夏の青森の湿気は、じわりじわりと真綿で首を絞めるような陰湿さを持っている。
白神岳への登山道、マテ山コースに入ってから、もうどれくらいの時間が経っただろうか。右足を持ち上げ、ぬかるんだ黒い土の上に置く。体重をかけると、ぐちゃりという粘着質な音がして、靴底が数ミリ沈み込んだ。次に左足を持ち上げ、また泥の上に置く。景色はずっと変わらない。見上げれば、太陽の光を完全に遮断する何層ものブナの葉。視線を下げれば、昨晩の雨をたっぷり吸い込んだ腐葉土と、不規則に這い回る太い根。風は吹いていない。ただ、重たくて濃い緑の匂いと、土が発酵するようなむせ返る匂いが、喉の奥にへばりついてくる。
汗が首筋を伝って、鎖骨のあたりで不快に張り付いた。
今日着ているのは、暗い紫みのグレー……日本の伝統色で言うなら『滅紫』色の、薄手のマウンテンパーカーだ。防水透湿素材だと店員は熱弁していたが、結局のところナイロンはナイロンで、動けば自分の体温で蒸れる。それでも、体を締め付ける服を着るとそれだけで毛の先まで神経が尖ってイライラしてしまう猫の性質上、あえてメンズのLサイズというダボダボのサイズを選んだ。ズボンの裾はすでに泥の跳ね返りで斑模様になっている。頭に被ったサファリハットは、おばあちゃんに頼んで頭頂部の左右をハサミでくり抜いてもらった。そこから飛び出している僕の二つの耳は、さっきから不快な湿気を拾って、微かにピクピクと痙攣するように動いている。
背後からは、ズリッ、ズリッという、足元を滑らせる不細工な足音と、ゼェ、ハァ、という湿った呼吸音が、ひたすら等間隔で聞こえてくる。
おにぎりゃーだ。
さっきから一言も喋っていない。喋る余裕がないのだろう。僕の歩調に必死に食らいつこうとしているせいで、その呼吸は肺の限界を訴えるような生々しい音に変わっている。普通の人間なら、ここで立ち止まって声をかけるのかもしれない。でも、僕は立ち止まらない。右足を出して、左足を出した。黙々と、ただそれだけを続ける。今のこの極限状態のおにぎりゃーに言葉を投げかければ、どうせ無理をして笑うに決まっている。声に出して返事をさせること自体が、体力を奪う。
だから僕は前だけを見て、ペースを変えずに歩き続けた。次の段差。僕はあえて、少し遠回りになるけれど傾斜の緩やかな右側のルートを選んで足を進めた。僕自身は岩を真っ直ぐ登った方が手っ取り早いが、そうしなかった。ただ右足を出して、踏み固められた土の上に置く。後ろから続く重たい足音が、ズリッ、と僕の足跡に重なった。
視界の端で、紫がかった藤色の前髪が、汗で額に張り付いているのが見えた。鬱陶しい。ハットのつばを少し持ち上げると、指先にべっとりとした汗の感触が残った。
「……あっつ」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
背後の足音がピタリと止まる。
僕はゆっくりと振り返った。おにぎりゃーは、泥だらけのブナの根元に両手をついて、肩で息をしていた。顔色は赤を通り越して少し土気色になっている。
「……たげ、わげでねぇな」
ふいに、口からこぼれ落ちた。
おにぎりゃーが、焦点の合わない目で僕を見た。僕の口から出た言葉の意味を処理できていない顔だ。
僕はそれ以上何も言わず、ドサリと足元のシダの群生の上にリュックを下ろした。
「休憩。僕が疲れた」
それだけ言って、大きな倒木の上に腰を下ろす。リュックからペットボトルを取り出し、無言で投げる。おにぎりゃーはそれを受け取ろうとして失敗し、泥の上に落とした。拾い上げて、泥を袖で拭い、キャップを開けて狂ったように水を飲む。僕は銀紙に包まれた塊を取り出した。おばあちゃんが握った、塩昆布と梅干しのおにぎり。無言で銀紙を剥く。一口かじると、暴力的なまでの塩気が舌を刺した。おにぎりゃーの方へ、半分残ったそれを差し出す。
「食う?」
おにぎりゃーは無言で受け取り、むさぼるように食べた。ブナの森は相変わらず無音で、ただ僕たちが食べ物を噛む音と、遠くの虫の羽音だけが響いていた。
