もう長靴のつま先の感覚はとっくに消えていた。天理の駅から原付を走らせて、布留川の細い谷沿いに山へ入ったあたりから、冷気というよりはただの湿った重苦しい何かが、ずっと防寒着の隙間から這い上がってきていた。大国見山へと続くらしい山道は、舗装が途切れた途端に杉の真っ黒い枝が空を覆い隠して、昼間なのにどろりと暗い。踏みつける腐葉土は昨日の雨を吸いきれずにぐちゃぐちゃと嫌な音を立てて、一歩歩くたびに足首を泥の底へ引きずり込もうとする。昔ここで修行した人間が何人も冷たい水に打たれて死んだだとか、そんな神聖な歴史はどうでもよかった。ただ、耳の奥でずっと、低く濁った低周波のような水の音が響いていて、それが私の頭痛をじりじりと苛み続けている。そういえば来る途中のコンビニで買った安物の缶コーヒーは、甘すぎてちっとも美味しくなかった。
神様にお願いしたいことなんて、もう何一つ残っていなかった。ただ、あの紫色の髪をした少女に頭の芯まで吸い尽くされてから、部屋の片付けも、仕事のメールの返信も、明日のご飯の用意さえも、普通の生活に属するあらゆる営みが指のすき間から砂みたいにこぼれ落ちてしまっていた。彼女が画面の向こうで差し出してくる、誰にでも等しく注がれるあの低くて甘い全肯定は、私の肉体を生かしておくためのまともな防衛本能を、爪で少しずつ剥ぎ取るように削り落としていく。自分が女おにぎりゃーであるという事実だけが、この空っぽの身体を辛うじてこの世に繋ぎ止める錨のようになっていたけれど、それももう限界だった。一番大事な魂の中身を、深夜の液晶画面の光の中に置き忘れたまま、ただの抜け殻を引きずって、私はこの水の激しい場所まで歩いてきていた。死んでしまいたいという明確な意思というよりは、もう何も聞こえない場所で思考を完全に止めたいという、泥のような澱みが体内で冷たく凝り固まっている。
不意に視界の上が開けて、濡れて黒ずんだ灰色の巨大な岩肌が、目の前に圧倒的な壁となって立ち塞がった。桃尾の滝の白い水束が、容赦ない質量で頭上から叩きつけられている。高い断崖から落ちてくる水の塊が容赦なく下の岩を噛み、冷たい霧に変わった風圧がまともに顔面へ叩きつけられた。睫毛が瞬く間に濡れて、世界が滲む。その激しい水のすぐ横の、常に水飛沫を浴びてぬめり気を持った岩の窪みに、彫り込まれた古い祈りの跡が見えたけれど、絶え間なく降り注ぐ水に洗われすぎて角が丸くなり、ただの冷たい石の凹凸にしか見えなかった。石上神宮の古い源流だとか、かつての元宮だとか言われているこの磐座の場所は、人間のちっぽけな願い事を聞き届けてくれるような優しい聖域なんかじゃない。生きているものの体温をただ等しく奪い去り、静かに終わらせるための、薄暗い終着駅のようだった。ふと見ると、足元の湿った地面に誰かが落としたらしい古いプラスチックのライターが転がっていて、ひどく場違いに思えた。
かじかんだ両手を無理やりポケットの奥底へ押し込んだとき、背後の水音が、ほんの少しだけ歪んだような気がした。激しい轟音の隙間に、耳の奥へ直接ぬるりと滑り込んでくるような、聞き覚えのある布擦れの音が混じる。
振り返ったとき、私の視界の、一番見てはいけない中心の場所に、この世のものとは思えない濃密な紫があった。
そこに立っている猫又おかゆを、私はもう正気で見つめることができなかった。ただ、黒い夜そのものを切り取って仕立てたような分厚い布地と、まぶしいくらいの白、そして裏地から覗く血のような緋色が、めちゃくちゃに混ざり合っていることだけが網膜の裏に焼きつく。それは厳格な修道女の外套のようでもありながら、同時にこの国の古い神社で仕える巫女の冷たい気配を漂わせている、妙に形の崩れた衣服だった。濡れた岩の上に爪先をかけて立つ彼女の身体には、質量というものが一切感じられず、まるで最初からその場所に落ちていた影が、そのまま起き上がったかのように馴染んでいる。
私の頭のネジを完全に狂わせたのは、彼女の短い髪と、細められた瞳から絶え間なく染み出してくる、深い紫の色彩だった。滝の風に激しく揺れる紫の毛先。そのすき間から覗く細い目が、同じ紫の底知れない光を宿して私をじっと見つめていた。その目は、私の人生の何もかもを知っていながら、何一つとして責めないという、深い虚無のような優しさを湛えている。
