨大な窯の薪が、一斉に真っ赤な炎を上げて燃え上がった。その炎の光が、おかゆの紫の髪を赤く染め、彼女の顔に深い陰影を作る。
「誰……?」
おかゆは俺に掴まれた手首をそのままに、声のする方を睨みつけた。彼女の瞳の中の水色が、炎の赤を反射して、妖しい輝きに変化する。彼女の身体が、微かに沈み込んだ。ワイドパンツの隙間から見える太ももの筋肉が、いつでも跳躍できるように緊張している。
『ここは、役目を終えた器たちが還る場所。去れ。さもなくば、お前たちも土に還し、ただの壺として焼き上げてくれよう』
周囲の空気が激しく振動し、棚に並んだ古い湯呑みや皿がカタカタと音を立てて震え出した。周囲の壁が、徐々に迫ってきているような圧迫感がある。
「……おにぎりゃー」
おかゆが、静かに俺の名前を呼んだ。彼女の声は、いつもの気怠さを完全に脱ぎ捨てていた。深夜のラジオパーソナリティのような、これから秘密の悪巧みを始める相棒のような声。
「僕の手、離さないでね」
彼女は俺の手を逆に握り返した。彼女の指先は冷たかったが、その握力は驚くほど強かった。猫の爪が皮膚に食い込むような、確かな痛みが走る。
「走るよ!」
おかゆの掛け声と同時に、俺たちは店を飛び出した。背後で、あの巨大な窯が爆発するような音が聞こえた。炎と煙が暖簾を突き破って、私たちの背中に迫ってくる。
外の「やきもの散歩道」は、完全に変貌していた。土管の壁からは、泥のような液体が染み出し、それが生き物のようにうごめきながら、俺たちの足元をすくい取ろうと伸びてくる。黒い木造の家々は、歪んだ顔のように窓やドアを歪ませ、俺たちが逃げる道を塞ごうとしていた。
街そのものが意志を持って俺たちを閉じ込めようとしている。逃げても逃げても、目の前の景色は終わりのない悪夢のように同じ曲がり角を突きつけてきた。空気は熱を帯び、肺を焼くような不条理に満ちている。それでも、前を走る紫の背中は、決して速度を落とさなかった。
おかゆの走る姿は、美しかった。彼女の動きに合わせて、白と黒のモノトーンが、まるでバグを起こしたモノクロ映画のように異界の景色を切り裂いていく。厚底のサンダルが泥を撥ね飛ばすたびに、金属のストラップが小気味よいリズムを刻んでいた。
「こっちだよ、おにぎりゃー! あそこを出れば、きっと戻れる!」
彼女が指差したのは、散歩道の中でも特に有名な「土管坂」だった。両脇を巨大な土管と、焼酎瓶の底で敷き詰められた坂道。坂の頂上には、一本の古い電柱が立っており、そこから放たれる夕暮れの光だけが、現実の世界との繋がりを示しているように見えた。
「大きな波が来ても、それが社会の意志だとしても、僕らは自分の足で逃げるしかないんだよ」
走りながら、おかゆは唐突にそんな言葉を投げかけてきた。緊迫した状況のせいで彼女の脳のどこかのスイッチが変な方向に入ってしまったのか、それが彼女の平熱なのか、俺には分からなかった。ただ、その妙に座りのいい言葉は、俺の足をほんの少しだけ軽くした。
しかし、俺たちの足元に、泥の触手が絡みついた。俺の足が止まる。バランスを崩し、土管の破片が敷き詰められた地面に倒れ込みそうになった。
「しまっ……」
その時、前を走っていたおかゆが、信じられないような身軽さで反転した。彼女は厚底のサンダルで泥の地面を滑るように制動すると、ワイドパンツのベルトを軋ませながら、俺の身体を抱きとめた。彼女の身体から、微かに甘い、おにぎりの海苔のような匂いがした。
「大丈夫?」
おかゆの顔が、至近距離にあった。菖蒲色の髪が俺の頬をかすめる。彼女の明るい水色の瞳が、真剣な眼差しで俺を見つめていた。
「僕がついてる。だから、諦めないで」
彼女はそう言うと、俺の手を再び強く引き、土管坂を駆け登り始めた。背後からは、街全体が崩壊していくような地鳴りが迫っている。土管の隙間から、無数の泥の手が伸びてくる。おかゆはその手を、軽やかなステップでかわしていく。まるで、ステージの上でダンスを踊っているかのように。彼女のモノトーンの衣装が、純粋な白と黒のまま輝いていた。
「他人の考えた正義なんて、大抵はただの流行病さ。僕らは僕らの美味いおにぎりの味だけを信じていればいいんだ」
泥の手をすり抜けながら、彼女は小さく笑った。危機的状況の中で、世界を救うことよりも夕食のメニューを心配しているようなその態度が、たまらなく頼もしかった。
あと少し。頂上の電柱が、目の前に迫る。その向こうに、見慣れた常滑の海と、近代的な中部国際空港の管制塔の光が見えた。
「せーの、で跳ぶよ!」
おかゆが叫んだ。俺たちは、土管坂の頂上から、光の向こう側へと身体を投げ出した。
視界が、真っ白に染まる。
次の瞬間、耳を突き刺すようなセミの鳴き声が、一斉に世界を埋め尽くした。アスファルトの熱気が、足元から容赦なく立ち上ってくる。
俺たちは、普通の「やきもの散歩道」の入り口にある、観光案内所の前に立っていた。周囲には、カメラを首に下げた観光客や、のんびりと歩く老夫婦の姿がある。先ほどまでの、あの不気味な煙も、泥の触手も、どこにもなかった。
「ふぅ……。あー、びっくりした」
隣で、おかゆが大きく伸びをした。彼女の服装は、あの白と黒のクールなストリート・カジュアルのままだ。キャミソールからは、変わらず白いお腹が覗いており、ワイドパンツのストラップが、彼女の動きに合わせて揺れている。だが、そこには泥の汚れ一つ付いていなかった。
彼女は紫の髪をかき上げると、水浅葱の瞳を俺に向けて、いつもの「にへへ」という笑みを浮かべた。その喋り方は、完全にいつもの、あの気怠げで心地よいテンポに戻っていた。
「ねえ、おにぎりゃー。今の、なんだったんだろうね。僕、ちょっとお腹空いちゃったな」
彼女はそう言うと、ワイドパンツのポケットに両手を突っ込み、何事もなかったかのように歩き出した。
「あ、見て見て。あそこに美味しそうなお団子屋さんがあるよ。おにぎりゃー、僕に奢ってくれてもいいんだよ?」
振り返った彼女の瞳には、常滑の夏の青空が、そのまま映り込んでいるようだった。
本当に、あれは現実だったのだろうか。俺の手のひらには、いまだに冷たい感覚と、彼女が強く握りしめた瞬間の微かな痛みが残っている。しかし、目の前の彼女の足元には、何一つ泥の痕跡はない。すべては真夏の強い日差しが見せた、ただの陽炎の悪戯に過ぎなかったのかもしれない。俺はポケットの中で自分の指先をそっと確かめてみた。そこに残る感覚だけが、あの奇妙な路地を駆け抜けた唯一の証拠のように思えた。けれど、すべてが白昼夢だとしても問題はないのだ。
俺は、彼女の少し後ろを、再び歩き始めた。