三十分後。僕たちは再び歩き出していた。
マテ山の分岐を過ぎると、周囲の景色が変わり始めた。巨大なブナが姿を消し、代わりに白い幹のダケカンバが目立ち始める。尾根に出たのだ。同時に、遮るもののない風が下から吹き上げてくるようになった。生ぬるい風が、僕の藤色の毛並みを逆撫でする。道は細く、両脇は切り立った斜面になっている。
「……ここで後ろから名前呼ばれても、絶対返事すんなよ」
振り返らずに、風の音に声をぶつける。
「マタギの古い言い伝え。山呼びってやつ。一番気を許してる奴の声で、後ろから呼んでくるんだってさ。返事したら、二度と帰れない。緑の底に連れていかれる」
僕は足を止めずに、ただ滅紫のパーカーの裾を後ろ手で少し跳ね上げた。
「僕の声の真似にも騙されるな。はぐれたら、まじで見つけられないから。……ほら、掴んでろ」
背後で、おにぎりゃーの息を飲む音がした。すぐに、僕の滅紫のパーカーの裾が、下に向かってぐっと引っ張られる。泥だらけの指の感触が、布越しに背中へ伝わってきた。
最後の上りは、ただの岩壁だった。
手足を総動員してよじ登る。息が上がる。太ももの筋肉が悲鳴を上げている。爪の間に泥が入り込み、不快感が頂点に達する。
「……くっ」
おにぎりゃーが足を滑らせた音がした。僕は反射的に振り返り、右手を差し出した。泥だらけの手。おにぎりゃーがその手を強く握りしめてくる。重い。死に物狂いの力が、僕の腕の筋肉を引き裂きそうになる。無言のまま、歯を食いしばって重心を落とし、力任せに引き上げる。
そのまま、最後の岩を乗り越えた。
視界が、暴力的なまでに開けた。
白神岳の山頂。
そこには、何もなかった。ただ、果てしなく広がる空間。西を見れば、太陽光を反射してギラつく日本海が、水平線を湾曲させながらどこまでも続いている。振り返れば、これまで僕たちが歩いてきた濃緑の山脈が、無機質に連なっている。風が、容赦なく吹き付けてきた。
おにぎりゃーは岩の上に倒れ込み、大の字になって天を仰いだ。僕もそのすぐそばの岩に腰を下ろし、ただ呼吸を整えた。言葉なんて出なかった。ただ、おにぎりゃーの生きた熱が、すぐ隣にあること。それだけが、この圧倒的な自然の中で唯一の輪郭を持っていた。
僕の視界の中で、おにぎりゃーがゆっくりと首をこちらに向けた。僕の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。自分では見えないが、きっと今の僕の目は、おにぎりゃーの目に深い桔梗色として映っているのだろう。
「……なに」
そっけなく返す。
おにぎりゃーは、泥だらけの顔で、ただ一言「ありがとう」と口の動きだけで言った。
僕は視線を海へ逸らした。
「……めごいごど」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いて、大きく息を吐き出した。
唐突に風の匂いが変わり、日本海の方から、冷たい生真面目な湿気が一気に押し寄せてきた。下界の生温い空気が斜面を這い上がり、山の冷気に触れた瞬間、目の前の空間そのものがぐにゃりと歪む。何もない虚空から、真っ白な生き物のような霧が、ボコボコと沸き立つように溢れ出してきた。それは凄まじいスピードで山肌を這い回り、さっきまで見えていたはずの海も、どこまでも続いていた緑の樹海も、まるで最初から存在しなかったかのように、冷たい白の奥へと容赦なく引きずり込んでいく。あっという間に世界は塗り潰され、僕たちの足元にある岩の輪郭さえも、白い濁流の中に消え去ってしまった。
僕は岩から立ち上がり、真っ白になった虚空を見つめた。
「……見えなくなっちゃったね」
ぽつりと呟く。
おにぎりゃーの気配が、すぐ後ろでモゾモゾと動いた。
見えなくてもいい。
僕は後ろ手に、自分のパーカーの裾を少しだけ引っ張った。すぐに、泥だらけの温かい指先が、その生地をきつく握りしめ返してくるのがわかった。