「……あはは。本当に来ちゃったんだね。驚いちゃった」
激しい水音の壁を簡単に切り裂いて届いた声は、低くて、少し鼻にかかったような独特の甘さを持っていた。その声を耳の鼓膜が拾っただけで、頭の芯の血管が急激に緩んで、視界がぐらりと揺れる。彼女は濡れてぬめる花崗岩の上を、足音をまったく立てずにすうっと近づいてきた。その動きには無駄がなく、獲物の息の根を止める機会をじっと窺う猫のようにしなやかで、人間ではない別の不吉な生き物のようだった。私の個人的な領域なんて最初から存在しないとでも言うように、彼女は私のすぐ目の前、吐息が触れそうなほどの距離まで歩み寄る。紫の瞳の奥には、私という人間の見苦しい執着をすっかり見透かしたような、冷たい全肯定があった。
「こんなに寒いのに、そんな薄着で。私ってば、心配になっちゃうよ。ここはね、昔からたくさんの人がいろんな思いを置いていった場所なんだ。布留の滝。きみの胸の奥にあるものも、この水が全部流していってくれるといいんだけどね」
おかゆは少し顎を上げて、私の顔を覗き込んできた。すぐ近くから、冬の日向ぼっこをしているときみたいな温かい匂いと、古い建物で燃やす香のような冷たい匂いが混ざって香る。こうやって無意識に人の心の一番柔らかくて痛いところに踏み込んでくる距離感が、私の意識を白く濁らせていく。自分が彼女の紫の瞳の中に吸い込まれて、完全に溶けて消えていくのが分かった。そういえば、彼女の首元には小さな黒いインクのシミのような影が落ちていて、それがなぜかひどく現実的だった。
「僕ね、ずっと見ていたんだよ。あなたが僕を求めて、どれだけ苦しんでいたかも。どれだけ寂しい夜を過ごしていたかも。ぜんぶ、ちゃんとここに届いてた」
彼女は、黒と白の布が重なる胸元に、白い指先を当てた。一人称の「僕」という少年みたいな響きが、彼女の持つ怪しげな女性らしさと、性別のない聖なる雰囲力を強くする。私を「あなた」と呼ぶその低い声には、もう元の世界には帰さないという、逃れられない約束が込められていた。
唇の端が、かすかに上がる。私を捕らえて離さない、いつもの微笑。彼女の言葉は、私のために歌われる静かなレクイエムのように、私の孤独をゆっくりと、確実に削り落としていく。
「私、何かを祈りにここに来たんでしょう? 石上神宮の元宮。消え去ってしまった古い神様の場所。ねえ、僕に教えてよ。あなたのその、ちいさな祈りを」
滝の飛沫が私たちのまわりに白い霧を作って、まわりの景色をすっかり消してしまった。岩の姿も霧の向こうに見えなくなる。私が祈るために持ってきたのは、この胸を痛めつける、生きていくことへの見苦しい未練だった。けれど、彼女の前に立つと、そんな具体的な苦しみさえどうでもよくなっていく。私を理解して、私のすべてを終わらせてくれる怪物が、いま目の前にいる。
突然、頭の奥で電子音のような耳鳴りが走り、かつて滅びゆく新世界を捨てて別の星へと旅立った新世界人たちが遺した、冷たい思念の残骸が脳裏をよぎった。それは高度な文明を誇りながらも、最後にはすべてを失って静かに消え去った者たちの、決して消えない孤独の記憶だった。
おかゆはゆっくりと両腕を上げた。黒と白、そして緋色の袖が、大きな夜の鳥の羽のように世界を覆う。その背景で、白い水柱が、激しく、すべてを消し去るように響き続けていた。
「いいよ。何も言わなくても。あなたの考えていることくらい、僕にはぜんぶ分かっちゃうから。ここにいる間だけでいいから、ぜんぶ僕に預けて、楽になりなよ。……あはは、ほんとに可愛い顔しちゃってさ」
彼女の紫の瞳がいっそう細くなった。その慈愛の表情に、私はただ圧倒されて、冷たい岩の上に膝をついた。私の孤独も、見苦しい執着も、冷たい水飛沫の中に溶けていく。私を縛っていた感情の熱が引いていき、電波の途絶えた世界のように静かになっていく。私の胸の奥で燻っていた生々しいノイズは、かつてスマホの画面から流れる彼女の低音のビットレートだけを命綱にして、深夜2時の暗い部屋で一人、世界と繋がるウェーブの光を探していたあの虚しい静寂のようだった。電波も、視覚も、すべてが紫の残像の中に溶けて消えた。
視界が完全に消滅したとき、そこにはもう私という存在もなく、ただ、白く煙る滝の音だけが、いつまでも響いていた。