夏の陽光がガラス窓を透過し、コンクリートの床に鋭い光の四角形を描いている。本館へ続く渡り廊下の先では、平和記念公園の緑が容赦なく生い茂っていた。かつて一瞬ですべてが灰塵に帰したこの地で、隣を歩く彼女の足音だけが、周囲の静けさを吸い尽くすように低く響く。
ブランドロゴが刻まれた鈍色のボタン、純白のダブルブレスト・トレンチコート。ウエストのベルトをきゅっと締め上げた細身のシルエットは、軍服の冷徹さと礼服の気品を同時に放っていた。胸元から覗く白いドレスシャツと緑のネクタイ。スラックスから靴の先まで、すべてが徹底された白だった。
その無垢な色彩の中で、二つの紫だけが異様に浮き上がっている。
首元で揺れる滅紫の髪。長いまつ毛の奥で怪しく揺らめく古代紫の瞳。
「ふふ、そんなに見つめられると、さすがに僕も照れちゃうな。どうかした、君?」
猫又おかゆは、のんびりとした低い声で微笑んだ。語尾が小さく跳ねる独特のイントネーション。無意識に自分の顎に手を当て、小首をかしげる仕草は、余のよく知る気まぐれな猫そのものだった。
だが、その歩調の狂いのなさに、底知れない違和感が混ざり合っているのを余の肌が察知していた。
薄暗い本館へ足を進める。パノラマ模型の前に立つと、一瞬で焦土と化す街の光景が目に焼き付いた。どんなに命を積み上げようと、巨大な暴力の前には等しく消し炭に変わる。この圧倒的な無意味さこそが戦争の正体だ。衣服の剥ぎ取られた暗がりの展示室には、熱線で文字が焼き付いた瓦や、ぐにゃりと折れ曲がった鉄扉が並ぶ。そして、黒ずんで融けた三輪車。それらを目にした瞬間、余の胃の奥からどす黒い酸が突き上げてきた。
かつて信じていた記憶の糸が、足元からじわじわと書き換えられていくような感覚。最初から彼女がこの終焉の光景を望み、余をここまで誘い出したかのように。
胸の奥で、裏切られた確信が冷たく沸き立つ。最初から全部、手のひらの上だったわけだ。余はポケットの中で爪が肉に食い込むほど拳を握りしめた。信じたものをすべて奪われ、ただの観客で終わってたまるか。泥水をすすってでも、その傲慢な面の皮を剥ぎ取ってやる。
視界の端で、古びた展示品の輪郭がほんの一瞬、デジタルノイズのようにブレて粗いドットへと崩れる。現実の位相がぐにゃりと歪み、古いプログラムのバグが漏れ出すような奇妙な粗雑さが、資料館の冷たい大気に混ざり込んでいた。
おかゆは三輪車の前で足を止め、じっとそれを見つめていた。コートのポケットに両手を滑り込ませたまま、微動だにしない。猫が獲物を、あるいは観察者が被験体を凝視するように、静かに、呼吸の乱れすらなく。
「……んふふ、素晴らしいね」
ぽつりと言葉が零れ落ちた瞬間、余の背筋の毛穴が総立ちになった。おかゆはゆっくりと余の方を振り向いた。その表情には、いつものおっとりとした温厚な笑みが張り付いている。しかし、その瞳は、未知の真理に到達したときのような、純粋で底知れない歓喜に濡れていた。
「これほどまでの破壊、これほどまでの絶望。それらを通り抜けてなお、人類が遺した足跡というのは、本当に愛おしいね。……そうは思わないかい、あなた?」
彼女の言葉はどこまでも優しく、どこまでも残酷だった。一瞬の閃光が、人々の営みも、愛する者の未来も、理不尽に毟り取っていった。その巨大な損失の爪痕を前にして、彼女の瞳は輝きを増している。この無慈悲な跡を、この女は人類の可能性の礎として祝福しているのだ。
「彼らの流した血も、失われた命も、決して無駄ではなかったんだよ。すべては、今の僕たちがこうして出会い、新たな可能性へと進むための、尊い礎なのだから。おやおや……本当に、可愛い子たちだねぇ」
おかゆは一歩、余に近づいた。白い革靴が床に乾いた音を立てる。彼女の細い指先がポケットから滑り出て、余の頬に触れた。体温は驚くほどに温かい。しかし、その指先から伝わってくるのは、絶対的な肯定という名の逃れられない質量だった。
この息の詰まる空間で、余とおかゆの間には目に見えない剥き出しの火花が散っていた。彼女の全肯定という名の侵食は、余の存在意義を根底から毟り取る精神的な暴力に他ならない。しかし、余の血脈が求める純粋な抗逆の衝動が、ここでただの従属者として頭を垂れることを激しく拒絶していた。一見すれば隙だらけの無防備な猫の佇まい。だがその肉体は、どの方向から反撃を試みようと、一寸の狂いもない最適の挙動で余の意志をねじ伏せる悍ましさを内包している。それは生存をかけた強者同士の無言のせめぎ合いだった。互いの距離は文字通りゼロ。肌に触れる指先から伝わる圧倒的な支配力に対し、余は内臓を激しく震わせながらも、決して視線を逸らさずに踏みとどまる。敗北など毛頭考えていない。どちらがこの関係の主導権を握り、どちらがその未来を支配するか。この極限の睨み合いこそが、余たちの真の闘争であり、生きるための証明だった。たとえこの先にあるのが破滅だとしても、余の手でその未来の首を絞めてやる。裏切られたなら、その倍の絶望をくれてやるまでだ。
ふいに、彼女の口元がいつものようにふにゃりと緩んだ。「ねぇ、ちょっと怒りすぎ~」いたずらっぽく袖の端を引く無邪気な甘えが、底知れぬ狂気と等価で混ざり合う。そのあまりにも人間らしく可愛いブレが、余の五感を激しく惑わせた。
だがその瞬間、彼女の背後の空間が黒いモザイク状に裂け、古い電脳空間の壁が剥がれるようにチカチカと明滅する。世界のレイヤーが強制的に書き換えられるような不気味な違和感が、余の足元を激しく揺さぶっていた。
「おや、震えているね。怖いのかい? 大記障はないよ、君。僕はいつでも、君のすぐ隣にいるからね。君がどんな姿になろうとも、どんな未来を選ぶことになろうとも、僕は君を愛し、君のすべてを肯定しよう。君のこれからの旅路にも、大いなる祝福がありますように」
彼女の無意識の喋り方、その独特の間。それは確かに、日常の隙間に滑り込んでくる気紛れな猫のそれだった。しかし、その言葉の裏にある精神の骨格は完全に別の形を成している。目の前にいるのは、愛する者のために、愛する者を実験台に捧げることすら慈愛と呼ぶ、狂気的な真理の探求者。
「さあ、次の展示へ行こうか。人間の可能性の極限を、もっと僕に見せておくれ、あなた」
滅紫の髪を揺らし、純白のコートを翻して、彼女は再び歩き出す。その背中はあまりにも美しく、救いようがないほどに真っ白だった。余はただ、己の崩壊を予感しながらも、その光の中へと歩みを進めるしかなかった。